古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高柳三嶋愛宕神社

 本庄市児玉町高柳地区には「骨波田」という一風変わった地名が存在する。高柳地区の丁度中央部にある「長泉寺」周辺の小字であるようだが、骨波田の地名由来には幾つかの伝説が残されている。それは『身馴川の大蛇伝説』で、これは高柳地区だけでなく、秋山・風洞地区にも似たような話が伝えられている。
 昔身馴川(現小山川)に雌雄2匹(もしくは1匹)の大蛇がいて、あたり一帯の沼地を我が物顔に暴れまわっていたのを、征夷大将軍・坂上田村麻呂が成敗した話である。退治した大蛇の骨をこの地に埋めたので、骨畑(骨波田)の名前がついたという。また別説では、大将軍が大蛇を退治した後、辺り一帯に天災や疫病が流行して村人が大変困っていると、どこからか高僧がやって来てお祈りをしたところ、付近の沼地一帯に大蛇の骨が浮かび上がり、沼は大きな波が立った。これを丁寧に供養すると、以後は祟りや天災は無くなったといい、骨波田の由来はこの大蛇の骨と沼地が波立ったことによると云う。どちらの伝説にしても洪水で荒れ狂う身馴川を大蛇に例えた伝説と考えられる。
 また近隣には「江ノ浜・虚空蔵尊」という地名もあり、これらも伝説によると云われている。身馴川の傍に入り江があり、江ノ浜と呼ばれているが、ここには昔一本の大きな柳の木があり、大将軍の坂上田村麻呂はこの柳の木に向かって大蛇退治の祈願を行い、願いが叶うならこの柳に桜の花を咲かせてほしいというと、突然暗夜となり振動して、すぐ明るくなると柳は満開の桜が咲いたという。大将軍は喜び、この地に虚空蔵尊を建立して、この地に柳の大木があったことから高柳の虚空蔵尊というようになったという。

 因みに「長泉寺」には埼玉県指定天然記念物に指定されている、樹齢約650年の『骨波田の藤』が有名で、東国花の寺百ケ寺、児玉三十三観音霊場第三十一番にもなっている。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳138
            
・ご祭神 大山祇命・火産霊神
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 新年祭 17日 新穀感謝祭 1123日 大祓 721日、1229

 高柳地区の大半は山地と丘陵地よりなっていて、南側を小山川が流れており、地区中央を南西方向に県道が通っている。
 高柳三嶋愛宕神社は、埼玉県道
44号線秩父児玉線を児玉町市街地から元田地区方向へ進む。その後小山川に沿った進行方向となり、右側にはコンビニエンス、左側には「こだま千本桜」と言われる桜並木が並ぶ信号の内交差点から150m程過ぎたT字路を右折し、道なりに進んでいくと正面方向に高台が見え、高柳三嶋愛宕神社の鳥居が見えてくる。
 社は高柳公会堂に隣接していて、高台の南側には「観音堂」という寺院があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                      
高柳三嶋愛宕神社正面鳥居
      写真左側には「観音堂」の墓地が並び、その南側に駐車スペースあり。
         鳥居の右側にある社号標柱       鳥居を過ぎると拝殿に通じる石段がある。
        
                                        拝 殿
        
                         拝殿の手前左側に設置されている案内板

 三嶋愛宕神社 御由緒  本庄市児玉町高柳一三八
 □御縁起(歴史)
 前期に上野笠懸野(現群馬県新田郡)を開き、寛文元年(一六六一)からは上野・下野・越後国の幕府代官として活躍した岡登景能の生地として知られる高柳は、身馴川(小山川)に沿った細長い形の村である。その地内にある曹洞宗の長泉寺は、文明三年(一四七一)に関東管領上杉顕定が開基となって創立した寺院であるように、室町時代には既に相応の村落を成していたことがうかがえる。
 三嶋愛宕神社の名が示すように、当社は三嶋神社と愛宕神社の合殿である。三嶋神社は元々現在の社地に鎮座していた神社で、高柳の上の鎮守として祀られ、『風土記稿』高柳村の項によれば村民の持ちとなっている。一方、愛宕神社は現在の社地からやや東に離れた所に鎮座していた神社で、下の鎮守として崇敬され、『風土記稿』によれば観音寺の持ちとなっている。したがって、この両社は信仰の上では格差はなく、旧社格はいずれも村社であった。
 しかし、両社の位置が比較的近かったためであろうか、政府の合祀政策を受けて明治四十年に愛宕神社は三嶋神社に合祀されることになり、これに伴って三嶋神社の社号を三嶋愛宕神社に改めた。更に、この際、愛宕神社の境内社であった稲荷・天手長男の両社及び字川原の社日神社をはじめとする地内の無格社六社を当社の境内に移して末社とした。このような経過を経て、当社は現在の形になったのである。
 □御祭神 大山祇命・火産霊神…防火防災 五穀豊穣
                                      案内板より引用


