古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上唐子白山神社

「菊理媛神(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)」は加賀(石川県)の霊峰白山を御神体とする白山比売神社のご祭神である。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の社伝では、「白山比咩大神(=菊理媛尊)」として以下の言い伝えを記述している。
『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。(中略)菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。
                                   白山比咩神社HP
より引用
 但し神話上において、この神は『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に「一書曰」と一度だけ出てくるのみであり、日本神話上の神でありながら、天津神であるか国津神であるか、どのような系統・系列の神様で、そもそもどこから来られたのか、全く謎の神様である。この説話でも日本神話らしい、曖昧で正直よく分からない流れである。因みに伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲介した際に、菊理媛神が何を言ったのか、伊弉諾尊はどうして誉め、なぜその後去ったのかは不明で、一切書かれていない。ただし、菊理媛神により、伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦喧嘩が収まったのは事実である
 伊弉諾尊・伊弉冉尊にとって菊理媛神はどのような立場に位置する神であったのだろうか。
 現在では伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせたこの曖昧な説話をもって、菊理媛は縁結びの神として信奉されている謎多き女神である。

 上唐子白山神社の創建に関して、どのような経緯で、謎の多い「菊理媛神」を主祭神とした白山比咩神社を勧請したのかは不明である。但しその当時、この神の力が必要であった何かしらの切実な理由が創建当時前、この地にはあったのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1054
             
・ご祭神 菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉那美
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 42日 夏祭り 723日 秋祭り 1016日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0358701,139.3437236,18z?hl=ja&entry=ttu
 神戸神社に隣接する神戸公会堂から東松山市市民健康増進センター方向に進む道路を北上し、今では懐かしい「冠水橋」である鞍掛橋を渡る。都幾川鞍掛橋周辺一帯は「くらかけ清流の郷」という緑豊かな自然が楽しめる場所で、埼玉県の「川のまるごと再生」事業で、川遊びや手ぶらでバーベキューが楽しめるスポットだそうだ。嵐山町「嵐山渓谷」の岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と自然環境を持ち合わせ、同時に川遊びやバーベキューが楽しめる観光地でもあるが、嵐山渓谷やくらかけ清流の郷の存在自体、都幾川が埼玉県でも屈指の清流であることの証明でもあろう。
 因みに鞍掛橋の「くらかけ」という名前は
近くの山の形が鞍に似ているから
新田義貞が鞍を掛けた松があったから
川によって岩が削られて、岸壁を意味する「くら」が「欠け」ることから
 など、いくつかの話が由来だと言われている。
 鞍掛橋を渡りきり、そのまま道なりに進路を取り、埼玉県道344号高坂上唐子線に交わる「白山神社(南)」交差点を直進し、200m程進むと上唐子白山神社の白い社が見えてくる。
 社には駐車スペースはないが、南側近くに「上唐子集会所」があり、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                               上唐子白山神社 一の鳥居
        
      町中に鎮座する社。その為か二の鳥居までの参道途中に道路が横切る。
        
                             白を基調とした拝殿
 白山神社  東松山市上唐子一〇五四(上唐子字引野)
 社伝によると、当社の創建は寛文年間(一六六一-七三)のことで、当村の篠田三郎右衛門・堀越三右衛門の両名が尽力して加賀国の白山比咩神社を勧請し、社を建立したという。その後、享保年間(一七一六-三六)に社殿の再建を行った。嘉永二年(一八四九)の大火により類焼の憂き目に遭うが、安政四年(一八五七)に再興を果たした。
 往時の祭祀状況については明らかでないが、当社の西方三〇〇メートルほどの地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていたことが推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。
 現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられる。
 明治六年に村社に列せられ、昭和四年には隣接の畑五歩と宅地六坪余を境内に編入し拡張を行い、神饌幣帛料供進神社に指定された。同五十三年には社伝の再建を行い、現在に至っている。
 末社に三峰社がある。この社は、昭和四十年ごろまで氏子の間で結成されていた三峰講によって祀られていた社である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 新編武蔵風土記稿、上唐子村条には
「当所は古く開けし地と見えて、【関東合戦記】永享十二年村岡合戦の條に、長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本・唐子に逗留し、八月九日小山庄祇園城に着玉ふ云々とあり、野本も近き邉の村名なれば、唐子は当村なること明けし」
 上唐子村の小名として「原屋敷 大林屋敷 比企野」の3カ所の地名があり、「比企野 村の北を云、当所に白山社ありて、(略)此地は古くは太田道灌が陣所となりしことありという。」と記されている。

