道佛稲荷神社
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町宮代2-8-17
・ご祭神 宇迦之御魂大神
・社 格 旧中島村鎮守
・例祭等 元旦祭 夏越の祭り 7月20日
宮代町道佛地域は、同町の中央部に位置し、東武動物公園駅からおおよそ1 kmほど南の距離にあり、また宮代町役場やコミュニティーセンター進修館など、町の主要施設が集まっている利便性の高い地域でもある。因みに地域名「道佛」は「どうぶつ」と読む。
埼玉県道85号春日部久喜線を宮代市街地方向に進み、姫宮落川に架かる「道佛橋」を渡り切った先にある信号のある十字路を左折すると、進行方向左手に「道佛集会所」が見え、その奥に道佛稲荷神社は鎮座している。
道佛稲荷神社正面
宮代町道佛地域の東部は東武伊勢崎線の線路を、西部及び南部は姫宮落川を境界としている。区画整理事業が行われた道佛地区は近年新築住宅が多く建設され、若年層が多く流入して人口が増えている。また、町丁部分の北部および西部に住居表示未実施の字道佛があり、西部は主に水田などの農地で、南西端を笠原沼落が流れる。三角形の区域を有する北部は、住宅地となっている。
社号標柱のすぐ先で、参道左側にある庚申塔 右側にも庚申塔等が並んである。
参道の先にある一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「中島村」の解説
[現在地名]宮代町百間(もんま) 中島・道仏(どうぶつ)
百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根村(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)。
一の鳥居の先に見える朱を基調とした二の鳥居
江戸時代、この地域一帯は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいて、中には自国領を「私称」するようになった。「道佛」地名も、天正18年(1590)島村氏の先祖がこの地に移住・土着し、その二子である出羽宗明が開発し、その際に道佛村と称したという。その後、元禄8年(1695)の百間村分村のときに中島村と改めたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿 中島村』
開發は天正一八年(一五九〇)島村出羽宗明なるもの開發して、道佛村と云ひしと云、然るを元和五年險地の時、今の村名に改めしと土人の傳れど、所以はしらず、されど正保國圓この名を載せず、元祿國圓初て中島村とのせ、古は道佛村と唱へしことをのせたれば、天正の開發にもせよ、舊くは百間村に屬し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元祿八年に至て一村とはなれり、
参道左側に祀られている境内社・阿夫利神社 阿夫利紙社の先で並んで祀られてい天満宮
参道を挟んで阿夫利神社・天満宮の対側にある伊勢参宮記念碑二基。その間には力石あり。
拝殿を前に立ち並ぶ二柱のクスノキの御神木。壮観な眺めだ
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中島村』
稻荷社 村の鎭守なり、元和五年の勸請と云、村持、末社 石尊 辨天 庵如意觀音を安ず、
醫王院 新義眞言宗、東村西光院末、稻荷山宗祐寺と號す、當寺は名主德右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云、宗明が先祖嶋村彈正左衛門高智と號す、近江國に住し細川高國に仕へ、享祿四年(一五三一)六月廿四日攝州尼崎に於て入水して死せり、其子近江入道道明東國へ下りて當村に住し、天正一二年八月一五日卒す、出羽宗明は其二子にして、寛永元年十月五日卒す、法名を宗祐と云、本尊不動、
稲荷神社 宮代町道仏二三一(百間字道仏)
当社が鎮座する道仏の開発について、『風土記稿』中島村の項には、「開発は天正十八年(一五九〇)、島村出羽宗明なるもの開発して、道仏村と云ひしと云、然るを元和五年(一六一九)検地の時、今の村名に改めしと土人の伝れど、所以はしらず、されど正保国図この名を載せず、元祿国図初て中島村とのせ、古は道仏村と唱へしことをのせたれば、天正の開発にもせよ、旧くは百間村に属し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元禄八年(一六九五)に至て一村とはなれり」と記されている。昭和五年の大字廃止により字道仏となった。
創建については、同書に「稲荷社 村の鎮守なり、元和五年の勧請と云、村持、末社 石尊 弁天 庵如意観音を安ず」と記録され、村の開発から間もなくのこととしている。また、この文中「村持」とあるが、地内の医王院について、「新義真言宗、東村西光院末、稲荷山宗祐寺と号す、当寺は名主徳右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云」とあり、「稲荷山」の山号から、当社の別当寺であったと思われる。更に、村の開発と寺の建立の関係から推測すると、 当社の創建にも島村出羽宗明がかかわった可能性がある。
昭和四十二年、社有地を売却し、本殿の大修理と、末社天満宮・阿夫利神社・弁天社の三社を再建した。その後、平成五年に、今上天皇の即位大礼記念事業として、本殿の屋根の葺き替えを行った。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある「蒼福魂神」の扁額
拝殿内に祀られている五柱の御幣
参拝日は正月5日。御幣の前には、神様への捧げ物、お供え物があった。
御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると
同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持つという。
本 殿
氏子区域は、道佛と中島(通称中洲)で、昭和5年まで、共に中島村の小名であった。当社は、「五社稲荷神社」とも呼ばれ、これは、中島地域の稲荷神社を合祀して五社となったというが、詳しいところは分からないという。三間社流造りの本殿内陣の奥は五座に分かれ、その一座に「稲荷大明神、天保十(1839)亥四月吉日、関根氏」と刻まれた石祀が奉安されている。あるいは、これが中島地域で祭られていたものであるかもしれない。
現在の本殿について、文化年間(1804~18)に焼失し、それを再建したものと伝えている。
社殿付近からの眺め
ご神木の根部位の圧力からか、参道の敷石が微妙に変形している。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
