河内金鑽神社
河内の地名に関しての由来は資料もなく不明だが、まず河川の地名が連想されるため、身馴川との関係が第一に考えられるが、別説では、嘗てこの地に移住した武蔵七党・河内氏の祖である河内権守家行やその子孫である家弘、忠家の官職名にちなむ地名とも考察される。
歴史的には河内の地名が資料上に登場するのは、江戸時代に入ってからであるが、児玉党の系図の『武蔵七党系図』では、庄氏の一族である庄三郎忠家の注記に「河内」とあり、忠家の孫の友定の注記には「金沢」とあることから、「河内」は児玉町河内であり、金沢は隣地区・太駄に接している皆野町金沢と考えられている。
*「武蔵七党系図」
「有貫主遠峯―家行(児玉、武蔵権守、河内権守)―家弘(児玉庄太夫、河内守)―忠家(庄三郎、河内)―家綱(小三郎)―友定(小太郎、号金沢)」
・所在地 埼玉県本庄市児玉町河内25-1
・ご祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊
・社 格 旧村社
・例 祭 新年祭 1月3日 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
大祓 12月29日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1687332,139.0999529,16z?hl=ja&entry=ttu
河内金鑽神社は、埼玉県道44号秩父児玉線を本庄市旧児玉町市街地から南側の皆野町方向に進み、小山川を越える新元田橋の手前を右折し、小山川に沿って通る道路を西行する。この道路は道幅が狭いので、道路周辺の安全を確認しながら1㎞程進むと、道路沿い右側に河内金鑽神社の鳥居が見えてくる。山の斜面に沿って石段が続いており、その先に拝殿・本殿と配置されている。拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社でもある。
道路沿いに鎮座する河内金鑽神社
小山川(旧身馴川)が南西から北東方向に流れ、その左岸段丘上に鎮座する。
山間の鬱蒼とした森の間にポツンと鎮座する社という印象。
鳥居の両脇には秋葉神社(写真左)、社日神・石祠(詳細不明)が鎮座する。
山の斜面は思っている以上に勾配は急であり、角度のある石段を仰ぎ見ると拝殿が見える。
拝 殿
参道を登り終え、すぐに拝殿が設置されているような配置。一旦石段を少し下ってから拝殿方向にシャッターを切る。先人の方々もさぞや境内を整地するのが大変だったのだろうと想像される。
案内板
金鑽神社 本庄市児玉町河内二五‐一
□御縁起(歴史)
河内は、小山川(身馴川)の上流に位置し、江戸時代に村の名主を代々努めてきた木村家の先祖の次郎五郎が永禄年中(一五五八~七〇)に開墾した所であるという。当社の境内は、河内の北端にあり、背後(北側)にそびえる三角形の山は、神川町に鎮座する武蔵国二宮金鑚神社の神体山に尾根が続いている。こうした立地からは、神川町の金鑚神社との関係の深さがうかがわれるが、氏子の間には、二宮金鑚神社よりも古いといわれている。
社伝によると、当社は永禄年間(一五五八~七〇)の兵火により、社頭並びに吉什旧器のすべてを失い、元亀二年(一五七一)に木村次郎五郎が再建したとある。これは『明細帳』によれば、永禄年間に木村次郎五郎が開墾を行った際、諸種の困厄が生じたため、延喜式内社である金鑚神社に祈願したところ、速やかに奏功なったことにより、元亀二年に報賽として金鑚神社の分霊を勧請し、村の鎮守として祀ったのが当社の始まりであるという。『風土記稿』も、当社について「金鑚明神社、村鎮守なり、元亀中の鎮守と云、村持 末社 稲荷愛宕」と記している。
その後、慶応元年(一八六五)には、神祇管領卜部(うらべ)良義の許可を経て、児玉大元神社と改称した。『郡村誌』に「児玉社」と記されているのはそのためであるが、明治三十二年に社号を旧に復した。
□御祭神
・天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊(以下略)
案内板より引用
拝殿上部に掲げてある扁額 奉納されたのであろう「日露戦争」の油絵
社殿のすぐ右側にある神楽殿
金鑽神楽が奉納されるのであろうか。
特徴的な河内金鑽神社の幣殿・本殿
拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
ところで河内地区には変わった字名(小字)が存在する。「本庄市の地名② 児玉地域編」を原本のまま引用する。
・神子沢
身馴川(現小山川)に注ぐ沢の名前の一つに由来しますが、昔に帰化人の神戸氏が土着したとする説もあります。鉱山関係、つまり羊大夫伝説に関係するかもしれません。また山の神を祀っているのでこれに由来するかもしれません。
・経塚山
羊大夫伝説とも関連し、鉱山の採掘成功を祈願して経を奉読したことに因むといわれています。
・つじ山
群馬県西部から秩父郡内に伝えられている羊大夫伝説からきた呼び名と思われます。「つじ山」は「羊山」から来たもので、付近には金場や金仏などの地名があり、鉱山の採掘場に因むものでしょうか(『児玉の民話と伝説』上巻・『児玉風土記』ほか)
伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある。
拝殿側から見た鳥居の様子。
山の斜面の勾配が急である事がこの写真でも分かる。
河内地域が上記のように「羊伝説」関連の地域であるかどうかは現状何とも言えない。資料等があまりに少ないからだ。但しこの河内地域は南方に位置する「太駄」地域と共に、嘗ては交通の要衝地であったことは確かである。
現在では、国道140号線や秩父鉄道が秩父と関東圏を結ぶ主要交通となっているが、嘗てはこの道路は荒川最大の難所であり、歴史的に近代に入り、開削されたものであり、前橋長瀞線や秩父児玉線が古代における交通の主体を成していたという。
古代における児玉郡と秩父郡、さらに上野国との関係は密接で、政治・経済・社会の多方面での繋がりが考えられる。
参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「武蔵七党系図」「Wikipedia」「境内案内板」等