古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

太駄岩上神社

 本庄市児玉町太駄地区は本庄市の南西端部に位置し、この地区の大半は上武山地に含まれ、盆地となっていて、中央を南北に小山川(旧身馴川)が蛇行しながら流れている。尚この小山川はこの太駄山中より発している。太駄地区の中心部は小山川に沿って細長く盆地状の平地に広がっていて、北は河内、東は長瀞町野上、西は神川町阿久原・矢納、南は皆野町出牛各地区と境を接している。
 南境の皆野町出牛より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄中央部である字殿谷戸で分岐し、前橋長瀞線は左折し、字沢戸を経て、杉の峠から神川町阿久原に入る。一方直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じている。この主要地方道に沿って小山川は流れていて、嘗て度々河川は氾濫し、大きな被害を出してきた。

とはいえ太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられる。現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。現在秩父郡内から関東平野部に通じる交通路は国道140号線や秩父鉄道を用いて寄居町方面へ通じるのが主要となっているが、嘗てはこの道路は交通の難所で、歴史的に新しく近世になって開削されたものである。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町太駄293-1
             ・ご祭神 岩長媛命・石凝姥命
             ・社 格 旧太駄村鎮守・旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 13日 節分祭 23日 春祭り 415
                  大祓式 721日 秋祭り 1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1436731,139.0707142,15z?hl=ja&entry=ttu
 太駄岩上神社は児玉町から、秩父・皆野町へ抜ける埼玉県道44号線秩父児玉線沿い、ヘアピンカーブの突き出た小高い山の上に鎮座している。というのもこの県道は、小山川沿いに並行して通っているが、社付近は小高い山が突き出たような地形をしているため、この川は急激な蛇行を繰り返すような流路となっている。案内板では社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいたという。
 駐車スペースはあたり周辺になく、県道を1㎞程先に進んだ地点に広い路肩部分があり、そこに停めてから、参拝を行う。
 県道ゆえか、交通量は意外と多かったが、歩道もしっかりと整備されている。また参拝当日は10月中旬の秋晴れの天候であり、また社までの移動中もほぼ平坦な地形で、澄んだ空気を体中に取り入れながらウォーキング気分で参拝に望めた。
        
                                  太駄岩上神社 正面

 現在はしっかりと舗装された県道ではあるが、嘗てこの道は皆野町に通じる由緒ある古道であり、またこの県道からは長瀞町や神川町方面にも通じる派生路もあり、歴史的に見ても重要な交通路であった。
 徒歩での移動中も、石碑等が道端に設置されていて、その道路自体の歴史の痕跡も垣間見られたように感じ、自然と少しずつ近づいて見えてくる社に対して、当初はウォーキング気分で臨めたのだが、次第に厳粛な気持ちが大きくなるのを感じた。
             
               鳥居右側に設置されている社号標柱
         
                              太駄岩上神社 神明鳥居
         
                                     神楽殿

 神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神様に奉納するため奏される歌舞。神社の祭礼などで見受けられ、平安時代中期に様式が完成したとされる。神社境内に「神楽殿」がある場合、神楽はそこで行われる事が多い。
 一般に「かぐら」とは、「神座(かむくら、かみくら)」を語源とする説が有力で、『古事記』『日本書紀』の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は本来、招魂や鎮魂、魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
 また宮中で行われる「御神楽(みかぐら)」と民間で行われる「里神楽(さとかぐら)」に大別され、日本の芸能の原点と位置づけられている。
 現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』流で、里神楽と呼ばれている。

 太駄岩上神社では、毎年415日に一番近い日曜日に例大祭が開催される。太駄神楽は、武蔵二之宮 金鑚神社の付属神楽として、鎌倉時代に神楽田楽等勃興と共に神社特有の神楽が組織されたものの流れを汲んでいる。この付属神楽は大里・児玉郡地方にのみ13組存在しており、その内の1組であり、現在は本庄市の無形民俗文化財に指定されており、金鑚神楽太駄組保存会が引き継いでいる。
       
