古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野本日枝大神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本906
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧中妻鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020192,139.4194096,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本利仁神社同将軍塚古墳から埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東行し、「中妻」交差点の次のT字路を左折し北上する。260m程進むと路面は上り坂となり、「無量寿寺」の看板が見える三叉路に達するので、そこは一番右側のルートを進む。左手方向に注意しながら進むとすぐに左折する道幅の狭い道路が見え、その道路横に野本日枝大神社の朱の鳥居が見えてくる。
 左折した先で、社に隣接している「中妻公会堂」があり、そこには駐車できそうな僅かなスペースもあるので、通行車両の邪魔にならない場所に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                              住宅街の中に鎮座している社
 低地の多い東松山市下野本地域でありながら、県道沿いの標高が19m20m程に対して、社周辺は29m程の標高となっている。この中妻地区から以北は一段高い場所となっていて、中妻公会堂に進む道は傾斜のある上り坂となっている。
        
                      拝 殿
     周囲は住宅が立ち並んでいるが、この社周辺はひっそりと静まり返っている。

 日枝大神社 東松山市下野本九〇六(下野本字下川入)
『明細帳』によれば、当社は下野本の小字の一つである中妻の鎮守として寛文二年(一六六二)に創建され、初め「日吉山王権現」と称した。更に、貞亨三年(一六八六)に社殿の再建が行われたという。
 天明元年(一七八一)の棟札には「別当下野本村聖徳寺」や「大願山三十三世法印舜源」などの名が見える。聖徳寺は、『風土記稿』に「元は寺と云べき程にあらざりしを、元禄十一年(一六九八)一寺となり」と記される天台宗の寺院で、『郡村誌』には既に見当たらず、明治初年に廃寺となった模様である。その跡地は、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた所にあり、墓地が残されている。また、「大願山」とは、聖徳寺の本寺であった下青鳥村の浄光寺のことで、寺領二三石・末寺三九か寺を有する大寺であった。
 天台宗総本山延暦寺の護法神・守護神として崇められていた日吉山王権現を、同じ宗派の聖徳寺(あるいはその本寺の浄光寺)の僧がこの地に勧請したことは、十分に考えられよう。当社は聖徳寺(あるいは浄光寺)の寺領に文殊堂(当社南側にある堂)と共に祀られていたものであろうか。
 明治十年、諏訪神社・神明神社・天神社の三社が当社に合祀された。当社が合祀の中心に選ばれた理由は、水害に遭いにくい高台に鎮座していたことによるという。
                                  「埼玉の神社」より引用



 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
 入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていて、日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国し、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、同時に天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた

 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
 その後明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃されたという。

           本 殿                拝殿右側に鎮座する境内社
                        諏訪神社・神明神社・天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等  

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下押垂氷川神社

 東松山市下押垂、聞きなれない不思議な地域名だ。この下押垂は「しもおしだり」と読む。この地域は東松山市南部を東西に流れる都幾川東部河川沿いに位置する。東西約2.4㎞に対して南北は広くても地域西側にある「都幾川リバーサイドパーク」付近で、650m程しかなく、東西が極端に長い長方形の形で形成されている。そのことは『新編武蔵風土記稿』にも同様に「東西の経り二十町、南北は纔三四町にすぎず」との記載もある。
 嘗て都幾川は東松山橋の上流と下流で大きく蛇行していたが、河川改修が行なわれ、下押垂地域に流れる現在の河道は直線化されていて、まさに「都幾川と歩んできた地域」なのでであろう。
下押垂氷川神社は「河川の神」として当地住民の方々に厚く信仰され、都幾川の堤防傍に境内はあり、社殿は水塚の上に鎮座しているという。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市下押垂526
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧上下押垂村鎮守 旧村社
             
