古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

奥田氷川神社


               
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町奥田395
              
・ご祭神 建速須佐之男命
              
・社 格 旧奥田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0053589,139.3378633,16z?hl=ja&entry=ttu
 東松山市神戸地域に鎮座する神戸神社から、埼玉県道41号東松山越生線を鳩山町方向に2㎞程進んだ先の丁字路を左折すると、道路から左手方向に樹木に覆われた中、奥田氷川神社の朱色の鳥居が見えてくる。
 杉・檜・樅等の樹木に囲まれた社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し北側に離れている場所にひっそりと鎮座している印象。
        
                 
奥田氷川神社正面入り口
 
        樹木に覆われた中にポツンとある朱色の両部鳥居(写真左・右)
        
                 素朴な印象の強い境内
        
                     拝 殿
 氷川神社 鳩山町奥田三九五
 杉・檜・樅の木に囲まれた当社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し離れているため、閑静である。鎮座地の通称を明神山、字を宮附というが、これは当社がこの場所にあることにちなんだもので、このほかにも付近には鳥居前・宮の前・宮の沢・宮の入など、当社にちなんだ名称をもつ字が多い。
 社記によれば当社は、天平年中(七二九-四九)、村内に疫病が流行した時、武蔵国一の宮氷川大 明神に使いを遣わして祈禱を行い、その霊璽を奉迎し、今の栗原英夫家所有の山林の中に小祠を建てて奉斎したことに始まるという。その時、また、病難たちまち消除し、村内は平安を得ることができたため、村人は氷川大明神の神徳に感謝し、これを村の鎮守として年々祭祀を行ってきたが、元禄十三年(一七〇〇)、社が四隣の村々にある産神社に比べ小さいとの理由から、従来の小祠を脇に移し、新社殿を造営したとも伝えられる。
 当社は、『風土記稿』では「村民持」となっているが、元禄十六年(一七〇三)・享保十二年(一七二七)・寛政八年(一七九六)の三枚の本殿建立棟札によれば神戸村(現東松山市神戸)の沢田山長慶寺が「遷宮沙門」として関与している。また、慶応元年(一八六五)の拝殿建立棟札では「東国一ノ宮神主岩井伊豫守社家栗原宮内」なる者が関与していることがわかる。
                                   「埼玉の神社」を引用

 案内板に記されている「天平年中の疫病」とは、実際に日本全国に大発生した「天平の疫病」の事である。この疫病は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した疫病(天然痘)の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25 35%にあたる、100万〜 150万人が感染により死亡したとされている。
 天然痘は
735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。7376月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。7月には、「大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国」の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告されており、疫病が畿内・山陽道・山陰道だけでなく,東海道にも蔓延していたことがわかる。天然痘の流行は7381月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
        
             社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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大橋黒石神社

 鳩山町亀井地区は社号「黒石神社」が4社現存している。「熊井」「竹本」「須江」そして今回取り上げる「大橋」地域は、いずれも鳩川及びその支流沿いにあり、現代で言う「地域密着型」の社といえよう。
 この大橋地域、並びにその周辺一帯からは、古墳期から奈良・平安期にかけての窯跡群が発見されており、武蔵国分寺瓦の産出地の一つであった。『南比企郡窯跡群』と云われる窯跡群と、黒石神社の創建に至る経緯に何らかの関連性が伺われよう。何より「黒石」という「古代鉱山採掘」に関連しそうな意味深き社名が、無言で何かを語るかのようだった。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町大橋619
             
・ご祭神 天照大神 春日神 八幡大菩薩
             
・社 格 旧大橋村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9925049,139.3308729,17z?hl=ja&entry=ttu
 須江黒石神社・舛井戸遺跡から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線合流後、進路を南東方向に1㎞程進むと「大橋交差点」に達し、そこを左折する。すぐ先の路地を右折、通称「水穴通り」を道なりに400m程進み、十字路を右折すると、大橋黒石神社が進行方向右手に見えてくる。
 社の東側に隣接して「大橋集会所兼黒石神社社務所」があるが、そこの駐車スペースには長いロープが敷かれていていたので、適度に広い路地に駐車し、ここでも急ぎ参拝を行った。
        