 享徳3年(1454年)から文明14年(1482年)までの期間、古河公方足利成氏(しげうじ)と、山内・扇谷上杉氏との間で30年近くに渡って続いた享徳の乱では、上杉一門は一致協力して足利成氏と戦ってきた。しかし文明8年(1476年)山内上杉顕定(あきさだ)の重臣である長尾景春(かげはる)が叛旗を翻し、翌文明9年(1477年)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走すると、長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。
 これを鎮めたのは扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(どうかん)である。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、抵抗を続けていた長尾景春も文明
12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。

 太田道灌は自ら30回以上も出陣しながら1敗もしていていない。不敗の理由の一つとして、兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたともいえ、また「築城の名人」とも言われ、戦において多くの計略をめぐらしてきたが、その要となる「城」が最も大事と気付いたのだろう。江戸のみならず、河越(埼玉県川越市)、岩槻(埼玉県さいたま市)など、多くの城を築いた。
 太田道灌は戦の天才のみならず、和歌の名人としても知られ、「山吹の花」でのエピソードはつとに有名である。詳しい内容は省かせていただくが、潜在的な才能もあり、自ら実践し、吸収してしまう努力家でもある、いわば「有言実行型」の典型的な人物であったろう。
 戦いに関しても、自ら現地に赴き、その場を視察し、その場での空気を読み、策を巡らし、果敢に勝利をつかみ取るような人物であったのではなかろうか。

「新編武蔵風土記稿・上唐子条」に記されている道灌が作った陣所もその類いではなかったのではと考察する。
 
   拝殿左側には石祠が鎮座。三峰社か。      拝殿右側にある「白山神社建築記念碑」
 白山神社建築記念碑
 当社の御創建は古く、寛文年間(1661-1672年)当地在住の信仰厚き人々相集い、菊理媛命、伊邪那岐命、伊邪那美命を御祭神に迎え祭り白山神社を創建す。
 享保年間(1716-1735年)更に再建されしが嘉永二年(1849年)大火により類焼の難を受く。安政四年新たに社殿を建立され緒人の信仰と崇敬を集め守護し来りしが百有余年の星霜を経て社殿の朽廃甚だしく氏子一同相計りて浄財を歓請し、昭和五十二年三月吉日 社殿を建築せしものなり。
                                       碑文より引用

        
   上唐子白山神社の道を隔てて南側にある、別当の常福寺にあったとされる阿弥陀堂

 当社の西方300m程の地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていた事が推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられるようだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市公式HP」「埼玉の神社」白山比咩神社HP」
    「Wikipedia」等


