古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

冠稲荷神社 (1)

 太田市細谷地域は、利根川中流左岸の洪積台地の宝泉(由良)台地の南端にあたり、東に蛇川が南流し、中央を聖川が貫流していて、地域西側は低地帯で水田が広がっている。「細谷」地名の由来としては、太田市から細谷までの地形が、川谷に沿って細長く伸びた地形であったところから細谷ともいわれている。
 この地域には、かつて鎌倉時代初期に上野国新田郡細谷村(太田市)を拠点とした河内源氏流新田氏一門である一族が居を構え、在地名「細谷氏」を名乗る。この一族は新田氏本宗家の5代当主新田政氏の庶長子の細谷国氏を祖とした。細谷村は新田荘由良郷の発展により派生し成立した村で、本宗系一族の細谷氏が由良郷内の一村を所領としていたのも自然な流れともいえる。
『新田族譜』(埼玉苗字辞典より)
「〇新田又太郎政氏―細谷弥太郎国氏―又二郎秀氏―右馬助秀国(義貞に従ひ、後に脇屋義助に属して、暦応二年九月越前府城にて打死)―房清(義興自殺の後、出家法名念道)―兵庫助清房―又四郎保房―刑部丞為房―刑部丞資房(北条氏康家臣)―三河守資遠(武州湯島庄三河島十七貫五百文を領し、併せて五十七貫文の地を領す。大永元年正月二十四日、足立郡木崎村に等覚寺を建立)―三河守資実(太田十郎氏房に属し、武州岩槻城にて、春日左衛門尉・河合出羽守と共に三家老と称す。天正十八年小田原没落後、氏房の墓前にて自害)―源左衛門資光(秀忠に召され、大阪町与力)―善兵衛資勝―善之助資信(子孫本多中務大輔家臣)、弟郷右衛門資永(火消役与力)―郷大夫資政―平次兵衛資陳。○為房の弟兵庫助邦房―兵庫邦氏―五郎兵衛邦通―丹丁広通(大道寺駿河守に仕へ、松枝打死)」

        
            
・所在地 群馬県太田市細谷町1
            
・ご祭神 宇迦御魂神 大穴牟遅神 太田神 大宮能売神 他十三柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 初午大祭(3月下旬の日曜日) 他
 国道407号線を熊谷から太田市方面に北上し、西矢島地域で国道354号線の東毛広域幹線道路と交わる「西矢島町南」交差点を左折し伊勢崎方面に西行する。その後蛇川を渡り、細谷地域に入ると冠稲荷神社の立看板が見えてくる。境内は南北に長く大変広大で四周を道路が囲んでいる。
 広大な専用駐車場が社の東側にあるので、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
              国道354線沿いに見える社の立看板
『日本歴史地名大系』「細谷村」の解説
 蛇(へび)川の右岸に位置し、地勢は平坦で、対岸東は岩瀬川村、北は由良村、西は西野谷村・上田島村。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「細谷村由良郷内」とあり、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「細谷郷」とある。年未詳三月一〇日了泉書状(同文書)で、了泉は祖母より譲られた地として「細谷村」の領有を岩松能登守に主張している。寛文二年(一六六二)の知行割帳(金谷文書)では「世田郡新田庄細谷村」とあり、高一千五六七石余で田方七〇町六反余・畑方六三町余(うち萩畑三町余・屋敷四町余)で、大坂定番の安部信盛領・旗本筒井領などの六給。

        
                 東側に建つ甲大鳥居
 甲大鳥居  稲荷鳥居
 昭和六十三年(一九八八)建之
 高さ 十二・五米 幅 十八米
 規模、量感ともに県下有数である。
 様式は稲荷鳥居といい、明神鳥居の発達したもの。明神鳥居とは、特に霊験著しく、由緒正しいとの意である。鳥居は華表といい神の斎(居付き)給う清浄な神域の結界(境)を示す第一の標である。
 甲とは、東の僅か北寄りを示し、また「最初のもの」の意でもあり、日の昇る東の神の座への門である。円塗りの朱は神明の徳を表わし、魔除けのの効験を顕す。鳥居の空高く聳えるは、神霊の天降りを請い祀るものであり、ときに緑に映え、ときに夕景に浮び上がるさまは、神々しくもまた幻想的である。
 当神社の鳥居は境内の四方位に在り、これを四方鳥居という。それぞれを潜ると、魔除の効験一層あらたかなりという。                         境内案内板より引用
        
     実際には東側駐車場からは甲大鳥居(写真奥)と東鳥居(同手前)が見える。
          二基の鳥居の間には案内板が3枚展示されている。
        
         「最上流算額文化十一年銘附関流算額文化九年銘」案内板
        
        「冠稲荷神社本殿並びに聖天宮」・「冠稲荷神社拝殿」案内板
『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「冠稲荷神社の本殿並びに聖天宮(昭和47926日指定)。本殿は三間社流造、千鳥破風向拝唐破風付、享保7年(1767年)の建築。聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申」「冠稲荷神社の拝殿(平成2326日指定)。寛政11年(1799年)の建築[3]2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申。最上流算額文化11年銘 附関流算額文化9年銘(昭和5157日指定)- 冠稲荷神社には3面の算額が奉納されており、文化9年(1812年)3月に関流の金井良之が奉納したものと、文化11年(1814年)に最上流の大川栄信門人の大川直信ら3名が奉納したものが文化財指定を受けている」との説明だある。
       
