上唐子氷川神社
地域の南部には嵐山町との町境ともなっている都幾川(ときがわ)がゆったりと蛇行しながら南東方向に流れている。都幾川は比企郡ときがわ町大野付近から流れ、途中、比企郡嵐山町大字鎌形で槻川が合流し、最終的には川島町長楽 (坂戸赤尾の白山神社付近) で越辺川に合流する。
前々から気になっていた事項であるが、この都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称で正直まぎらわしい。嘗て『源平盛衰記』でも「月田川」と記していたが、風土記稿にはそのことに関して、「月田川とは槻川を槻田川と間違って記しただけで、青鳥村を流れるのは都幾川である」ことも補足として説明している。
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1674
・ご祭神 須佐男命
・社 格 旧村社
・例 祭 夏祭り7月23日に近い土日曜日 七鬼神社の祭典8月27日
秋祭り(おくんち)10月17日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352261,139.3352844,16z?hl=ja&entry=ttu
埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進し、その後650m程進んだ「南中学校前」交差点までは前項「下青鳥氷川神社」と同じ。この交差点を右折し、埼玉県道344号児玉往還道に合流後、4㎞程東方向に進行し、「上唐子」交差点を左折、今度は同県道172号大野東松山線に入り、そこを道なりに南西方向に600m程進んだ右側に上唐子氷川神社が鎮座している場所に到着することができる。
周辺には広い駐車スペースがあり、そこから社が鎮座している場所に移動する。
県道沿いに鎮座しているとはいえ、高台上に社はある為、一見すると分かりづらい。県道から右側に伸びる道幅の狭い道があり、徒歩にて移動し、参道正面の鳥居に到着する。
高台上に鎮座する上唐子氷川神社
写真で見る通り、県道沿いにありながら社の手前に立つと、周囲は樹木に囲まれた静寂な空気が日頃の喧騒を振り払うように包みこみ、階段下から境内方向を眺めると厳かな雰囲気が漂ってくる。
暫く社前で挨拶、今回の出会いに感謝し、頭を下げてから参拝を開始する。今まで何度となく書いているが、高台上・丘陵地面に鎮座する社は、平野地に鎮座する社とは違う独特な雰囲気が周辺を包みこみ、そのどれも「色」が違う。筆者の少ない経験上からいうこともおこがましいことだが、その「色」の違いを感じることもまた社参拝の意義であると信じている。
一段目の階段を登りきるとまずは神明系の鳥居に達する。
鳥居の先には、参道の階段の両脇に杉の大木が屹立し、鳥居の門の間からは拝殿が見える構図。
このような配置一つ取ってみても、社の神格を自然におし上げることができる。
鳥居の手前右側に設置された案内板
上唐子氷川神社 案内板
所在地 東松山市上唐子字沼端一六七四
由緒
氷川神社は上唐子の鎮守として祀られている神社です。 ご神体は須佐男命です。いつ頃の創建か明らかではありませんが、「新篇武蔵風土記稿」に「氷川神社、村の鎮守なり。近き頃までに社内に慶長十年(一六〇五年)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されていることから、一六〇五年以前であったようです。
慶安三年(一六五一年)に唐子村が上下に分村していたことが分かっていますから、この分村を機会に、氷川神社が上唐子の鎮守になったと思われます。
明治五年六月、上唐子村の村社となりました。
近年の大きな出来事として昭和六十一年六月二十二日、不審火によって本殿が全焼しました。又平成二十年八月二日、放火により再び本殿を焼失しました。氏子一同再建に力を合わせ、平成二十一年十二月十二日、本殿のの竣功祭、遷座祭を執り行いました(以下略)
案内板より引用
階段下からのアングルがまた良い。
階段を登りきると広い境内に達する。 再度階段下の鳥居方向を撮影。
拝 殿
氷川神社 東松山市上唐子一六七四(上唐子字沼端)
当社は大字上唐子の鎮守として祀られている。鎮座地は、上唐子の西方の高台にあり、林に囲まれた静寂な地である。
創建については明らかでないが、『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、近き頃まで社内に、慶長十年(一六〇五)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されている。
元禄元年(一六八八-一七〇四)までには、唐子村が上下に分村していたことから、この分村を機に上唐子村の鎮守となったものであろう。
別当の常福寺は、下青鳥村浄光院門徒で、無量山佛音院と号する天台宗の寺院であったが、明治 初年の神仏分離により廃寺となった。その跡地は、当社の東方三〇〇メートルほどの所である。
