古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柏崎鷺大神社

 東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」は,面積5hrに及ぶ古墳時代の大遺跡である。
 古墳時代前期の集落址で、
1954年以来5回にわたって発掘調査され,総数 150ヵ所以上の竪穴住居址と,多量の遺物 (土器,石製品,土製品,鉄器など) が出土した。出土した遺物のなかには,従来未知の古墳時代前期の土器が存在し、遺跡にちなんで五領式土器と名づけられた。竪穴住居址は,古墳時代前期から奈良時代まで各時期のものがすべて含まれていて,古墳時代の竪穴住居の構造と集落形態の変遷が具体的に把握できた。五領式土器を出土する竪穴住居址は,中央の広場を囲んで計画的に配置され,農業共同体の単位集団が初めて明らかにされた。また鬼高式土器を出土する古墳時代中期の竪穴住居址には,全てかまどが付設され,竪穴生活の発展が顕著であった。
 遺跡は未発掘の場所がまだあるが,東国の古代集落の研究に,多くの資料を提供する重要な遺跡であることは間違いない。
 「埼玉の神社」にも記されているが、柏崎地域内には、「五領遺跡」のような古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡等の遺跡が確認されている。また、隣接の「古凍(フルゴオリ)」という名称自体比企郡の古えの郡家の地(古郡)であったのではないかと推測され、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すと同時に、この地域の文化面及び経済面においても中心地であったことが想像できよう。社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見され、現在本殿に神体として奉安されている大きな自然石が、このことを暗示しているのではなかろうか。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市柏崎744
              
・ご祭神 大国主神
              
・社 格 旧村社(推定)
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0272572,139.4181091,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本日枝大神社から一旦北上し、国道254号線「東松山バイパス」高架橋の下を潜り、突き当たりのT字路を左折する。進行方向右手にスーパー銭湯があり、その手前の路地を右折し300m程進み、更に左折すると正面に柏崎鷺大神社の鳥居が見えてくる。
        
                  柏崎鷺大神社正面
 柏崎鷺大神社が鎮座するこの地は標高30m程で、東松山台地の東方に長く張出した舌状台地の部分に位置する。東松山市内の市野川右岸に位置する柏崎、古凍、今泉各地域には、通常埼玉県東部に鎮座している鷲・鷲神社が飛び地のように3社珍しく分布している。
 
         石製の鳥居           鳥居の社号額には「鷺大神社」と表記
        
                             参道の様子
               境内は日々の手入れも行き届いていて、さっぱりとした第一印象。
        周囲には民家も少なく、静かな境内。どこか牧歌的な雰囲気もある。
        
        参道を進むと拝殿手前で右側に「鷺大神社御造営記念碑」が設置されている。

「鷺大神社御造営記念碑」
 鷺大神社は當所柏崎鎮守にして大国主神を主祭神と齋き奉る古社なり むかし 天神あまねく民を慈み給い医薬の道を弘め給い謙譲忍耐和衷協同もって国土を開拓し民生を安んじ給えり されば萬人齋しく神徳を景仰する中にもわれらの祖先はこの地を神奈備と定め社殿を造営して代代祭祀怠(むす)厚き神(護)の下孜孜として村づくりにいそしみ来れり
 爾来幾星霜社殿の毀損老朽甚しく再建の議澎拝として起る 時あたかも天皇陛下御在位満五十年に當り佳辰を奉祝して社殿及び社務所再建を決議す
 即ち昭和五十一年四月三日假遷座祭及び起工式を執行同年十一月二十一日竣功同夜浄〇の禮に壮麗清〇の社殿に神霊を奉安翌二十二日奉祝祭を執行す
 思うにこの御〇〇は神社神道の根本義たる敬神崇祖尊皇の精神を遺憾なく発揚せる當代氏子の快挙と謂うべし
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に傳えんとするものなり(以下略)
                                                      「鷺大神社御造営記念碑」碑文より引用
*御影石の光の反射等の影響で解読不可能な所には〇、ないしは( )を付けています。
ご容赦の程を願いたく思います。旧字体はそのまま記しています。

 流石に埼玉県神社庁長が選文した文章は美しい日本語を用いて記されている。中には旧字体もあり、現代を生きる筆者の拙い語学力では到底理解できない所もある。難しい単語には一々辞書等で確認をしたので時間がかかる作業であったが、「一音・一義を大切にする」日本語の奥ゆかしさを改めて知る良い機会ともなった。

 ところで選文した文章の中には、難しい単語が幾つかあり、後学のためこの場を借りてご説明する。
澎拝(ほうはい)
 ・水がみなぎり逆巻くさま ・ 物事が盛んな勢いでわき起こるさま
孜孜(しし)として」
 ・学問、仕事などにいっしょうけんめい励み努力してやすまないさま
 ・怠けないで熱心につとめるさま
佳辰(かしん)」
 ・めでたい日のこと。よい日柄。吉日
「假遷座祭」
 ・神社で一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、神様を修繕工事中の間別の場所へお遷しする「假殿遷座祭」を施行するのが習わしという。
        
                     拝 殿

 鷺大神社 東松山市柏崎七四四(柏崎字見入)
 東松山台地の北部を侵食して流れる市野川は、柏崎の辺りで北から東に大きく川筋を変える。柏崎の名はこのように市野川の屈曲点に当たったためにできた地形によるもので、「柏」が山麓・砂丘・自然堤防などの傾斜地を意味し、「崎」が川の屈曲点に土砂が堆積して生じた自然堤防の先頭(崎)を表している。当社の社名もこのような地形にちなんでいると考えられ、高台の「崎」に祀られた神が、後に「鷺の宮」と呼ばれるようになったのであろう。
 地内には、古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡などの遺跡が確認されている。また、隣接の古凍は比企郡の古えの郡家の地であったと伝えられ、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すとともに、この地方の文化の中心地であったことを物語る。恐らく、社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。現在、本殿に神体として奉安されている大きな自然石(昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見された)が、このことを暗示する。
 当社の歩んできた歴史を語る史料の一つに、宝暦六年(一七五六)二月一日付で神祇管領卜部兼雄から拝受した「鷺大明神幣帛」がある。この幣帛を受けるに際しては多額の金品を要し、村を挙げてその拝受を祝ったと伝えられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    「鷺大神社」と記された扁額               本 殿
        
 参道を進み、拝殿手前で南側から社殿に通じる参道があり、そこには正面参道とは違う古い社号標柱や木製の鳥居が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「境内記念碑文」等
 

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