高畑鷲宮神社
當社(高畑鷲宮神社)の創建年代は不詳。武蔵国埼玉郡鷲宮村鷲宮神社の御分配といい、鷲宮は土師宮の転語で、土師部に属する一族はその由来は全社共通の伝えでもあるという。この地域には古墳時代後期の集落跡が確認されているのも、土師に関係している地域だからであろうか。
またこの地は元藤田の庄に属し、岡部郷の地頭である岡部六彌太忠澄の領地が高畑地域もあり、鬼門よけの祈願所として創建したという。
社及びご祭神に関係ある地名も「鷲宮・岡部田・手洗橋・船橋・鳥居畑・御供田・燈籠面」等あり、「鷲宮」は神域周辺の地名で、「岡部田・御供田」は岡部六彌太忠澄の遺名であったという。鷲宮神社の氏子等らは、古来から「鶏」を食べず、愛護する信仰があり、他町村に嫁ぐ女子までもが、この信仰を頑なに守ったという。また鎮守の忌み嫌うとして、お茶やきびを耕作しなかったという。
またこの地は元藤田の庄に属し、岡部郷の地頭である岡部六彌太忠澄の領地が高畑地域もあり、鬼門よけの祈願所として創建したという。
社及びご祭神に関係ある地名も「鷲宮・岡部田・手洗橋・船橋・鳥居畑・御供田・燈籠面」等あり、「鷲宮」は神域周辺の地名で、「岡部田・御供田」は岡部六彌太忠澄の遺名であったという。鷲宮神社の氏子等らは、古来から「鶏」を食べず、愛護する信仰があり、他町村に嫁ぐ女子までもが、この信仰を頑なに守ったという。また鎮守の忌み嫌うとして、お茶やきびを耕作しなかったという。
・所在地 埼玉県深谷市高畑1
・ご祭神 武夷鳥命 天穗日命 日本武尊
・社 格 旧高畑村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 4月11日 初酉祭 11月上酉の日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.218886,139.2827665,17z?hl=ja&entry=ttu
高畑鷲宮神社は国道17号バイパスを本庄方面に向かい、「深谷警察署前」交差点で右折。次の「高畑」交差点を左折すると、すぐ右側に「円能寺」が見えてくるので、お寺の駐車場手前の細い十字路を右折して道なりに真っ直ぐ進むと、正面に高畑鷲宮神社の鳥居が見えてくる。この社の住所は高畑1。いわばこの地区の中心地に位置する社ともいえる。
一の鳥居の先は参道となるわけだが、世界かんがい施設遺産として登録された「備前渠用水路」が東西に流れていて、このかんがい施設に架かる「宮橋」と呼ばれる神橋を渡って境内に入る。駐車スペースはその境内に入り、社務所周辺に数台停めることができる場所があるが、そこは神様の神聖なる場所でもあり、慮って一の鳥居前の路肩に駐車して参拝を行った。
因みに筆者の一族が眠る菩提寺はこの円能寺で、筆者自身その一族の末に当たる。姓は「吉田」でこの一族はこの地域に多く存在する。現在実父はこのお寺に眠り、月命日には多少日にちは前後するが、必ず参拝に赴いている。故にこの地域の地理にも多少は明るい。
高畑鷲宮神社 一の鳥居
一の鳥居手前左側にある「備前渠用水路」の看板
○世界かんがい施設遺産に「備前渠用水路」が登録されました。
「備前渠用水路」が令和2年12月8日にWeb会議で開催された国際かんがい排水委員会(ICID)国際執行理事会において、備前渠用水路が「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市、を流れ、利根川右岸の水田にかんがい用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。
1604年に江戸幕府代官頭の伊奈備前守忠次により、1年間という期間で開削された埼玉県で最古級の用水路で、伊奈備前守の官名から「備前堀」の愛称で親しまれています(中略)
用水路の開削から約400年を経過した現在も同じ流路で素掘水路区間が多く残っており、開削当時の面影を今に伝える歴史的にも貴重な用水路となっています。また地下水の涵養、農村景観の維持、生態系の保全、洪水の防止などの多面的機能を有しています(以下略)
主な概要
●取水源…利根川
●幹線水路延長…約23km
●受益面積…1,400ha
●取水量(最大)…9,185㎥/秒
●設備概要…取入水門、第3樋門、矢島堰 案内板より引用
橋から眺める備前渠用水路の風景(写真左・右)
備前渠用水路は埼玉県では「見沼代用水」に続いて2施設目の「世界かんがい施設遺産」となる。この「世界かんがい施設遺産」を南北に横切るように鷲宮神社が鎮座しているが、鷲宮堰という取水堰があり、そのすぐ東側に鷲宮神社の神橋である「宮橋」があり、その参道の先に社殿がある。
参道先にある二の鳥居
拝 殿
因みに筆者の一族が眠る菩提寺はこの円能寺で、筆者自身その一族の末に当たる。姓は「吉田」でこの一族はこの地域に多く存在する。現在実父はこのお寺に眠り、月命日には多少日にちは前後するが、必ず参拝に赴いている。故にこの地域の地理にも多少は明るい。
高畑鷲宮神社 一の鳥居
一の鳥居手前左側にある「備前渠用水路」の看板
○世界かんがい施設遺産に「備前渠用水路」が登録されました。
「備前渠用水路」が令和2年12月8日にWeb会議で開催された国際かんがい排水委員会(ICID)国際執行理事会において、備前渠用水路が「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市、を流れ、利根川右岸の水田にかんがい用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。
