奥田氷川神社
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町奥田395
・ご祭神 建速須佐之男命
・社 格 旧奥田村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0053589,139.3378633,16z?hl=ja&entry=ttu
東松山市神戸地域に鎮座する神戸神社から、埼玉県道41号東松山越生線を鳩山町方向に2㎞程進んだ先の丁字路を左折すると、道路から左手方向に樹木に覆われた中、奥田氷川神社の朱色の鳥居が見えてくる。
杉・檜・樅等の樹木に囲まれた社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し北側に離れている場所にひっそりと鎮座している印象。
奥田氷川神社正面入り口
樹木に覆われた中にポツンとある朱色の両部鳥居(写真左・右)
素朴な印象の強い境内
拝 殿
氷川神社 鳩山町奥田三九五
杉・檜・樅の木に囲まれた当社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し離れているため、閑静である。鎮座地の通称を明神山、字を宮附というが、これは当社がこの場所にあることにちなんだもので、このほかにも付近には鳥居前・宮の前・宮の沢・宮の入など、当社にちなんだ名称をもつ字が多い。
社記によれば当社は、天平年中(七二九-四九)、村内に疫病が流行した時、武蔵国一の宮氷川大 明神に使いを遣わして祈禱を行い、その霊璽を奉迎し、今の栗原英夫家所有の山林の中に小祠を建てて奉斎したことに始まるという。その時、また、病難たちまち消除し、村内は平安を得ることができたため、村人は氷川大明神の神徳に感謝し、これを村の鎮守として年々祭祀を行ってきたが、元禄十三年(一七〇〇)、社が四隣の村々にある産神社に比べ小さいとの理由から、従来の小祠を脇に移し、新社殿を造営したとも伝えられる。
当社は、『風土記稿』では「村民持」となっているが、元禄十六年(一七〇三)・享保十二年(一七二七)・寛政八年(一七九六)の三枚の本殿建立棟札によれば神戸村(現東松山市神戸)の沢田山長慶寺が「遷宮沙門」として関与している。また、慶応元年(一八六五)の拝殿建立棟札では「東国一ノ宮神主岩井伊豫守社家栗原宮内」なる者が関与していることがわかる。
「埼玉の神社」を引用
案内板に記されている「天平年中の疫病」とは、実際に日本全国に大発生した「天平の疫病」の事である。この疫病は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した疫病(天然痘)の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25 〜 35%にあたる、100万〜 150万人が感染により死亡したとされている。
天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。7月には、「大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国」の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告されており、疫病が畿内・山陽道・山陰道だけでなく,東海道にも蔓延していたことがわかる。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等