松崎八幡神社
・ご祭神 誉田別尊
・社 格 旧村社
・例 祭 旧暦9月15日
松崎八幡神社は、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、その手間のT字路を右折する。県道との交点手前右手にはコンビニエンス(ローソン吉見松崎店)があり、その手前のT字路からも見えるので、右折するのに間違いは少ないと考える。右折後300m程進むと左側に松崎八幡神社が鎮座する地に到着する。
松崎八幡神社から南に50mまで参道が続き、鳥居から北側に車両を駐車するスペースが確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
綺麗に整備されている鳥居周辺
写真を見ると地元の一般道路と並んで砂利がひかれた状態で参道は続いていて、通常は駐車場として使われることも多いようだ。
鳥居正面
長い参道の先に松崎八幡神社境内が見えてくる。
境内も手入れも行き渡っていて、こじんまりと纏まっている印象。
○御社殿造営記念碑 八幡神社 略史
松崎八幡神社の御祭神は応神天皇 神名を誉田別尊と称せられる 神社の勧請に関する文書は存在しない そのため御創建の年代は詳でないが 一つの拠り所として樹齢七百年と言われた 欅の御神木から勘案して 十二世紀後半のころと推察される
享保二年十一月の古文書に 当八幡神社に対して 正一位八幡宮の極位を奉授した 神衹管領勾当長上卜部兼敬の 宗源宣旨 宗源祝詞は神社の重宝古文書として保存されている 明治四年神仏分離令以前 当神社の別当寺は八幡山千乗寺であった 同年六月入間県へ村社として届済 昭和二十八年四月宗教法人八幡神社として設立承認される
平成元年二月二十八日 不慮の災禍により社殿を全焼する そのため氏子の総意により平成二年三月 御社殿を再造営した
尚御神木の欅は 火災の折猛焔に煽られ 大焼損を受け 枯朽の愁いがあるため 可惜のうちに 止むを得ず伐採の憂目を迎えた
「知って信ずる」これは現代信仰の基礎論である 我々は八幡神社の氏子として 神社の歴史を熟知し 産土の神を精神的核として崇敬し ひたすら神社の興隆と 郷土の発展を祈念するものである(以下略)
記念碑より引用
御社殿造営記念碑に記載されている「宗源宣旨」とは
室町後期以降,江戸時代を通じ,吉田神道(唯一宗源神道)を宣揚し,神社,神職を支配してきた吉田家が,諸国の神社に位階,神号などを授けた証状。宗源は唯一宗源の略称で,吉田家に唯一相承されてきた神道をあらわし,宗源神宣ともいった。祭神に魚を奉ること,大明神号を授けること,鳥居を建てること,神輿を動かすこと,などさまざまの許可,授与の文書が発行されたが,なかでも神に対して位を授けることがもっとも多くみられた。
以後、これによって吉田家は全国の神職のほとんどを傘下に収め、絶大な勢力をもったが、明治維新に至り廃止されたという。
拝 殿
八幡神社<吉見町松崎六五二 松崎字宮ノ腰
当社は大字松崎(旧松崎村)の鎮守として祀られているが、元来は松崎・山ノ下二か村の鎮守として奉斎していた。
松崎に隣接する山ノ下は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人によって開発された所であると伝える。
山崎家文書の天和元年(一六八一)「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」によれば、元亀二年(一五七一)八月に隼人・兵庫・刑部・図書・采女一同の心願により山ノ下・松崎両村の鎮守として正八幡社を村境に勧請した。これが当社の創建である。
境内にある石鳥居には「享保五庚子天(一七二〇)十二月吉日・松崎村中同山野下村・再建文政四辛巳年(一八二一)四月吉祥日」と刻まれている。また、『風土記稿』山野下村の項は「八幡社 当村と松崎村との境にあり、両村の鎮守にて、松崎村千乗寺持」と記している。これに見える別当の千乗寺は、八幡山と号する真言宗の寺院で、当社創建よりもそれほど下らない時期の開基であろう。
明治四年に村社となり、この時に松崎村一村の鎮守となった模様である。平成元年に火災により社殿が焼失したが、翌年に再建された。
なお、享保二年(一七一七)十一月二十七日付で神祇管領から拝受した宗源宣旨と宗源祝詞が現存する。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げている社号扁額 向拝に飾られる精巧な彫刻
何気に木鼻部位にも細やかな細工を施した彫刻が飾られている。
松崎八幡神社の北西500mにはポンポン山(玉鉾山:標高は約40m)がある。南側からの風景は、山というより、一面広がっている丘陵地の端部ではあるが、北側の河岸低地側から見ると、平均標高が15・6m程であるため、見た目断崖絶壁のように聳え立つような景観となる。
丘陵頂部には高負比古根神社が鎮座するが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列している。また玉鉾山(ポンポン山)北側には、嘗ては荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた壬生吉志氏との関わりが推測されている。同時に高負比古根神社のご祭神は味鋤高彦根命以下出雲系の神々が祀られているが、この味鋤高彦根命のご神徳は鋤を神格化した農耕神と言われているが、同時に「鋤=古代金属の精錬」に関連する存在を思い浮かべてしまう。
境内にある青面金剛石碑 境内末社 詳細不明
松崎という地名も、意味深い名前だ。「松」は「町」の佳字と言われ、天津一族である饒速日尊の子供は、古事記に宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、日本書紀に可美真手命(うましまでのみこと)、或は味島乳命(うましまちのみこと)、天孫本紀に宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、と見える。ウマシは「立派な」の意味。麻遅(まち)、真手(まで)、麻治(まち、まぢ)、真治(まち、まぢ)等は、摩乳(まち)のことで鍛冶道具の鎚(つち)の意味にもとれ、鍛冶集団の首領をウマシマチと解釈できる。マチは古代鉱山鍛冶師のことで町(まち)・待(まち、まつ)の字を用いていて、その後「松」と佳字変更したものと思われる。
また「崎」は「浦」の意味であり、河川交通の要衝地であったことを伺わせ、「松崎」とは鉱山鍛冶海洋民の集落と解釈できるのではなかろうか。
今は静かで長閑な松崎地区。社殿からの風景。
松崎八幡神社の鎮座地である「松崎」地区は、9世紀以前に創設された横見郡の延喜式内社(延喜式神明帳に記載された古社)が近郊に3社あり、さらに黒岩横穴墓群(7世紀頃の横穴式墓が500基)などの古い史跡とも隣接しており、早い時期から開発されていた地区と考えられる。