古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

雀神社

 足利成氏 (あしかがしげうじ)は、室町中期の武将。足利持氏の子。幼名は一般に万寿王丸とされている。後に初代の古河公方(こがくぼう)となる。1440年(永享12)の結城合戦に兄安王丸,春王丸らとともに参加する。兄2人は捕らえられ上洛の途中美濃で殺害されたが,成氏は逃れて信濃に入ったともいわれる。その後数年を経て鎌倉に戻り,幕府から正式に許されて鎌倉府を再建した。49年(宝徳1)には,将軍義成(後の義政)の偏諱(へんき)を得て成氏と称した。54年(享徳3)関東管領上杉憲忠を西御門の御所で謀殺した。以後,幕府・関東管領上杉氏と対立すること約30年に及んだ。この乱を『享徳の乱』と呼ぶ。成氏は,下総古河を本拠地として北関東の伝統的豪族層の支持を得た。俗に古河公方と呼ばれ,伊豆堀越(ほりごえ)に入部した堀越公方足利政知と対峙する。71年(文明3)下総古河を一時追われたが,再び回復し,その後上杉氏勢力の分裂をふまえて幕府との和睦を図る。82年都鄙和睦が成立し,享徳の乱に終止符を打った。その後,成氏は家督を嫡子政氏に譲った。
 足利成氏の反乱の余波は京都そして全国まで及び、後の応仁の乱や戦国時代の始まりとなる。
「享徳の乱」が始まると、すぐに当時の天皇である「後花園天皇」から、足利成氏の追伐命令が正式に出され、足利成氏は朝敵(朝廷の敵)として扱われることになったが、滅亡もしくは降伏せずにしぶとく生き残り、1497930日、成氏は64歳で天寿を全うした。まさに波乱に満ちた人生であった。成氏の法号は「乾亨院殿久山昌公」。墓所は栃木県野木町野渡地域にある曹洞宗西光山満福寺で、古河公方ゆかりの寺院である。
 茨城県古河市宮前町に鎮座する雀神社は、成氏ら歴代古河公方から崇敬された神社で、長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
        
            
・所在地 茨城県古河市宮前町452
            
・ご祭神 大己貴命(大国主命) 少彦名命 事代主命
            
・社 格 旧古河町総鎮守・旧郷社
            
・例祭等 春祭り 48日 例大祭 81日 秋祭り 118
 野木町・野渡熊野神社一の鳥居から西行し、古河公方ゆかりの寺院である曹洞宗満福寺の門が見える路地を左折する。因みに満福寺は戦国時代の明応元年(1492年)に初代古河公方となった足利成氏が建立し、この寺に葬られているという。
 進路方向右手には渡良瀬川の堤防が見える。この道は嘗て「野渡河岸」という年貢米専用の河岸として使われていて、渡良瀬川支流である思川にあった「友沼河岸」と共に高瀬舟が行き交い、荷物の陸揚げや積み込みが盛んな地あったという。そのような郷愁に浸りながら、今では至って静かなこの道を800m程南下すると、進行方向右手に雀神社の社叢林が見えてくる。
        
                   雀神社正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「古河町」の解説
 渡良瀬川東岸に所在。中世の古河町は古河城と雀神社の間、当時の奥州街道沿いにあったといわれ、宿の北は野渡(現栃木県下都賀郡野木町)に接していた形跡がある。しかし古河御城内外総絵図(佐藤洋之助蔵)などによって知ることができるのは近世に再開発された後の姿である。「古河志」の引く「小山家記」に「奥平千福代、是迄の町家侍小路となり、今の町屋は其時の替地也。元和六年庚申の事とみゆ」とあり、「古河旧記」の「同(元和)六年庚申五月より御家中町屋敷割有之、同七年酉三月家作出来」や、古河古来仕来覚(千賀忠夫文書)の奥平忠昌の項に「此の御代、長谷曲輪・辰崎曲輪出来、先年町屋敷侍小路と成ル」とあることから近世古河町の大改造は奥平忠昌が城主であった元和六年(一六二〇)五月から翌年三月にかけて行われ、中世以来の古河町は後に侍屋敷となった所にあったことがわかる。
 武家屋敷は城のある半島状の台地の根元の位置(ここが旧古河宿)と、諏訪郭(俗に出城)を取巻く位置にあり、小砂(こすな)町・桜町・観音寺町・片(かた)町・厩(うまや)町・中(なかの)町・白壁町・代官町・鳥見町・四丁屋敷(しちようやしき)・天神町・杉並町が前者内に、六軒(ろつけん)町・四軒(しけん)町・鷹匠(たかじよう)町・長谷町などの侍屋敷町が後者内にみられる。足軽屋敷七ヵ所などはいずれも町外れにみえる。
       
            社の入口に聳え立つ大欅(写真左)  鳥居の反対側にも立派な欅が
       古河市指定文化財(天然記念物)       聳え立つ
       
                 
雀神社の大欅の案内板 
 神社の入口にあり御神木とされている。2本の欅が接着・合体しており「夫婦欅(めおとけやき)」とも呼ばれている。樹高は25.0m、目通り周囲は8.8mにも及ぶ。煙草の投げ捨てによると考えられる火災で一部が焼かれ、1995年(平成7年)に樹勢回復が試みられたが、片側の1本はあきらめざるを得なくなり、強化繊維プラスチックの被覆により腐朽進行を防いでいる。
       