 案内板に登場する岡登景能(おかのぼり かげよし、1629年(寛永6年)? - 168815日(貞享4123日))は、江戸時代前期の武士、通称は次郎兵衛。
 武蔵国児玉郡高柳村(現在の埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となる。養父景親の跡をついで幕府代官となり、1668年(寛文8年)足尾の銅山奉行をかねる。越後国魚沼郡、上野国新田郡笠懸野などの用水路整備や開墾に尽力した。用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったなどの理由により江戸に召喚され、その道中の168815日(貞享4123日)、駕籠の中で切腹し死去した。通称は次郎兵衛。上野笠懸野の用水路は今でも岡上用水と呼ばれている。景能の苗字は「岡上」であるが、通称「岡登」の苗字で言及されることもある。
        
               社殿の右側、丘陵地斜面手前に並んで鎮座する社日神等の石祠群。

 景能は貞享元年より上州新田郡へ本拠地を移し、自刃する同四年迄居住し、妻子は生家の高柳村へ帰郷したようだ。武蔵国児玉郡誌に「岡登次郎兵衛景能の妻は武州高柳村斎藤六兵衛の女にして、景能の男八郎兵衛を生む。景能の子八郎兵衛父自刃の後に母と共に生地高柳に帰り来りて住居したるに、明治の初、八代の孫幸作の時に至り家屋を他に売却せりと云ふ、(以下略)」との記載がある。
 児玉記考に「旧家岡登幸作、先代を八郎兵衛と通称し、名主役を勤続し苗字帯刀を許されたる旧家なり」と見えるように、その子孫はこの地に根を下ろして代々酒造業を営んでいたという。
       
                          石祠群の並びに聳え立つご神木

 風土記稿高柳村条に「那賀郡駒絹村の民友七所蔵の文書に、吉橋和泉、弟高柳因幡守と見え、且つ吉橋氏は永禄元亀の頃、信玄に属し、近郷の戦に屡々功ありしかば、榛沢郡の内大塚、賀美郡の内長浜にて、十貫文づゝの地を宛てられし事もあれば、舎弟高柳因幡守も当村に住し、在名をもて氏とせしにや」と記載されている。

また駒衣村吉橋文書に「天正五丑年十月九日、村岡河内守分、両人に出置候、早々罷移、彼本領可致知行候、右之足軽其外同心衆の家まで、村岡より可請取之者也、吉橋和泉殿、和泉弟高柳因幡守殿、(北条氏邦印判状)」と見え、吉橋氏は、児玉郡高柳村を所領として高柳氏を称し、木部村(那賀郡木部村)に屋敷を構えたらしい。
        
                 社殿から鳥居方向を撮影


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
                 

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元田富士浅間神社

 本庄市児玉町元田地区は、上武山地の東端部に尾根先端部地域と、小山川(旧身馴川)北岸地域の2か所に別れ、その真ん中付近に鎮座する河内金鑽神社周辺で分断されているという特異な行政区域となっている。元田の領域は他の地域に比べて狭く、二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央には小山川が流れ、その小山川に沿って県道44号秩父児玉線が通っていて、元田地区も県道沿いに形成されている。元田の範囲は南北に細長く、周囲を高柳・塩谷・稲沢・小平・河内地区に囲まれている。
 児玉地区内には神川町二宮に鎮座する金鑽神社の分霊社が多数あり、河内金鑽神社もその一つであるが、この分霊社の多くは九郷用水を引く村々にあり、金鑽神社との深い関連性を伺わせる。またこの地域は武蔵七党の最大勢力を誇った児玉党の本拠地の近くでもあり、金鑽神社・九郷用水・児玉党は何かしらの繋がりはあったと思われる。小山川沿いの地区でも金鑽分霊社は河内地区や太駄地区にあり、九郷用水との繋がりは特に見られないが、児玉党との関係は河内地区が児玉党庄氏と関係があるので、河内地区と太駄地区の間に位置する元田地区も同様な関係があったのではないかないだろうか。
 尚、元田地区の区画は周辺の旧大字と極めて入り組んだ境界がなされており、嘗て河内・元田・高柳付近は同一の郷であったとものと思われる。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳267-1  
             ・ご祭神 木花開耶姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 節分祭 23日 春祭り 415日 秋祭り 1015日

 元田富士浅間神社は河内金鑽神社の南西側にあり、河内金鑽神社沿いの道を500m程南西方向に進み、最初のT字路を右折し、上り坂を進むと、すぐ道路沿いで右側に社は鎮座している。
 元田地区は、南西側から山間部を蛇行しながら流れて来た小山川が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。社の境内は高柳の地内に属しているが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社でもあるので、敢て社の頭の地域名を「元田」とした。
        