1604年に江戸幕府代官頭の伊奈備前守忠次により、1年間という期間で開削された埼玉県で最古級の用水路で、伊奈備前守の官名から「備前堀」の愛称で親しまれています(中略)
用水路の開削から約400年を経過した現在も同じ流路で素掘水路区間が多く残っており、開削当時の面影を今に伝える歴史的にも貴重な用水路となっています。また地下水の涵養、農村景観の維持、生態系の保全、洪水の防止などの多面的機能を有しています(以下略)
主な概要
●取水源…利根川
●幹線水路延長…約23km
●受益面積…1,400ha
●取水量(最大)…9,185㎥/秒
●設備概要…取入水門、第3樋門、矢島堰 案内板より引用
橋から眺める備前渠用水路の風景(写真左・右)
備前渠用水路は埼玉県では「見沼代用水」に続いて2施設目の「世界かんがい施設遺産」となる。この「世界かんがい施設遺産」を南北に横切るように鷲宮神社が鎮座しているが、鷲宮堰という取水堰があり、そのすぐ東側に鷲宮神社の神橋である「宮橋」があり、その参道の先に社殿がある。
参道先にある二の鳥居
拝 殿
現在この地区は「高畑」と表記されているが、この社にある灯篭には「高畠」と彫られている。嘗ては「高畠」地名だったのだろうか。
地形的に見るとこの社は、「備前渠用水路」と小山川に挟まれる狭い場所に鎮座している。
拝殿上部に掲げてある社号額
拝殿手前左側に聳え立つご神木(写真左・右)
拝殿左側に鎮座する境内社(写真左。右)
御嶽塚(写真左)。塚の中心には御嶽山座王大権現・三笠山刀利天・八海山大頭羅神王があり、祀られている。石祠は三峯神社(写真右)。左側の建物には神輿と小さな木造の祠が納められている。
ところで高畑鷲宮神社近郊には「高畑遺跡」が存在し、古墳時代後期の集落跡が確認されている。高畑遺跡は、標高は約35m、遺跡の範囲は約59万㎡と推定され、1次調査では、古墳時代~中世にかけての溝5条、河川跡等が確認されている。また、下水道工事時に、地下1m以上の深さから、古墳時代後期の土師器が出土している。高畑遺跡第2次発掘調査は、平成18年11月21日~平成19年1月12日にかけて行なわれ、全体の調査面積は約900㎡であり、竪穴建物跡16棟、全て総柱式の掘立柱建物跡5棟、円形周溝遺構2基、土坑1基、溝2条等が確認された。遺構は6~7世紀のものがほとんどで、この時期の大規模集落の一端が垣間見えた感がある。南東部から、倉庫と考えられる総柱式掘立柱建物跡が複数確認されたことから、この遺跡が居宅的要素を持っていることが想定される。
古墳時代後期になると、上敷免遺跡を始めとする唐沢川東岸で集落が大規模化しており、唐沢川西岸との対比が顕著である。7世紀になると、上敷免遺跡及びその周辺で大規模化した集落のほとんどは縮小していき、それより東部の宮ヶ谷戸遺跡、東川端遺跡、清水上遺跡等、後に幡羅郡家が造営される場所の近辺にある集落の規模が拡大する。そうした集落の動きがある前後の時期に、高畑遺跡の集落が充実していくことが確認されたことは、律令期に至るまでの開発と集落の動きを考える上で、重要な成果と言えよう。
高畑鷺宮神社 境内の様子
高畑鷲宮神社とは全く関係のない話となっているが、地域の歴史は深堀すれば面白いことが沢山ある。筆者にとって、社の散策はこのような地域歴史探求の意味合いも深いのだ。
地形的に見るとこの社は、「備前渠用水路」と小山川に挟まれる狭い場所に鎮座している。
拝殿上部に掲げてある社号額
拝殿手前左側に聳え立つご神木(写真左・右)
拝殿左側に鎮座する境内社(写真左。右)
御嶽塚(写真左)。塚の中心には御嶽山座王大権現・三笠山刀利天・八海山大頭羅神王があり、祀られている。石祠は三峯神社(写真右)。左側の建物には神輿と小さな木造の祠が納められている。
ところで高畑鷲宮神社近郊には「高畑遺跡」が存在し、古墳時代後期の集落跡が確認されている。高畑遺跡は、標高は約35m、遺跡の範囲は約59万㎡と推定され、1次調査では、古墳時代~中世にかけての溝5条、河川跡等が確認されている。また、下水道工事時に、地下1m以上の深さから、古墳時代後期の土師器が出土している。高畑遺跡第2次発掘調査は、平成18年11月21日~平成19年1月12日にかけて行なわれ、全体の調査面積は約900㎡であり、竪穴建物跡16棟、全て総柱式の掘立柱建物跡5棟、円形周溝遺構2基、土坑1基、溝2条等が確認された。遺構は6~7世紀のものがほとんどで、この時期の大規模集落の一端が垣間見えた感がある。南東部から、倉庫と考えられる総柱式掘立柱建物跡が複数確認されたことから、この遺跡が居宅的要素を持っていることが想定される。
古墳時代後期になると、上敷免遺跡を始めとする唐沢川東岸で集落が大規模化しており、唐沢川西岸との対比が顕著である。7世紀になると、上敷免遺跡及びその周辺で大規模化した集落のほとんどは縮小していき、それより東部の宮ヶ谷戸遺跡、東川端遺跡、清水上遺跡等、後に幡羅郡家が造営される場所の近辺にある集落の規模が拡大する。そうした集落の動きがある前後の時期に、高畑遺跡の集落が充実していくことが確認されたことは、律令期に至るまでの開発と集落の動きを考える上で、重要な成果と言えよう。
高畑鷺宮神社 境内の様子
高畑鷲宮神社とは全く関係のない話となっているが、地域の歴史は深堀すれば面白いことが沢山ある。筆者にとって、社の散策はこのような地域歴史探求の意味合いも深いのだ。