古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

田中一之神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市田中134
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧田中村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 319日 夏祭り 715日 
                   秋祭り 
113日 新嘗祭 1219
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527484,139.1883378,18z?hl=ja&entry=ttu
 久々宇稲荷神社の信号のある十字路を左折し、西方向に850m程進んだ先の細い十字路を右折するとすぐ左手に田中一之神社が見えてくる。
 隣接している医王寺の北側にある専用駐車場をお借りして、参拝を行う。
        
                                  
田中一之神社正面
 本庄市田中地域は仁手地域の西側で、利根川南岸の自然堤防上に位置し、『新編武蔵風土記稿 田中村』において民戸80戸余、村の北境を流れる利根川に沿って「川除(かわよけ)」の堤があった。この「川除」とは、堤防などの水害防止施設をいい、この一之神社の由緒にも「真近に烏川・利根川が流れる氾濫原」「昔利根川大洪水のとき」と記されていて、大河川近くにある地域だけに昔から水害多発地帯であったのであろう。
 正保国絵図に田中村のみが記されるが、元禄年中改定図には田中村と「田中村内前田村」がみえ、後者は前田中集落をさしている。前出「風土記稿」には小名として「川岸田中」「前田中」を載せている。この小名の「前田中」について、同署には「元禄図には田中村の内前田村と記し、其のさま一村の如くなれど、小名前田中のことにて、別に一村をなせしにはあらず」と記している。寛永18年(1641)の検地帳(本庄市立歴史民俗資料館蔵)によると検地代官は南条金左衛門で、田三町一反余・畑一六町余・屋敷七反余、利根川に接しているものの畑地の圧倒的に多い村である。
 
     鳥居の左側に並ぶ庚申塔群        
鳥居の向かい側にある御嶽塚

 田中村の小名には「古社(ふるやしろ)」があり、以前ここに神社があったことを示しており、嘗て村の鎮守社である一之神社がここにあったのではないかと推定される。「地名と歴史」によれば、昔は正月十四日に子供達の祭りである「ドンド焼き」が行なわれたという。
        
                     拝 殿
 一之神社の創立年代は不詳ながら、嘗て利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体が流れてきて、当地の川岸に打ち寄せられたのを村人が発見し、その地に小祠を立て「一宮明神」と称して鎮祭した。
 その後、江期の社号額に「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されていたが、明治初期に、一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。
        
                境内に設置されている案内板
 一之神社 御由緒   本庄市田中一三四
 ▢御縁起(歴史)
 当社の鎮座する田中は、真近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四~四四)に烏川の瀬替えによって上野国那波郡より武蔵国に所属したという。
 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳かならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造って一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また、『本庄市史』には、田中の地内にある「古社」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。
『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗、賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四~三〇) には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。
 社頭に掲げられている江期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名で
は本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
  拝殿左側には石祠や庚申塔・道祖神       道祖神等の右並びにある境内石祠群
      が祀られている。                右端は戸隠神社
        
                  境内社・稲荷神社
       
                  境内社・稲荷神社の右奥にあるご神木(写真左・右)
           ご神木の根本付近には石祠・社日神が祀られている。
        
                         一之神社と別当寺である醫王寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄市の地名」
    「境内案内板」等
 

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久々宇稲荷神社

本庄市の地名」によると、本庄市久々宇地域は、北に利根川が東西に流れ、東側から南側が仁手地域、非市側は田中地域に接していて、利根川支流である烏川の氾濫原に位置している。
 因みに「久々宇」と書いて「くぐう」と読む。これも難解地名の一つに挙げられる。
 久々宇の地名は歴史が古く、戦国時代頃より名前が見える。「地名と歴史」には、忍城主成田氏の家臣団を記録した「成田家分限帳」に、久々宇の地名が見えるとある。地名の由来として「地名と歴史」では、ククヒ(くぐい・鵠)からきたもので、それは白い白鳥の古い呼び方という。
 北側を利根川が流れることから、昔は白鳥が沢山渡来した土地で、そこからついた地名かもしれない、との事だ。
 江戸時代後期に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、戸数が68戸で、用水は小山川から引き入れたという。村鎮守社は当稲荷社と記載されている。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市久々宇172
              
