高萩白鬚神社
往昔は上下高萩の分ちなく一村なりしが、寶永の頃上下の二村となれり、然れども元一村の地を分ちしなれば、上下の界區定かならず、民家田畠ともに打交れり、又上下に分鄕せしとはいへども、上高萩村は上の字を冠せず、唯高萩村と唱へ、下高萩のみ下の字を冠せり(中略)
水田少く陸田多し、用水は村の西の方女影村千丈ヶ池より出る水を引沃げり、又村の巽にあたり溜池あり、これも用水の助とす、旱損場にて水損なし、
・所在地 埼玉県日高市高萩1608
・ご祭神 猿田彦大神
・社 格 上・下高萩村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り 3月10日に近い日曜日
秋祭り 10月15日前後の日曜日
森戸新田八幡神社から国道407号線を南下し、3㎞程進んだ「高萩東」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、東行すること500m程で、進行方向に対して左手に高萩白鬚神社が横を向くように見えてくる。
旧高麗郡には多くの白鬚神社・白髭神社が祀られていて、この高萩白鬚神社もそのうちの一社。
久しぶりに見る西向き社殿。県道に対して並行に参道や境内等が配置されていて、丁度社殿付近に県道から駐車スペースに入る脇道があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
高萩白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「高萩村」の解説
上大谷沢(かみおやざわ)村・下大谷沢村の北にあり、東は下高萩村。小畔川が北部を東流、その南方を同川支流下小畔川・南小畔川が北東流する。日光脇往還がほぼ南北に通り、小名宿(しゆく)には同往還の宿駅が置かれていた。東方の下高萩村に対し、上高萩村とも称された。文安元年(一四四四)一二月一三日の旦那譲状写(相馬家文書)に「筥根山御領属高萩駒形之宮二所」とみえ、相模箱根山領である高萩駒形宮二所の旦那職が山本坊(現越生町)から豊前阿闍梨へ譲渡されている。永正一四年(一五一七)五月一四日には「高萩之実相寺」等に入西(につさい)郡の内出戸より上の修験支配の権利を返したことが山本坊に伝えられている(「出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写」同文書)。同一六年四月二八日の伊勢宗瑞知行注文(箱根神社文書)では、宗瑞(伊勢長氏)から子息菊寿丸(北条長綱)に譲られた箱根山領のうちに「むさしたかはき」五一貫文があった。
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
結構長い参道
参道右側は民家が建ち並んでいるが、対する左側は昔ながらの緑豊かな杉並木が並ぶ。
参道途中左側に祀られている境内社・愛宕社 参道の先の境内に入ったすぐ左側にある手水舎
手水舎の右奥には社務所も見える
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下高萩村』
八幡白髭兩社相殿 上下高萩村の鎭守にて、例祭九月二十九日なり、本山修驗白鈴寺持、
愛宕社 神明社 山王社 村持なり、不動堂
白鈴寺 吟松山と號す、本山修驗、上高萩村高萩院配下なり、相傳ふ當寺の持なる八幡白髭の社を勸請せし時、社の上を鶴が〇翔するを以て、山を吟松、寺を鶴齡と名づけしが、いつの頃かいかなる故にや今の寺號にあらためしと、いとおぼつかなき説なれど、姑く傳のまゝを記す、
白鬚神社(みょうじんさま) 日高町高萩一六〇八(高萩字白髭)
高萩は小畔川上流域に位置する。地名の由来は丈の高い萩が茂っていたことによる。村は地形平坦で地質は赤土である。このため水田は少なく陸田が多い。しかも、用水は村の西方、女影村千丈ヶ池から引水するとともに南西の溜め池も利用していた干損の地である。
当社はこの村の字白髭に鎮座している。
『風土記稿』には、八幡白髭両社相殿とあり、上高萩村・下高萩村の鎮守として祀られ、例祭は九月二九日であったことが記されている。なお、当時の別当は本山派修験白鈴寺であった。
白鈴寺は、上高萩村の聖護院末寺で、吟松山と号していた。同寺の伝承では、往古、八幡白鬚社を勧請した時、社殿の上を鶴が飛び交ったため奇瑞として、鶴瑞寺と名付けたが、いつのころか現在の寺名になったという。
祭神は猿田彦大神である。本殿は一間社流造りで、内陣に金幣を祀る。また、社務所には、白鬚明神座像と騎乗の八幡明神像を奉安しており、祭りの時のみこれを社殿に祀る。
明治期の神仏分離によって、別当は廃され、当社は社名を白鬚神社と改めた。また、これとともに神職を置くようになり、当社の初代神職は、村人から法印と呼ばれていた人物が奉仕することとなった。明治五年に村社となった。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
氏子区域は下高萩と上高萩の小字上宿・中宿・下宿・富士見町(六郎ヶ谷戸)の御組である。氏子は、当社を明神様と呼び、村鎮守、又は氏神として親しみ、祭りを続けているという。
境内北側に祀られている金精様
金精神(こんせいしん)は、男根に似た自然木や自然石を神体として信仰する性崇拝の一種である。金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされていて、子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。
金精神を祀った神社は全国各地にあるが、特に東日本の東北地方から関東地方にかけての地域に多くみられる。
高萩白鬚神社の境内社には、愛宕社と金精様の二社がある。愛宕社は火防の神として信仰され、金精様は子授けの祈願・縁結び・夫婦円満の御利益があり、願がかなうと穴あき石を奉納する。金精様に安置する石棒は、ある氏子の方のは畑から出土し奉納されたものである。元はこれとは別の、長さ30㎝程の石棒があったが、終戦後盗難に遭い、現在はないという。
社殿から参道への眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