明治六年、古くから村の鎮守であったことから村社に列した。
造営については、慶長十年の再建の後、慶応二年(一八六七)に社殿大破に付き新たに建立されたことが『明細帳』に記されている。近年では、昭和六十一年六月二十二日に不審火によって社殿が全焼したため、二年後の同六十三年四月に氏子崇敬者の協力のもと、再建がなされている。
「埼玉の神社」より引用
上唐子氷川神社が鎮座する地は、都幾川が蛇行しながらも南東方向に流路を変える左岸高台上にあり、直線距離にして1.5㎞程上流部は支流である槻川が都幾川と合流していて、河川としても流水量が増え、河口幅が広がる地域である。当然この地に社を創建した目的も「水難からその地域の民を守る」為に氷川様を勧請・創建したのであろう。
拝殿左側に並んで祀られている境内社群。
左から「七鬼神社・疫神様」「八雲神社」「天神社・日吉神社」「稲荷神社」
実のところ、県道沿いに社があることは、参拝日前日に確認していたが、当地に行ってみて、駐車スペースから参拝を行う際に、ちょっとしたミスを犯してしまった。
参拝する際に、県道沿いに見えた石段があったので、そこを上がってみると、そこは社務所らしき建物に通じるルートで、正面の鳥居がある場所ではなかった。
県道から見える石段(写真左)。その石段を登ると「飯縄大善神」と刻印された石碑がある(同右)。「飯縄」とは信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神で、一般的には炎を背にし、利剣を持ち、白狐の上に乗る烏天狗めいた姿で描写されていて、関東以北の各地で熱心に信仰され、特に高尾山薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰されたという。
その飯縄信仰とこの地にどのような経緯があり、このように祀られたのだろうか.
「飯縄大善神」の石碑から県道側の斜面上に設置されていた「富士浅間神社」の石碑(写真左)。基礎部分には「登山記念」と刻印されている。またその奥にも祠があるが(同右)、詳細は不明。
ところで冒頭で掃海したこの都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称だ。『新編武蔵風土記稿』にもそのことに触れ、「比企郡之一 郡国 総説」には以下の記載を載せている。
【都幾川】
郡の中程を流る。水源は秩父郡大野村の山間より出、郡中慈光山の渓澗より湧出する清水と合して一条の川となる。慈光山を都幾山と号す故に此川を都幾川と号すと云ふ。又郡西別に槻川ありて下流、この川に合す。ときとつきとは音も近く似てまぎれやすし。
『源平盛衰記』に木曾越後へ退きにし頼朝勝に乗に及ずとて武蔵国月田川の端あをとり野に陣取とあり、
今下青鳥村は郡の中央にて則この川槻川と合せしより遙に下流の崖にあり。されば彼記に月田川と記せしは此川をさすこと明なり。田の字もし衍字ならんにも当時下流までつき川と号せしならん。されど今は槻川と合てより下流はすべて都幾川と号して槻川とはいはざるなり。此水流都幾山の下より艮へ流れ、鎌形村の北にて槻川とあひ、東流して又巽にをれ、上伊草村の西にて越辺川に入る、川路七里ばかり、上流は山間なり。下流平地の間には堤を築きて水溢にそなふ。河原の濶二百間、水清浅なれば所々に歩行渡する所あり。冬春の間ばかり橋を架して往来を通す、
【槻川】
西の方にあり。水原は秩父郡白石村の山間より出、郡中腰越村にいり、東の方へ屈曲して小川村に至る、此所にて兜川と云小流と合して一となり、鎌形村の北に至りて都幾川に入,水源よりこゝに至リて三里ばかり、川幅大丁五十間,
埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院である慈光寺(じこうじ)は、山号を都幾山(ときざん)といい、都幾川の由来ともなっている。慈光寺は江戸時代平村に所在し、平村と雲河原村は嘗て都幾庄(とき)を唱えていて、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山 (ときざん) からその庄名もきたという。
但し同時に平安時代中期に作られた辞書として有名な『和名類聚抄』には、比企郡都家郷を載せているが、「つけごう」と読み、更に平安時代末期に写本された『高山寺本』に「豆計」、室町時代中期の『東急本』、17世紀初頭の版本である『元和古活字本』に「都介」や高山寺本の系統に近いといわれる名古屋市博物館本にはわざわざ「ツケ」の訓がふってある。
つまり都幾川の「都幾」は「とき」よりも「つき」と読む可能性が高い書簡が多く存在することは確かであるだろう。
またこの「つき」地名に関しては、浦和市に鎮座する「調神社」にも関連する事項ではあるが、今回はかなり長くなったので、ここらで筆を下ろしたい。
参考資料「和名類聚抄」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「Wikipedia」「境内案内板」等