・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0120368,139.4116512,16z?hl=ja&entry=ttu
 下押垂氷川神社が鎮座する
下押垂地域は、下野本地区の南側に接し、都幾川左岸の低地で構成される一面田園風景が広がる地域である。社は丁度野本利仁神社から直線距離にして1㎞弱程真南に鎮座していて、途中までの経路は野本利仁神社を参照。国道407号線の東側を国道に沿って南北に通じる農道を南下し、「野本さくらの里」付近から進路が南東方向に変わり、その道を都幾川左岸の堤防方向に進むと、右手に下押垂氷川神社が見えてくる。
 社の東側に隣接している「下押垂公会堂」正面入り口手前には適当な駐車スペースもあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                 下押垂地域の南側で都幾川堤防から見る高坂地域の遠景
『日本歴史地名大系』 「下押垂村」の解説
 野本村の南、都幾川左岸の低地に位置し、北西は上押垂村。古くは同村と一村で、押垂村と称していたが、享保三年(一七一八)に願い出て分村した。松山領に属した(風土記稿)。両押垂村は都幾川が丘陵地から低地に出た所にあって、耕地・集落は同川の流れに沿って細く長く展開する。押垂の地名もこの地形に由来すると考えられる。押垂氏の名字の地。「尊卑分脈」によると押垂氏は藤原利仁流の野本氏を号した藤原基員の孫重基が押垂十郎を名乗っている。
 押垂は、現在の埼玉県東松山市付近に見られる地名で、中世にこの地を本拠とした在地武士「押垂氏」の名字と結びついた地名とされ、川沿いの低地に土を「押し垂らす」ように広がる地形に由来する説が有力という。
        
                                 下押垂氷川神社正面
 都幾川堤防のすぐ外側で、北側に目を転ずれば、一面田園風景が広がる長閑な場所にひっそりと鎮座している。境内参道左側には桜の樹木が、そして社の後背には杉の木々が並んで植えられている。
この社は嘗て、度々襲った都幾川の水難から村の鎮守として1700年代、大宮の氷川神社の分霊を祀った事から始まったと言われている。創建当時は国道407号線の東松山橋あたりにあったが、昭和50年河川改修と共に現在地に移ったという。
 
       河川近郊の社故か、          参道堤防側に設置されている
   参道の周りの雑草が生い茂っている。       「社殿移転新築記念碑」

この石碑によれば、建設省の河川改修工事により、本来字「宮の脇」に鎮座していた下押垂宮を昭和50年2月20日に社殿一切現在地に移ったという。移転した際には上下押垂地域の氏子の方々は新しい社の前で奉迎遷の祭りを施行し、御祭神である素戔嗚尊をお迎えしたという。
        
