古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小久喜久伊豆神社

 嘗て白岡市を取り巻く地域は「鬼窪郷」と云い、実ヶ谷・新宿・小久喜・白岡・黒浜・江ヶ崎等がこの地域内にあたる。その由来として、平安後期から鎌倉期に活躍した武蔵七党の野与党(のいよとう=のよとう)系の一族である野興四郎胤宗が、篠津村(現在の白岡市篠津)に居住した後に分派して名乗った「鬼窪」氏の在地名から来ているという。
 この鬼窪氏には南鬼窪氏と北鬼窪氏と二つの流れがある。 北鬼窪氏の祖は、野与六郎基永の系譜をひき、野与小六郎行基の嫡男である鬼窪六郎定綱で、南鬼窪氏の祖は北鬼窪氏の野与小六郎行基の弟九郎大夫経長の孫にあたる鬼窪四郎行親であり、南鬼窪氏の拠点は小久喜久伊豆神社周辺といわれている。
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』には、「旧家者文平、氏を鬼窪と称す、先祖を鬼窪尾張守と呼び、天正十九年正月八日歿し、寿光院秋月斉孤居士と号す、今の文平迄十代当村に住し、名主役を奉り、彼が家より別れし家五軒在りと云、家系を伝へざれば其の家の事実、詳ならず」と記されていて、『風土記稿』の編集された時期に、既に五軒の分家があったと記載されていて、現在でも「鬼久保」を称する旧家が存在するという。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市小久喜2
             
・ご祭神 大己貴命 豊宇気姫命 南方刀美神
             
・社 格 旧小久喜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 臨時大祭 4月第2日曜日(小久喜ささら獅子舞)
 小久喜(こぐき)地域は、白岡市中部に位置する概ね「C」の字の形をした地域で、南部など一部は大宮台地上(白岡支台)に位置する。地域内の南部から北部にかけてJR東日本東北本線(宇都宮線)が通り、白岡駅が置かれている。東で岡泉・千駄野に、南で実ケ谷・蓮田市黒浜に、西で白岡・蓮田市南新宿に、北で白岡・寺塚に接する(大字界が錯綜しているため、飛地との隣接は省略)。東部の低地周辺などの一部を除き住宅地となっている。
 因みに、
「小久喜」の地名の由来としては、「クキ」は小高い場所を指し、小高い地で薪などの燃料がとれたことからという。
 JR白岡駅西口の埼玉県道145号白岡停車場南新宿線を南西方向に進み、「ファッションセンターしまむら 白岡店」を通り越した先の十字路を左折すると、すぐ右手方向に小久喜久伊豆神社は見えてくる。
        
          白岡駅西口から直線距離にして500m程しか離れておらず、
          周囲を住宅街・商業施設等に囲まれた中に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「小久喜村」の解説
 千駄野村の西に位置し、西は新宿村(現蓮田市)。大宮台地白岡支台に位置し、地内の西山が標高一七メートルと現町内で最も高く、北東部に向けてゆるやかに傾斜している。東側は旧日(につ)川流路跡の低地であり、台地と低地との区分は一〇メートルの等高線とほぼ一致する。隼人堀川が北境の寺塚(てらつか)村からくる庄兵衛(しようべえ)堀川と篠津村境からの栢間堀を合流し、下野田村に流下する。黒沼用水は北西の白岡村から北東に流れて屈曲し、少し南に流れて岡泉村に流れる。西から北東に向かって幸手道が通る。
       
            鳥居の両脇に守り神のように設置されている石碑 
          左側には庚申塔(写真左)、右側には青面金剛(同右)
        
    かつて白岡駅の駅舎が西口のみだったことから商業施設は駅西側に集中している
     地域内にあって、鬱蒼とした社叢林に囲まれた中に社は静かに鎮座している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』
 箕輪郷私市庄と唱ふ、當村元は古久鬼と記せしが一旦荒廢し、寛永年中再起して村落をなせし時、今の如く改しと云、
 久伊豆社 村の鎭守なり 〇諏訪社 〇稻荷社 以上の三社村持
 壽樂院 禪宗曹洞派、白岡村興善寺末、大高山と號す、本尊釋迦を安ず、