                                 元田富士浅間神社正面
        
                                        拝 殿
 
  拝殿に掲げてある「富士山」の扁額       拝殿の左隅には奥宮参拝の絵図がある。
 扁額の下にある彫刻が何気に素晴らしい。      どなたからか奉納した物だろうか。
                
                                       案内板

富士浅間神社 御由緒 本庄市児玉町高柳二六七-一
□御縁起(歴史)
 元田は、山間を蛇行しながら流れて来た身馴川(小山川)が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。その地内にある埼玉県指定文化財、正嘉二年(一二五八)銘の板石塔婆は、三基の塔婆を一枚の石に刻み込んだ特異な様式である。
 当地周辺で入り組んでいる高柳・河内の両大字によって、元田は南北に分断される形になっている。当社の境内は高柳の地内に属するが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社である。境内の背後には浅間山と呼ばれる標高280メートルの山がそびえており、この山上の奥宮には、当社から約50分ほどの道のりで参詣することができる。創建の経緯については明らかではないが、『児玉郡誌』は「往古より字富士山の絶頂に勧請し、元田・高柳の両村の住民深く之を尊敬せり。例祭日には遠近より参拝者多し、元田よりの参道には中途に随神門あり、徳川時代には真言宗宝冠寺別当職たり、社殿は享保年中(一七一六~三六)の建築なりと云ふ」と載せている。
 神仏分離後は宝冠寺から離れ、明治五年に村社となった。なお、『児玉郡誌』に載る随神門は、集会所の前にあった仁王門のことと思われるが、老朽化により昭和二十年代初めに取り壊された。また、集会所の傍らに法印墓石があり、この辺りに宝冠寺があった可能性が高い。
御祭神 木花咲耶姫命
                                      案内板より引用
   
          
    社殿奥に鎮座する境内社石祠群     境内北側には地図に載っていない渓谷がある。
                         往古の昔からあったものだろうか。
        
            周囲と調和しながらモミジが色ずく様と、日本の神社との組み合わせ
    だれもが絶妙な和の美意識を感じてしまうのは、日本人であるからなのであろう。
       この日本人ならではの感性はいつまでも持ち合わせていたいものだ。


 ところで富士浅間神社へ向かう坂を上り始めた途中に、鎌倉時代の歴史資料「元田の板石塔婆」(県指定文化財)がある。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町元田263
             ・造立年 鎌倉時代中期(正嘉二年 1258年)
             ・指定  埼玉県指定文化財

 板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれている。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。特に埼玉県内は現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。
 武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑色片岩という青みがかった石材で造られたものをさす。当時から、緑色片岩を「青石」と通称していた。中世においては青屋は、ある種の畏敬の対象とされており、このような観点から青色には人智を超えたものがあったとも考えられている。
        
        元田自治会館敷地内に設置されている板碑が納められている施設
               
                     案内板

埼玉県指定文化財  板石塔婆
 一石に三基の石板塔婆を表現したもので、一基に一字づつ阿弥陀三尊種子を刻し、逆蓮台異風なものに乗せてある特殊技工によるめずらしい塔婆である。正嘉二年(一二五八年)
戌午二月二十日と、年月日を表してある。
        
                                        
板石塔婆
 
   館内にも合併前の児玉町で表記された     板石塔婆の向かいに展示されて
        案内板がある。              いる板石。 

 埼玉県指定考古資料  板石塔婆
 児玉町大字元田二六三 昭和四十年三月十六日指定
板石塔婆は鎌倉時代(一三世紀初頭)から戦国時代(十六世紀末)にかけて全国各地で盛んに造立された石製供養塔の一種である。
 その材石は地域により異なるが、埼玉県では秩父地方で産出する緑泥片岩を用いているため別名青色塔婆とも呼ばれている。板石塔婆の形態は通常一石一基を原則とするが、この板石塔婆は一石に三基分を彫り込んだ特異なもので、蓮座の形も反花となっている。
 大きさは、
総高二〇四センチメートル、上幅二六センチメートル、厚さ九.四センチメートルであり、極めて大型である。
 刻まれた内容は、上部中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩を示す梵字を刻み、全体で阿弥陀三重を構成している。又下部に正嘉二年(一二五八年)戌午二月二十日の紀年銘があり、鎌倉時代中期造立であることがわかる。
 なお昭和五十四年に、東京国立文化研究所において、折損部の復元、石質の強化等の修復処置が施された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
         
元田自治会館と板碑 収納施設の間に鎮座する社。詳細不明。


参考資料 「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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河内金鑽神社