                  雀神社 一の鳥居
           僅かに参道の先には渡良瀬川の堤防が見えている。
       
        参道は途中で右側に曲がり、その正面に二の鳥居が見えてくる。
       
                   広大な境内
 雀神社とは、茨城県古河市宮前町(厩町)にある神社。社名の「雀」は、昔この辺りを「雀が原」と言ったことからその名がつけられたとも、「鎮め(しずめ)」が変化したものとされ、旧古河町の総鎮守である。かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった。
 社伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が東国鎮護のために勧請した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、清和天皇の貞観年間(859年〜877年)に出雲国出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には、足利成氏ら歴代古河公方家の崇敬を受けた。長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
 弘治2年(1556年)、第3代足利晴氏室の芳春院と思われる「御台様」が鰐口を寄進している。(『古河志』) 天正19年(1591年)には、第5代足利義氏の娘であり、古河足利家を継承していた氏姫が、市内駒崎の田地を寄進している。
 江戸時代も引き続き歴代古河城主に崇敬されており、現在の社殿は慶長10年(1605年)に松平康長が造営したものである。その前は古河城桜町曲輪の茂平河岸のほとりにあり(『古河志』)、かつての別当寺だった神宮寺と並び建っていたと考えられているが、康長による城の拡張に伴い現在地に移転した。慶安元年(1648年)には、幕府から15石の朱印地が寄進されている。
 
明治 5年(1872年)、猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定された。1912年(明治45年)、渡良瀬川の改修工事のため、古河の北西端にある悪戸新田が河川敷に変わることになり、この地域の氏神だった第六天神社が合祀された。1953年(昭和28年)の河川改修工事では、境内地が縮小され、社殿も約50m東に移転している。
        
                                       神楽殿
 当社では「悪戸新田獅子舞」が奉納されていて、毎年、7月下旬の夏祭りの際に市内を巡行している。地元では「ササラ」と呼ばれていて、室町時代に初代古河公方・足利成氏の命により始められたと伝えられている。当時流行していた悪疫の退散と平癒を祈願するため、悪戸新田の家々の長男から選ばれた子供たちに獅子頭をかぶらせ、各戸を巡り舞わせた。踊り手は3人、囃子は4人、用いる楽器は踊り手が鼓、囃子が笛である。のちには悪戸新田だけではなく、旧古河町内を巡るようになった。1910)(明治43年)に開始された渡良瀬川の改修工事により、悪戸新田は河川敷に変わり、人々は移転したため、しばらく取り止められていたが、1926年(昭和元年)の伝染病流行を機に、翌年、出身者により保存会が結成され復活した。古河市指定文化財(無形民俗)に指定されている。
 また、悪戸新田獅子舞に使用されている獅子頭も古河市指定文化財(有形民俗)。         
           神楽殿の奥に建つ神興庫らしき建物(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
              境内に設置されている社の案内板
 武家時代文化ライン 雀神社
 雀神社の祭神は、大己貴命・少彦名命・事代主命の三神であるが、その創立は明らかでない。伝承によれば、貞観年間(859876)に出雲大社から勧請したものだという。その社名については、鎮宮が転化して雀宮になったという。その後、康正元年(1455)足利成氏が古河公方となってから、初代成氏はもとより代々の公方の崇敬が高く、また、徳川将軍家、並びに累代古河藩主の崇敬もあつく、御朱印地十五石を賜った。したがって、社殿の造営修理なども累代の藩主が行ない、現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営したものである。
                                      案内板より引用

        
                                      本 殿
 流造銅板葺の本殿、および本殿の前に建つ拝殿と幣殿から構成される社殿に関して、棟札銘によれば、慶長10年(1605年)の古河城主・松平康長による造営。その後、本殿の銅板葺替え、拝殿の入母屋化、向拝(こうはい)取付けなどの改修が施されて現代に至る。建物の特徴としては、本殿には、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)・化粧棟木の実肘木(さねひじき)・海老虹梁(えびこうりょう)などに見られる唐草絵様繰形、大瓶束(たいへいづか)に豕扠首(いのこざす)の妻飾(つまかざり)があり、拝殿には、大面取(おおめんとり)の柱、二重虹梁(こうりょう)に蟇股(かえるまた)の架構形式、舟底形の天井などがある。桃山期の特徴が見られ、当地方でも有数の古建築である。古河市指定文化財(建造物)。
 
  左から境内社・松尾社・第六天宮・楯縫社                境内社・三峯神社
 三峯神社の手前に記念碑があり、そこには「本講ハ文政年間ノ創立ニ係リ初メ御船手講ト稱シ專ラ舩戸及ビ其ノ附近ノ講員ヲ以テ組織〇〇〇アリシモ時勢ノ推移ニ〇〇改稱ノ必要ヲ認メ大正五年三峯山古河文政講ト改メ創始ノ紀念ヲ保有シ益講ノ隆昌ヲ圖リツ〇アリシガ星霜ヲ歴ルノ久〇〇遥拝所〇ル石宮ノ漸ク破〇セルヲ以テ〇ニ改築ノ議ヲ起〇タルニ偶三峯本社ニ叅詣ノ〇リ社務所ニ懇望〇タル結果御神木ヲ授與セラルゝノ好機ニ際會シ本年陽春〇季ヨリ之ガ造營ニ着手〇今日竣工ノ式ヲ舉ケ遷宮シ奉ルニ至ル是實ニ神徳加護ノ賜ニ〇テ講員一同ノ深ク感銘スル所以ナリ
茲ニ本講ノ由来ト社殿造營ノ記ヲ録シ永久ニ傳フト云爾 昭和七年十月十四日 古河文政講」と刻まれていた。
        
               旧古河町総鎮守の風格漂う立派な社




参考資料「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」「古河市観光協会HP
    「雀神社
HP「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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