境上矢島勝手大明神
文政年間この長溝川の堰堤をめぐって、木島・百々・ 境各村を相手に大きな水出入りがあった。いわゆる「四寸ロ騒動」で、今も故老の語り草になっている。この騒動は長溝川から取り内れる堰の水口の寸法をきめたもので、水口四寸の堰が決まったのであるが、上矢島村で堰の下に別のトンネルをつくって水を引いたのが判明して大騒動になったといい、水に深い執着をもつ村の成り立ちを知ることが出来る。
また一畝一歩耕作地を潰したくないという村人の思いがあるので、トラックや観光バスを貫通する道路を設けることも許さなかったという。集落が非常な不便を感じながら、その不自由に甘んじている姿も由なしとしない。稲作と養蚕が主で、蔬菜類の栽培は比較的少ない。
・所在地 群馬県伊勢崎市境上矢島955
・ご祭神 不明
・社 格 旧矢島村鎮守
・例祭等 秋祭り(上矢島獅子舞) 11月第1日曜日
東武伊勢崎線「境町」駅北口から駅前通りを北上し、国道354号線に達した丁字路を左折する。その後、すぐ先に見える「境百々」交差点を右折し350m程北上、変則的な十字路を右折して暫く道なりに進むと、周辺一帯田畑風景が見え、所々に民家が点在する一角に境上矢島勝手大明神が静かに鎮座している。
南向きに鎮座する境上矢島勝手大明神
『日本歴史地名大系』 「矢島村」の解説
新田郡に属し、早川右岸に位置。西は佐位郡木島村。平坦地。永禄年間(一五五八〜七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽寺(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。
この上矢島地域は、粕川と東を流れる早川の間に開けた淵名台地先端部にあり、平安時代の遺跡が発見されていて(上矢島遺跡)、30軒程の竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが出土され、台地の最も高い部分を溝が台地走向に沿って走り、その両側に住居が集中している。また、住居や溝の中から50点以上の墨書土器が出土している。
こじんまりとした境内
当地域には「上矢島獅子組」と呼ばれる鎮守勝手神社に附属する獅子組があったが、明治時代末以降は徳蔵寺に引継がれて、11月3日の秋祭りにて五穀豊穣や家内安全を祈って奉納されてきたと伝えられていた。流儀を明らかにしないが東新井・下淵名獅子組と同じ火挾流と推定されるが、前託二者に比して新しく江戸中期の創設であろう。毎年旧暦九月二十九日(クンチ)と十月二十五日両度演舞されたが、今は十月十七日の村祭りに徳蔵寺境内で公開演舞される。雄獅子・雌獅子・老獅子(ホーガン)の一人立連舞で、獅子舞の前に祭礼棒がある。
先の戦争により、演舞者及び笛吹き等、後継者がいないため、休止状態になっていた。戦後復活したが、再び獅子頭が古く傷んでいたことや後継者不足等により、約半世紀にわたり途絶えていたが、令和4年度の獅子頭と太鼓の修繕を機に、令和6年度、「上矢島獅子舞保存会」を発足。そして東新井獅子舞保存会の指導を得て、令和7年11月「上矢島秋まつり」にて約50年ぶりに演目「岡崎」(無病息災と家内安全を祈る)を勝手大明神に奉納、復活となったという。
拝 殿
奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社(かつてじんじゃ)は、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれていた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、辰巳(東南)の護法神でもある。
吉野の金峯山にある蔵王権現・子守権現(吉野水分神社)・勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
鎌倉時代中期の武将で、新田宗家4代当主である新田政義の三男谷島(矢島)信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。その吉野の僧や山伏が上矢島に勧請し、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたといわれる。
また別説では、徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したという。