 本庄市児玉町河内地区は、上武山地の二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央を小山川(旧身馴川)が流れ、小山川に沿って埼玉県道44号秩父児玉線が通っている。因みに河内と書いて「こうち」と読む。この地区の北側は山を隔てて元田・高柳・稲沢地区と接し、東側は小平地区、西側は稲沢地区、南側は太駄(おおだ)地区と、峠を隔てて長瀞町野上地区と境を接している。
 河内の地名に関しての由来は資料もなく不明だが、まず河川の地名が連想されるため、身馴川との関係が第一に考えられるが、別説では、嘗てこの地に移住した武蔵七党・河内氏の祖である河内権守家行やその子孫である家弘、忠家の官職名にちなむ地名とも考察される。
 歴史的には河内の地名が資料上に登場するのは、江戸時代に入ってからであるが、児玉党の系図の『武蔵七党系図』では、庄氏の一族である庄三郎忠家の注記に「河内」とあり、忠家の孫の友定の注記には「金沢」とあることから、「河内」は児玉町河内であり、金沢は隣地区・太駄に接している皆野町金沢と考えられている。
*「武蔵七党系図」
「有貫主遠峯―家行(児玉、武蔵権守、河内権守)―家弘(児玉庄太夫、河内守)―(庄三郎、河内)―家綱(小三郎)―友定(小太郎、号金沢)
               
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町河内25-1
             ・ご祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1687332,139.0999529,16z?hl=ja&entry=ttu  
 河内金鑽神社は、埼玉県道44号秩父児玉線を本庄市旧児玉町市街地から南側の皆野町方向に進み、小山川を越える新元田橋の手前を右折し、小山川に沿って通る道路を西行する。この道路は道幅が狭いので、道路周辺の安全を確認しながら1㎞程進むと、道路沿い右側に河内金鑽神社の鳥居が見えてくる。山の斜面に沿って石段が続いており、その先に拝殿・本殿と配置されている。拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
 
武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社でもある。
                
                            道路沿いに鎮座する河内金鑽神社
     小山川(旧身馴川)が南西から北東方向に流れ、その左岸段丘上に鎮座する。
         山間の鬱蒼とした森の間にポツンと鎮座する社という印象。
       
  鳥居の両脇には秋葉神社(写真左)、社日神・石祠(詳細不明・同右)が祀られている。
               
   山の斜面は思っている以上に勾配は急であり、角度のある石段を仰ぎ見ると拝殿が見える。
                
                                       拝 殿
 参道を登り終え、すぐに拝殿が設置されているような配置。一旦石段を少し下ってから拝殿方向にシャッターを切る。先人の方々もさぞや境内を整地するのが大変だったのだろうと想像される。
               
                             社殿脇に設置されている案内板
 金鑽神社 本庄市児玉町河内二五‐一
 □御縁起(歴史)
 河内は、小山川(身馴川)の上流に位置し、江戸時代に村の名主を代々努めてきた木村家の先祖の次郎五郎が永禄年中(一五五八~七〇)に開墾した所であるという。当社の境内は、河内の北端にあり、背後(北側)にそびえる三角形の山は、神川町に鎮座する武蔵国二宮金鑚神社の神体山に尾根が続いている。こうした立地からは、神川町の金鑚神社との関係の深さがうかがわれるが、氏子の間には、二宮金鑚神社よりも古いといわれている。
 社伝によると、当社は永禄年間(一五五八~七〇)の兵火により、社頭並びに吉什旧器のすべてを失い、元亀二年(一五七一)に木村次郎五郎が再建したとある。これは『明細帳』によれば、永禄年間に木村次郎五郎が開墾を行った際、諸種の困厄が生じたため、延喜式内社である金鑚神社に祈願したところ、速やかに奏功なったことにより、元亀二年に報賽として金鑚神社の分霊を勧請し、村の鎮守として祀ったのが当社の始まりであるという。『風土記稿』も、当社について「金鑚明神社、村鎮守なり、元亀中の鎮守と云、村持 末社 稲荷愛宕」と記している。
 その後、慶応元年(一八六五)には、神祇管領卜部(うらべ)良義の許可を経て、児玉大元神社と改称した。『郡村誌』に「児玉社」と記されているのはそのためであるが、明治三十二年に社号を旧に復した。
 □御祭神
 ・天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用
 

      拝殿上部に掲げてある扁額       奉納されたのであろう「日露戦争」の油絵
           
                              社殿のすぐ右側にある神楽殿
              金鑽神楽が奉納されるのであろうか。
               
                         特徴的な河内金鑽神社の幣殿・本殿
   拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。

 ところで河内地区には変わった字名(小字)が存在する。「本庄市の地名② 児玉地域編」を原本のまま引用する。
・神子沢
 身馴川(現小山川)に注ぐ沢の名前の一つに由来しますが、昔に帰化人の神戸氏が土着したとする説もあります。鉱山関係、つまり羊大夫伝説に関係するかもしれません。また山の神を祀っているのでこれに由来するかもしれません。
・経塚山
 羊大夫伝説とも関連し、鉱山の採掘成功を祈願して経を奉読したことに因むといわれています。
・つじ山
 群馬県西部から秩父郡内に伝えられている羊大夫伝説からきた呼び名と思われます。「つじ山」は「羊山」から来たもので、付近には金場や金仏などの地名があり、鉱山の採掘場に因むものでしょうか(『児玉の民話と伝説』上巻・『児玉風土記』ほか)

 伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある。
              
                           拝殿側から見た鳥居の様子。
          山の斜面の勾配が急である事がこの写真でも分かる。

 河内地域が上記のように「羊伝説」関連の地域であるかどうかは現状何とも言えない。資料等があまりに少ないからだ。但しこの河内地域は南方に位置する「太駄」地域と共に、嘗ては交通の要衝地であったことは確かである。
 現在では、国道140号線や秩父鉄道が秩父と関東圏を結ぶ主要交通となっているが、嘗てはこの道路は荒川最大の難所であり、歴史的に近代に入り、開削されたものであり、前橋長瀞線や秩父児玉線が古代における交通の主体を成していたという。
 古代における児玉郡と秩父郡、さらに上野国との関係は密接で、政治・経済・社会の多方面での繋がりが考えられる。



参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」武蔵七党系図」Wikipedia」
「境内案内板」等

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小平石神神社

 神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象であった。
 いわゆる神道に属する多くの日本国内の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えら、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。
 中には本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

 
本庄市旧児玉町小平地区に鎮座する石神神社は、まさに山林の中の「森」に鎮座する社。残暑が残る10月中旬に訪れたが、境内に入った瞬間ひんやりとした涼しさを体一杯に感じた。
 昨今人口増加傾向にようやく歯止めがかかった埼玉県ではあるが、多くの自治体が今までの行政指導による宅地造成政策や、海外投資家による土地買い占め等により、多くの貴重な自然を損失する中、この小平地域周辺にはまだ自然と共生する文化が残っている。神川町に鎮座する金鑚神社同様に、規模は小さいながらも、この社にも社一帯から溢れ出す、どこか神秘的で、威厳のある空間は、まさに別次元だ。
先人たちが長い年月をかけて作り上げ、それを子孫が継承し、現在に至るまで熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちになった。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町小平1
             ・ご祭神 石神大明神(せきじんだいみょうじん)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 33日 例大祭 1017日 新嘗祭 1123

 小平石神神社は本庄市児玉町小平地区東側の山麓中にあり、まさに静かな山林の中の鎮守の森と言う印象。南児玉カントリ-クラブの西側小平地区の奥、小山川支流小平川の上流域付近にひっそりと鎮座する。
 埼玉県本庄市児玉町から県道287号線を南下し、小平川にかかる秋平橋を渡って暫く進むと、「左 総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の案内板があるY字路を左折する。1㎞程進み、T字路にぶつかるのでそこを右折すると、山間の細い道路となるが、そこを道造に直進すると、右側に小平石神神社の鎮座する場所に到着する。
 正面鳥居の先には、駐車できる空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
              
                               石神神社 社号標柱
                     当社の住所確認をすると、「本庄市児玉町小平1」。
                       小平地区の中心にこの社は位置するのだろう。
        
                 小平石神神社 鳥居正面
         この周辺一帯に広がる空気感。何かが違うものを感じる。
 
            参道風景             参道を進むと左側にある神楽殿

 この小平石神神社では、秋の祭典の行事として小平獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。
 日光東照宮完成後、元禄 12 年(1699)に皆野町に伝わった獅子頭は彫刻の名人としてその名を知られる左甚五郎が彫ったという言い伝えのあるものを成身院覚桑上人が譲り受け小平に持ち帰ったとされている。
 獅子舞については、成身院の寺男が舞や笛の仕方などを考え、村の衆に習わせたことが始まりだと言われている。また皆野町椋神社の獅子舞から伝わったものだとも言い、疫病の厄払いと雨乞い祈願で舞われる。現在は春と秋の祭典の行事として春は日本神社に、秋は石神神社に奉納されるそうだ。

 また石神神社に奉納される神楽は「金鑽神楽」と言われ、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された13組の神楽組による神楽の総称であり、本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 5組の神楽」は、本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西・モクサイ)、杉田組(四方田・シホウデン)、根岸組(小平・コダイラ)、太駄組(太駄・オオダ)がある。
 その中で根岸組は、明治初年に石神神社の社掌根岸虎平が大里郡用土村より神楽面と装束等を譲り受けて始まり、後に金鑚神楽に属したという。
        
