古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秋山十二天社

 日本人の多くはその時々の行事を通じて多種類な信仰を持つ不思議な民族だ。例えば子供が生まれた時には「宮参り」と称して神社(神道)にお参りするのに、お葬式はお寺(仏教)で行うという人が多数派だ。クリスマス(キリスト教)を祝ったかと思うと年末はお寺に除夜の鐘をつきに行き、翌日の新年は神社に初詣でをする。そのくせ、何故か自分のことを無宗教と思っている人が多い。逆に無宗教だからこそ、複数の神や仏を拝むことに何の違和感を覚えないのかもしれなし、それを不思議なことと感じる事すらない。
 こうした日本人の信仰に対する特性を育んだ背景の一つには、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた「神仏習合」の歴史があったからではないかと考えられる。
 神社とお寺は、ご承知の通り神道と仏教という、それぞれ異なる宗教であるが、私たちは神と仏の区別をそれほど意識することなく信仰の対象として生活に取り入れ、見事に融和させながら過ごしてきた。これはいわゆる「神仏習合」、又は「神仏混沌」ともといわれる信仰だが、このように異なる二つの宗教文化を、1000年以上にわたり共存させている国は世界でも類をみない稀有の国柄といえる。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山3566
              ・ご祭神 天部十二柱
              ・社 格 関東10霊場 第7番霊場
              ・例 祭 不明

 秋山十二天社は本庄市児玉町秋山地区南部、上武山地の北東端に位置し、十二天山頂に鎮座する。十二天山の南西には陣見山(531m)があり、北東側には松久丘陵、児玉丘陵、本庄台地の稜線が広がる。途中までの経路は秋山河原神社秋山新蔵人神社を参照。丁度秋山河原神社から秋山新蔵人神社に通じる道路をそのまま南下するように直進。秋山新蔵人神社から秋山十二天社駐車場のある十二天池まで約1㎞強だが、道幅は狭くなるため、対向車線の車両には注意が必要だ。
 
 十二天池(写真左・右)は治水用の池であり、山懐に静かに佇む小さな池。秋の紅葉を感じつつ、暫し休憩する。
 
十二天池脇に車を止め、秋山十二天社に徒歩で参拝。山頂への石段の中段のところまで細い林道があり、狭い道に自信のあるドライバーなら車で行けるようだが、筆者にはそのような自信はなく、素直に徒歩で参拝する。
        
                 秋山十二天社 参道正面
 
 十二天池南側には社務所(写真左)ががあり、社務所の手前並びには石祠(同右)があるが、詳細は不明。道を隔てた反対側には鬱蒼とした草木に隠れてしまった鳥居もある。社務所入り口には「社務所掲示新聞記事」が張り付けてある。

 社務所掲示新聞記事
 秋山十二天は、JR八高線児玉駅の南方約5キロ、364メートルの十二天山頂にあります。文献には1204年前の平安時代始めの創立と記されています。現在の社殿は212年前の1799年に建てられました。本庄市の文化財に指定されています。
 ご神体は毘沙門天、帝釈天、閻魔天など古代インド 12の神々(十二天)で、仏教の護法神として八方・上下など12の方向を守っています。
 社殿は権現造りの神社様式ですが、鐘楼もあり、祭典にはお経を唱えるなど、神仏混合の形を残しています。 関東10霊場の第7番霊場で、戦後間もないころの春の祭典には、参詣する人 々で行列ができたほどです。
 いまでは社殿の近くまで道路ができ数台の駐車場もありますが、時間があれば十二天池の駐車場から30分ほど歩いてお参りするとよいでしょう。境内から本庄市街地が一望できます。空気が澄んでいる日には東京スカイツリーもかすかに見えます。
 来年の元旦察には、スカイツリーの左背後から昇る初日の出を拝み、家族の幸せなどを祈願してみてはいかがでしょうか。
                                   掲示新聞記事より引用