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神戸神社

 都幾川は東松山市西側に位置する嵐山町鎌形地区で槻川と合流し、蛇行を繰り返しながら東行し、高坂・早俣・長楽・赤尾地区で越辺川に取り込まれる。嵐山町鎌形地区の都幾川・槻川合流地点の標高が40m程で、そこから下流域・赤尾地区の標高が15m程になり、そこまでの距離が直線方向でも20㎞余となる。河川の特性として、上流部の山岳地帯の標高が高いと河川の移動スピードは速くなり、中流域以降はその標高差が上流部ほど高くないため川の流れは遅くなる。すると真っ直ぐ流れようとする勢いが小さくなり、流れる場所を変えるようになる。これが「蛇行」という状態である。
 蛇行の外側においては流水の速度が速くなり、侵食がみられるようになり(侵食面)、蛇行の内側においては、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになる(堆積面)。
 嵐山町大蔵地区から都幾川は南東方向に流れているが、東松山市神戸地区北西部には岩殿山地が聳え、その流路を遮り、進路が真東方向から南東方向に右カーブするような流れとなる。その結果神戸地区の都幾川左岸は蛇行の外側にあたり、流水の速度が速くなり、侵食が進むことから段丘崖となっている。一方右岸は上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積する広い河川敷があり、そこには雑木林を伐採してできた田畑が広範囲に広がっていて、堆積面特有の低地が続くため、東西に長い堤防が築かれている。
 東松山市神戸地域は、都幾川が蛇行して形成された堆積面を、西側から南側まで岩殿山地が取り囲むような場所に位置し、その低地面と山地面との境界付近に鎮座しているのが神戸神社である。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市神戸875
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭72425日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0196741,139.3453577,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後左折し、西方向に進路をとる。進路左側には岩殿山地の峰々が広がり、右側に目を移すと道路に沿って堤防が築かれている。堤防自体は都幾川が一旦北側奥に流路を移しているため途切れるが、雑木林を抜けると一面田畑が広がる風景となる。暫く進むと、神戸神社の社叢林が見えて来る。
 神社の隣には神戸公会堂があり、建物手前には駐車場も確保されているので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                県道沿いに鎮座する神戸神社
             因みに地域名「神戸」は「ごうど」と読む。
『日本歴史地名大系』による「神戸村」の解説によると、「都幾川を挟み上唐子村・下唐子村の南にあり、村域は都幾川右岸の低地から岩殿丘陵上に展開する。村の南から西にかけては丘陵、北から東にかけては都幾川が囲み、地名はこういった地形を表すゴウド(川渡・川戸・郷戸などと記す)に由来すると考えられる。田園簿では田高三八四石余・畑高一九九石余、相模甘縄藩領。元禄郷帳では高一千六四石余、国立史料館本元禄郷帳では大久保(勘解由)家など旗本三家の相給」と載せ、地域名の由来として、その地形から出て来た名であると書かれている。
 一方『新編武蔵風土記稿 神戸村』の項では、「村名を按に古伊勢御厨などありし所にや」と載せ、伊勢神宮が神領として領有していた中世荘園としての歴史的な経緯からの地域名と記述されている。
               
        一の鳥居の手前右側にある社号標柱と「神戸の獅子舞」の案内板
        
                「神戸の獅子舞」の案内板
 神戸の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 神戸の獅子舞は七月二十四、二十五の夏祭に、神戸神社で奉納される。
 獅子舞の由来はつまびらかでないが、獅子の太鼓に「寛政三年(一七九一)六月吉日、太鼓屋三左衛門」と墨書されている。
 この獅子は、昔は善能寺から出たものだが、寺が焼けてからは総代の家から、やがて社務所から出るようになった。
 旱魃の年には鞍掛淵の河原で雨乞獅子を舞い、又伝染病の流行した年には悪魔祓いに獅子が村中を廻ったという。
 獅子は「メジシ」「ナカジシ」「ホーガン」と呼ぶ一人立ちの三匹獅子舞で、昇殿カグラ、メジシカクシ、トンビガエシ等を舞う。その特色は「村まわり」をし、「土俵」の中で舞うことである。
                                      案内板より引用


 神戸の獅子舞  昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財―無形民俗)
 この獅子舞は、修理した時、太鼓を修理した際に『寛政三年(1791)六月吉日・武州熊谷梅町・太鼓屋三左衛門』と墨書されていたことから、230年ほど前から始められたと考えられます。古くは神戸(かんべ)(旧善能寺)で支度を整え、神戸神社まで街道下りを行っていました。善能寺が焼失してからは総代の家より、昭和3(1928)からは社務所で支度を整え、地区内を回り街道下りを行います。昭和41(1966)頃には奉納が困難となり、獅子舞演技が中止となってしまいました。村には「獅子舞の風にあたると病気にならない」との言い伝えがありましたが、獅子舞を中止した途端、赤痢や疫病などが流行ってしまい、一転演技復活の機運が高まり、昭和47(1972)有志により保存会を結成し、復活を果たしました。数年の休止でしたが、多くの演技内容が忘れられ、演技に関わってきた人の記憶をたどり、現在の舞の形態があります。夏の禮大祭では、神社の境内に、16俵の俵で土俵を作り(直径4メートル40センチートル)、舞庭が作られ、前庭・後庭に分け、神社に奉納します。その他では、昔、干ばつの時「昭和26(1951)」、「鞍掛渕(現在のくらかけ清流の郷)にすりこむ」といって、「戌亥黒雷天(いぬいくろらいてん)」の旗を先頭に、竹製の神輿と共に鞍掛山の麓の都幾川に隊列を成し練り込み、雨乞いの舞を捧げたと言われ、その帰途途中から「雷雨」に見舞われたと、長老が伝えています。また、疫病の時も、舞が奉納されたとも言われています。三匹の「獅子頭」は、見事な顔立ちで、特に雌獅子は、「一本角」で、舌を出しているなど、ひょうきんな姿も表現しており、地区の宝として、後世に残すべき貴重な文化財です。
                                  東松山市公式HPより引用
 