『矢島村南系図』
「永禄年間、京都北面の武士藤原姓南修理大夫義頼は牢人して上野国に下り、その子南小次郎頼広は新田郡上矢島村を知行し、佐渡守に任じ矢島城主となる」
南氏は金山落城後に上矢島村に土着帰農したという。因みに家紋は丸に剣花菱。また、『世良田村長楽寺永禄八年日記』に金山城主横瀬氏(由良)家臣南小次郎佐渡守頼広の名は随所に見える。
徳蔵寺の創建に矢島氏か南氏どちらが関わっていたとしても、勝手明神が辰巳の護法、軍将神であることは変わらず、徳蔵寺の地と関係は当然深いものがあったと思われる。
社殿の右側奥にある不思議な建物
手前には左から「喜心霊神」「〇嶽霊〇」「〇心霊神」「御嶽霊神」と刻まれた石碑がある。
『境町の民俗』には、この地域には「御嶽教荏原講」という講社があったという。この講社は、埼玉県深谷在に発詳し、文政年間上矢島村に流布された。木曾御嶽の山岳信仰で、講社は第一部より第三部まであって、第一・第二は埼玉県にあり、上矢島の結社は第三部に属する。さらに派生したものに新田町上中、伊勢崎市馬見塚に講社がある。村の講員は約六十人で、毎月の御縁日は九・十八・二十七の三日、この日講員が参会して、無病息災家内安全の読経をするという。
御嶽教の行は主として水行で、入寒から寒明けまで寒中三十日の水行をする。いま水行をするものは五人で、毎日夕食後集まり、寒水をかぶり、沐浴潔済の後、神前で跋経を読誦し、自らの息災を願うと共に、行者としての修行陶冶を期す。その行は非常に厳しく、寒中肉、魚、ねぎを食うことを禁じ、女の肌にふれるのを許さない。境町に数多くの御嶽教講社があるが、荏原講ほど修行鍛練をするものはなく、活発な布教活動をなすものもないとのことだ。
社殿の西側から北西部にかけて祀られている石祠群(写真左)と、庚申塔群(同右)
社殿からの一風景
『境町の民俗』には、当地域の年間行事が載せられていて、幾つかを紹介する。
・八丁じめ
6月に行われる悪病除けの行事。一丈ぐらいの高さのところで竹の芯を伐って、上から一節位のところにヨタレベエ(へいそく)をつけて、区長か村世話人が、村のはずれのところに立てた。矢島では七本立てた。北は花香塚、東は西今井、南は境、西は木島、西南は百々、北西は淵名、東南は三つ木・女塚との境界に立てて、小字の守りとした。
・オクンチ
10月の秋祭りの日を「オクンチ」という。昔は九月二十九日であったが、今では十月十七日。この日は鎮守様のお祭りである。赤飯を炊いて祝った。他所へ嫁いだものは、子供を連れて泊りこみでお客に来た。この日にお獅子を舞った。お獅子の稽古は、以前は九月二十三日から五晩、お寺を宿にしていた。お獅子は三つあり、やり手は決まっていた。お祭りには村中が出た。
・オカマ様のルスンギョウ(旧十月中)
旧十月の六日・十六日・二十六日、おはぎを作ってオカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)に上げた。オカマ様には三十六人の子供があるので、出雲へお客に行けないという。
オカマ様については、つぎのような話がある。
オカマ様はあるとき人の子を食ってしまった。そこで神様がオカマ様の子供を一人隠してしまった。するとオカマ様は心配のあまりきちがいになってしまった。そこで神様はオカマ様に、人の子を食べなければ子供をだしてやるといった。そんなに沢山子供がいるくせに、 一人ぐらい隠されてそんなことでは、これから人の子を食うなといわれた。そこで約束して、子供をだしてもらって、それからはオカマ様は、子供を食わなくなったという。
「オカマ様のルスンギョウ」の説話では「オカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)」と載せているのだが、三宝荒神は、神道において「竈三柱神(稀に三本荒神)」と名前を変えて祀られている。この神は「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
この説話を見ると、この社のご祭神は竈三柱神とも勘ぐってしまうのだが、今のところはそれ以上の詳細は不明である。どなたか知っている方がいればご指導の程、宜しくお願いいたします。
参考資料「伊勢崎市HP」「境町の民俗HP」「ぐんま地域文化マップHP」「日本歴史地名大系」
「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