        
 参道を徒歩にて出発。参拝当日は天候も良く、正にウォーキング日和であったが、鬱蒼とした参道に入った瞬間からヒンヤリとした温度差、また適度な湿度も体感した。
        
 徒歩にて数分進むと見えてくる石製の鳥居。社務所前にある鳥居があるので、これは二の鳥居か。
この鳥居を越えてから第一の目標である「寺戸の樫(かし)」に向けて進む。
       
      歩く事数分後にたどり着いた「「寺戸の樫(かし)」。行政区域上では美里町となる。
            
                  左脇にある案内板
 寺戸の樫 町指定文化財昭和55725日  推定樹齢700年
□由来
この樫の木は、アカジタの
伝兵衛樫*とも呼ばれている。
地元の伝承によると、
昔、榛沢村(現深谷市榛沢)に住んでいた伝兵衛という若者が神様に力を授けてもらいたいと考え、秋山十二天社へ21日間の丑の刻詣りをした。お参りをする際、一反(約10mほど)のさらしの端を鉢巻にして、長い布を後になびかせ、その先が土につかぬように走り続けた。満願の日、神様のお告げがあり、伝兵衛は太刀を授けられた。彼は大悦びで下山したが、樫の木のところまで下りてきたとき、自分がまだ鉢巻をしたままでいるのに気づき、その鉢巻を解いて、大樫の幹に巻きつけて帰った。以来、この木を伝兵衛樫と呼んでいる。
*「アカジタ」とは、字寺戸の一部の地名で樫の木周辺のことをいう。樫の木の周辺で大蛇が出たことから「赤舌」と呼ぶようになったといわれている。(以下略)

                                      案内板より引用
 
 寺戸の樫の撮影等を終了し、水分補給後、改めて出発。正直言うとこの時点で足の疲労はかなり来ている。車を使用しなかったことへの後悔を押し殺して進む(写真左)。そしてやっと「十二天参道」の標識(同右)までたどり着くことができた。
        
                         秋山十二天社 木製の三の鳥居
 
鳥居を過ぎると参道の両脇に石碑等が立ち並ぶ。    社殿に通じる石段にたどり着く。
    左側には松尾芭蕉の句碑もある。     体力的にはかなり限界。残りは精神力のみ。

 参拝終了後、編集時に知ったことだが、この石段は163段高低差26mあるそうだ。中々の勾配でもある為、踊り場も数カ所利用し、何度も休憩を入れながら登る。
 
 よく見ると石段正面には鐘撞堂(写真左)が見え、登り切った場所から左側にまた道があり、そこからまた社殿に通じる石段(同右)がある。
        
                                       拝 殿
          参拝時は昼過ぎで逆光。また疲れもある為、やや傾いてしまった。

 標高364mの山頂にある秋山十二天社。秋山十二天社社殿は、神仏混淆の神社でもあることから、十二天堂とも呼ばれた。江戸時代に度重なる火災に見舞われたが、寛政11年(1799)になって杮葺き権現造りの社殿として再建されたという。現社殿の屋根は、1979年(昭和54年)に修築で銅板葺きに改修された。創建は平安時代初期ともいわれ、古い歴史をもつ。

 新編武蔵風土記稿 那賀郡秋山村
 十二天社 村ノ南ノ方ニアリ大同年中ノ勸請ト云那賀郡十四カ村惣鎭守ナリコノ社アルヲモテコヽヲ十二天山ト呼ヘリ今モ護摩所籠堂二天門□ノ宮等ソナハレリ 鐘樓 寬永四年造立ノ鐘ヲカケシカ寬政七年野火ノ爲損シテ未タ再興ニ及ハス
 
別當本覺院 新義眞言宗小平村成身院末聖德山光政寺ト號ス本尊不動ヲ安ス

 十二天とは東西南北、東北・東南・西北・西南、天地、月日の十二の天をお守りする神様だそうだ。言い伝えによると坂上田村麻呂がこの地で暴れていた大蛇を退治するために十二の天に祈ると十二人の神々が現れて大蛇を退治したという。
             
      
本庄市指定有形建造物 秋山十二天社社殿 昭和六十三年一月一日指定碑
 秋山十二天社は山頂に鎮座していて、同時にその山頂に至るまでに、かなりの体力を必要とするにも関わらず、このような荘厳で凝った建築、彫刻(写真左・右)が施されている。
        
                     神仏習合が色濃く残されている
鐘撞堂

 神道とは、山川草木など自然の生命にも霊的な存在が宿る、いわゆる自然神への信仰を起源とする日本独自の宗教だ。日本人はあらゆるものには生命が宿るという、八百万(やおよろず)の神という考え方を古くから持ち、自然の恵みに感謝する収穫祭や豊作祈願などの祭事を行ってきた。
 一方の仏教は、2500年ほど前に北インドで釈迦(ブッダ)が創始し、中国を経て6世紀ごろに日本に伝来。教祖である釈迦像などをご本尊として、聖典として大蔵経(お経)を唱え、厳しい修行を行うことで悟りを開き来世で救われるという思想を持つ宗教だ。教祖も経典も無く、拝むことで現世での救いを求める神道とは、その由来も思想も大きく異なる。
 仏教伝来当初は、古来より崇められてきた神道に対して、新たな仏教を受け入れるかで政治的な対立もあったが、もともと明確な戒律や教義を持たない柔軟性のある神道と、体形的な考え方を持つ仏教は、それぞれの特徴をいかしながら、一体のものとして考えられるようになり、仏が神という仮の姿で現れる=権現という考え方なども生まれ、「神仏習合」という、独自の宗教観に結びついていく。
        