   一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居        鳥居上部には「牛頭天王宮」と
   木製両部型鳥居形式で、朱の鳥居           記載されている。
        
                                  拝 殿
 神戸神社 東松山市神戸八七五(神戸字天王)
 当地の人々は、初め村の西方の山上に谷地田を開いて集落をなし、ここに当社も鎮まっていた。その旧社地は、東松山グリーンセンターの西側にある山林内で、今に「天王山地」の地名で呼ばれている。これがいつのころか生産性の高い麓の平坦地に耕地を開いていくようになり、当社も集落と共に麓に移ってきた。
 当社の創建については、一木から三体の像を彫り、一つは尾張国津島の地に、一つは上野国瀬良田の地に、一つは武蔵国神戸の地に祀られ、いずれも牛頭天王と称したとの伝承が『明細帳』に記されている。氏子の間には「世良田の天王様は当社の兄弟だ」「津島神社が本社で、この地に分祀されたためにお札が本社から頒布されていた」との口碑が残されており、この記事を裏付ける。
『風土記稿』には、善能寺持ちの社として載る。善能寺は天王山と号する真言宗の寺院で、当社の西方四〇〇メートルの地に堂を構えていた。昭和初年まで当社の祀職を務めた神戸栄松は、この善能寺法印の裔であった。ちなみに、同寺跡地には歴代法印の墓石が残り、「法印権大僧都阿闍梨□及」の延宝五年(一六七七)とある墓が最も古い。
 明治初年に八雲神社と改称し、更に明治四十年には字中道の氷川社、字杉ノ台の愛宕社、字山王の日吉社を合祀して神戸神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                              境内の様子
      残念ながら参拝当日には参道にあるはずの「土俵」が見つからなかった。
 但し参道の石敷の通路が途中途切れている部分があり、そこの空間に盛り土をして「土俵」としているかもしれない。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「東松山市 観光情報HP」等
        

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葛袋神社

 境内碑 社碑
 当社は川北山根大平の三郷を以って葛袋となし、其の中央山頂に五社大神と南方に白髪大神を守護神として祀り、明治五年両社を合祀し村社に列せらる。明治三十三年社殿を改築し、同四十年愛宕神社及び八坂神社を合祀し。社号を葛袋神社と改称す。
 昭和六十一年十一月二十七日不慮の火災により、社殿を焼失し、氏子一同再建を誓い多額の浄財を寄進し、平成元年四月十六日竣工壮麗清浄なる神殿に神霊を奉安す。
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に伝えんとする。

        
              ・
所在地 埼玉県東松山市葛袋853
              ・
ご祭神 五社大神、白髪大神
              ・
社 格 旧村社
              ・
例 祭 春祈禱328日、夏祭り728日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.02187,139.3699435,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社は関越自動車道東松山インターから南西方向の都幾川中流域右岸に鎮座している。
埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進む。関越自動車道東松山インター付近で国道254号と交差し、同県道41号東松山越生線に変更となるが、関越自動車道に沿うような形で南下し、「高坂」交差点を右折し、道なりに500m程西行する。都幾川の土手が見える付近で左方向に曲がる細い道があり、そこを左斜め方向に進み、次の十字路を左折すると右側に葛袋神社の鳥居が見えてくる。
 社の隣には葛袋公会堂があり、その前には広い駐車場があるので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                 
葛袋神社正面一の鳥居
               
