太駄岩上神社
南境の皆野町出牛より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄中央部である字殿谷戸で分岐し、前橋長瀞線は左折し、字沢戸を経て、杉の峠から神川町阿久原に入る。一方直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じている。この主要地方道に沿って小山川は流れていて、嘗て度々河川は氾濫し、大きな被害を出してきた。
とはいえ太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられる。現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。現在秩父郡内から関東平野部に通じる交通路は国道140号線や秩父鉄道を用いて寄居町方面へ通じるのが主要となっているが、嘗てはこの道路は交通の難所で、歴史的に新しく近世になって開削されたものである。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
・所在地 埼玉県本庄市児玉町太駄293-1
・ご祭神 岩長媛命・石凝姥命
・社 格 旧太駄村鎮守・旧指定村社
・例 祭 新年祭 1月3日 節分祭 2月3日 春祭り 4月15日
大祓式 7月21日 秋祭り 10月17日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1436731,139.0707142,15z?hl=ja&entry=ttu
太駄岩上神社は児玉町から、秩父・皆野町へ抜ける埼玉県道44号線秩父児玉線沿い、ヘアピンカーブの突き出た小高い山の上に鎮座している。というのもこの県道は、小山川沿いに並行して通っているが、社付近は小高い山が突き出たような地形をしているため、この川は急激な蛇行を繰り返すような流路となっている。案内板では社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいたという。
駐車スペースはあたり周辺になく、県道を1㎞程先に進んだ地点に広い路肩部分があり、そこに停めてから、参拝を行う。
県道ゆえか、交通量は意外と多かったが、歩道もしっかりと整備されている。また参拝当日は10月中旬の秋晴れの天候であり、また社までの移動中もほぼ平坦な地形で、澄んだ空気を体中に取り入れながらウォーキング気分で参拝に望めた。
太駄岩上神社 正面
現在はしっかりと舗装された県道ではあるが、嘗てこの道は皆野町に通じる由緒ある古道であり、またこの県道からは長瀞町や神川町方面にも通じる派生路もあり、歴史的に見ても重要な交通路であった。
徒歩での移動中も、石碑等が道端に設置されていて、その道路自体の歴史の痕跡も垣間見られたように感じ、自然と少しずつ近づいて見えてくる社に対して、当初はウォーキング気分で臨めたのだが、次第に厳粛な気持ちが大きくなるのを感じた。
鳥居右側に設置されている社号標柱
太駄岩上神社 神明鳥居
神楽殿
神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神様に奉納するため奏される歌舞。神社の祭礼などで見受けられ、平安時代中期に様式が完成したとされる。神社境内に「神楽殿」がある場合、神楽はそこで行われる事が多い。
一般に「かぐら」とは、「神座(かむくら、かみくら)」を語源とする説が有力で、『古事記』『日本書紀』の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は本来、招魂や鎮魂、魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
また宮中で行われる「御神楽(みかぐら)」と民間で行われる「里神楽(さとかぐら)」に大別され、日本の芸能の原点と位置づけられている。
現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』流で、里神楽と呼ばれている。
太駄岩上神社では、毎年4月15日に一番近い日曜日に例大祭が開催される。太駄神楽は、武蔵二之宮 金鑚神社の付属神楽として、鎌倉時代に神楽田楽等勃興と共に神社特有の神楽が組織されたものの流れを汲んでいる。この付属神楽は大里・児玉郡地方にのみ13組存在しており、その内の1組であり、現在は本庄市の無形民俗文化財に指定されており、金鑚神楽太駄組保存会が引き継いでいる。
鳥居の左側で、県道沿いに聳える巨木。ご神木の類だろうか。
鳥居を過ぎるとすぐ目の前にある割拝殿。
割拝殿の傍らに設置されている案内板
岩上神社 御由緒 本庄市児玉町太駄二九三
□御縁起(歴史)
当社は、身馴川(小山川)が大きく蛇行する所に突き出た山の上に鎮座している。境内の北側の斜面は、三葉ツツジの群生地となっており、春の開花期には美しい花が一面に咲き誇る。 また、川に沿って県道秩父児玉線が走っているが、当社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいた。