                        
秋山十二天社 社殿からの見事な眺め

 現生人類が日本にたどり着いた約4万年前から縄文時代、そして現在に至るまで海に囲まれたこの日本は後に「日本国(大和国)」と形成するわけだが、どこの国からの侵略も受けずに今に至っていて、そのような国は世界どこを探してもない状態の中で、奇跡の国ともいえる。
 その淵源とした日本人の心の奥底に活き、受け継がれ、日本文化を形成する大きな要因となってきている「自然宗教」といえる神道。そこから6世紀以降から派生し市民生活に受容された、死後の世界の保証を求める「仏教」を日本人は神道に入れ込み、「神仏習合」として信じているのである。それらを「宗教」であると意識せずとも「習慣」として日常的に行っている日本人のことを「無宗教」であると言い張ることは出来ないのではないだろうか。

 一般的な日本人の捉える「宗教」はキリスト教やイスラム教等の所謂「創唱宗教」であり、「自然宗教」は「宗教」として捉えられていない傾向がある。しかし、現実には日本人は何万年という歳月で積み重ねられ、幾重にも醸造された「自然宗教」という「宗教」の信者なのであり、決して「無宗教」ではないのである。
 先祖代々受け継いできた「奥深い宗教心」を知らず、何の躊躇もなく「無宗教だ」と答えることは、自らの存在や日本という国について知らないということと同じではないだろうか。

 世界はグローバル化が進み、今後私たちはますます多くの外国人と接する機会があるだろう。外国文化に興味を持ち、留学を志す学生も多くいる。しかし、自らの国の文化を作り上げる上で非常に大きな要因になっている宗教について知らずして外国人と接すれば知識の欠如によって恥をかくことになりかねない。外国文化を学ぶ前にまずは自国の文化を形成する大きな要因となっている宗教について知るべきではないだろうか。自らの思想、文化、信条を作り上げている「宗教」という存在をもっと身近なものとし、その本質を捉えること。日本人を名乗って生きていくならば、知っておくべき教養なのではないだろうか。
 難しい話となってしまったが、今回秋山十二天社を参拝して、改めて「神仏習合」の成り立ち等を学び、その中でふと感じた日本という国形成の奥深さを改めて感じた次第だ。

参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「社務所掲示新聞」等

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秋山河原神社

 秋山川は埼玉県本庄市を流れる利根川水系の一級河川である。本庄市児玉町秋山地区の陣見山の十二天嗣付近に源を発し、児玉丘陵内を南から北に向かって流れる。源流点付近には十二天池がある。字陣街道で小山川に合流する。途中、児玉用水が伏せ越しで交差する。 水量は多くなく、川底には雑草が生い茂る。支流の水押川には川沿い1kmにわたって曼珠沙華が10万本自生しており観光地となっている。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山1401
            ・ご祭神 河原次郎盛直
            ・社 格 指定村社
            ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 夏祭り 715日
                 例大祭 1015日 新嘗祭 1123日 大祓式 1225日

 秋山河原神社は秋山新蔵人神社から800m程北側に鎮座している。社に隣接して「河原神社社務所」があり、道路沿いには適当な駐車スペースも確保されていて、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
 社周辺には長閑な田畑風景が広がり、時間がゆっくりと過ぎているようで、穏やかな気持ちに包まれながらの参拝となった。
        
                                     秋山河原神社正面
    東側には「指定村社 河原神社」の社号標柱があったが、撮影はしなかった。
         社は決して規模は大きくないが、手入れは行き届いている。
        
                                         秋山河原神社に設置された案内板

 河原神社御由緒  本庄市児王町秋山一四〇一
 ▢御縁起
『風土記稿』秋山村の項では、当社について「河原明神社 元暦元年(一一八四)二月摂州生田(現神戸市)において打死せし、河原次郎の霊を祭りしと云、隣村風洞分に太郎高直を祀れる社あり、埼玉郡河原村は河原兄弟居住の地にて、其墳墓といへるものあり、夫等の因にて当所に祀りしなるべけれど、其詳なることをつたへず、日輪寺持」と記している。ここに載るように、当社の祭神は河原次郎盛直で、隣接する風洞の地には、兄の河原太郎高直を祀った同名の社がある。
 河原氏は、武蔵七党私市党に属する一族で、現在の南河原村や行田市北河原に住したといわれている。太郎高直と次郎盛直の兄弟については、『平家物語』に綴られているように、生田の森の合戦において、源範頼に従って勝利をもたらしたことで知られ、太郎が「自分が敵陣に討ち入る時はお前が残って証人になれ」と次郎に頼んだところ、次郎は「二人きりの兄弟で、白分一人だけが残っていられようか」と、兄弟共に先陣の名乗りを上げて討死した挿話は著名である。
 この河原兄弟は、当地をも領有し、牧場を管理していたといわれている。その霊を祀る神社が、この秋山及び風洞の地に祀られるようになったのは、こうした領有関係によるものであろう。『児玉郡誌』は当社の創建を文明十八年(一四八六)とし、一説に河原兄弟の縁故者が秋山に来て居住し、その主君の霊を祀ったとの伝えを載せている。
 □御祭神 河原次郎盛直…開運厄除、五穀豊穣
                                      案内板より引用
        
