古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野本日枝大神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本906
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧中妻鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020192,139.4194096,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本利仁神社同将軍塚古墳から埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東行し、「中妻」交差点の次のT字路を左折し北上する。260m程進むと路面は上り坂となり、「無量寿寺」の看板が見える三叉路に達するので、そこは一番右側のルートを進む。左手方向に注意しながら進むとすぐに左折する道幅の狭い道路が見え、その道路横に野本日枝大神社の朱の鳥居が見えてくる。
 左折した先で、社に隣接している「中妻公会堂」があり、そこには駐車できそうな僅かなスペースもあるので、通行車両の邪魔にならない場所に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                              住宅街の中に鎮座している社
 低地の多い東松山市下野本地域でありながら、県道沿いの標高が19m20m程に対して、社周辺は29m程の標高となっている。この中妻地区から以北は一段高い場所となっていて、中妻公会堂に進む道は傾斜のある上り坂となっている。
        
                      拝 殿
     周囲は住宅が立ち並んでいるが、この社周辺はひっそりと静まり返っている。

 日枝大神社 東松山市下野本九〇六(下野本字下川入)
『明細帳』によれば、当社は下野本の小字の一つである中妻の鎮守として寛文二年(一六六二)に創建され、初め「日吉山王権現」と称した。更に、貞亨三年(一六八六)に社殿の再建が行われたという。
 天明元年(一七八一)の棟札には「別当下野本村聖徳寺」や「大願山三十三世法印舜源」などの名が見える。聖徳寺は、『風土記稿』に「元は寺と云べき程にあらざりしを、元禄十一年(一六九八)一寺となり」と記される天台宗の寺院で、『郡村誌』には既に見当たらず、明治初年に廃寺となった模様である。その跡地は、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた所にあり、墓地が残されている。また、「大願山」とは、聖徳寺の本寺であった下青鳥村の浄光寺のことで、寺領二三石・末寺三九か寺を有する大寺であった。
 天台宗総本山延暦寺の護法神・守護神として崇められていた日吉山王権現を、同じ宗派の聖徳寺(あるいはその本寺の浄光寺)の僧がこの地に勧請したことは、十分に考えられよう。当社は聖徳寺(あるいは浄光寺)の寺領に文殊堂(当社南側にある堂)と共に祀られていたものであろうか。
 明治十年、諏訪神社・神明神社・天神社の三社が当社に合祀された。当社が合祀の中心に選ばれた理由は、水害に遭いにくい高台に鎮座していたことによるという。
                                  「埼玉の神社」より引用



 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
 入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていて、日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国し、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、同時に天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた

 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
 その後明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃されたという。

           本 殿                拝殿右側に鎮座する境内社
                        諏訪神社・神明神社・天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等  

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