                              拝 殿
        水塚と云われる洪水の際に避難する水防施設上に鎮座している。
 氷川神社   東松山市下押垂三六四-七(旧下押垂字宮の脇)
 創建以来、「水の神」として厚く信仰されてきた社にふさわしく、当社の境内は都幾川の堤防の側にあり、その社殿は水塚の上に設けられている。元来、社地は、現在よりも二五〇メートルほど上流の字宮の脇(国道四〇七号東松山橋付近。現在は河道)にあったが、建設省による都幾川改修工事に伴う換地の結果、昭和五十年、字金塚にある現在の社地に遷座し、同年四月二十日に氏子を挙げてその遷座祭が斎行された。現在の境内の配置は、字宮の脇の境内の配置をそのまま復元したものであるが、地形の関係上、参道の長さが宮の脇にあったころに比べて三分の一程度になっている点が異なる。
 当社は、大宮(現大宮市)に鎮座し、武蔵国一の宮として信仰の厚い氷川神社の分霊を享保元年(一七一六)に祀ったことに始まるとされ、文化三年(一八〇六)には神祇伯から大明神号を受けている。それを記念して作られた社号額は現在も拝殿内に掛けられているが、その表には「氷川大明神」、裏には「西福寺五十四世義観受之 文化三年四月十六日 神祇伯資延王謹書印之 武州比企郡下押垂村」と彫り込まれており、大明神号の拝受は別当の西福寺により行われている。その後、当社は神仏分離を経て、明治六年に村社となり、同四十年四月十日、字山王塚から無格社日枝神社を合祀し、従来の祭神須佐之男命に加えて大山咋命が併せて祀られるようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用
 下押垂地域の北側面には下野本地域が接して存在しているが、鎌倉時代この地域には藤原利仁流野本氏が本拠地としていた。
 下野本地域にある「野本将軍塚古墳」の北側には無量寿寺が建っているが、嘗て野本氏の館がその地にあり、後代無量寿寺が建てられたという。野本氏の初代である野本左衛門尉基員は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり子孫は執権北条氏に重用されている。
 野本氏は藤原利仁流の系統で、元々京都出身でもあった。藤原基経に仕えていたというが、武蔵国野本に移り住んで「野本氏」を名乗ったという。本編には直接関係ないので、あまり深くは詮索しないが、如何なる経緯でこの野本の地に移り住んだのであろうか。
 その野本一族の一人に「押垂氏」がいる。押垂地域は本拠地の南側に接している地でもあり、また野本氏は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり、その子孫は執権北条氏に重用されているところからも所領地は少なからず増えたのであろう。押垂地域を一族が賜っても少しもおかしくない。武家政権であった鎌倉幕府を顕彰する歴史書である「吾妻鑑」には「押垂氏」に関して以下の記載がある。
 吾妻鑑卷十三「建久四年十月十日、野本斎藤左衛門大夫尉基員が子息元服し、将軍家より御鎧以下重宝等を賜る」
 卷二十一「建暦三年五月六日、和田の乱に、幕府方の討たれし人々に、おしたりの三郎」
 卷二十五「承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に押垂三郎兵衛尉の郎等敵一人を討つ」 
 卷三十「文暦二年六月二十九日、押垂左衛門尉時基」
 卷三十一「嘉禎二年四月二十三日、押垂左衛門尉・御使たり。八月四日、若宮大路の新造御所に御移徒の儀あり、押垂三郎左衛門尉晴基・これを役す。同三年六月二十三日、押垂左衛門尉時基」
 卷三十二「嘉禎四年二月十七日、将軍頼経入京す、随兵に押垂三郎左衛門尉」
 卷三十六「寛元二年八月十六日、的立押垂左衛門尉、射手子息次郎」卷四十「建長二年三月一日、押垂斎藤左衛門尉が跡」
 卷四十二「建長四年四月十四日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉基時。十二月十七日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉時基」
 卷五十「弘長元年十一月二十二日、押垂斎藤次郎を小侍番帳に加ふ」
 卷五十一「弘長三年二月八日、掃部助範元等は北条政村亭において和歌会を催す」
 卷五十二「文永二年五月十日、押垂掃部助・御使たり。十二月十四日、掃部助範元最前に御所に参ず
       
                            拝殿部から見た参道の一風景
『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』では野本押垂氏の系譜を「藤原利仁流、疋田斎藤為頼(越前国惣追捕使)―竹田四郎大夫頼基―基親―野本左衛門基員(住武蔵国)―野本左衛尉時員(従五位下能登守・摂津国守護)―(義兄)野本次郎時基(左衛門尉)―押垂十郎重基(実笠原親景子)、弟三郎景基」と記している。
 初代野本左衛門基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員を養子とした。時員は『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、野本の隣の押垂に住して押垂を名乗り押垂氏の祖となったという。但し時基は父である基員と同じく「左衛門尉」を称していて、従五位下の官位を賜り、能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している時員に代わって本拠地である野本を守っていたのではなかろうか。
             
                   都幾川堤防のすぐ北側に社の社叢林が伸びている。
         鳥居の入口付近には現在下押垂公会堂が建っている。
下押垂地域の南側は都幾川右岸である高坂地域であるが、土手から幾多の建築物が見え、「高坂ニュータウン」等の開発が進んでいる地域だ。左岸にひっそりと鎮座している氷川の神様はどのような面持ちでこの開発が進んだ地域を眺めているのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「吾妻鑑」「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」
    「埼玉の神社」「
高坂丘陵ねっと」「Wikipedia」等