                          拝 殿
 
   境内の西側に隣接している社務所      社務所の並びには石碑や石祠群が並ぶ。
               
                     境内にはゆったりとした時間が流れているようだ。

 この本庄市児玉町秋山地区は、南方の十二天山、陣見山からなだらかな稜線が広がり、北側で境となる小山川、その支流である秋山川等の水資源も豊富な丘陵地帯であり、古くから拓かれていたらしく、縄文時代や古墳時代の集落跡など古跡が多い。

 秋山古墳群は、埼玉県本庄市児玉町秋山にある古墳群で、本庄市指定史跡に指定されている。現在、前方後円墳2基を含む43基の古墳が現存し、墳丘を失った古墳跡を含めると100基近い古墳があったと推定されている。古墳の分布は秋山地区の塚原・塚間・宿田保に多く所在し、1965年(昭和40年)31日付けで児玉町(当時)指定史跡に指定された。

この秋山河原神社から東側近郊に「秋山庚申塚古墳」が存在する。残念ながらこの古墳を知ったのは、参拝終了し、自宅で編集中であり、写真等で収められなかったことは残念だ。

秋山庚申塚古墳
秋山庚申塚古墳は、直径約三十四メートル、推定高五メートルの規模をもつ円墳で、 南南西に閉口する横穴式石室を備えています。 昭和三十年に横穴式石室の発掘調査が行われ、多数の副葬品が出土しました。
また、昭和六十二年には、古墳の範囲確認調査と石室の実測調査が行われ、堀の形状や埴輪の存在、石室の構造的特徴が明らかになりました。 古墳の堀は、円墳には珍しく、墳丘の周囲を二重にめぐり、墳丘の周 や堀の内部から家、人物、馬などの形象埴輪の破片が出土していま す。 横穴式石室は、埋葬空間である玄室の側壁が緩やかな曲面をなす 「胴張型」と呼ばれる型式で、大きな塊石と細長い河原石を組み合わせ て積み上げる 「模様」という技法を取り入れています。 また、石室か ら出土した副葬品には、直刀や鉄、弓などの武器類、金銅装の馬具類、碧玉製や瑪瑙製の管玉や勾玉、ガラス製丸玉、金鋼製耳環などの装身具のほか、須恵器の高杯、短頭壺、堤瓶、などがあります。 秋山庚申塚古墳の築造年代は、出土した埴輪の型式などから六世紀後半頃 と考えられていますが、石室から出土 した副葬品には、時期差が認められる。
ことから、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが推定されます。
                                      案内板より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」




        


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秋山新蔵人神社

 秋山地区は児玉町児玉の南部に位置し、上武山地の東緑、陣見山の北側に広がり、小山川(旧身馴川)で境界となる。陣見山から秋山川他幾筋の河川が流れて、小山川に合流し、これに伴う谷戸田(丘陵地の谷あいの地形のことを「谷戸」と呼び、その地形を利用して作られた田んぼのこと)が発達されている。
 地区南部は山地とそれに続く丘陵地帯で、北側に緩い斜面と宅地があり、小山川に迫り、北東部には水田や畑が広がる。尚北東部の小山川氾濫原と丘陵上には秋山古墳群が存在する。
 秋山の地名はほぼ全国的に存在するが、旧甲斐国(山梨県)の秋山が特に有名である。中世でも武田支族・秋山氏が存在し、南北朝の動乱期には秋山新蔵人光政が加茂河原で丹党安保直実と一騎打ちをしたことは『太平記』に記載されている。
 埼玉県寄居町にも秋山という地名があり、児玉の秋山とよく似た位置関係にあるという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山242
             ・ご祭神 秋山新蔵人光政
             ・社 格 旧無格社(*兒玉郡神社一覧より)
             ・例祭等 祈年祭 315日 例大祭 1015日 
                  新嘗祭 
1123日

