上野田鷲宮神社
・所在地 埼玉県白岡市上野田535
・ご祭神 天穂日命
・社 格 旧上野田村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月10日 秋祭り 9月19日
白岡市役所から埼玉県道78号春日部菖蒲線を南下し、白岡市総合運動公園が正面に見える「南中学校入口」交差点を左折する。その後、隼人堀川に架かる「赤砂利橋」を越えて160m程先にある丁字路を左折し、そのまま道なりに北上すると上野田鷲宮神社の一の鳥居が見えてくる。
一の鳥居のすぐ脇に駐車場らしき場所があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
上野田鷲宮神社正面
一の鳥居から先に朱を基調とした二の鳥居があり、その後、比較的長い参道が続く。
『日本歴史地名大系』「上野田村」の解説
隼人堀川の左岸にあり、西は寺塚村・千駄野村、北は高岩村、東は下野田村など。飛地が彦兵衛村にある。日光御成道が南北に貫通、笠原沼用水・高岩落・姫宮落川・隼人堀川が流れる。大宮台地慈恩寺支台に位置し、地内東部の茅場は茅葺屋根の材料供給地として利用されてきた(明治一六年迅速測図)。戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄野田市」がみえる。百間(もんま)領のうち。享保(一七一六―三六)の初め頃まで下野田村と一村であった(風土記稿)。
二の鳥居
白岡市上野田地域は、市中東部に位置する。『風土記稿』において当初は上野田村と一村であり、野田村は江戸期の元禄~享保以前は埼玉郡百間領に属していたが、享保(1716~36)の初め頃に分村したという。昔から下野田地域との境界が入り乱れているために、例えば、下野田の鎮守社である鷲宮神社は上野田の地域内になってしまっている。
『新編武藏風土記稿 上野田村』
元禄改定の国図郷帳には、上下を分たず、たゞ野田村と記したれば、分村せしは近き年のことゝ見えたり、昔は岩槻城附の地なりしを、前村と同く延享四年(一七四七)一橋殿の領地に進られしといへば、もしくは此頃より上下の二村になりしにや(中略)東西凡十七町、南北十六町許、されども上下一村なりし地なれば、詳に辨別し難し、
おおむね東・南で下野田、東で爪田ケ谷、西で寺塚、南で岡泉、北で高岩・新白岡三丁目および南埼玉郡宮代町西粂原に接している。
二の鳥居を過ぎた地点での参道の様子
社の北側一帯には「宮山団地」が都市計画的に整然と立ち並んでいる。写真でも、参道の右側は、昔からの竹林が続いているが、左側は一戸建て住宅が建っている。
上野田の地域内は、第一自治会と第二自治会に分かれ、第一自治会は、古くからの集落である宮山・西ヶ崎・上原・下原等と、戦後開発された桜丘・緑丘からなっていて、総代は旧家の五軒が世襲で努めている。それに対して第二自治会は、戦後開発された宮山団地だけであり、総代は自治会長が兼任しているという。
参道をすぎた境内の様子
参道の両側にある灯籠と境内社・三峰神社 三峰神社の先にあった力石
境内に設置されている案内板
上野田 鷲宮神社
鷲宮神社は大字上野田字宮山に位置し、祭神は天穂日命、別雷命、倉稲魂命を祀ります。大正二年には字西ヶ崎の雷電神社を合祀し、同三年には十二ヶ所稲荷を合祀しています。現在の社殿は昭和五十四年に再建されたものです。
また、境內には文化二年(一八〇五)創建とされる三峯神社、同十二年の創建とされる琴平神社を境内社として祀っています。
当社の由緒について詳細は不詳ですが、江戶時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、「高祖明神社」と記され、次 のような記載があります。
高祖明神社 村の鎮守にて大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文二十三年(一五五四)の鰐口をかく、
記載にある大光院は、明治時代に廃寺になっています。
平成十五年三月 白岡町教育委員会 案内板より引用
拝 殿
鷲宮神社 白岡町上野田五三五(上野田字宮山)
『風土記稿』上野田村の項に「高祖明神社 村の鎮守にて、大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文廿三年(一五五四))の鰐口をかく」と記されているように、古くは高祖明神社と称していた。この社号は、右の「天文廿三年の鰐口」(戦後、台風の際に梁(はり)から落ち現在行方不明)の銘文にも「奉掛鰐口一口 高祖明神宝前」と記されているように古くから用いられているものである。別当の大光院は本山派修験の寺院で、神仏分離により明治初年に廃寺になったが、その開山は神教といい、天文二年(一五三三)に寂している。これらのことから、社名の「高祖」は別当から察するに、修験道の開祖、役小角を指すものと思われ、当社は、大光院が役小角を讃えて創建し、後に村の鎮守として鷲宮神社を勧請したものであるか、既に祀られていた鷲宮神社に役小角の御霊を祀り込んで「高祖明神」と称するようになったもののいずれかと思われるが、推測の域を出ない。
神仏分離の後、当社は明治六年に村社となり、銅二十七年に本殿を改築し、大正二年に字西ヶ崎の雷電社、翌三年に字十二所の十二所稲荷神社を合祀した。その後、昭和五十三年二月、火災のため本殿と神楽殿は全焼したが、翌五十四年十月に再建が果たされた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
当社の祭神は天穂日命で、氏子の間では「鷲宮町(現久喜市鷲宮)の鷲宮神社の分社である」と伝えられており、かつては「高祖明神社」と称していたことはほとんど知られていない。また、神仏分離まで別当を務めていた大光院の跡には、今もその後裔の家の住居があるが、特に当社の祭祀には関与していないという。
境内から見た参道の様子
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