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松山菅原神社


                
            
・所在地 埼玉県東松山市松山1150
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 325日 秋季例大祭 1025日 
                 感謝祭 
1215
 北吉見八坂神社から埼玉県道271号今泉東松山線を西行し、国道407号線と交わる「天神橋」交差点手前右側に
松山菅原神社は鎮座する。当社は、嘗て松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する
 国道や県道からは低い位置に鳥居があるが、社殿はそこから小高い丘の上に建てられている。
 県道から「天神橋」交差点に合流する手前に右折する道路があり、すぐ左側には専用の駐車スペースも確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を行う。
                
                    県道からは一段低い位置にある
松山菅原神社鳥居
 菅原神社 東松山市松山一一五〇(松山町字中道)
 当社は、かつて松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する。
 創建は、社伝によると応永年中(一三九四-一四二八)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
 以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈禱を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(一六〇九)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(一六六〇)の失火までは、東照大権現改葬の際、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。
 祭神は、菅原道真公で、現在内陣には菅公座像が安置されている。この像は、明治三十五年四月「菅公一千年祭」を記念して東京美術学校教授の竹内氏に依頼し、製作したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 県道から鳥居に達する下り階段もあり、配置が面白い。正面鳥居(写真左)からは階段を上がり、拝殿に到着する参道がある(同右)。
                
                                      拝 殿
         天神を祀る社らしく、拝殿前には一対の「狛牛」が立つ。

 神社には「神使(しんし)」と呼ばれる動物がいる。
「神使」又は「眷属(けんぞく)」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在である。「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。

 時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のように、本来は神使であるものが祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。

 神使とされる動物には、主に以下のようなものがある。
・鼠       大黒天
・牛       天満宮
・蜂       二荒山神社
・兎       住吉大社・岡崎神社・調神社
・亀       松尾大社
・蟹       金刀比羅宮
・鰻       三嶋大社
・海蛇    出雲大社
・白蛇    諏訪神社 大神神社
・狐       稲荷神社
・鹿       春日大社・鹿島神宮
・猿       日吉大社・浅間神社
・烏       熊野三山・厳島神社
・鶴       諏訪大社
・鳩       八幡宮
・鷺       氣比神宮
・鶏       伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
・狼       武蔵御嶽神社・三峰神社等奥多摩・秩父地方の神社
・鯉       大前神社
・猪       護王神社・和気神社
・ムカデ 毘沙門天

 因みに菅原道真公を祀る全国の天神様(天満宮・菅原神社・天神社)には、境内に「寝牛」や「撫で牛」と呼ばれる牛の像がある。牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからだが、その理由は次のように言われている。
道真の生まれた年が丑年
道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
道真は牛に乗り大宰府へ下った
牛が刺客から道真を守った
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
                
                              社殿から参道方向を撮影
 日本神話や古事記等の神話にも動物は度々登場し、生活のパートナーとしてだけではなく、神聖な存在としても人々の側に寄り添ってきた。神様の使いとして慕われる動物たちは、同じ次元にいながら我々とは違う「世界」に生きている神聖な存在といえなくもない。
 日本の神道は、全てのものには神が宿っているという「八百万の神」の考え方がある。動物にも神のような力が宿ると信じられていたからこそ、数多くの神使が誕生したのかもしれない。

 今も多くの祭りや行事、境内の中に神話の動物たちが登場する。動物を一事例として、神社や神話に向かい合うと、これまでとは違った楽しみ方や味わい方、更には今まで知らなかったことが見えてきそうである。
 動物との関係性の築き方には、文化や宗教など多くの要素が複合的に合わさっている。ぜひこれを機に、人間と動物の信仰的な関係性を調べてみては如何であろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等
       

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東平熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市東平1006
             ・ご祭神 熊野三所権現(推定)
             