                                         拝 殿
 
     拝殿各所の彫刻は見ごたえあり            拝殿上部に掲げてある扁額
        
                                        本 殿 
        
               拝殿左手前に掲示されている案内板

 石神(いしじん)神社 御由緒  本庄市児玉町小平一
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、小平の開発は天正のころ(一五七三-九二)に越後国から来住した根岸家三軒により行われ、この三軒は兄弟で、長男の家が後に名主職を務めたという。
 当社は小平の鎮守とされ、野鳥の森として知られる静かな山林の一角に祀られている。その創建には草分けの根岸家のかかわりが考えられるが、明らかでない。『明細帳』には「天正十九年(一五九一)社地ヲ開キ慶長元年(一五九六)九月二十九日創立」とあり、『児玉郡誌』には「天正十九年里人当地を開拓し、同時に社殿を建設して二柱大神を勧請せりと云ふ、御内陣に大なる石器二基を安置し(中略)其後地頭安藤家の崇敬厚く、神田若千を寄附せり。神階は明和五年(一七六八)に正一位を授けられ、神霊を御内陣に奉安す」とある。現在本殿には、石捧三体(全長八二センチメートル・九二センチメートル・一一〇センチメートル)と明和五年に神祇管領吉田兼雄より受けた「石神大明神幣帛」が奉安される。
『風土記稿』小平村の項には「石神社二宇 共に村の鎮守にて村民持」と二社の石神社が記され、この内の一社が当社であり、明治五年に村社となった。もう一社の石神社は無格社とされ、明治七年に神武神社(現日本神社)に合祀された。江期の祭祀状況については明らかでないが、明治期の祀職は吉野萬次が務め、その後を旧名主家で長を務めた根岸周平が継ぎ、更に根岸虎平-根岸俊雄と襲っている。
 □御祭神と御神徳 石神大明神…国土守護・五穀豊穣(以下略)
                                      案内板より引用
        
                社殿の左側に並ぶ境内合祀社
    左より雷電神社・山神神社・愛宕神社・東照宮・琴平宮・天手長男命・稲荷神社・八幡神社
       
                     社殿と合祀社の間に聳え立つ杉のご神木
       
             社殿右側にもケヤキのご神木があり、文化財指定の標柱が立っている。

本庄市指定文化財 石神神社のケヤキとスギ
石神神社は慶長元年(1596年)創立と伝える古社であり。社殿の右側のケヤキは目通しで5mあり、御神木とされている。また、社殿左側のスギは目通し4,6mを測り、ともに近隣では希な巨木である。
                                      説明文より引用


 
           ケヤキのご神木の右側に鎮座する境内社・天満宮
        
                    境内を撮影

 境内周辺に広がるこの威厳ある空気感は、もしかしたら社殿の両サイドに聳え立つご神木が与えたものかもしれない。但しこの感覚は決して筆者にとって、むしろ心地よい。


 私たちの祖先がずっと大切に守ってきた鎮守の森は、日本人の自然観と文化、豊かな日本の『こころ』を育んできた。また、鎮守の森で行われてきたお祭りは、地域の人々の心を纏め、コミュニティーの中核を担ってきたといえる。

 日本列島に遠く先史古代から祭られてきた神々の佇まいは、ほぼ等しく緑ゆたかな森に覆われていた。いわゆる神社は「鎮守の森」と言われているが、日本各地には人里近くに神社や御神木と呼ばれる大きな木を囲むようにして、こんもりとした大小の森が多く存在していた。また森そのものが鬱蒼とした畏敬の念を抱かせるもので、その存在自体信仰の対象でもあったろう。


参考資料 「
本庄市HP」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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秋山(風洞)天神社

 秋山天神社が鎮座するこの地域は嘗て「風洞(ふとう)」と呼ばれていて、『新編武蔵風土記稿』には「天神社二宇 上天神下天神ト云上ノ社ハ元龜年中ノ勸請ト云下ノ社ハ詳ナラス其後二社トモニ慶長三年田又兵衞再興ス 東照宮 上社ノ社地ニアリ勸請セシ來由詳ナラス 上社 末社 白太夫社 八幡 赤司明神 子ノ神 稻荷 神職 吉野伊豫 吉田家配下ナリ先祖ヲ掃部ト云元龜年中ノ人(那賀郡秋山村枝郷風洞分)」と記載されている。
 この地域には「風洞」地名の由来に関する昔話(民話)があり、坂上田村麻呂による大蛇退治の話がある。長文で、時代背景が細かく、時代設定がしっかりしている事も特徴である。