・ご祭神 字迦之御魂命
              
・社 格 旧久々字村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 43日 例祭 113日 新嘗祭 1210
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2507151,139.2013579,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を本庄市街地方向に進行し、「東台5丁目」交差点を右折、850m程進んだ十字路手前の右側に久々宇稲荷神社は鎮座している。
 周辺には専用駐車場、社務所、自治会館等はないので、社のすぐ北側にある「円融寺」の駐車スペースを利用し、急ぎ参拝を行う。
        
                  
久々宇稲荷神社正面
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたと云われ、那波一族の流れを汲むという。久々宇氏の在所であり、天正10年(1582)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(1624~44)に烏川変流により武蔵国に属することになった。
        
               道路沿いに掲げてある古い案内板
 稲荷神社  所在地 本庄市大字
久々宇一七二番地
 祭神 
字迦之御魂命 外二柱
 当社、創立の時代はあきらかでないが、当所開拓のころから、村人たちの信仰あつく、祭神はまたの名を保食神(うけもちのかみ)といって、五穀の祖神といわれているので、開拓者の守護神として、まことにふさわしい社である。
 本社は徳川時代の建物であったが、その後幾度も改築され、明治五年に村社になった。
 昭和六十一年三月  埼玉県 本庄市
                                      案内板より引用
        
                           朱が基調である一の鳥居
 
    一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    南方向に参道が伸びるが、途中で右側に折れ       
                          曲がり社殿に至る配置となっている。
       
                                       拝 殿

 拝殿の左側には御嶽山大神社等の石碑が鎮座      拝殿手前で右側に設置されている案内板

 稲荷神社御由緒  本庄市久々宇一七二
  ▢縁起
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたが、烏川の変流によって寛永年問(一六二四~四四)から武蔵国に所属するようになった。この辺りは、中世には群馬県伊勢崎市を本拠にする那波一族の流れを汲む久々宇氏の在所であり、天正十年(一五八二)の『成田氏分限帳』にも「久々宇大和元昌」「久々宇八弥」の名が見えるが、度重なる利根川や烏川の氾濫で地形さえも変わっているためか同氏に関する旧跡や伝説など残っていない。
 このように、河川の氾濫に悩まされてきた土地柄であったためか、当社の創建にかかわるような資料は現存せず、口碑なども伝わっていない。しかし、祭神が五穀の祖神とされる字迦之御魂命であり、『風土記稿』久々字村の項にも「稲荷社 村の鎮守、村持」と記されているように、古くから村の鎮守として村民が大切に祀ってきたことなどから考えると、村の開発を行った草分けの人々が、村の発展を願って勧請したことに始まるものと推測される。
 明治五年には村社となり、同四十年には政府の合祀政策に従って字榎下の無格社皇太神社及びその境内社の琴平神社、字諏訪下の無格社諏訪神社及びその境内社の不二山神社と天神社、字諏訪下の浅間社の六社を合祀した。なお、これらの諸社の跡地は、今では畑となっており、神社のあった痕跡は見られない。(以下略)
                                      案内版より引用 
       
             社殿右側奥に屹立するご神木(写真左・右)
 社殿の右側は幾多の境内社・石祠・石碑が並んで祀られている。不思議とその境内社・石祠群は、南北に通る道路に対して背を向けるように配置されて祀られている。
 