        鳥居の左側で、県道沿いに聳える巨木。ご神木の類だろうか。
        
                         鳥居を過ぎるとすぐ目の前にある割拝殿。
        
                            割拝殿の傍らに設置されている案内板

 岩上神社 御由緒 本庄市児玉町太駄二九三
 □御縁起(歴史)
 当社は、身馴川(小山川)が大きく蛇行する所に突き出た山の上に鎮座している。境内の北側の斜面は、三葉ツツジの群生地となっており、春の開花期には美しい花が一面に咲き誇る。 また、川に沿って県道秩父児玉線が走っているが、当社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいた。
『児玉郡誌』によれば、当社は往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移されたという。また、社号については、慶長三年(一五九八)に大和国(現奈良県)石上神宮の神主桜井丹波という者が当地に来て吉田家の配下となり奉仕するようになった時、「いそがみ」と訓むようにしたという。 『風土記稿』太駄村の項にも「岩上明神社吉田家の配下、桜井丹波が持、末社金鑽明神」と載るように、桜井家はその後も代々祀職を務めてきたが、桜井文五郎を最後に神職を辞め、一族の中里重一が後継者となった。しかし、昭和十二年ごろから鈴木家が兼務するところとなって現在に至っている。
 当社は明治五年に村社となり、同四十五年六月に類火によって社殿が全焼したが、大正十一年十一月に再建を果たすことができた。 また、大正十一年十二月には境内末社の金鑚神社を本殿に合祀した。更に、昭和四十八年には再び拝殿を焼失するが、同年に再興を果たした。
 □御祭神…岩長媛命・石凝姥命…健康長寿、縁結び
                                      案内板より引用
 
    割拝殿の先にある石段を登る。          石段の左側にある「聖徳太子」碑と
                          その左側には境内社。詳細不明。
        
                                       拝 殿
        
                                      本 殿
   筆者としては外壁を取った後の本殿の精巧な内部彫刻を勝手に想像を膨らませてしまう。


 ところで太駄岩上神社のご祭神である「岩長媛命」(いわながひめ)や石凝姥命(いしこりどめのみこと)は日本神話に登場する女神である。

 岩長媛命は『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記される女神で、山の神である大山津見神の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉として登場する国津神。
 木花之佐久夜毘売と共に天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げられる。『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。

 神話上ではこのような逸話のある女神として登場しているが、名称のみで考証してみると「岩の永遠性」を表すものとされ、「岩のように長久に変わることのない女性」として「石(岩)」を神格化した神と考えられる。
        
                                   静かな境内

 石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命(いしこりとべ)と表記されている。天津神。寄居町・姥宮神社のご祭神でもある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと考え、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけた矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。
 その後、天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱とも謂われている。

石凝姥命」という神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説や、一族に「刀」や「凝、己利」(コリ、金属塊の意)の文字をもつことから、鍛冶部族としての性格を表していると見る説もあり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。
        
                         社に隣接するようにカーブを描く県道

 岩長媛命や石凝姥命は、どちらも「石・岩」を共有し神格化した女神である。案内板には「往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移された」と記載されていて、筆者が想像するに、記紀の神話に組み込まれる前の、本来のご祭神は「神山」ないしは「神山に存在した磐座」ではなかったのではなかろうか。
        
              県道に沿って流れる小山川の清流。

 太駄はオオダと読み、嘗ては「太田」の字を当てた時代もあったそうだ。
 平安時代中期、当代随一の和漢にわたる学者であった源順が撰した、現存最古の分類体漢和辞書である『和名類聚抄』では古代児玉郡には、「振太・岡太・黄田(草田)・太井」の4郷を載せている。嘗て太駄地域は「振太」郷に比定する説(「大日本地名辞書」)もあったが、定かではない。

 話は変わるが、昭和六十一年に本庄市・西富田薬師元屋舗遺跡より「武蔵国児玉郡草田郷大田弓身万呂」と刻された9世紀製造された蛇紋岩製紡錘車(繊維に撚りをかけて、糸にする道具)が発見され、現在の本庄市栄3丁目から西富田の付近が、平安時代の書物『和名類聚抄』にも記録されている草田郷という村の一部として存在したと言う事も推定できる。
 平安時代の出土物(遺物)によって、『倭名類聚抄』の古写本の本文が正しいことが判明した珍しい事例であり、考古学的にも重要な資料でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「
本庄市観光協会HP」
    
