古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

海老瀬一峯神社

 板倉町海老瀬は、嘗て室町時代中期に戦国時代の幕開けとなる、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した「享徳の乱」という大乱の中での激戦の一つといわれている太田庄の戦いの舞台となった地である。
 長禄3年(1459年)、関東管領上杉房顕は、五十子に城砦を築いて持朝・房定・教房・政藤ら一族の主だった者たちを結集させた。これを知った足利成氏は五十子に攻撃を加えようとして出撃した。1014日、両軍は近くの太田庄で交戦した。この結果、上杉教房が戦死するなどの打撃を受けた。
 その後、上野の岩松家純・持国が上杉軍に加勢するとの報を得た上杉房定・政藤は翌日利根川を渡って上野側に陣地を張る古河軍を羽継原(現在の群馬県館林市)・海老瀬口(同板倉町)にて攻撃をかけるが、再度敗戦した。上杉軍は大打撃を受けたが、古河軍も撤退したため五十子は上杉軍の手に確保され、以後房顕はここを拠点として長期戦の構えを見せ始めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬885
             ・ご祭神 天津児屋根命 大日孁命 大物主命 大山咋命
             
・社 格 旧海老瀬村総鎮守・旧郷社
             ・例祭等 例祭等 例祭 919日(*板倉町の民俗参照)
 加須市の小野袋八幡神社の東側で、渡良瀬遊水地のそばを南北に通じる栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線を北上する。利根川上流河川事務所管内で一番新しい排水機場であるという「谷田川第一排水機場」が進行方向左手に見え、その先にある丁字路を左折、その後500m程進んだ先の路地を右折する。広大な田畑風景が続く長閑な地にある車幅の狭い農道を北上すると、民家が密集している地となり、更に道なりに進むと海老瀬一峯神社の入口が見えてくる。
        
                海老瀬一峯神社入口正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「海老瀬村」の解説
 現板倉町東端に位置し、北は篠山村(現栃木県下都賀郡藤岡町)、東は旧渡良瀬川を隔てて内野村・下宮村(現藤岡町、旧谷中村)、南は谷田川を挟んで下五(しもご)ヶ村・高鳥村、西は板倉沼を挟んで板倉村。大正一一年(一九二二)渡良瀬遊水池が完成する前は、渡良瀬川は当村北部の北集落と本郷集落の間を貫流し、東端は「海老瀬の七曲り」とよばれ、大きく曲流していた。東部の藤岡台地を除くと低地であり、嘗て水害に悩まされた地域である。標高約一八メートルの谷田川の旧堤防の高さに土盛した上に建てた、水塚(みつか)とよぶ水防建築や、水害時に使用する揚舟が設備されている。長禄四年(一四六〇)の足利義政感状写(御内書案)に、前年一〇月の海老瀬口ならびに羽継(はねつぐ)原(現館林市)での合戦が記され、上杉系図に犬懸上杉家庶流四条上杉家・上杉持房の子である教房(武州太田庄海老瀬に於て討死)と載せている。
 旧渡良瀬川の左岸に立地していた北集落は、嘗て下野国都賀郡に属していた時は北海老瀬村といった。このことは薬師堂跡にある寛文六年(一六六六)建立の延命地蔵銘に「下野国都賀領海老瀬村」とあり、また延宝元年(一六七三)建立の四方仏銘に「下都賀郡北海老瀬村」とあることでわかる。
        
              社に向かう道路の途中に設置されている「一峯神社由緒」の石碑
            
         社の入口付近にある「一峯貝塚」の案内板等(写真左・右)
 海老瀬(藤岡)台地の先端部分(標高22m)に位置する、径が12mの地点貝塚である。主となるヤマトシジミの他にハイガイなどの貝類や、縄文時代早期(茅山式)の土器が見つかっている。約6000年前の縄文時代に地球温暖化で海水面が上昇し、関東平野の奥深くまで海が入り込んだ現象という「縄文海進」時のもので、当時、海がこの地近くまできていたことが考えられるという。
 板倉町指定史跡。昭和四十四年五月二十九日指定。
        
      
一峯貝塚」の案内板等の近くには「一峯神社社叢」の案内板もある。
 一峯神社社叢
【指 定】平成十六年十月二十五日
【所在地】板倉町大字海老瀬八八五
【所有者】一峯神社
 一峯神社境内には、縄文時代早期の貝塚があり、歴史的にも貴重な地域である。北側にはスギが植林されており、大きなものは胸高で周囲が二〇三センチメートルの高木が林の上部を覆っている。
 当初は植栽されたが、社寺林のため樹木の伐採が長い間行われなかったため、遷移によってその地域の環境に適した本来の自然植生に発達したものである。
 平地林として一地域に照葉樹林が集中して生育している貴重な林である。
 高木層にはモミ、スギ(植栽)などが上部を覆い、この低木層には、ヒサカキ、アオキ、などの常緑広葉低木が茂り、草木層にはキチジュウソウ、ベニシダなどの常緑構成要素の植物が多い。その中にアカメガシワ、イヌシデなどの夏緑広葉樹が混生している。
 神社の西側にはリュウキュウチクが群生している。琉球諸島の原産で、関東地方以西に栽培されているもので、北関東としては極めて珍しい。
 林の木の実も豊富のため、多くの野鳥の類も見られる。
 神社の北側にある権現沼の緑にはシラカシが優先し、ヤブツバキ、シロダモ、ヒサカキ、アオキ常緑広葉樹が密生しており、より暖地性植物の景観が見られる。
 なお権現沼にはヨシ、マコモの挺水植物、湿地に多いカサスゲ群生があり、魚介類も棲息している。
                                      案内板より引用 
       