 風洞の地名
児玉の風洞には、余り知られていない大きな穴があり、その洞穴から常にゴウゴウと嵐の様に不気味な風が吹き出し、止まる事がなかった。このゴウゴウと言う音は、身馴岸沿岸を荒らしていた大蛇が、川の入江の近くの洞穴に隠れ住んで呼吸をする息が風となって吹き出したものであった。
この大蛇、女、子供はもとより、人だけでなく家畜まで喰うなど数限りなく悪事を重ね、また農作物を荒らしまわり、人々は嘆き、悲しみの底にうち沈んでいた。しかし、この話が時の天皇であった平城天皇の耳に入り、大蛇の退治を坂上田村麻呂に命じた。将軍田村麻呂は早速この地方に出向き、大蛇退治の準備にとりかかった。まず北向きに五社(沼上、小茂田、新井、十条、古郡の五ヵ村)の大明神を勧請し、また八仏薬師を安置するほか、数多くの神仏に祈念した。特に自分の守りの本尊である大日如来とゆかりのある十二天に登り、霊地を選び、ここに山籠りをして、秘密に僧を招き、37日間、夜の護摩修行をなし、大蛇退治の願いをかけると共に、これより568万年の後まで、この山より身馴川の末まで守り給え、との願をかけた。また、小平に入江の様になっている所があり、江の浜と呼ぶ場所に、一本の大きな柳の木があった。将軍はこの柳の木に向かって静止し、「われ願わくば、この地の大蛇を退治して、人々の災難を救い給え、もしこの願いが届くなら、すぐにこの柳に花を咲かせ給え。もし、この願いがかなわなければ、この柳をたちどころに切り倒し、たきぎとしてしまうものなり」と虚空に向かって大声に呼ばわると、ありがたいことか、恐ろしいことか、虚空がにわかに振動して、しばらく暗夜の如くにうち変わり、やがて明るくなると、不思議な事に柳は桜となって、満開の花が咲いた。よって将軍は、この地に虚空蔵菩薩を建立した。柳の木が化して枝垂れ桜となり、現在も栄えているが、柳の大木があった所から地名を「高柳の虚空蔵」と言い、霊験あらたかな霊場となっている。
このようにして、大蛇の住む洞窟に田村麻呂が出向くと、殺気を感じたのか、オスメス二匹の大蛇がものすごい眼光を放ちながら出て来た。驚くことにこの大蛇は、それぞれ二つの頭を持ち、太さ3m、長さ20m余りもあった。しばらく将軍達と睨み合いの末、戦いが始まり、一匹を現在の東小平の地に追い詰めたが、田村麻呂に次ぐ勇者椚林小平成身と言う者がこの大蛇の毒気にかかり、遂にこの世を去ってしまった。この事を知った武士達は、この勇者の名をとって椚林と言い、成身院は小平が名乗り、字名を院号とした。やがてメスの方は、田村麻呂の神変通力仏意自在の弓矢によって、射とめられた。一方、オスの大蛇は、川上に身を隠して潜んでいたが、将軍は夜になって舟を出し、大蛇が出て来るのを待った。現在、その場所を待屋と言い、舟をつないで置いた所を船山と呼び伝えられている。夜明けと共に出て来た大蛇は、将軍に追われ、間瀬峠に逃げ延び、峠の頂上から将軍を振り返り、まんじりと見つめた事から、この峠をまんじり峠と呼んだ(後世、間瀬峠と言い伝えるようになる)。こうして児玉の山麓一帯には、平和が訪れた。
将軍が退治した大蛇の骨は百駄あり、この骨を埋めて長泉寺が建立された。よって寺の境内を骨畑と呼び、百駄あった骨にちなんで山号を百駄山と呼ぶようになった。大蛇の住家の風の吹き出た洞穴は埋められ、この地に神を祀って、次来地名を風洞と呼ぶようになったが、その昔は単に洞(あな)と呼んでいたとされる。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山2813
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 祈年祭 225日 例大祭 1015
                  
下天神祭並びに新嘗祭 1125

 秋山天神社は本庄市児玉町秋山地区西側、小山川の一支流である小平川の東側に鎮座している。埼玉県道287号長瀞児玉線を児玉町から長瀞方向に進み、小山川を越える。その後「総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の看板が見えるY字路を左折する。300m程進み、最初のT字路を左折すると道幅の狭い道路となるので、対向車量等に気を付けて暫く進むと左側に舗装されていない道があり、そこを左方向に進むと正面に秋山天神社が鎮座する場所に到着できる。
        
                     秋山天神社 正面
 境内の規模は思った以上に広く、手入れも行き届いている。参拝の途中では、近郊に住んでおられる方とも気軽に挨拶を交わすことも出来て、気持ちも安らぐひと時を味わえた。

 案内板によれば、鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきたという。
             
                鳥居の右側にある社号標柱
 
     鳥居の手前で左側にある社務所       木製の鳥居。社号額には天神社と表記。
        
                              秋山天神社 案内板

 天神社 御由緒 本庄市児玉町秋山二八一三
 □御縁起(歴史)

 鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五) に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきた。
 この当社の創建の年代は不明であるが、『明細帳』によれば、神職であった吉野家の系譜に、久安三年(一一四七)正月宮居再建とあり、その後しばしば修造や建て替えが行われた旨が記されている。 また、文政五年(一八二二)に、林大学頭の諮問に対して神主吉野伊予が提出した文書には、当社の神体は一尺二寸の木像で、古くから天満宮森に鎮座していたが、慶長三年(一五九八) に地頭の田又久が宮を建立し、更に後年、漢長老賛の天神の絵像を奉納したこと、寛永十三年(一六三六)には、田三平が宮を建立したこと、田美作守の代にも度々修繕がなされたことなどが記してある。
 現在は、棟札や「漢長老賛の天神の絵像」は見当たらないが、右の文書で神体として林大学頭に報告された木像は現存しており、かなり朽ちて手足も欠けている状態であるが、冠を被り、装束を付けた立姿の神像二体が内陣に安置されている。なお、神像はこのほかにも、像高十七、八センチメートルという小振りな座像二体と、それより一回り小さい漢人風の像四体及び像高六八センチメートルの随身像二体がある。
 □御祭神 菅原道真公…学問成就、家内安全、五穀豊穣

                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 
 拝殿上部に掲げてある「風洞天神社」の扁額   向拝部位にも凝った彫刻が施されている。
        
        
                色鮮やかな風洞天神社 本殿

 冒頭でも紹介した「風洞」の地名由来の伝承・伝説は幾つかの段落に分かれていて、時代背景、周辺地域の坂上田村麿呂伝承、地域の名称由来も交えて構成されている。

①昔このあたりを荒らしまわっていた大蛇がその洞穴に住み、その息が嵐のような音をたてたから、「かざあな」から風洞と呼ばれるようになったという。この大蛇は人畜を喰い、田を荒らす悪蛇の主で、困窮した民の話を聞き、平城天皇がこの退治を坂上田村麿呂将軍に命じた。

②坂上田村麿呂将軍が来てみると、被害は大きく人心は動揺し、何も知れないので、まず十条沼周辺の古都・新井・小茂田・十条・沼上に産生神と赤城に向って北面する末社を建て、また八つの薬師を安置し、他にも多くの神仏を祀り、まず村人を安心させ、悪蛇に向かった。

③将軍はなお大日如来に祈願し、十二天神の加護を得ることになり、共に祈祷を行っていた高僧に、霊示があった。曰く、江の浜というところに神木があり、これに申し上げるように、と。そこで将軍はそこへ赴き柳の大木に、願いを通すならすぐ花を咲かせよ、さもなくば直ちに伐り倒さん、と宣言した。するとただちに花が咲き、意を強くした将軍は洞穴に向かった。するとそれぞれ二つの頭をもつ二頭雌雄の大蛇が襲いかかってきた。このとき、その毒息にかかって将軍第一の勇将・椚林小平成身が死んだ。

④夜明けとともに再度現れ出た大蛇は、将軍の弓で一頭の目を射抜かれ、戦意をなくし、追われて馬瀬峠(今の間瀬峠)から甲州へ逃げた。峠からまんじりと将軍を見据え、助けをこうたことから、まんじり峠と言っていたという。

解説すると、①では平城天皇の御代にこの伝説が成立したと記載されている。この平城天皇の在位期間は806年から809年(9世紀初頭)と短く、設定年代が曖昧な伝承が多い中でも、明確な昔話と言えよう。
②児玉地域には坂上田村麻呂が大蛇を退治する民話がいくつか伝えられて、ここでは現美里町、十条沼周辺の「北向神社」の創建に関しての伝承も交えている。
③更に「十二天神の加護を得る」「椚林(くぬぎばやし)小平成身」では秋山十二天社を登場させ、更に秋山地区に隣接する「小平」地区の地名の成り立ちをも紹介している。因みに「椚林」は秋山地区の小字の一つでもある。
④結局のところ、此の大蛇は征伐により、戦意を失い、甲州(現山梨県)に逃げる。この説話は、本庄市宮内・若宮神社の「雨乞屋台」大蛇族の説話にも似ている。
 
「風洞」の地名由来となった説話ではあるが、上記以外のもこの地域周辺の地名の由来に関しても細かく記載されていて(骨波田・間瀬峠等)興味深い伝承・伝説でもある。
 
     拝殿手前で左側には神楽殿        神楽殿の並びには数多くの境内社が並ぶ。
 
 社殿右奥にも境内社や石碑、石祠が鎮座する。   立派な石組みの上には石祠が1基鎮座。
                  
                「村社 天神社」境内碑

村社 天神社
本社殿創立年代不詳然藏近衛天皇御宇久安三年正月宮殿再興古文書及元龜二年改造棟札其古社可證爾後屡加修理慶長三年地頭戸田又久再建寛永十三年有地頭戸田三平改造之擧云王政復古庶績咸熙至明治三十九年被勅定神社神饌幣帛料供進之事四十五年三月十八日本社亦從本縣知事被指定神饌幣帛供進村社之叙其概要以傳後人云爾
大正二年十一月 埼玉縣兒玉郡長從五位勲四等白倉通倫撰并題字 
        秋平尋常小學校訓導吉川鍋六謹書
                                   境内碑 碑文より引用

       
                社殿右側に聳え立つご神木



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「埼玉の神社」等

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