Wikipedia」等

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高柳三嶋愛宕神社

 本庄市児玉町高柳地区には「骨波田」という一風変わった地名が存在する。高柳地区の丁度中央部にある「長泉寺」周辺の小字であるようだが、骨波田の地名由来には幾つかの伝説が残されている。それは『身馴川の大蛇伝説』で、これは高柳地区だけでなく、秋山・風洞地区にも似たような話が伝えられている。
 昔身馴川(現小山川)に雌雄2匹(もしくは1匹)の大蛇がいて、あたり一帯の沼地を我が物顔に暴れまわっていたのを、征夷大将軍・坂上田村麻呂が成敗した話である。退治した大蛇の骨をこの地に埋めたので、骨畑(骨波田)の名前がついたという。また別説では、大将軍が大蛇を退治した後、辺り一帯に天災や疫病が流行して村人が大変困っていると、どこからか高僧がやって来てお祈りをしたところ、付近の沼地一帯に大蛇の骨が浮かび上がり、沼は大きな波が立った。これを丁寧に供養すると、以後は祟りや天災は無くなったといい、骨波田の由来はこの大蛇の骨と沼地が波立ったことによると云う。どちらの伝説にしても洪水で荒れ狂う身馴川を大蛇に例えた伝説と考えられる。
 また近隣には「江ノ浜・虚空蔵尊」という地名もあり、これらも伝説によると云われている。身馴川の傍に入り江があり、江ノ浜と呼ばれているが、ここには昔一本の大きな柳の木があり、大将軍の坂上田村麻呂はこの柳の木に向かって大蛇退治の祈願を行い、願いが叶うならこの柳に桜の花を咲かせてほしいというと、突然暗夜となり振動して、すぐ明るくなると柳は満開の桜が咲いたという。大将軍は喜び、この地に虚空蔵尊を建立して、この地に柳の大木があったことから高柳の虚空蔵尊というようになったという。

 因みに「長泉寺」には埼玉県指定天然記念物に指定されている、樹齢約650年の『骨波田の藤』が有名で、東国花の寺百ケ寺、児玉三十三観音霊場第三十一番にもなっている。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳138
            
・ご祭神 大山祇命・火産霊神
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 新年祭 17日 新穀感謝祭 1123日 大祓 721日、1229

 高柳地区の大半は山地と丘陵地よりなっていて、南側を小山川が流れており、地区中央を南西方向に県道が通っている。
 高柳三嶋愛宕神社は、埼玉県道
44号線秩父児玉線を児玉町市街地から元田地区方向へ進む。その後小山川に沿った進行方向となり、右側にはコンビニエンス、左側には「こだま千本桜」と言われる桜並木が並ぶ信号の内交差点から150m程過ぎたT字路を右折し、道なりに進んでいくと正面方向に高台が見え、高柳三嶋愛宕神社の鳥居が見えてくる。
 社は高柳公会堂に隣接していて、高台の南側には「観音堂」という寺院があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                      
高柳三嶋愛宕神社正面鳥居
      写真左側には「観音堂」の墓地が並び、その南側に駐車スペースあり。
         鳥居の右側にある社号標柱       鳥居を過ぎると拝殿に通じる石段がある。
        
                                        拝 殿
        
                         拝殿の手前左側に設置されている案内板

 三嶋愛宕神社 御由緒  本庄市児玉町高柳一三八
 □御縁起(歴史)
 前期に上野笠懸野(現群馬県新田郡)を開き、寛文元年(一六六一)からは上野・下野・越後国の幕府代官として活躍した岡登景能の生地として知られる高柳は、身馴川(小山川)に沿った細長い形の村である。その地内にある曹洞宗の長泉寺は、文明三年(一四七一)に関東管領上杉顕定が開基となって創立した寺院であるように、室町時代には既に相応の村落を成していたことがうかがえる。
 三嶋愛宕神社の名が示すように、当社は三嶋神社と愛宕神社の合殿である。三嶋神社は元々現在の社地に鎮座していた神社で、高柳の上の鎮守として祀られ、『風土記稿』高柳村の項によれば村民の持ちとなっている。一方、愛宕神社は現在の社地からやや東に離れた所に鎮座していた神社で、下の鎮守として崇敬され、『風土記稿』によれば観音寺の持ちとなっている。したがって、この両社は信仰の上では格差はなく、旧社格はいずれも村社であった。
 しかし、両社の位置が比較的近かったためであろうか、政府の合祀政策を受けて明治四十年に愛宕神社は三嶋神社に合祀されることになり、これに伴って三嶋神社の社号を三嶋愛宕神社に改めた。更に、この際、愛宕神社の境内社であった稲荷・天手長男の両社及び字川原の社日神社をはじめとする地内の無格社六社を当社の境内に移して末社とした。このような経過を経て、当社は現在の形になったのである。
 □御祭神 大山祇命・火産霊神…防火防災 五穀豊穣
                                      案内板より引用


