上敷免諏訪神社
深谷上杉氏には、深谷三宿老や深谷上杉四天王と呼ばれる家臣たちがいた。岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人を通常「三宿老」、これに上原出羽守を入れると「四天王」という。
重臣筆頭の岡谷香丹・加賀守清英親子は文武両道に秀でた良将だったようだ。自身の本拠地は延徳三年(1491年)父岡谷香丹築城した武蔵国榛澤郡上敷免の「皿沼城」にあって、利根川を渡って攻めてくる北の古河公方足利成氏や新田金山城の由良氏からの押さえをしながら、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請して、上野台八幡神社を創建させたりしていている。また天文十八年(1549年)清英は萬誉玄仙和尚を招いて清心寺を開基した。清心寺には源平一の谷の戦いで岡部六弥太に討たれ、岡部六弥太が建てた平忠度(ただのり)の五輪塔墓がある。後に上杉謙信も清英の武勇に感銘を受け後奈良天皇から賜った箱根権現像を送ったという逸話が残っている。
・所在地 埼玉県深谷市上敷免940
・ご祭神 建御名方神命
・社 格 旧上敷免村鎮守 旧村社
・例祭等 祈年祭 2月24日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月5日
*祭日は「大里郡神社誌」を参照。
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2107926,139.2907058,17z?hl=ja&entry=ttu
上敷免諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸(東)」交差点で左折、埼玉県道127号深谷飯塚線に合流してすぐの先の5差路で埼玉県道275号由良深谷線と合流するので、17号バイパスと並行する形で、西方向に進む。一面のどかな田園風景が広がる中、道なりに真っ直ぐに進み、途中「あかね通り」の歩道・自転車道があり、そこを注意しながら進むと、正面に上敷免諏訪神社が見えてくる。
信号のある交差点の右側はすむかいに社が鎮座しているが、社に隣接した北側にある空間が駐車場となっていて、そこに車を停めて参拝を行った。
因みに上敷免諏訪神社が鎮座する交差点を更に西方向に進み、唐澤川に到達する手前右側には「皿沼城跡」の案内板があり、室町時代に深谷上杉氏の筆頭家老である岡谷加賀守香丹の築いた城である事と、今回紹介する社も、皿沼城築城に際して城の鎮守として延徳3年(1491)に創建したと伝えられている。その後皿沼城は天文21年(1552)に廃城になったが、いつしか泉光寺持ちとして、地元の方々から上敷免の鎮守として祀られるようになったと謂われている。
上敷免諏訪神社 正面
社号標石
鳥居から正面参道を撮影。参道はその後直角に曲がり、南向きの社殿に向かう。
鳥居のすぐ先には樹齢300年以上と推定されるご神木の大欅あり(写真左・右)。
こじんまりとした拝殿
上敷免諏訪神社には由来等木下案内板はない。そこで西側近郊にある「皿沼城」の案内板を参照としたい。皿沼城も上敷免諏訪神社も同時期に岡谷加賀守香丹の築いた城であり、社でもある。
唐澤川土手上にある「皿沼城」の案内板(写真左・右)
○皿沼城
深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。
案内板より引用
社殿の右側には稲荷社と推定される社(写真左)。深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました際に、伏見神社を城内に祀ったという。また稲荷社の右側奥には、御嶽山大神・三笠山大神・八海山大神の石碑、囧御先大神・大山祇大神の各石祠(写真右)が並ぶ塚もある。
鳥居付近から撮影。このアングルでは欅が社の中心に見える。
「埼玉の神社」には上敷免諏訪神社を創建した岡谷氏について以下の記載がある。
「深谷城上杉氏の重臣であり、鎮守府将軍源経基の子孫と伝える岡谷加賀守香丹が、延徳三年(一四九一)当地に皿沼城を築いて住んだ時、城の鎮守として、岡谷氏の旧地である上野国岡谷(現群馬県沼田市岡谷町) から、諏訪大明神を勧請したものである。この諏訪大明神は、古い時代に、信濃国岡谷(現長野県岡谷市)から上野国岡谷に移り住んだ人が、信濃国の一之宮である諏訪大社を祀ったものと考えられる」
また神社に設置されていた「諏訪神社のいわれ」によると
「鎮座地の地名である上敷免は雑色免の転訛という。雑色免とは古代、種々の技術に従う人をいい、雑色免は、荘園において雑色の報酬として給付された免税地である」
という。
深谷市は「瓦」「煉瓦」の街とも言われている。奈良時代、聖武天皇の時代から造られてきた「深谷瓦」は品質が優れていることから、県内はもとより、関東一円で広く利用されてきた。というのも、利根川と小山川の氾濫土が豊富に堆積していて、瓦製造に必要な原料である良質な粘土には事足らなかった為、古くから瓦などを焼く職人集団が、租税を免除されてこの地に沢山住んでいたのではなかろうか。
同時に、深谷瓦の生み出した土は煉瓦(レンガ)にも適していて、明治時代からは煉瓦製造にも手掛け、深谷で製造された煉瓦は、東京駅、日本銀行旧館、東京大学、赤坂離宮など有名建築に使用されていた。
明治20年(1887)10月に日本煉瓦製造会社の工場が上敷免地域に設立されたことは、明治・大正期の実業家である「渋沢栄一」の意向(生まれ故郷に工場を誘致したい)も否定できないが、最終決定には、当時のドイツ人の煉瓦技師であるチ-ゼが、現地踏査と土質調査を基に決定したことである。
埼玉県民でも読めない地名のひとつに数えられる「上敷免」という地名だが、そこにはそれだけの歴史的な深さのある由緒ある地名なのである。