・社 格 旧平村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 祈年祭 41日 例祭 71415
                  新嘗祭(秋祭) 1015日 冬至祭 1222
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0615575,139.4117204,18z?hl=ja&entry=ttu  
 東平熊野神社は国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後300m程進んだT字路を左折すると、正面突き当りに東平熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社は東平地域の東端近く、交通量の多い県道からは少し奥に入った場所で、丘の上に鎮座している。
 残念ながら周囲には専用駐車場はないようで、近隣のコンビニエンスストアに寄り、買い物を済ませてから参拝を行う。
        
                              丘上に鎮座する東平熊野神社
    
       重厚感のある一の鳥居            石段を登った先に見える二の鳥居
 県道からはやや奥に位置するとはいえ、交通量の多い県道の喧騒からは想像もできない位、境内は静まり返っていて、現代社会とうまく混じり合っているという印象。
 また境内もよく手入れされていて、気持ちよく参拝を行うことができた。
        
          一の鳥居のすぐ右側に設置されている社の案内板
 熊野神社 御由緒
 御祭神 伊邪那岐命ほか十二柱
 創 建 天慶三年(九四○年)頃 平安時代中期
     第六一代朱雀天皇御代 藤原秀郷による
 天慶三年(九四〇)藤原秀郷は、平将門の乱を鎮圧するために京都を出発し、群馬県の碓氷峠に差し掛かったある夜、不思議な夢を見た。その夢は、南方にたなびく紫雲を尋ねていくと、そこには紀州の熊野三社があり、老翁から「一棟の神社を建立し熊野三社を祀れば、必ず朝敵を滅ぼすことができる」というものであった。
 翌日、南方には一筋の紫雲がたなびき、そこを尋ねると、一株の松の根元から、ゆらゆらと紫雲が湧き上がっていた。そこで秀郷は持っていた鏑矢を松に立て、仮に熊野三社を勧請した。
 その後、朝敵を倒し、熊野の神徳に報いるため、三社の伽藍を建立した。これが当社である。
(覚性寺所蔵古文書「蘭若前録」の一部要約)
 *現在の社殿は、明治十四年十二月に完成し 明治十五年一月一日に遷宮されました。(以下略)                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 熊野神社   東松山市東平一〇〇六(東平字小橋)
 旧別当の真言宗覚性寺蔵の古文書には、次のような伝説がある。
 天慶三年(九四〇)に東国で反乱を起こした平将門を追討するために平重盛と共に都を発った藤原秀郷は、上州(現群馬県)碓氷峠まで進んだころ、不思議な夢を見た。それは、南の方にたなびく紫雲を尋ねて行くと、そこは紀州(現和歌山県)の熊野三社で、そこで一人の老翁から「自分は東海の平和を願うものである。紀州熊野三社を祀り、その神徳を頂いて戦えば、汝は朝敵を必ず滅ぼすことができ、汝の子孫は世々栄えるであろう」と告げられるというものであった。翌朝、秀郷ははるか南方に紫雲のたなびくのを見た。奇しくもそこを尋ねて行くと、一株の松の根元から雲が湧き上がっており、これこそ神のお告げと、秀郷は持っていた鏑矢をその松に立てて仮に熊野三社を祀った。これが当社の創祀で、その後の秀郷の武功は言うまでもない。
 乱平定の後、秀郷は神恩に報いるために当社の伽藍を建立し、以後郷人の崇敬を集めるところとなった。戦国時代、松山城落城に伴い、当社も兵火に罹ったものの立派に再建が果たされ、江戸時代には東平村の鎮守として『風土記稿』にもその名が挙げられている。更に明治四年には村社になり、同四十一年には字沢口の村社熊野神社(当社は上の宮、同社は下の宮と呼ばれていた)ほか七社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             本 殿               拝殿左側に鎮座する境内社
                            左より諏訪社、詳細不明           
  社に隣接している「子供広場」(写真左)に設置されている祭り用の舞台(同右)だろうか。
          