 案内板に登場する岡登景能(おかのぼり かげよし、1629年(寛永6年)? - 168815日(貞享4123日))は、江戸時代前期の武士、通称は次郎兵衛。
 武蔵国児玉郡高柳村(現在の埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となる。養父景親の跡をついで幕府代官となり、1668年(寛文8年)足尾の銅山奉行をかねる。越後国魚沼郡、上野国新田郡笠懸野などの用水路整備や開墾に尽力した。用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったなどの理由により江戸に召喚され、その道中の168815日(貞享4123日)、駕籠の中で切腹し死去した。通称は次郎兵衛。上野笠懸野の用水路は今でも岡上用水と呼ばれている。景能の苗字は「岡上」であるが、通称「岡登」の苗字で言及されることもある。
        
               社殿の右側、丘陵地斜面手前に並んで鎮座する社日神等の石祠群。

 景能は貞享元年より上州新田郡へ本拠地を移し、自刃する同四年迄居住し、妻子は生家の高柳村へ帰郷したようだ。武蔵国児玉郡誌に「岡登次郎兵衛景能の妻は武州高柳村斎藤六兵衛の女にして、景能の男八郎兵衛を生む。景能の子八郎兵衛父自刃の後に母と共に生地高柳に帰り来りて住居したるに、明治の初、八代の孫幸作の時に至り家屋を他に売却せりと云ふ、(以下略)」との記載がある。
 児玉記考に「旧家岡登幸作、先代を八郎兵衛と通称し、名主役を勤続し苗字帯刀を許されたる旧家なり」と見えるように、その子孫はこの地に根を下ろして代々酒造業を営んでいたという。
       
                          石祠群の並びに聳え立つご神木

 風土記稿高柳村条に「那賀郡駒絹村の民友七所蔵の文書に、吉橋和泉、弟高柳因幡守と見え、且つ吉橋氏は永禄元亀の頃、信玄に属し、近郷の戦に屡々功ありしかば、榛沢郡の内大塚、賀美郡の内長浜にて、十貫文づゝの地を宛てられし事もあれば、舎弟高柳因幡守も当村に住し、在名をもて氏とせしにや」と記載されている。

また駒衣村吉橋文書に「天正五丑年十月九日、村岡河内守分、両人に出置候、早々罷移、彼本領可致知行候、右之足軽其外同心衆の家まで、村岡より可請取之者也、吉橋和泉殿、和泉弟高柳因幡守殿、(北条氏邦印判状)」と見え、吉橋氏は、児玉郡高柳村を所領として高柳氏を称し、木部村(那賀郡木部村)に屋敷を構えたらしい。
        
                 社殿から鳥居方向を撮影


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
                 

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元田富士浅間神社

 本庄市児玉町元田地区は、上武山地の東端部に尾根先端部地域と、小山川(旧身馴川)北岸地域の2か所に別れ、その真ん中付近に鎮座する河内金鑽神社周辺で分断されているという特異な行政区域となっている。元田の領域は他の地域に比べて狭く、二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央には小山川が流れ、その小山川に沿って県道44号秩父児玉線が通っていて、元田地区も県道沿いに形成されている。元田の範囲は南北に細長く、周囲を高柳・塩谷・稲沢・小平・河内地区に囲まれている。
 児玉地区内には神川町二宮に鎮座する金鑽神社の分霊社が多数あり、河内金鑽神社もその一つであるが、この分霊社の多くは九郷用水を引く村々にあり、金鑽神社との深い関連性を伺わせる。またこの地域は武蔵七党の最大勢力を誇った児玉党の本拠地の近くでもあり、金鑽神社・九郷用水・児玉党は何かしらの繋がりはあったと思われる。小山川沿いの地区でも金鑽分霊社は河内地区や太駄地区にあり、九郷用水との繋がりは特に見られないが、児玉党との関係は河内地区が児玉党庄氏と関係があるので、河内地区と太駄地区の間に位置する元田地区も同様な関係があったのではないかないだろうか。
 尚、元田地区の区画は周辺の旧大字と極めて入り組んだ境界がなされており、嘗て河内・元田・高柳付近は同一の郷であったとものと思われる。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳267-1  
             ・ご祭神 木花開耶姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 節分祭 23日 春祭り 415日 秋祭り 1015日

 元田富士浅間神社は河内金鑽神社の南西側にあり、河内金鑽神社沿いの道を500m程南西方向に進み、最初のT字路を右折し、上り坂を進むと、すぐ道路沿いで右側に社は鎮座している。
 元田地区は、南西側から山間部を蛇行しながら流れて来た小山川が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。社の境内は高柳の地内に属しているが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社でもあるので、敢て社の頭の地域名を「元田」とした。
        