               「細谷冠稲荷獅子舞」案内板
 こちらも『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「細谷冠稲荷の獅子舞(太田市指定重要無形民俗文化財 平成6325日指定)。新田義貞が重箱獅子を奉納したことに由来するとされ、初午大祭で奉納される。一時中断したが再興された。系統は箱田流とされ、一人立ち3頭獅子で雄獅子、雌獅子、法眼から成る」と載せている。
        
            甲大鳥居の左側に祀られている猿田毘古社
                左側に見えるのはペット社殿
 
 甲大鳥居から通称「甲(きのえ)参道」を通る途中にも社の御由緒(写真左)や年間行事等を記した案内板(同右)案内板が多数展示されている。
        
                  甲大鳥居の案内板
        
             改めて南側の正面鳥居から南参道を進む
 冠稲荷神社は、群馬県太田市細谷町にある神社であり、日本七社(日本七稲荷)の一つを称している。
 1125年(天治2年)、新田義重の父である源義国によって創建されたと伝えられる古社。承安4年(1174)源義経は奥州下向の途中、冠の中に奉持してきた伏見稲荷大明神等の御分霊・神札を社に収めた故事により、冠稲荷大明神と呼ばれる様になったとされている。
 また、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉へ軍を進める途中に戦勝祈願をしたところ偉功を上げることが出来たので重箱獅子を奉納すると共に金木犀一株を植えて記念とし、神領も寄進したと伝わる。
 降って江戸時代には、細谷に知行地を持つ大久保・赤井氏の旗本を始め、武州岡部藩主阿部摂津守らが当神社を厚く信仰し、御供米の寄進や社殿の改築、修理に奉仕したという。
        
              
南参道を進むと見えてくる二の鳥居
        
                二の鳥居の先にある手水舎
        
           手水舎の先の祀られている
摂社・実咲稲荷神社
 鳥居の右側にある立看板によると、こちらの御祭神は宇迦之御魂大神と塞神(久那戸大神・八衢彦命・八衢姫命)、大宮能賣神で、永禄年間(15581570)鎮座であるという。
        
                
人形代社(ひとかたしろしゃ)
 祓戸四柱大神を祀る。「人形代(ひとかたしろ)」とは、飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し、現代にまで受け継がれてきた災いを祓い福を求める祓い祈祷であるという。
       
                    拝 殿
        
                     色鮮やかで精巧な彫刻が施されている拝殿向拝部
 拝殿は正面(10.18m)、側面(7.64m)入母屋造 の平入で正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風としている。背面には正面(4.54m)、側面(5.70m)の切妻の幣殿を設け、本殿とは接続はしていないが、社殿として権現造に準ずる形態を示している。
 向拝の柱は几帳面・地 紋彫りとし、中備や兎毛通の龍の彫物を施し、木鼻 は獅子である。向拝を始めとして拝殿の彫刻は18世紀末から19世紀初期以降の物と思われ棟札の年代と 一致する。大工は上州山田郡沖之郷村の中村兵部と武州幡羅郡小暮村の田中治助とあり、鯖尻の刎ね上げが見られるところから林兵庫の系統と思われる。棟札に彫工の名はないが、妻沼の聖天堂の影響を受けた「唐子遊び」が欄間彫刻に残されていることから花輪系の彫工である可能性が高く、場所、経歴からも飯田仙之助が拝殿も手掛けた可能性が高いと推定される。
        
                    本 殿
               
                 本殿 西側からの眺め
 本殿は正面3間(2.74m)、側面2間(1.70m)、 向拝1間(2.74m)、三間社流造といわれ正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風の造りになっている。向拝柱は几帳面取の角柱で水引虹梁、海老虹梁、中備は蟇股、手挟は牡丹の籠彫でそれほど大きくはない。木鼻は正面が獅子で横が獏であるが獅子は後補の物である。前方に浜縁・浜床を設け、身舎の四方の大床跳高欄、正面の階の両側には擬宝珠付きとしている。胴羽目には中国故事を高肉透彫、脇障子は昇降の龍としてある。妻飾は二重虹梁大瓶束の笈方を始めとして全体に彫刻を施し、彫刻には極彩色で彩られ、大変見事な造りであるという。
 本殿には建造年の他、複数の棟札が保管されていて、背面の彫刻板の裏には明和4年(1767)前原藤次良他3名の名が記されていた他、向かって右側の2枚からは文化12年(1815)石原吟八藤原義武、同吟八藤原明義、門人飯田仙之助藤原義棟と書かれた墨書が発見された。建造年は水引虹梁の唐草絵様や蟇股の彫刻からも棟札通り享保7年(1767)と推定できる。建造年の享保7年は関東の彫刻の祖といわれる高松又八が亡くなっていることや大工との関係から初代の石原吟八郎の作品であると推定できる。当初年には胴羽目に彫刻がなく、46年後に吟八郎の弟子の前原藤次郎が手掛け、さらにその50年後に飯田仙之助が手掛けたのではないかと考えられる。作品を見ると、両脇の4枚と後ろの3枚は明らかに時代が違うことが分かる。また、蟇股は当初のものである可能性が高いが、向拝の獅子頭等は明らかに後補の作であるという。したがって本建物は、18世紀前半から中半さらに19世紀の彫刻の流れが分かる複合的な遺構で他に類を見ない貴重なものであるという。
        
           本殿奥にある小高い塚上に祀られている石祠四基
       境内には古墳が数基あるというので、これも古墳の可能性は高い。 




参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia
    「境内案内板」等

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