   左側から琴平神社・水神社・皇太神宮           諏訪神社・八坂神社・天手長男神社
 
    天手長男神社の右隣にある社は不明        天神社・白山神社・不明
        
                       一番右側には「稲荷神社由来」の石碑がある。
 稲荷神社由来
 当村は元来、上野国に属していたと云われ、那波一族の流れを汲む、久々字氏の在所であり、天正十年(一五八二)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(一六二四~四四)に烏川変流により武蔵国に属することになったと云う。この様な状況から当社の創建年代は明らかではないが、祭神が「五穀の祖神」とされる「宇迦之御魂 」であり、古くから村の開拓を行った人々が五穀豊穣と村の発展を願って建立し、大切に祀ってきたと推測される。
 明治五年村社となり同四十年合祀令により字榎下の皇大神宮と琴平神社、字諏訪下の諏訪神社、不二山神社、浅間神社、天神社の合祀した。又、その他の諸社もその時に合祀したと推測される。
 又、現在の社殿の建立年代は資料がないので不明であるが平成七年(一九九五)に改修した。大幟は平成二年に再調、平成十七年水道の設置、同二十二年に天手長男大神の幟を再調した。
 今年(
平成二十四年氏子の賛同を得て大幟竿のアルミポールに改修し、併せて浅間神社、鳥居、末社上屋の修復、諏訪神社、皇大神宮、水神社、琴平神社を新調し先人の徳に感謝し今後の村の発展と平安を願うものである。(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名」「境内案内板・石碑文」等

 

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八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1939455,139.1280878,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

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稲沢稲聚神社

 本庄市児玉町稲沢地域は、本庄市南西部端部に位置し、「本泉地区」の北部にあり、小山川支流稲聚川の北側斜面に集落が存在している。近世では上稲沢村・中稲沢村・下稲沢村の三村に分かれていた。
 稲沢という地名の由来に関して、確かな記録もないため、はっきりとは分からないが、中稲沢に鎮座する古社の稲沢稲聚神社との関係も考えられる。稲沢稲聚神社の社伝によれば、稲聚川の水源付近に昔から豊富な湧き水があって、下流の住民が水田耕作に多大な恩恵を受けたことから、この地に稲聚神社を創建し、社周辺一帯を稲沢と呼ばれるようになったと云われている。
 上記
稲沢稲聚神社はその稲沢地域に根を下ろした鎮守様であり、阿那志河輪神社同様に、「式外社」別名国史現在社(げんざいしゃ)」「国史所載社(しょさいしゃ)」とも称されている由緒ある社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町稲沢360
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2月初午 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1642982,139.0759228,15z?hl=ja&entry=ttu
 河内金鑽神社から南西方向に進路を取り、埼玉県道44号秩父児玉線合流後400m程県道を進むと、押しボタン式の信号があるT字路に到着する。そこを右折し、道なりに進む。道幅が狭い道路で右側は崖が続くため、進路があっているのか、時に心細くなる時間帯もあるが、そこは辛抱。暫く進むと稲沢地域の集落が見え、尚も西方向に進路をとる。小山川支流稲聚川に沿って道路が続いているようだが、その川の上流部が右方向に進路が変わる地点に稲沢稲聚神社は鎮座している。
 社周辺には大きな杉の大木が多数聳え立ち、遠目からも目視できるので、県道から右折する道さえ間違わなければ、社までは1本道である。県道から社までの距離は1.4㎞ほどであろうか。
 社の東側には「稲澤山村センター」があり、駐車スペースもしっかりと確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  稲沢稲聚神社 正面
       
        鳥居の手前には社号標・社碑が立つ。 社号標の奥にある稲聚神社碑。

「稲聚神社碑」には創立年代から碑文設置当時までの歴史等が記されていたのだろうが、残念ながら長年の風雪等により、半分以上文字欠損状態となっている。それでも僅かな文字等の確認によると、「稲聚神社のご祭神は稲荷の大神にして倉稻魂神」「六国史の一つである日本三代実録における神階は文徳天皇の天安元年正六位上」「清和天皇貞観十七秊從五位下」「稲澤と全く同じきなり古書に稲取と書」「後小松天皇の應永の頃大旱魃」あたりが記されている。
        
                     案内板
     自然災害の影響か、御由緒案内板の一部が剥がれ、一部解読が不可能な部分がある。
     一部欠損した部分は、ほかのHPを確認することにより、対応できた。

 稲聚神社 御由緒  本庄市児玉町稲沢三六〇
 □御縁起(歴史)
『郡村誌』が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村である。その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていたが、明治五年に合併して一村となった。
 当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(八〇八)の創建で、天安元年(八五七)に神階正六位上に列し、貞観十七年(八七五)には従五位下に昇格した。その後、応永六年(一三九九)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。 更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。『風土記稿』にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかる。明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十 八年には社号を稲聚神社に改めた。
 □御祭神と御神徳

 倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用
        
                                一の鳥居
 
 鳥居の社号額には「稲聚神社・丹生神社」と記載がある(写真左)。一の鳥居の先には石製の二の鳥居があるが、そこの社号額にも一の鳥居同様に「稲聚神社・丹生神社」と書かれている(同右)。
        
                                       拝 殿
 
  拝殿の扁額も「稲聚神社」「丹生神社」        拝殿の右側には九頭竜神が鎮座。 
     と並列に掲げられている。

 案内板によると、応永6年(1399年)に干ばつを鎮めるため、大和国の丹生川上神社を勧請、合社した。よって、稲聚神社には稲聚神社と丹生神社が記載されている。当時は丹生神社の信仰がより強かったため、以降社名が「丹生社」に改称される。
 その後明治元年(1868年)の神仏分離により社名を「稲荷神社」に改称するが、明治28年(1895年)には創立当初の社名「稲聚神社」に復称したという。
       
 境内には杉の巨木・老木が多数あるが、その中でも社殿右側手前にあるご神木は圧倒的な存在感がある。


 ところで稲沢稲聚神社は六国史の一つである『日本三代実録』《卷二十七貞觀十七年(八七五)十二月五日甲寅》によると、「五日甲寅。授長門國從四位下住吉荒魂神四位上。近江國從五位下小丈神從五位上。正六位上坂神從五位下。武藏國正六位上河輪神。稻聚神。飛騨國正六位上本母國都神。釼緒神。上野國正六位上丹生神並從五位下」と記載があり、貞觀十七年(875)に正六位上の神階を阿那志河輪神社と共に受けていて、それが根拠となり、「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」別名「式外社」の社として時の朝廷から承認されている。

 国史見在社(こくしげんざいしゃ)は六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。 式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられてきた。
 六国史は延喜式神名帳以前に成立、編纂された歴史書、または勅撰史書であり、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。各史書の成立年は以下の通りとなる。
『日本書紀』…養老4年(720年)
『続日本紀』…延暦16年(797年)
『日本後紀』…承和7年(840年)
『続日本後紀』…貞観11年(869年)
『日本文徳天皇実録』…元慶3年(879年)
『日本三代実録』…延喜元年(901年)

『延喜式(えんぎしき)』は、六国史の後に編集された、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則をまとめた法典であり、成立年は延長5年(927年)。『延喜式神名帳』は『延喜式』に纏められた巻九・十のことを指し、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であり、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社、鎮座する神の数は3,132座である。

 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準には当然ながら、当時の政治色意図が強く反映されていると考えられる。一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、正式な社殿がなかった神社等と思われるが、正確にはその選定の定義は分からない。
 その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史に神名・社名の見える神社を国史見在社(こくしけんざいしゃ・国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。
             
 社の入口・社号標柱の右隣には、おそらく古い年代に製造されたであろう柱があり、そこには「国史現在」、その右脇には同じ式外社である「河輪」と刻印されている。


 旧武蔵国に式外社・国史見在社として認識されていた社は五社で、以下の社となる
倭文一神社…埼玉県比企郡吉見町久米田鎮座。現在久米田神社。旧村社。
若雷神社…神奈川県横浜市港北区鎮座。旧村社。
伊多之神社…東京都あきる野市五日市鎮座。現在阿伎留(あきる)神社。旧郷社。
河輪神社…埼玉県児玉郡美里町阿那志鎮座。旧村社。
稲聚神社…埼玉県本庄市児玉町稲沢鎮座。 旧村社。


 式内社・式外社共に1100年前に史書等で官社として記載されている社という箏は、当然それ以前からの創建であり、社自体も歴史を綴っていたことを朝廷が認めたわけであるのだから、延喜式が成立以前、少なくとも数百年単位の由緒は必要と思われる。
 稲沢稲聚神社の案内板による縁起(歴史)にも、創建時期は「大同三年(808)と記しているが、もしかしたら妥当な年代かもしれない。1000年前という途方もない年代を経た由緒ある社という箏だ。
        