 東平熊野神社に隣接をしているのが子供広場となる公園で、春になれば桜を楽しむ人もいるし、夏季では715頃の土日, 子供みこし等のお祭りも開催をされているようだ。社の境内同様によく手入れされている。ただ、公園に入るには傾斜がややきつめの階段を上る必要があり、ご高齢の方には少し大変かもしれない。
        
                             参道からの一風景
 東平熊野神社に関しての資料は乏しく、現時点で説明できる内容はここまでである。但しこの社の鎮座する東平地域は、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫する国道407号線と、埼玉県行田市から東松山市に至る埼玉県道66号行田東松山線が交わる交通の要衝地でもある。
 東平地域の北側には「胄山古墳」があり、目を北西に転ずると「大谷瓦窯跡」「大谷雷電古墳」等の古代遺跡もあり、またこの国道407号線自体、嘗て「東山道武蔵路」とも推測されている道である。国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられ、東平地域はその古代の官道を包むようにして位置している絶妙な位置にある。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ひがしまつやま公園ガイド」
    「境内案内板」等

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大谷秋葉神社及び大谷瓦窯跡

「日本スリーデーマーチ」は、毎年11月初旬に埼玉県東松山市で行われる世界第2位、日本国内では最大のウォーキング大会である。埼玉県のほぼ中央に位置する東松山市周辺の比企丘陵には、武蔵野の貴重な自然が多く残っていて、東に望むと、広大でのどかな田園風景、西に望むと秩父の山々やすそ野に広がる小高い丘。各コースには文化財も多く、落ち着いた雰囲気を味わいながら歩くことができる。適当なアップダウンのコースとあいまって、自然豊かな丘陵地帯を楽しく歩けるコース設定になっている
 筆者も過去2回程参加したことがあり(どちらも5㎞)。気持ちよく秋の比企地域の風景を楽しみながら参加させて頂いたことを思い出す
 東松山市は「花とウォーキングのまち」として「日本スリーデーマーチ」のみならず、JVA認定のウォーキングトレイルが整備されている。このウォーキングトレイルとは、英語で自然道のこと。環境省は「森林や里山、海岸、集落などを通る歩くための道」と紹介されているが、東松山市はウォーキングトレイル「ふるさと自然のみち」が7つも設定されていて、郷土の自然、歴史、文化をたどるなど、それぞれの目的に沿った楽しみ方ができる
「大谷・伝説の里コース」もそのコースの一つであり、コース途中には「大谷秋葉神社」も設定されている。
        
             ・所在地 埼玉県東松山市大谷553
             ・ご祭神 火之迦具土神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 418日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0751749,139.3871759,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷秋葉神社は大谷地域中央部を東西に通る埼玉県道307号福田鴻巣線の南側に鎮座する。途中までの経路は大谷大雷神社を参照。大谷大雷神社から一旦埼玉県道391号大谷材木町線に合流して北方向に進路を取る。2㎞程先にある「大谷」交差点手前の十字路を左折して、1㎞程道なりに進むと、丘陵地の端部左手側に丸太の階段が見えて来る
 駐車スペースはないので、車両の通行に邪魔にならない場所に路駐して、その丸太の階段を徒歩で進むと、大谷秋葉神社の裏手に到着する。しっかりと正面から参拝したいので、一旦正面参道、石段等を降りてから、改めて参拝を行った。
 但し正面参道に隣接して民家も立ち並んでいて、この間を通る為、周辺にも駐車スペースはないようだ。
 位置的には東松山CCの北側隣に鎮座しているとイメージすると良いかもしれないが、ナビ設定も上手くできないので、社まで順調に到着するには難儀な場所かもしれない。
        
                    民家の裏手で入り口がやや分かり辛い大谷秋葉神社             
         石段の中腹附近に建つ鳥居         石段を登り終えたその先に見える社殿
 秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社であり、神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。
 秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治212月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説ある。かつて複数の寺社が秋葉権現の本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏せ(火防)に効験あらたかであるということから秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ(時の寺社奉行は大岡越前守)、結果秋葉権現は二大霊山とすることとし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社を『今の根本』、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は『古来の根本』となったという。
        