            豊かな社叢林に覆われた中に社は鎮座する。
「海老瀬」の地名由来として伝承では、弘仁十二年五月、弘法大師が二荒山詣の折、勝道上人の遺跡を慕ってこの地に来た時、アマンジャクに谷をかくされたので、 渡良瀬川が余り広くて越せなかった。暫く川辺で薬師如来を心に念じていたところ、二匹の海老が出て来てその背中にのせて、今の頼母子の辺から藤岡の方へ渡れたという。そこで一峯山内に土壇を設け護摩御修行したところ、炉跡の灰がかたまり瓦のようになったので、それまでの名称である「八谷郷」を改め、「エビのセ(海老瀬)」としたという。
       
              鳥居に掲げてある「一峯山」の社号額
                     山岳信仰色が濃厚に残る印象が強い社号である。
       
                    拝 殿
一峯神社由緒
 第四十七代淳仁天皇天平宝宇八年三月(紀元七六二年)勝道上人により此の地を清浄無垢の地として二荒権現を勧請し峯の権現と称したり然るに上野下野の領主川辺左大臣藤原魚名により祖先天津児屋根命を祀り地域開発武運長久の守護神として奉斎し一峯神社と称したりその後天慶年中(紀元九四七年)藤原秀郷平を討つ時此の所に道城を構えて将門調伏を祈願修行せりと言ふ明治三十九年十二月二十八日海老瀬村の総鎮守として郷社に列せられ勅令九十六号に依り神饌幣帛料供進神社として指定せられ明治四十五年三月字間田に鎮座せる日枝神社神明宮の二社を合祀さらに大正十二年一月字頼母子に鎮座せる浅間神社を其の筋の許可を得て合祀し今日に至り平成五年六月徳仁親王御成婚の御慶事を併せて石に銘み後世に伝へる(以下略)
                                      石碑文より引用
 由緒によれば、第四十七代淳仁天皇の天平宝宇八年三月(672)上野国大導師である勝道上人が下野国二荒山に詣でを行った際に、この地を清浄無垢の地として日光・熊野・青龍三社大権現を勧請し、峯權現社(みねごんげんしゃ)としたという。その後、この地の領主であった藤原魚名(ふじわらのうおな)により藤原氏の祖先神である天津児屋根命(あめのこやねのみこと)が奉斎され一峯神社と改称されたという。弘仁5年(814)には弘法大師が勝道上人の遺跡地を巡錫の折この地を訪ね真言道場を設けたとされ、現在も弘法大師と伝えられる石仏塔がある。天慶年中(946)には藤原秀郷が当地に道城を築いて将門調伏の祈願を行ったとされている。
       
                    本 殿
群馬県邑楽郡板倉町の民俗」によると、社や権現沼に関して以下の伝承・伝説が残されている。
青竜権現 (一峯神)
 峯の某氏の祖先の家に美女が訪ねて来て、泊めて貰いたいと云った。泊めてくれれば家を栄えさせてくれるという。但し泊めた夜、見るなというのに見たくなって、その娘を見たら白い大蛇であり、青竜権現(一峯神)の正体であった。それからその家は栄えなくなったという。この伝説は、神婚説話が崩れたものと思われる。
 また、峯の権現様は鶏を嫌う(鶏禁忌)。崔の部落では鶏をかわない。飼うと蛇が出てのんでしまう。この部落は雀も住まない。神社にあげた散米(オサゴ)もなくならずにある。
椀貸
 峯の一峯神社の御手洗(ミタラセ)に膳棚という処がある。小さな池であるが、ここは椀、膳やお椀を貸した処で、何人前貸してほしいと紙に書いて、この池の崖から投入れると必要なだけ貸してくれたという。山口某という家で椀の蓋をとっておいた処、その後貸さなくなった。その家は火災にあったが、その椀の蓋は今も残っているという。
権現沼
 昔、大水があって、あちこちの山が崩れたり流れたりした。椿の流山はその時流れていった山で、残ったのが離れ山となり、その跡が権現沼となった。
 峯の権現沼は竜宮へ続いていた。そこの膳棚という処に大きな亀が住んで居り、膳椀の貸借りをたのむと竜宮から運んでくれた。ある家でオヒラのカサ(蓋)を記念にしまっておいたところ、その後亀が出なくなってしまったという。
オトウミョウ
 栃木県下都賀郡の明神様(野木神社)と一峯様は仲が良く、十一月二十七日にお客に出かけ、十二月三日にお帰りになる。この時、一峯権現の境内にあるモミの木の頂上にお燈明があがるという。
 
    一峰神社石碑と伊勢参宮記念碑      記念碑の奥に祀られている境内社・石祠
 
   境内にある登山三十三度大願成就碑            石祠三基と小御嶽大神石碑
        
                  社殿からの一風景



参考資料「群馬県邑楽郡誌」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」「日本歴史地名大系」「板倉町HP」
    「境内案内板」等

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