 東向きにある参道。参道の両脇には伐採された木々の幹が残っている。伐採される前は、緑豊かな社叢に囲まれていたのだろう。工業団地の造成に会わせて整備されたというが、社は社殿周辺が存在していれば良いという箏ではない。鳥居から参道を含む境内全体の荘厳な雰囲気もまた社の「品格」という意味において必要ではないかと感じた。
 但し陽光を浴びた「明るい社」という印象も同時に感じ、良い意味でさわやかな気持ちで参拝には望めたことも事実である。新しく改築された葛袋公会堂に隣接し、同時にその周囲の環境に合わせた社の整備をしているようで、新しい「社」の在り方をも感じた次第だ。
        
              比較的長い参道の先にある二の鳥居
        
                                     拝 殿

 葛袋神社  東松山市葛袋八五三(葛袋字山根)
 葛袋では、かつて村の中央にそびえる坂東山(標高八五メートル)中腹に五社権現宮、村の南方に白髭神社・愛宕神社・八坂神社をそれぞれ祀っていた。このうち白髭神社が村の鎮守であった。
 明治五年、白髭神社を坂東山の五社権現社に合祀して相殿となり、「五社大神・白髭大神社」と号して村社となった。更に同四十年、愛宕神社と八坂神社をこれに合祀し、同四十五年に村名を採って葛袋神社と改めた。次いで、大正五年には、坂東山の麓の現在地に社地を移した。この坂東山は、昭和二十九年からセメント材採掘のために秩父鉱業によって切り崩され、現在では跡形もなくなっている。
 このように、当社の中心となっているのは五社権現社と白髭神社である。五社権現社は、その社名から察するに、熊野十二所権現社の内の熊野五所王子と呼ばれる若一王子(天照大神)・禅師(忍穂耳尊)・聖(瓊々杵尊)・児宮(彦火々出見尊)・子守(鸕鶿草葺不合尊)の五柱を祀る社と考えられ、恐らく熊野修験により奉斎されたものであろう。一方、白髭神社については「(隣村の)下唐子の白髭神社(現唐子神社)が当社の兄さんである」との口碑が伝えられている。下唐子の白髭神社は、応永十八年(一四一一)の創建と伝えられることから、当社の創建もこのころまでさかのぼるのであろうか。
 昭和六十一年に社殿を焼失したが、平成元年に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿に掲げてある「葛袋神社」の扁額   社殿裏に境内社。左から大黒天・金毘羅大権現
                            金刀比羅神社・大黒天。


 ところで葛袋地区の中央部は、岩殿丘陵が張りだし、裾を都幾川が流れている。その丘陵の突端部に「坂東山」があった。坂東山一帯には、セメント原料で粘土の一種「頁岩(けつがん)」が埋蔵されている。昭和29(1954)7月粘土質原料の供給を目的として、粘土の採掘が始まる。粘土採掘場は「葛袋」とその西3kmに隣接する「高本」地区の2か所で最盛期には 60,000トン/月前後採掘、輸送していた。その後セメントの需要が減るのと海外製品に押されて原料採掘量の減少などから、平成20(2008)6 月葛袋採掘場の採掘は終了、また、高本採掘場跡地も平成5(1993)に清澄ゴルフ倶楽部に衣替えしている。
 坂東山の標高が 明治21(1888)発行の迅速測図では93.25m であったが、採掘等により、昭和36(1961) は採掘が始まって6年程しか経過していないが、既に坂東山は姿を消していた。
        

 平成21(2009)8月「東松山都市計画事業葛袋土地区画整理事業」が始まり、2年の歳月をかけて葛袋産業団地が誕生、大手配送センターなどの物流の拠点となっている。工場建設などに伴う建設投資による経済波及効果は 370 億円、操業開始後の生産活動等に伴う経済波及効果は、毎年255億円になるとの報告があるという.
 工業団地東側の「ばんどう山第2公園」内には、平成28(2016)41日「化石と自然の体験館」が開館されている。坂東山の姿は消えたが、跡地は産業団地として、また、「化石と自然の体験館」として活用され、廃線跡も遊歩道として有効活用されることになっている。

