彦兵衛浅間神社
・所在地 埼玉県白岡市彦兵衛159
・ご祭神 木花咲耶姫命 岩長姫命
・社 格 旧彦兵衛新田村鎮守
・例祭等 元旦祭 夏の祭礼 7月1日 秋の祭礼 9月の二百二十日
彦兵衛地域は白岡市南東部に位置し、幕末の時点では「彦兵衛新田」と称し、埼玉郡に所属していた。現在、地域は南と北に大きく大小二つに区域に分かれていて、北部は上野田・下野田・太田新井に囲まれ、南部は岡泉・太田新井の間にあって南でさいたま市岩槻区鹿室に接している。地内は住宅地と工場が混在するが、主に農地となっている。
途中までの経路は岡泉鷲神社を参照。「岡泉」交差点を左折し、埼玉県道65号さいたま幸手線を1km程北上した進行方向左側に墓地があり、その手前の舗装されていない路地を進むと彦兵衛浅間神社の鳥居が見えてくる。
彦兵衛浅間神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「彦兵衛村」の解説
隼人堀川の左岸、下野田村の南に位置し、西は同村と岡泉村、中央に上野田村の飛地がある。村内を日光御成道が走る。百間領のうち。もと上野田村の持林で三卿の一家である一橋領であった(風土記稿)。一橋家では町人請負で新田開発を進めることとなり、宝暦一二年(一七六二)に入札が行われ(「入札書付控覚帳」富士庫家文書)、幸手領の彦兵衛・新平・忠左衛門・吉右衛門・友七の五人に落札した。五人共同で開発を開始し、入植者を募りながら逐次進められ、寛政五年(一七九三)までに開発を完了している。
また『白岡町史』に「此の地は鷲の郷と唱え、上野田村の飛地にして一橋中納言の林なりしが、宝暦13年(1763)武州葛飾郡幸手領の民、彦兵衛、新平の二人これを新墾し、彦兵衛新田と称せり」とあることから、開墾者の名をとったものであるという。
舗装されていない参道を進むと小高い塚上に社は祀られている。
積雪が残る周囲の雰囲気が却って幻想的で、身が引き締まった心持で参拝を望めた。
彦兵衛浅間神社社殿
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』
淺間社 村の鎭守とす、玉寶院の持、 末社 下淺間(中略)
玉寶院 羽黒行人派修驗、足立郡小針領家村大聖院の配下、本尊不動を安ず、〇不動堂 玉寶院持
浅間神社 白岡町彦兵衛一五九(彦兵衛字清左衛門)
当社の鎮座する彦兵衛は、白岡町の南東部に位置し、南側の太田新井・岡泉の間に飛び地がある。
当地は、元来彦兵衛新田と称していた。『風土記稿』の彦兵衛新田の項には、「此地は昔上野田村の持地にて、一橋殿の林なりしを、宝暦十三年(一七六三)葛飾郡幸手領の民、彦兵衛・新平と云二人にて新墾し、其頃は猶上野田村にて、進退せしが、其後一村に分かちしと云」と記され、東北に隣接する上野田村から分村して成立した様子がうかがえる。
創建については、『郡村誌』彦兵衛新田の項に「浅間社(中略)安永三年(一七七四)の創立(以下略)」とある。また、本田が富士山を模したものと思われる小高い塚の上に建てられている。江戸期には、富士山に登拝する「お山参り」が広がり、江戸を中心にして、各地に富士講が結ばれ、富士山を象った富士塚が造成された。この塚に登ることによって、富士山を登拝するのと同じ御利益があるとされた。当社の場合も、この信仰によって祀られたと考えられる。
また、明治期前には、羽黒派修験の玉宝院が別当を務めていたが、廃寺となり現存していない。当社参道の入口に墓地があり、この寺の跡地と思われる。
内陣には、明治十五年の年紀が刻まれた石祠が奉安されている。
「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』には、末社として「下浅間」を載せている。この社について『明細帳』には「往古末社二下浅間神社アリシカ祭神一ナルヲ以テ本社二合社スト言云フ」と記されている。
塚下に祀られている高屋坐大神の石碑 境内南側にある伊勢参宮記念碑
現在境内にある明治四十年の「伊勢太々記念碑」は、かつて当地で行われていた伊勢講の名残であり、伊勢の神宮に参拝し、太々神楽を奉納するもので、大正初期まで行われていたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」等