 秋山新蔵人神社は本庄市児玉町秋山地区のほぼ中央部に鎮座する。埼玉県道175号小前田児玉線経由で美里町・広木みか神社を目指し、その後大きな右カーブに差し掛かり、左側に
「鎌倉街道上道の案内板」が見える手前のT字路を左折する。
 暫くはこの道を西行すること約1.2㎞、小山川支流秋山川の端を越えたところから細いY字路を左折し、更に南下。600m程進むと右側に秋山新蔵人神社の社叢と、白い鳥居が見えてくる。近郊には児玉カントリー倶楽部があり、そこを目指して行けば分かりやすい。
 駐車スペースは境内にある様子だが、鳥居を越えなければないようなので、一旦通り過ぎて、秋山川を越えた西側にお寺(本覚院)があり、道路沿いに駐車場があるので、そこの一角に駐車し、社の参拝を行う。
        
                          静かに佇む社。鳥居正面を撮影。
 
  撮影する角度にもよるが、鳥居の正面は    社殿等は、鳥居正面ではなく、やや西側に
  どうやら社日神、石碑が設置されている。     設置されている配置となっている。
        
                                     拝殿覆屋
        
                           拝殿覆屋の右側に設置されている案内板

 
新蔵人神社 御由緒  本庄市児玉町秋山二四三
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の秋山は、小山川(身馴川)南岸に位置する農業地域であり『太平記』などにその名を残す秋山新蔵人光政ゆかりの地である。『西武南朝功臣事蹟』によれば、この秋山新蔵人光政は、南北朝期に桃井直常の部下として各地で転戦し、驍勇無双の猛者として知られていたが、正平六年(一三五一)九月に同僚の多賀某と私闘し、敗死したという。
 当社は、その社号が示すように、この秋山新蔵人公を祀った神社で、『風土記稿』秋山村の項には「光政社 秋山新蔵人光政の霊を祀れりと云、この人当所に集住せしよりかく唱へしなるべしといへど、其詳なることをしらず、昔甲州秋山邑に住し、在名をもて、秋山太郎光朝といひ、右大将頼朝に仕へしものあり、この光政もその子孫なるにや」と記されている。ただし『明細帳』によれば、当社の創建は天和三年(一六八三)のことと記されているため、光政の没後すぐに創建されたものではなく、その遺徳を讃える後世の人々が社を建立して、光政の霊を祀ったものと思われる。
 
内陣には、甲冑を付けた武将の騎乗の像が安置されているが、これは祭神の秋山新蔵人光政公の像である。この像には銘が入っていないため、いつごろ作られたものかは定かではないが、少なくとも明治以前のもので、穏やかな表情をしている。
 □御祭神 秋山新蔵人光政
                                       案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿覆屋左側には神楽殿か

 甲斐源氏秋山氏は武田支族で、巨摩郡秋山村(山梨県)より起ったという。秋山系図(続群書類従)に¬加々美次郎遠光―光朝(秋山太郎)―光季(常葉次郎)―光家―時信―時綱―光信―光助―光政(秋山新蔵人太夫)、弟光房(蔵人次郎、兄討死之時、属桃井、帰于甲州)―光延―光盛―光方―光季―為光(大炊助、寛正六年二月十一日被誅、法名妙秋。弟彦九郎昌光・法名妙山)―光利―信利―信房―光任―信任―信藤(平十郎、伯耆守、仕信玄勝頼、後仕神君、天正十三年卒)
 
 
秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったこと始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。
 
     拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社       鳥居正面にある社日神と石碑
         詳細不明

 平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。

 没落していた秋山一族が「承久の乱」で尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛、戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったという。新蔵人光政は光季から数えて7代目の子孫であり、光政の弟光房(蔵人次郎)の子孫には、戦国時代に信玄に仕えて活躍する秋山伯耆守信友がいる。

 甲斐国出身の甲斐源氏・秋山光政がなぜ秋山地区に館を構えたと伝わるのかは不明。「承久の乱」において活躍した秋山氏が、本貫地である甲斐国の回復と共に、この地に所領を得ていたのだろうか。
 秋山地区と山を隔てた南方反対側には長瀞町があり、そこに伝わる伝説で『信仰利生観』という古書に、秋山に秋山城主秋山新九郎続照(つぐてる)なる人物がいて、長瀞町小坂の仲山城主阿仁和兵衛直家との確執があったといい、新蔵人館は新九郎館の転訛ではないかともいわれるが、詳細は不明だ。
        
                         
秋山新蔵人神社遠景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「兒玉郡神社一覧」「本庄の地名(児玉地域編)」「続群書類従(秋山系図)」等

       

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飯倉住吉神社


        
            