「化石と自然の体験館」は県内唯一の室内で化石発掘体験が出来る施設である。現在埼玉県は「海なし県」のひとつであるが、嘗て1500万年前はこの地域一帯は海であった。その証拠に同地ではサメの歯の化石がたくさん見つかっている。

 尚平成 26(2014) 7 月地名更新があり、葛袋産業団地の住所が「埼玉県東松山市坂東山(ばんどうやま)〒355-0067」となり、ここに坂東山が地名で復活した。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 化石と自然の体験館公式HP」等

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大谷大雷神社

 大谷大雷神社は鎮座する大岡地区は、東松山市の北部に位置し、大岡地区は、江戸時代には大谷村と岡郷村に分かれていたが、1889年比企郡大谷村、岡郷、市ノ川村、野田村、東平村が合併し大岡村となる。(数ヶ月後、市ノ川村、野田村、東平村が折り合いがつかず、3村離脱、松山町へ編入合併されたという後日談もあるが)
 大字大谷という行政区画となっている同地区は、浸食されてできた多くの谷が多く存在し、大岡地区の小字は 60 近くある中で 12 か所は「谷」がつく程、谷(やつ)がいかに多いかということを伺わせる。その為ため池や沼が多いのはこの地形によるものという。
 この地域は山間の地で非常に水利が悪く、川と言われる様な水の流れはなく全て谷(やつ)と言われる小さな谷ばかりで、必然的に水不足によって五穀は良く実らないことから雷電山の上を平担にして、大雷命〔水配(ミクマリ)の神様〕を祭祀し、干ばつの年には村民はもとより近郷近在の農民達挙げて雨乞い、降雨の祈願に詣でる等深く信仰されたそうだ。
 地域周辺には5世紀頃の関東屈指の規模の三千塚古墳群、7世紀頃の吉見百穴と同様の横穴墓群、その後奈良時代後期の頃の瓦窯跡として有名な大谷瓦窯跡等、太古の人々の営みを残す地でもある。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市大谷3506
              ・ご祭神 大雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭412日 夏祭り720日 新嘗祭1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0848777,139.3880127,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷大雷神社は国道407号を東松山方向に進み、「上岡」交差点を右折し、埼玉県道391号大谷材木町線を南下して行くと大岡小学校前の交差点に雷電山古墳の看板が掛けられているので、その看板に従って右折し、ゴルフ場方面へ進んで行くと、途中右手側に大雷神社への社号標と標柱があり、斜め右側に伸びる参道が続く。但し正確には一の鳥居は社から1.2程南にあり、まず参拝を行う前に一の鳥居に向かい、神橋から一の鳥居までの数十メートルの区間だけであるが、日本人としての礼儀を重んじ、最初にその場所に向かう。
        
 一の鳥居手前にある神橋。親柱には「雷電橋」と刻まれている。嘗ては大雷神社参道正面であった場所であり、社殿まで1.2㎞離れている。「雷電橋」は明治22年に大谷村氏子中が寄進したもので、東西に流れている角川の左岸には、同時に建てられた旗立、鳥居、大理石の敷石も現存している。
 
    鳥居に「大雷神社」と刻まれている扁額   鳥居もその前にある灯篭も明治20年頃に建立
 昔ながらの参道はここまでで、鳥居を抜けるとすぐに細い車道となる。そこからゴルフ場方面へ進んで行き、社号標が見える先を右に曲がると参道があり、その先には神社の鳥居が見える。鳥居の左側に社務所があり、手前の広い駐車スペースに車を停めて参拝を行う。
       
              雷電山古墳(大雷神社)標柱      大雷神社 社号標 
   参道の先には大谷大雷神社の鳥居が見える。    大谷大雷神社鳥居正面。二の鳥居となる。
        
                     石段の先には広い空間があり、社殿が正面に見える。
        
                                         拝 殿
 
            拝殿に掲げている扁額                本 殿
       
 大雷神社由緒沿革
 当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斉し御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元年己酉四月十二日と社伝に言い伝えられている貞観六年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ三大実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く五穀良く稔らず大神を祭祀してより五穀豊穣か伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され附近一帯には陪臣の墓と思はれる数百の古墳の群が散見せられた寛政十年壬午四月二十五日再建の社殿は村内はもとより大神の御神徳を稱える近郷近在の人等によって上遷宮が執行された寛政の頃には関東取締役人の御沙汰によって行なはれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され明治以前まで続けられ大谷のぼた餅相撲と名高かった寛永十年から五十九年後の安政四年近くの山火事より類火して本社火災の折御神体の奉斉せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の廣大さに村氏崇敬者益々畏敬の念を深めこの幣串を今も御神体として奉斉する安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された
昭和四十三年十月二十三日   大谷氏子中
        