 久伊豆社  白岡町小久喜二(小久喜字西山)
 現在の白岡町に当たる地域は、中世に鬼窪郷と称し、鎌倉­―南北朝期にかけて活躍した野与党に属する鬼窪氏の本拠地であった。
 当社の氏子総代を務める鬼窪清家は、この鬼窪氏の末裔と伝え、『風土記稿』によれば、先祖の鬼窪尾張繁政が天正十九年(一五九一)に没したという。一説には、鬼窪家が屋敷を構える辺りは、鬼窪郷の南に住したとされる南鬼窪氏の居館跡とも伝えられている。
 当社は。鬼窪家の約二〇〇メートル南西に鎮座しており、古くから小久喜村の鎮守として祀られている。当社近くの曹洞宗寿楽院は、元亀二年(一五七一)に鬼窪尾張繁政によって開基されたと伝えられており、当社の創建も草分け名主である鬼窪家によって行われたことは想像に難くない。ちなみに、久伊豆という社名を『風土記稿』から拾うと、元荒川流域に南北六〇社が分布し、その範囲は武蔵七党の私市党・野与党の勢力範囲と一致し、久伊豆神社に私市・野与両党の武士団が関与していたことをうかがわせる。
『風土記稿』には小久喜村の神社について、「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇稲荷社、以上の三社村持」と載せている。
 明治八年に村社となり、大正二年には字西山の稲荷社と諏訪社、字三谷の稲荷社の無格社三社を当社に合祀した。
 祭神は、大己貴命・豊宇気姫命・南方刀美神の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                     本 殿
          
                        社殿前に設置された社や当地獅子舞の案内板     
 小久喜地域には獅子舞が伝承されている。その起源は、大正十一年に鬼久保家が当社に奉納した「獅子連中例記」によれば、文政11年(1828)に、深作村(現さいたま市見沼区深作)から伝承されたものという。
 この獅子舞は別名「竜獅子」といい、この舞を奉納すれば雨が降ると伝えられ、日照りの続いたときは、付近の沼で雨乞いの獅子舞を奉納したことも度々あったという。
 
元々は大正期に合祀された諏訪社に伝わっていたもので、合祀後当社で行われるようになった。従って、かつては諏訪社の祭日であった7月27日に行われていたが、合祀により当社の9月27日の例祭に変更となり、更にこの日が台風の襲来に当たることが多かったので、昭和56年から花見の時期を選んで4月第2日曜日を臨時大祭と称して行われるようになったという経緯がある。
 獅子舞当日、大獅子・中獅子・女獅子の3頭の獅子と笛吹き、ささら摺(ず)り、天狗、歌方などで構成される。獅子舞の奉納は隔年の4月上旬に「ささら獅子舞保存会」によって行われる。舞の種類は「初手庭(しょてにわ)」「中庭」「幣掛(へいががか)り・鶴の巣籠(すごも)りの舞(女獅子隠{めじしかく}し)」「注連古喜(しめこぎ)・鶴の巣籠りの舞」などがある。
 午前中には社殿前で宮参りが行われ、午後からシバと呼ばれる土俵の上で獅子舞が奉納される。舞の間には地元の南小学校郷土研究部の子ども達による舞も披露される。最後に神社拝殿前で祈祷(きとう)獅子が奉納される。
 種   別 市指定無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50111
        
                
社殿の左側に設置されている獅子舞等の文化財指定の標柱
  標柱の奥に見える公園らしき場所には、小久喜区民会館と共に獅子舞奉納時の舞庭がある。       
 
   社殿左側に祀られている石祠二基        本殿奥に祀られている愛宕大権現の石祠
    左から三峯大権現・天神宮
        
    社殿の右側には、元禄二年奉納の青面金剛・庚申塔・庚申塔が並び祀られている。
        
           境内にある神楽殿、左側奥に見えるのは祭具庫
        
                社殿から見た参道の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」

  

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