・所在地 埼玉県児玉町飯倉836
            
・ご祭神 底筒男神、中筒男神、上筒男神
            
・社 格 不明
            
・例 祭 歳旦祭 19日 春祭り 315日 秋祭り 1015
                 
新嘗祭 129日

 飯倉住吉神社は、本庄市児玉町飯倉地区に鎮座する。途中までの経路は、塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を更に西行1.5㎞程。左側道路沿いに梨直売所が見え、そのT字路を左折、道路に沿って南下し、女堀川を越えて更に進む。なだらかな上りで緩やかなカーブの道路を進むと「住吉神社」のやや小さめな社号標柱が見え、そこを右折すると正面に社の鳥居が見えてくる。
 社号標柱までは、周囲長閑な田畑風景が広がっているが、標柱を右折すると、道路両側には目新しい建物や施設が並び、その奥に社が鎮座しているという、不思議な感覚。
 鳥居の左隣には駐車スペースもあるので、そこに数台駐車可能であり、一角に停めてから参拝を行う。
 後に確認すると、塩谷諏訪神社・
飯倉住吉神社・宮内若宮神社の3社は国道462号に沿って一線上に並んでいるような位置関係にある。
        
                                     飯倉住吉神社 正面鳥居
 
鳥居を越えると参道右側に社の石碑が立っている。   東西に延びる参道。社殿は東向き。

住吉神社
児玉町大字飯倉八三六番地に鎮座する(飯倉字地下谷)明治前半期は 飯倉村字下ノ谷であった
飯倉の名は 中世源頼朝が伊勢内宮に武蔵の国飯倉御厨を寄進しそれに因むと言われております
創立年代もその当時までさかのぼることも推察されます
「明細帳」によると
明治四十年二月五日に 字八幡裏の八幡神社 字山路の稲荷神社 字日向の豊受神社を当代の境内社として移転している
「風土記稿」によると
住吉明神社 村の鎮守 法性寺持 下同 八幡社 稲荷社
「郡村誌」によると
飯倉村の頃には 住吉社 村社 中筒男命を祀る 
勧請年月日不詳
祭神は
底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命の三柱を祀る 
この三神は 本来海神であったが 転じて水神となり さらに農耕神として厚く信仰されるようになりました
境内社は
北野神社 八幡神社 稲荷神社 豊受神社の四社
一年を通して 里人たちが三三五五と参拝されています
江戸時代には 真言宗の法性寺社務を兼帯していました
祭りは
歳旦祭 春祭り 八坂神社祭 秋祭り 新嘗祭
子供御輿は昭和四十八年頃に造られました
七月十五日前の土日曜日に村を字を巡回します
御輿の中には 須佐之男命がまつられております
この神さまは天照大御神の弟君にあたります
天照大御神は日本の神さまの先祖とされております
御輿が里の家々をまわり巡回しますことは神さまが無事を確認するためだと伝えられております里人のすぎこしの日々が平安でありますようにと清めてまわっているという意味もあります
                                      境内碑から引用
        
                          拝 殿
         拝殿に対して南側(左側)は斜面となり、
社の周囲は森林に覆われている。
        
                 拝殿前にも案内板あり。

住吉神社 御由緒  児玉町飯倉八三六
□御縁起(歴史)
飯倉は、中世の飯倉御厨にちなむといわれる。『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)五月三日条によれば、源頼朝が朝家安穏・私願成就のために伊勢内宮に「武蔵国飯倉御厨」を寄進した。『神鳳鈔』には、内宮の長日御幣を負担する御厨として五十町の田数があると載る。現在、地内には「飯倉御厨跡」として県指定旧跡がある。なお、飯倉御厨を現在の東京都港区麻布飯倉に比定する説もある。
『児玉郡誌』には「当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されている。
当地は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあることから、口碑にあるように村人が水神として当社を勧請したのであろう。そして、飯倉御厨が当地に実在したとすれば、当社の創建年代もその当時までさかのぼることも推測される。なお、『風土記稿』飯倉村の項には、「住吉明神社 村の鎮守なり、法性寺持」と載る。
                                      案内板より引用
 
 社殿の左奥に鎮座する境内社・石祠群(写真左、右)。詳細は確認できなかったが、「石碑」等から推察すると、八幡社・稲荷社・豊受社の三社は
明治40年2月に移転され、合祀されているので、これなのどれかであろう。
        
                                    参道の一風景

 住吉神社は航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,300社以上あり、大阪府大阪市住吉区の住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社が始源とされていて、大和政権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰されたという。
 祭神は「住吉三神」と謂われる底筒男神、中筒男神、上筒男神で、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。次いで神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神は皇后に神憑りして神託し、皇后の三韓征討に協力することで征討は成功する。『日本書紀』では朝鮮からの帰還に際して神託があったとし、住吉神の荒魂を祀る祠を穴門山田邑に、和魂を祀る祠を大津渟中倉長峡に設けたとする。
 住吉三神を構成する底筒男命・中筒男命・表筒男命の「ツツノヲ」の字義については、諸説がある。ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ、夕方の月、宵の明星、星を指し、星は航海の指針に用いられることから、海神を示す説、「津の男」に見る説、「ツツ」を船の呪杖に見る説、船霊を納める筒に見る説、対馬の豆酘(つつ)に関連づけて「豆酘の男」に見る説、航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説などである。
        