 
                                     拝殿正面の彫刻
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していて「三千塚古墳群」と呼称され雷電山山頂の雷電山古墳を中心に、放射状に張り出す谷によって画された尾根状に9の支群に分かれて250基の古墳が分布していた。が今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。
 ところで大雷神社の祭神は大雷命で、水の神様である。大谷地区は水利の便が悪く、大雷命を祀って降雨祈願を行っていた。江戸時代、豊作の年の祭礼には江戸から力士を招いて奉納相撲が盛大に行われていたという。社の北西側端で、レストハウスへ通じる道の右側に立てられた「大雷神社祭礼相撲場跡」の案内板がある。
        
 大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡
 旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほどにぎわいました。この日、祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。
昭和613
月 東松山市教育委員会 案内板より引用
        
               大雷神社祭礼相撲場跡付近を撮影




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上野本八幡神社

「新編武蔵風土記稿 野本村条」による野本八幡神社の由緒には気になる一文がある。
 八幡社
 在家の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、當社往古は雷電社一社にして、祭神別雷の神なり、然るに白鳳元年志貴廣豊といへる人、八幡を勧請し、後又氷川を合祀せりと云傳ふれど、白鳳中の配祀など云こと甚疑ふべし、遥の後天正年中地頭渡邊忠右衛門より、八幡免田を寄附し、寛文二年再興ありしと云。神主布施大和。吉田家の配下なり。
 白鳳元年は西暦672年にあたる。この年に志貴廣豊(しきひろとよ)なる人物が、当地に八幡様を勧請したという。八幡様が東国に広がった時期はかなり後代であるので、風土記の編者の言い分にも妥当と考えるが、それよりここで気になるのは「志貴廣豊」なる人物で、ホームページ等にて調べても身元不明で、全く確認できない。
志貴」は「しき、シキ、シギ」とも読め、埼玉県にも「志木市」があり、決して埼玉県人には馴染みがない名称ではない。
 どのような素性、経歴の人物だったのだろうか。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市上野本1812
              ・ご祭神 大山咋命(推定)
              ・社 格 旧野本村在家鎮守
              ・例 祭 例祭101516
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0223835,139.4098935,18z?hl=ja&entry=ttu  
 旧野本村在家鎮守である上野本八幡神社は、国道254号東松山バイパスと国道407号が交わる手前の「八幡神社(北)」交差点を右折して暫く道なりに進むと、右側に上の元八幡神社が見える。南端の一の鳥居付近には適当な駐車場はないため、南北に長い参道の中間地点に「老人憩いの家」という集会所らしい建物があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこに停めて参拝を行う。
        
                上野本八幡神社正面一の鳥居
 道路沿いにある鳥居の右側には市指定文化財である「野本八幡神社の絵馬」と「上野本の獅子舞」の標が掲げられていて、案内板も設置されている。
 

野本八幡神社の絵馬(市指定文化財・有形文化財) 昭和四九年七月一〇日指定
 明治二五年(一八九二)、都幾川の堤防工事(明治二二~二四年)の完成を記念して、その労苦を後世に伝えるとともに、将来に渡って洪水から野本耕地が守られることを願って、拝殿に奉納されています。
 絵馬には、奉納のいきさつ(漢文)と当時の土手普請の様子が細かく描かれています。
 絵は山口曲山、漢文は嵩古香によるもので、いずれも野本出身の文人です。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
上野本の獅子舞(市指定文化財・無形民俗文化財) 昭和五五年一月一〇日指定
 一〇月一五日に近い日曜日、ここ八幡神社の秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われます。一人立ちの三匹獅子舞で、舞の構成は「ドヒヤリ」・「三匹ぞろい」の二曲形式で、「街道くだり」・「雌獅子隠し」・「歌の舞」となっています。獅子舞に先立ち、二人の青年によって「出棒」、「ずり棒」、「込め棒」の棒術が行われるのが特色となっています。「宝暦二年」(一七五二)銘の貼り紙を持つ太鼓や神社明細帳に「嘉永五年獅子頭再調」(一八五二)から少なくとも江戸時代後期には獅子舞が行われていたといわれています。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
        