 県道から稲沢地域に向かう途中に建てられている石碑群。周辺手入れもなされていて、また社日様も紙垂等で祀られていて、その四方には縄を巻き、結界を成しているのであろう。当然縄には紙垂を巻いていたと思われる。
 道路の向かい側には稲聚川が流れていて、この集落と河川との深いかかわりもこのような石祠群のおかれた場所を鑑みると、地域の方々の、信仰の深さを垣間見た気がして、思わず車を停めて手を合わせた次第だ。

参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」等

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吉田林日枝神社

 本庄市児玉町吉田林地域は、JR八高線児玉駅の北側に位置し、北部は旧児玉条里の水田地帯で、中・南部は緩い台地上の平地で、南東部は独立した残丘の生野山が含まれる。
 吉田林地域の中央部は児玉町市街地と生野山に挟まれた南北に細長い地域で、昔は荒れ地で小山川(旧身馴川)の氾濫源の一部だった可能性がある。北部の水田地帯は九郷用水を引水し、江戸時代にはこの九郷用水組合22ヶ村に含まれる村であった。吉田林地域北部の水田地帯は児玉条里に含まれるが、度々の氾濫により条里区画は大きく乱れている。
 吉田林という地名は「きたばやし」と読み、珍しい地名の一つだ。古代における郷名「黄田郷」(『和名抄』)から当てる説もあったが、『和名抄』の異本には「草田郷」とあり、本庄市教育委員会の発掘調査で、草田郷の銘文のある紡錘車が出土したことから、黄田郷は草田郷の写し間違いで、吉田林の名は黄田郷に由来するとは言えなくなった。或いは吉田林地域は児玉の北部に位置し、小山川の氾濫原の一部と考えれば「吉田=きた」は「北」で、北の林を意味する地名かもしれない。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町吉田林字山王山925
             ・ご祭神 羽山戶神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 410日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1210
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1954711,139.1386354,18z?hl=ja&entry=ttu
 吉田林日枝神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折し、国道254号線に合流、北西方向に進路をとる。1㎞程進み、「児玉教育会館(南)交差点を左折し、最初のT字路をまた左折する。道幅の狭い道路で、上り坂ではあり、民家等はないが、対向車には気を付けながら150m程進むと、左手に吉田林日枝神社の小さな木製鳥居が見えてくる。
 鳥居を越えてから進行方向に対して左手に、社の境内に通じる道があり、その道を進んだすぐ右側に駐車可能なスペースも確保されていて、そこに停めてから参拝を行う。
        
                  吉田林日枝神社正面
 駐車スペースから参道正面まで、一旦西方向に階段を下り、改めて参拝を行う。吉田林日枝神社が鎮座する場所は、生野山の低山を含む残丘が西側に広がり、その西端部に位置するため、正面参道から社殿まで、なだらかな上り坂斜面が続く。
             
             一の鳥居からの参道の眺め。意外と長い。
        
                          上り坂の階段の奥に二の鳥居が見える。
        
                               二の鳥居
        
              二の鳥居の右側に設置された案内板
 日枝神社 御由緒
 □御縁起(歴史) 本庄市児玉町吉田林九二五
 吉田林は、『和名抄』に見える黄田郷の遺称地といわれる。
 当社は、吉田林の東南端、生野山丘陵の西斜面上に鎮座する。『児玉郡誌』には「当社初め御年社と称す、創立は後冷泉天皇の御宇、治暦二年(一〇六六) なりと云ひ伝ふ、一説に児玉党支族宮田某の勧請なりとも云ふ、その後永禄年間(一五五八-七〇) に至り、八幡山の雉岡城の神将山口修理亮盛幸、該城守護のために近江国日枝山(比叡山)より山王権現を遷して御年社に合祀し、是より日吉大権現と称せり、社領は山口修理より神田若干を寄附し、その後地頭菅沼氏より屡神田を寄進せられたり」と記される。御年()社は、『延喜式』神名帳に、大和国(奈良県)葛上郡に二社が見え、特に葛城御年社は従一位の名神大社であった。
 当地に御年社が勧請された経緯は不明であるが、城跡から見ると当社は北東の方向に鎮座しており、後に城の鬼門除けとして山王権現が合祀されたのであろう。
『風土記稿』吉田林村の項には「山王社 村の鎮守にて西養寺の持、社内に東照宮及び諏訪を祀れり、末社八幡三島」とある。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当西養寺を離れて、村社となった。一間社春日造りの本殿は、延享三年(一七四六)の再建で、外宇は明治二十二年の改築である。内陣には、青と赤に彩色された雄雌一対の石製猿像(高さ一六センチメートル)が奉安されている。
 □御祭神 羽山神(はやまど)…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用