 その後仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰も、更には時代が下るにつれて禊祓・産業・貿易・外交・農耕神と厚く信仰されるようになる。

 境内案内板にも「
当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されていて、この地域は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあり,実際飯倉地域南方には多数の溜池があることから、村人が水神・農耕神として住吉神社を勧請したと考えられる。


参考資料
「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等

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宮内若宮神社

 本庄市(旧児玉町)宮内は金屋地区の西部に位置し、神川町二ノ宮と境を接している。宮内の大半は山地と谷間の谷戸田よりなり、東部にかけて児玉丘陵が続いている。宮内地区から現在の女堀川(旧赤根川)が流れ、東部塩谷地内へ流れる。集落は女堀川の両側の平場と丘陵部の両側に広がっている。北寄りで女堀川に沿って国道462号線が東西に通っている
 宮内の名の由来は、神社の存在から来ているといわれている。宮内地区内の小字天田には若宮神社が鎮座しており、その隣町の二ノ宮は旧金鑽村と云い、延喜式にもその名が見られる金鑽神社がある。この金鑽神社の東部国道わきには元森神社があり、金鑽神社の元の鎮座地とも言われている。金鑽神社は現在地に移るまでに、三度程移転しているといわれており、宮内地区の若宮神社も旧鎮座地ではないかと考えられている
 宮内の地名が歴史上始めて確認されるのは、暦応3年(1340)の安保光阿(光泰)譲状(『安保文書』)で、「児玉郡植松名内宮内郷」と見える。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町宮内1010
            ・ご祭神 田心姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 17日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                 新嘗祭 1210日

 宮内若宮神社は旧児玉町宮内地区に鎮座する。途中までの経路は塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を神川町方向に2㎞程進み、児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折する。200m程南下し、T字路を右折すると正面にのぼり幟ポールが見え、すぐ右側に宮内若宮神社が見えてくる。
 駐車スペースは、社の正面鳥居の道を隔てた反対側に数台駐車可能な空間が確保されており、そこの一角に停めてから参拝を行った。
        
                                                       宮内若宮神社正面

 児玉郡宮内村(児玉町)は暦応三年安保文書に児玉郡枝松名内宮内郷と見え、児玉党宮内氏は児玉郡宮内村より起こる。武蔵七党系図に「塩谷平五大夫家遠―太郎経遠―児玉二郎経光(奥州合戦討死)―四郎経高―宮内太郎左衛門経氏―児玉新三郎信経(弟に六郎光氏、七郎忠氏)―三郎光信(弟太郎光経)」と記載され、宮内氏は塩谷一族から分家した一族ということになる。塩谷地区と宮内地区は距離的にも近く、同じ一族というのも頷けるというものだ。
 若宮神社の創建年代等は不詳の事だが、当地は金鑚神社の旧地だとも伝えられ、また「若宮」の社号は、田心姫命が武蔵国二ノ宮金鑽神社の大神の娘であることによると云い、田心姫命が父神と喧嘩した時の云々から、当地では椿を植えることが禁忌という伝承もあり、金鑚神社と関わりの深い神社で、古くより鎮座しているものと思われる。
 
     宮内若宮神社 朱色の両部鳥居         鳥居の左側にある案内板

若宮神社  児玉町宮内一〇一〇
▢御縁起

宮内は、武蔵七党丹党の一族である安保氏の所領として既に南北朝期の文書にその名が見え、古くは若泉荘に属し、江戸時代には児玉郡八幡山領のうちであった。一方、天正十九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)よれば村柄(生産力の高さ)は「上之郷」と評価され、地味に恵まれた土地であったことがわかる。
当社は、この宮内の鎮守としてられて祀られてきた神社であり、『風土記稿』宮内村の項にも「若宮明神社 村の鎮守也、遍照寺持」として記されている。祭神は田心姫命で、「若宮」の社号は、この神が武蔵国二宮の金鑚神社の大神の娘であることによるものという。また、当社の鎮座地付近を「天田」というが、この地名については、昔、田心姫命が父神と喧嘩をした時、父神が椿の校を手に「このアマダ、アマダ」と打ちかかりながら田心姫命を追いかけて当地までやって来たことに由来するとの言い伝えがある。したがって、当社の氏子の間では椿を植えることが禁忌とされ、もし植えると神の怒りに触れて疫病がはやるとか、植えた家は身が立たないなどといわれている。
更に、『明細帳』には由緒として享保十三年(一七二八) 二月に正一位の神位を受けたこと、明治五年に村社となったこと、明治四十年に字滝前の六所神社を合祀したことが載る。
御祭神 田心姫命…厄災除け、五穀豊穣
                                      案内板より引用
       