                 鳥居より参道正面を撮影
 参道は長く、桜も満開の時期、周辺に住む人であろう方々が子供と一緒に春のひと時を楽しむ微笑ましい場面も見られた。
        
                   拝殿周辺を撮影
 
          拝 殿               拝殿に掲げている社号標
志貴廣豊」なる人物はどのような素性を持っているのか。その鍵となるのは「志貴」という苗字である。志貴」は「鴫(シギ)」とも読め、「志義、新儀、信議」とも記されることもある。
・川越宿志義町条
「志義町は昔鴫善吉と云し鍛冶の開きし所なり、故に鴫町と号せり、今志義町とかくは假借なり」。
・鍛冶町条
「天文弘治の頃鍛工平井某と云もの相模国より当所へ来りて住す、その門人鴫惣右衛門、同内匠などと云ものあり」。
・三芳野神社由緒書
「新儀惣兵衛允則重と云へるものは、其の先は新儀巧匠守と称し小田原北条家の麾下也。天文弘治の頃に小田原から門人十四人を率いて川越に移住す」。
・寛永十七年太刀銘 「武州川越住・新儀惣兵衛允則重作」。
・日蓮宗行伝寺過去帳
「宗善院淨心・鴫惣右衛門舅・卯年十月。妙受・鴫前ノ惣右衛門内・辰年八月。巌王院宗念・鴫惣兵衛・巳年七月。妙伝・鴫惣兵衛息女・寅年四月。妙千・鴫殿内千代・午年十二月。妙悦・鴫町衆・二郎右衛門母・寅年十一月。法悦・鴫町与三右衛門・辰年十一月。妙栄・鴫横町ノ甚右衛門内・未年十一月」

 上記の記述では、「
志貴」由来の地は志木市や川越市方面に多く存在し、「鴫・志義・新儀」等と記載されることもあるようだ。その一派が比企郡・野本地区に移住したと考えられる。またどうも古代鍛冶にも関連している地名・苗字でもあるようだ。「志貴廣豊」もそのような関係の人物である可能性も否定できない。
        
            拝殿の奥に静かに鎮座する本殿(写真左・右)。
       
            社殿の東側には御神木が聳え立つ(写真左・右)。
            
                拝殿手前に咲き誇る桜の大木
           桜はどの場所にあっても美しいことに変わりはない。
                まさに「日本の春」を象徴するような木。
 
     社殿の右側にある境内社         参道左側に並列している石碑・石祠等
             
               一の鳥居の右側にある庚申塔    
 上野八幡神社が鎮座する野本地区は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士である野本基員が始祖とされる野本氏がこの地域一帯を領有していた。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長の子である藤原利仁は、藤原秀郷と並び藤原氏が武家社会を創出していく時代を象徴する重要な人物である。延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜12年(912年)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守といった坂東の国司を歴任し、延喜15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千(蔵宗・蔵安)を鎮圧し武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記され、同年鎮守府将軍に就任。後代、中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原保昌・源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されている。
       
 平安時代後期
において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役である、藤原利仁の次男で、従五位上・斎宮頭である藤原叙用の子孫という片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされる。
 上記の内容のほとんどはWikipediaを参照としているが、「基員は御家人として源頼朝の信頼を受け、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した」との記述ひとつにも謎があり、京都では藤原氏の中でも主流の系図からはかなり外れてしまい、出世の見込みもなくなったであろう(片田)基親・基員親子が何故か何の縁もなさそうな武蔵国比企郡に移住している。
 偶然とは思うが、志貴廣豊」と「野本基員」は同じく野本地区に移り住んでいて、時代背景の違いこそあれ、何故か似た者同士のような境遇に重なってしまうのは、筆者の思い過ごしであろうか。
 

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