 ところで「吉田林」の地名は中世まで全く史料に見られない。今日の吉田林地域は中世初期においては、独立した児玉党系の「氏」を擁する地域ではなく、おそらく八幡山地区と一体をなす「児玉庄」の中核域として、「庄氏」の領有内に含まれていて、中世後半以降に吉田林として分村したのではないかと思われる。
 というのも、天正18年(1590)後北條氏が滅亡し、その後徳川家康が関東に入国、家臣の松平家清が一万石で八幡山城(雉岡城)主になるが、翌年天正19年(1591)にこの松平氏の所領を示す資料「武州之内御縄打取帳」に「八幡山・児玉・金屋・長興(沖)・保木野・宮内・飯倉・高柳・塩野屋(谷)・沼上」等の地名は見られるが、「吉田林」は載っていない。
 その後松平氏は慶長
6年(1601)三河に転封し、短期間幕府直轄領の期間を経て、旗本戸田氏、大名山口氏に与えられている。山口氏は大久保忠隣の事件に連座し失脚、また暫し幕府直轄領となり、小菅氏が代官となり、その支配下となっていた。下真下の関根家には書簡があり、小菅氏は下真下村と吉田林村に所領がある事が記載されていて、そこで初めて「吉田林」という地名が登場する。
        
       二の鳥居から更に階段を上り、登りきった先に南北に広い境内が広がる。
        
                                       拝殿覆屋
 
  拝殿に掲げてある「日枝神社」の扁額     拝殿の左側に鎮座する境内社・八幡神社

 日枝神社 春・秋まつり 吉田林獅子舞
 日枝神社の春・秋の祭典の行事として吉田林獅子舞(市指定文化財)が奉納されます。
 江戸時代の中頃、この地域に日照りや干ばつが続き作物がとれず、村に悪い病気が流行して多くの人が亡くなるなどしました。
この惨状を見た当時の殿様が、悪霊払いのため獅子頭3頭を奉納したことに始まり、その後、獅子舞が行われてきたと伝えられています。
 現在、獅子舞は春と秋の祭典で舞われています。
                               本庄市観光協会公式HPより引用

 
   八幡神社の左隣には境内社・八坂神社      八坂神社の北側奥には社務所がある。
      等の石祠が鎮座する。      
       
            八坂神社の左側にある「記念碑」      記念碑の奥にある「富士浅間大神」
                           「小御嶽大神」の石碑
 
  社殿の奥に並んで鎮座する末社群の石祠    こちらは社殿の右側に並ぶ末社群の石祠
       
                      社殿の右隣に聳え立つご神木

                    
                        一の鳥居の左側にある石碑。「藤池碑」か。

 吉田林地域は、北部の水田地帯には「九郷用水」を利用して水田の生産に充てていたが、それ以外の南部の水田は天水による溜池灌漑であった。そのため溜池も多く存在していて、地域内の小字にも「鼠池・松池・藤池・女池」等その名残りが残っている。現在残っているのは「朝鮮池」のみで、松池・藤池・女池は埋め立てられて消滅、鼠池は所在すら解っていない。
 藤池は日枝神社に藤池碑が立っている。これによれば、池の名前の由来は、池辺には紫色の藤が多くあったからと記されている。身馴川の水が地下を通って、この藤池で湧水となり、枯れることなく用水に利用できたという。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
     「Wikipedia」「境内案内板」等


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