                                 元田富士浅間神社正面
        
                                        拝 殿
 
  拝殿に掲げてある「富士山」の扁額       拝殿の左隅には奥宮参拝の絵図がある。
 扁額の下にある彫刻が何気に素晴らしい。      どなたからか奉納した物だろうか。
                
                                       案内板

富士浅間神社 御由緒 本庄市児玉町高柳二六七-一
□御縁起(歴史)
 元田は、山間を蛇行しながら流れて来た身馴川(小山川)が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。その地内にある埼玉県指定文化財、正嘉二年(一二五八)銘の板石塔婆は、三基の塔婆を一枚の石に刻み込んだ特異な様式である。
 当地周辺で入り組んでいる高柳・河内の両大字によって、元田は南北に分断される形になっている。当社の境内は高柳の地内に属するが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社である。境内の背後には浅間山と呼ばれる標高280メートルの山がそびえており、この山上の奥宮には、当社から約50分ほどの道のりで参詣することができる。創建の経緯については明らかではないが、『児玉郡誌』は「往古より字富士山の絶頂に勧請し、元田・高柳の両村の住民深く之を尊敬せり。例祭日には遠近より参拝者多し、元田よりの参道には中途に随神門あり、徳川時代には真言宗宝冠寺別当職たり、社殿は享保年中(一七一六~三六)の建築なりと云ふ」と載せている。
 神仏分離後は宝冠寺から離れ、明治五年に村社となった。なお、『児玉郡誌』に載る随神門は、集会所の前にあった仁王門のことと思われるが、老朽化により昭和二十年代初めに取り壊された。また、集会所の傍らに法印墓石があり、この辺りに宝冠寺があった可能性が高い。
御祭神 木花咲耶姫命
                                      案内板より引用
   
          
    社殿奥に鎮座する境内社石祠群     境内北側には地図に載っていない渓谷がある。
                         往古の昔からあったものだろうか。
        
            周囲と調和しながらモミジが色ずく様と、日本の神社との組み合わせ
    だれもが絶妙な和の美意識を感じてしまうのは、日本人であるからなのであろう。
       この日本人ならではの感性はいつまでも持ち合わせていたいものだ。


 ところで富士浅間神社へ向かう坂を上り始めた途中に、鎌倉時代の歴史資料「元田の板石塔婆」(県指定文化財)がある。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町元田263
             ・造立年 鎌倉時代中期(正嘉二年 1258年)
             ・指定  埼玉県指定文化財

 板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれている。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。特に埼玉県内は現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。
 武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑色片岩という青みがかった石材で造られたものをさす。当時から、緑色片岩を「青石」と通称していた。中世においては青屋は、ある種の畏敬の対象とされており、このような観点から青色には人智を超えたものがあったとも考えられている。
        
        元田自治会館敷地内に設置されている板碑が納められている施設
               
                     案内板

埼玉県指定文化財  板石塔婆
 一石に三基の石板塔婆を表現したもので、一基に一字づつ阿弥陀三尊種子を刻し、逆蓮台異風なものに乗せてある特殊技工によるめずらしい塔婆である。正嘉二年(一二五八年)
戌午二月二十日と、年月日を表してある。
        
                                        
板石塔婆
 
   館内にも合併前の児玉町で表記された     板石塔婆の向かいに展示されて
        案内板がある。              いる板石。 

 埼玉県指定考古資料  板石塔婆
 児玉町大字元田二六三 昭和四十年三月十六日指定
板石塔婆は鎌倉時代(一三世紀初頭)から戦国時代(十六世紀末)にかけて全国各地で盛んに造立された石製供養塔の一種である。
 その材石は地域により異なるが、埼玉県では秩父地方で産出する緑泥片岩を用いているため別名青色塔婆とも呼ばれている。板石塔婆の形態は通常一石一基を原則とするが、この板石塔婆は一石に三基分を彫り込んだ特異なもので、蓮座の形も反花となっている。
 大きさは、
総高二〇四センチメートル、上幅二六センチメートル、厚さ九.四センチメートルであり、極めて大型である。
 刻まれた内容は、上部中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩を示す梵字を刻み、全体で阿弥陀三重を構成している。又下部に正嘉二年(一二五八年)戌午二月二十日の紀年銘があり、鎌倉時代中期造立であることがわかる。
 なお昭和五十四年に、東京国立文化研究所において、折損部の復元、石質の強化等の修復処置が施された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
         