               鳥居の先左側に聳え立つご神木
 
      参道左側に立つ社日神            社日の隣にある謎の石組
五穀豊穣を願う日本の社に比較的多い五角形の碑。
        
                                     拝 殿

 ところで本庄市児玉町宮内地区には、古くから『雨乞屋台』と言われる民話・伝説が存在する。宮内若宮神社にも関連する昔話である。

雨乞屋台
千年も前のこと。平安の時代、阿久原に牧があり、京から来た別当がいた。任期を終えた別当は京に帰ったが、時代が変わり扱いがひどく居場所がないので、阿久原に戻り、ここを一族の拠点とすることにした。息子の若宮の家をつくり、そこを宮内として開墾に精を出した。
ところが、先住の大蛇(ながむし)の一族が反対し、邪魔をするので難儀した。そこで若宮と別当は、尊敬する田心姫の力を借りることにした。田心姫は天下り、協力を約束した。金鑽様も面会に来たというその美しさには大蛇族も歯が立たず、和睦を模索した。そして、開発に協力するが、田心姫を大蛇族の司と結婚させてほしいと申し入れた。若宮たちは撥ねつけようとしたが、姫は笑顔で、術を比べて、天より持ち来た小さな手箱に入る術を司が示せば、結婚を承知しましょう、と言った。大蛇族は思わぬ朗報に夜通しのお祝いとなった。
あくる朝、姫への誠意と、美男子の司はただ一人指定の沼のほとりへ来、さっそく身を縮める術をもって、姫の手箱に入って見せた。しかしこれは計略で、姫は手箱に鍵をかけると、若宮に手箱を沼に放り入れさせてしまった。さらには、これは天の神の作戦であり、沼を埋め立てよ、と言う。
大蛇族は司が沼に沈んだのは神をおそれなかった結果仕方がないとしたが、せめて日照りのときは司の霊を呼び戻し雨を降らせるから、埋めるのは許してほしいと懇願した。そこで池を埋めるのをやめ、その周りを息をつかずに七まわり半できたら姿を現し司の霊を慰めよう、と田心姫は約束し、天へ帰ったという。
時代は過ぎ江戸のこと。大日照りが続いた。大蛇の話は皆したが、司の霊を呼び戻す方法が分からなかった。そこである年寄が、大八車に大蛇の姿を作って載せ、手箱池の周りを回ったらどうか、と思い付き、そのようにした。それで雨が降ったらお礼に若宮様へ雨乞屋台を奉納しよう、と。
そうして池を五回も回るともう雨が降り出し、大八車も操れぬほどになり、空だった手箱池も、たちまち道まで水浸しになった。村人たちはすぐに雨乞屋台を作り若宮に納めたという。今も御宝蔵にある雨乞屋台はこうした何百年もの物語を秘めて出番を待っている。

*児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会 『児玉郡・本庄市のむかしばなし 続』参照

 「雨乞屋台」と同じ昔話が「児玉風土記」にもあり、昔「てばこ」と呼ばれる小さい池があり、てばこ池(手箱池)の水が満ちた時に、池の周りを左回りに7回半、息をしないで回ると美しいお姫様が池から現れると言い伝えられていた。しかし実際には息をしないで7回半回れる人はいなかった為、お姫様を見ることはなかったようだ。
 本庄市児玉町宮内に鎮座される若宮神社と想定される「雨乞屋台」という民話。社の南方向には溜池のような池が沢山あるが、手箱池がどこに該当するか、そもそも現存するのかも不明だ。
 
  社殿左側で、謎の石組の隣にある石碑      社殿の隣に鎮座する境内社。詳細不明。
         
                    境内の様子

 風土記の昔の神話に近いフィクションの類と言ってしまえばそれまでの話だが、話の内容はかなり複雑であり、要約すると、大蛇(ながむし)という先住一族との抗争、そして和議と見せかけた姑息な計略でその民族を討伐する、なかなか辛辣な出来事である。今はまだこの話が正しく古代の何かを伝えるものなのか否かは断定できないが「大蛇族」というのは同児玉の南東に行って秋山(秋平)の方にも見え、一概に否定できないようにも感じる。


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「安保文書」「本庄の地名② 児玉地域編」「児玉郡・本庄市のむかしばなし 続」等                

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