『児玉郡誌』によれば、当社は往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移されたという。また、社号については、慶長三年(一五九八)に大和国(現奈良県)石上神宮の神主桜井丹波という者が当地に来て吉田家の配下となり奉仕するようになった時、「いそがみ」と訓むようにしたという。 『風土記稿』太駄村の項にも「岩上明神社吉田家の配下、桜井丹波が持、末社金鑽明神」と載るように、桜井家はその後も代々祀職を務めてきたが、桜井文五郎を最後に神職を辞め、一族の中里重一が後継者となった。しかし、昭和十二年ごろから鈴木家が兼務するところとなって現在に至っている。
当社は明治五年に村社となり、同四十五年六月に類火によって社殿が全焼したが、大正十一年十一月に再建を果たすことができた。 また、大正十一年十二月には境内末社の金鑚神社を本殿に合祀した。更に、昭和四十八年には再び拝殿を焼失するが、同年に再興を果たした。
□御祭神…岩長媛命・石凝姥命…健康長寿、縁結び
案内板より引用
割拝殿の先にある石段を登る。 石段の左側にある「聖徳太子」碑と
その左側には境内社。詳細不明。
拝 殿
本 殿
筆者としては外壁を取った後の本殿の精巧な内部彫刻を勝手に想像を膨らませてしまう。
ところで太駄岩上神社のご祭神である「岩長媛命」(いわながひめ)や石凝姥命(いしこりどめのみこと)は日本神話に登場する女神である。
岩長媛命は『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記される女神で、山の神である大山津見神の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉として登場する国津神。
木花之佐久夜毘売と共に天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げられる。『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。
神話上ではこのような逸話のある女神として登場しているが、名称のみで考証してみると「岩の永遠性」を表すものとされ、「岩のように長久に変わることのない女性」として「石(岩)」を神格化した神と考えられる。
静かな境内
石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命(いしこりとべ)と表記されている。天津神。寄居町・姥宮神社のご祭神でもある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと考え、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけた矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。
その後、天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱とも謂われている。
「石凝姥命」という神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説や、一族に「刀」や「凝、己利」(コリ、金属塊の意)の文字をもつことから、鍛冶部族としての性格を表していると見る説もあり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。
社に隣接するようにカーブを描く県道
岩長媛命や石凝姥命は、どちらも「石・岩」を共有し神格化した女神である。案内板には「往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移された」と記載されていて、筆者が想像するに、記紀の神話に組み込まれる前の、本来のご祭神は「神山」ないしは「神山に存在した磐座」ではなかったのではなかろうか。
県道に沿って流れる小山川の清流。
太駄はオオダと読み、嘗ては「太田」の字を当てた時代もあったそうだ。
平安時代中期、当代随一の和漢にわたる学者であった源順が撰した、現存最古の分類体漢和辞書である『和名類聚抄』では古代児玉郡には、「振太・岡太・黄田(草田)・太井」の4郷を載せている。嘗て太駄地域は「振太」郷に比定する説(「大日本地名辞書」)もあったが、定かではない。
話は変わるが、昭和六十一年に本庄市・西富田薬師元屋舗遺跡より「武蔵国児玉郡草田郷大田弓身万呂」と刻された9世紀製造された蛇紋岩製紡錘車(繊維に撚りをかけて、糸にする道具)が発見され、現在の本庄市栄3丁目から西富田の付近が、平安時代の書物『和名類聚抄』にも記録されている草田郷という村の一部として存在したと言う事も推定できる。
平安時代の出土物(遺物)によって、『倭名類聚抄』の古写本の本文が正しいことが判明した珍しい事例であり、考古学的にも重要な資料でもある。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会HP」
「Wikipedia」等