元田自治会館と板碑 収納施設の間に鎮座する社。詳細不明。


参考資料 「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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河内金鑽神社

 本庄市児玉町河内地区は、上武山地の二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央を小山川(旧身馴川)が流れ、小山川に沿って埼玉県道44号秩父児玉線が通っている。因みに河内と書いて「こうち」と読む。この地区の北側は山を隔てて元田・高柳・稲沢地区と接し、東側は小平地区、西側は稲沢地区、南側は太駄(おおだ)地区と、峠を隔てて長瀞町野上地区と境を接している。
 河内の地名に関しての由来は資料もなく不明だが、まず河川の地名が連想されるため、身馴川との関係が第一に考えられるが、別説では、嘗てこの地に移住した武蔵七党・河内氏の祖である河内権守家行やその子孫である家弘、忠家の官職名にちなむ地名とも考察される。
 歴史的には河内の地名が資料上に登場するのは、江戸時代に入ってからであるが、児玉党の系図の『武蔵七党系図』では、庄氏の一族である庄三郎忠家の注記に「河内」とあり、忠家の孫の友定の注記には「金沢」とあることから、「河内」は児玉町河内であり、金沢は隣地区・太駄に接している皆野町金沢と考えられている。
*「武蔵七党系図」
「有貫主遠峯―家行(児玉、武蔵権守、河内権守)―家弘(児玉庄太夫、河内守)―(庄三郎、河内)―家綱(小三郎)―友定(小太郎、号金沢)
              
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町河内25-1
             ・ご祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1687332,139.0999529,16z?hl=ja&entry=ttu  
 河内金鑽神社は、埼玉県道44号秩父児玉線を本庄市旧児玉町市街地から南側の皆野町方向に進み、小山川を越える新元田橋の手前を右折し、小山川に沿って通る道路を西行する。この道路は道幅が狭いので、道路周辺の安全を確認しながら1㎞程進むと、道路沿い右側に河内金鑽神社の鳥居が見えてくる。山の斜面に沿って石段が続いており、その先に拝殿・本殿と配置されている。拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
 
武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社でもある。
               
                            道路沿いに鎮座する河内金鑽神社
     小山川(旧身馴川)が南西から北東方向に流れ、その左岸段丘上に鎮座する。
         山間の鬱蒼とした森の間にポツンと鎮座する社という印象。
     
      鳥居の両脇には秋葉神社(写真左)、社日神・石祠(詳細不明)が鎮座する。
              
   山の斜面は思っている以上に勾配は急であり、角度のある石段を仰ぎ見ると拝殿が見える。
               
                                       拝 殿
 参道を登り終え、すぐに拝殿が設置されているような配置。一旦石段を少し下ってから拝殿方向にシャッターを切る。先人の方々もさぞや境内を整地するのが大変だったのだろうと想像される。
              
                                       案内板
 金鑽神社 本庄市児玉町河内二五‐一
 □御縁起(歴史)
 河内は、小山川(身馴川)の上流に位置し、江戸時代に村の名主を代々努めてきた木村家の先祖の次郎五郎が永禄年中(一五五八~七〇)に開墾した所であるという。当社の境内は、河内の北端にあり、背後(北側)にそびえる三角形の山は、神川町に鎮座する武蔵国二宮金鑚神社の神体山に尾根が続いている。こうした立地からは、神川町の金鑚神社との関係の深さがうかがわれるが、氏子の間には、二宮金鑚神社よりも古いといわれている。
 社伝によると、当社は永禄年間(一五五八~七〇)の兵火により、社頭並びに吉什旧器のすべてを失い、元亀二年(一五七一)に木村次郎五郎が再建したとある。これは『明細帳』によれば、永禄年間に木村次郎五郎が開墾を行った際、諸種の困厄が生じたため、延喜式内社である金鑚神社に祈願したところ、速やかに奏功なったことにより、元亀二年に報賽として金鑚神社の分霊を勧請し、村の鎮守として祀ったのが当社の始まりであるという。『風土記稿』も、当社について「金鑚明神社、村鎮守なり、元亀中の鎮守と云、村持 末社 稲荷愛宕」と記している。
 その後、慶応元年(一八六五)には、神祇管領卜部(うらべ)良義の許可を経て、児玉大元神社と改称した。『郡村誌』に「児玉社」と記されているのはそのためであるが、明治三十二年に社号を旧に復した。
 □御祭神
 ・天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額       奉納されたのであろう「日露戦争」の油絵
              