                                       拝 殿
 秋葉神社 東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)
 鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
 森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
 享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
 江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                            拝殿に掲げてある扁額
 
     拝殿の前面(写真左)・向かって左側(同右)には多くの額が奉納されている。
           中には「銭絵馬」と言われる奉納額もある。
        
                                       本 殿
 秋葉神社の総本社『今の根元』といわれる遠州秋葉山本宮秋葉神社の霊山にあたる秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった
 時代は下り、江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。
 因みに秋葉講(あきはこう)とは、江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかったため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していたという。
 また秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
        
               拝殿付近から鳥居方向を望む
 大谷秋葉神社から松山宿までの道筋が「秋葉道」と云われたこと、また幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられたということは、実際に遠州秋葉山本宮秋葉神社に詣でて、その風景を目にした多くの地元の参詣者たちが、少しでも本家にあやかろうと地域住民を巻きこんで、実現した当地にとっては貴重な遺産ともいえよう。
 
社殿から北側に伸びる「大谷・伝説の里コース」  秋葉神社の裏側にある丸太造りの階段
    ウォーキングトレイルの案内板      ウォーキングトレイルのコースになっている。


 ところで大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先には奈良時代前、所謂「白鳳時代」に営まれた登窯跡である「大谷瓦窯跡」が存在する。
【大谷瓦窯跡】
        
                      ・所在地   埼玉県東松山市大谷2192-1
                       ・稼働時期  飛鳥・白鳳時代(7世紀後半ごろ)
            ・指定年月日 昭和33年(1958)10月8日
                   国指定史跡文化財
 大谷瓦窯跡は、埼玉県道307福田鴻巣線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面にその遺構が残されている。大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先にあるが、ナビを使用しても番地では表示せず、付近一帯を随分と巡りまわって、やっと到着できた。
 大谷瓦窯跡の周囲は、今では何の特徴もない丘陵地の端部という印象だが、この比企周辺地域は、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器の生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
 古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
        
         比企丘陵地の斜面を利用した瓦専門の窯跡である大谷瓦窯跡

 案内板は2か所あり、細い道路に面した案内板は比較的新しいもので、窯跡の手前に設置された案内板の内容に加えて、新たに判明された事項も記されている。
        
                       大谷瓦窯跡正面 
        
                             大谷瓦窯跡 案内板(写真左・右)
 大谷瓦窯跡 昭和三十三年十月国指定
 瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。高熱に耐えられるよう火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強が慎重に行なわれています。
 大谷瓦窯跡は昭和三十年五月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。
                                      案内板より引用

 内部は傾斜角30度であることは確認できたが、内部は遺跡保存の為だろうか、コンクリートで整地されており、13の段になっていた焼成室は確認できなかった。
               
             道路沿いに設置されている新しい案内板
         ローマ字表示で判明した正式名は「おおや がようせき」
 大谷瓦窯跡
 大谷瓦窯跡は、昭和三十年五月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和三十三年十月八日に国指定史跡となりました。
 瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(七世紀)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
 この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は七・六〇メートルあります。
 窯は焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、燃焼部に瓦を利用して階段状に十三の段が造られていることがあげられます。
 出土遺物には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、七世紀後半頃と思われます。
 付近一帯は周辺に窯跡群が埋没しており昭和四十四年に県選定重要遺跡に選定されています。
                                      案内板より引用



 
 男衾郡太領壬生吉士福正は平安時代の武蔵国男衾郡の大領で官人。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(84157日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
 武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
        
                    大谷地区から北方・滑川町にある「五厘沼窯跡群」
              形状は大谷瓦窯跡とほぼ同じである。

 この人物は榎津郷に在住していたというが、榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていない。但し荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡(通称花寺廃寺)は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。
 7世紀頃に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。
 その壬生吉氏の誰かが、「大谷瓦窯跡」の開発・運営等を携わったのかもしれない。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷デジタルミュージアム」「東松山市観光協会HP」
     「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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