                        社殿のすぐ右側にある神楽殿
               金鑽神楽が奉納されるのであろうか。
               
                         特徴的な河内金鑽神社の幣殿・本殿
  拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。

 ところで河内地区には変わった字名(小字)が存在する。「本庄市の地名② 児玉地域編」を原本のまま引用する。
・神子沢
 身馴川(現小山川)に注ぐ沢の名前の一つに由来しますが、昔に帰化人の神戸氏が土着したとする説もあります。鉱山関係、つまり羊大夫伝説に関係するかもしれません。また山の神を祀っているのでこれに由来するかもしれません。
・経塚山
 羊大夫伝説とも関連し、鉱山の採掘成功を祈願して経を奉読したことに因むといわれています。
・つじ山
 群馬県西部から秩父郡内に伝えられている羊大夫伝説からきた呼び名と思われます。「つじ山」は「羊山」から来たもので、付近には金場や金仏などの地名があり、鉱山の採掘場に因むものでしょうか(『児玉の民話と伝説』上巻・『児玉風土記』ほか)

 伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある。
              
                           拝殿側から見た鳥居の様子。
          山の斜面の勾配が急である事がこの写真でも分かる。

 河内地域が上記のように「羊伝説」関連の地域であるかどうかは現状何とも言えない。資料等があまりに少ないからだ。但しこの河内地域は南方に位置する「太駄」地域と共に、嘗ては交通の要衝地であったことは確かである。
 現在では、国道140号線や秩父鉄道が秩父と関東圏を結ぶ主要交通となっているが、嘗てはこの道路は荒川最大の難所であり、歴史的に近代に入り、開削されたものであり、前橋長瀞線や秩父児玉線が古代における交通の主体を成していたという。
 古代における児玉郡と秩父郡、さらに上野国との関係は密接で、政治・経済・社会の多方面での繋がりが考えられる。


参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」武蔵七党系図」Wikipedia」
「境内案内板」等

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小平石神神社

 神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象であった。
 いわゆる神道に属する多くの日本国内の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えら、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。
 中には本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

 
本庄市旧児玉町小平地区に鎮座する石神神社は、まさに山林の中の「森」に鎮座する社。残暑が残る10月中旬に訪れたが、境内に入った瞬間ひんやりとした涼しさを体一杯に感じた。
 昨今人口増加傾向にようやく歯止めがかかった埼玉県ではあるが、多くの自治体が今までの行政指導による宅地造成政策や、海外投資家による土地買い占め等により、多くの貴重な自然を損失する中、この小平地域周辺にはまだ自然と共生する文化が残っている。神川町に鎮座する金鑚神社同様に、規模は小さいながらも、この社にも社一帯から溢れ出す、どこか神秘的で、威厳のある空間は、まさに別次元だ。
先人たちが長い年月をかけて作り上げ、それを子孫が継承し、現在に至るまで熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちになった。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町小平1
             ・ご祭神 石神大明神(せきじんだいみょうじん)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 33日 例大祭 1017日 新嘗祭 1123

 小平石神神社は本庄市児玉町小平地区東側の山麓中にあり、まさに静かな山林の中の鎮守の森と言う印象。南児玉カントリ-クラブの西側小平地区の奥、小山川支流小平川の上流域付近にひっそりと鎮座する。
 埼玉県本庄市児玉町から県道287号線を南下し、小平川にかかる秋平橋を渡って暫く進むと、「左 総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の案内板があるY字路を左折する。1㎞程進み、T字路にぶつかるのでそこを右折すると、山間の細い道路となるが、そこを道造に直進すると、右側に小平石神神社の鎮座する場所に到着する。
 正面鳥居の先には、駐車できる空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
              
                               石神神社 社号標柱
                     当社の住所確認をすると、「本庄市児玉町小平1」。
                       小平地区の中心にこの社は位置するのだろう。
        
                 小平石神神社 鳥居正面
         この周辺一帯に広がる空気感。何かが違うものを感じる。
 
            参道風景             参道を進むと左側にある神楽殿

 この小平石神神社では、秋の祭典の行事として小平獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。
 日光東照宮完成後、元禄 12 年(1699)に皆野町に伝わった獅子頭は彫刻の名人としてその名を知られる左甚五郎が彫ったという言い伝えのあるものを成身院覚桑上人が譲り受け小平に持ち帰ったとされている。
 獅子舞については、成身院の寺男が舞や笛の仕方などを考え、村の衆に習わせたことが始まりだと言われている。また皆野町椋神社の獅子舞から伝わったものだとも言い、疫病の厄払いと雨乞い祈願で舞われる。現在は春と秋の祭典の行事として春は日本神社に、秋は石神神社に奉納されるそうだ。

 また石神神社に奉納される神楽は「金鑽神楽」と言われ、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された13組の神楽組による神楽の総称であり、本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 5組の神楽」は、本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西・モクサイ)、杉田組(四方田・シホウデン)、根岸組(小平・コダイラ)、太駄組(太駄・オオダ)がある。
 その中で根岸組は、明治初年に石神神社の社掌根岸虎平が大里郡用土村より神楽面と装束等を譲り受けて始まり、後に金鑚神楽に属したという。
        
                                         拝 殿
 
     拝殿各所の彫刻は見ごたえあり            拝殿上部に掲げてある扁額
        
                                        本 殿 
        
               拝殿左手前に掲示されている案内板

 石神(いしじん)神社 御由緒  本庄市児玉町小平一
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、小平の開発は天正のころ(一五七三-九二)に越後国から来住した根岸家三軒により行われ、この三軒は兄弟で、長男の家が後に名主職を務めたという。
 当社は小平の鎮守とされ、野鳥の森として知られる静かな山林の一角に祀られている。その創建には草分けの根岸家のかかわりが考えられるが、明らかでない。『明細帳』には「天正十九年(一五九一)社地ヲ開キ慶長元年(一五九六)九月二十九日創立」とあり、『児玉郡誌』には「天正十九年里人当地を開拓し、同時に社殿を建設して二柱大神を勧請せりと云ふ、御内陣に大なる石器二基を安置し(中略)其後地頭安藤家の崇敬厚く、神田若千を寄附せり。神階は明和五年(一七六八)に正一位を授けられ、神霊を御内陣に奉安す」とある。現在本殿には、石捧三体(全長八二センチメートル・九二センチメートル・一一〇センチメートル)と明和五年に神祇管領吉田兼雄より受けた「石神大明神幣帛」が奉安される。
『風土記稿』小平村の項には「石神社二宇 共に村の鎮守にて村民持」と二社の石神社が記され、この内の一社が当社であり、明治五年に村社となった。もう一社の石神社は無格社とされ、明治七年に神武神社(現日本神社)に合祀された。江期の祭祀状況については明らかでないが、明治期の祀職は吉野萬次が務め、その後を旧名主家で長を務めた根岸周平が継ぎ、更に根岸虎平-根岸俊雄と襲っている。
 □御祭神と御神徳 石神大明神…国土守護・五穀豊穣(以下略)
                                      案内板より引用
        
                社殿の左側に並ぶ境内合祀社
    左より雷電神社・山神神社・愛宕神社・東照宮・琴平宮・天手長男命・稲荷神社・八幡神社
       
                     社殿と合祀社の間に聳え立つ杉のご神木
       
             社殿右側にもケヤキのご神木があり、文化財指定の標柱が立っている。

本庄市指定文化財 石神神社のケヤキとスギ
石神神社は慶長元年(1596年)創立と伝える古社であり。社殿の右側のケヤキは目通しで5mあり、御神木とされている。また、社殿左側のスギは目通し4,6mを測り、ともに近隣では希な巨木である。
                                      説明文より引用


 
           ケヤキのご神木の右側に鎮座する境内社・天満宮
        
                    境内を撮影

 境内周辺に広がるこの威厳ある空気感は、もしかしたら社殿の両サイドに聳え立つご神木が与えたものかもしれない。但しこの感覚は決して筆者にとって、むしろ心地よい。


 私たちの祖先がずっと大切に守ってきた鎮守の森は、日本人の自然観と文化、豊かな日本の『こころ』を育んできた。また、鎮守の森で行われてきたお祭りは、地域の人々の心を纏め、コミュニティーの中核を担ってきたといえる。

 日本列島に遠く先史古代から祭られてきた神々の佇まいは、ほぼ等しく緑ゆたかな森に覆われていた。いわゆる神社は「鎮守の森」と言われているが、日本各地には人里近くに神社や御神木と呼ばれる大きな木を囲むようにして、こんもりとした大小の森が多く存在していた。また森そのものが鬱蒼とした畏敬の念を抱かせるもので、その存在自体信仰の対象でもあったろう。


参考資料 「
本庄市HP」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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