                            社叢林の外れにある入口付近
                       この社には鳥居が存在していないようだ。
 鳩山町・大橋地域は、赤沼地域の北側に位置し、地域の中央を鳩川支流の
大橋川が流れている。『新編武蔵風土記稿』編集当時は松山領に属していた。古くは上泉井村・下泉井村と一村で泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降、泉井村は三村に分村したと伝えている。
「風土記稿」によれば村内に架かる橋が「近村には是程の橋もなければ」との理由で「大橋」とよばれていて、分村の際の村名になったという。

 参道は真っ直ぐに伸び、正面に拝殿が見える。   巨木に注連縄を張って鳥居の代わりに
舗装されていないこの昔ながら感がたまらない。       しているようだ。
        
                     拝 殿
 黒石神社 鳩山町大橋六一九
 当社は『明細帳』に「武蔵国足立郡大宮氷川神社ヲ遷シ奉リタルナリト云伝フ其勧請不詳」とあり、創建の背景に氷川信仰があったことをうかがわせる。
 最も古い史料に安永九年(一七八〇)の棟札がある。これには中央に「黒石大明神社」、左右に「春日大明神社」「八幡大菩薩」と記されているほか、「泉井村別当本明院」の名が見える。口碑によれば、安永のころ、別当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け、社宝であった鏡・刀・矢を乾(北西)・坤(西南)・巽(南西)の三方の地に埋めて当社の鎮座地を定めた。
 鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという。室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の三社託宣の影響が考えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年には宇山下の琴平社を合祀した。
 境内の末社は愛宕社・稲荷社・蚕影社の三社がある。『明細帳』によれば、愛宕社は享保九年(一七二四)に江戸の愛宕を勧請したという。また、稲荷社は本村の福島関右衛門なる者が西国を回って京都の稲荷神社の神体を請いて帰国した後、天明四年(一七八四)に至り社殿を建立したという。更に、蚕影社は明治十五年に当村の桑葉が雹により甚大な被害を被ったため、村内の蚕を埋めて跡地に常陸国(現茨城県)の蚕影山を勧請したと伝える。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                                境内に祀られている合殿社
 七柱が祀られている合殿社には御幣(ごへい)があり、その右側にはご祭神の名称が記された木製の札があるのだが、かなり薄くて解読がほぼ不可能。左側2番目と右から2番目が僅かに「倉稲魂神」「保食神」と読めた程度だ。(因みに一番右側はそのお札もない)
       
                猿田彦大神の石碑      「黒石神社誕生遺跡」記念碑
 黒石神社誕生遺跡
 安永九年(一七八〇)泉井村当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け社宝の鏡・刀・矢を埋めて神社の鎮座地を確定した
 後世に残すべく寄付を募り永く記録を保存する(以下略)
                                     記念碑文より引用

 大橋黒石神社は本来大宮氷川神社から勧請してきた氷川系統の神社であったが、この「黒石神社誕生遺跡」石碑によると、法印が黒石大明神から霊感を受けて現在のご祭神となり、祭祀系統が変わったという。鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという祭祀方法は、室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の「三社託宣」の影響が濃く受けているようだ。
石日に記されている「法印(ほういん)」とは、僧侶(そうりょ)の位階(僧位)の最上位で、僧綱(そうごう)位(僧階)の僧正(そうじょう)にあたり、法印大和尚(だいわじょう)位僧正という。その下が法眼(ほうげん)和尚位僧都(そうず)、法橋上人(ほっきょうしょうにん)位律師(りっし)である。したがって本来は僧侶の取締りにあたる役人的僧侶の敬称で、定まった定員があったが、時代とともにその数を増し、のちに仏師や絵師の敬称にまで用いられるようになった。
 特にこの僧位を乱用したのは修験道
(しゅげんどう)であって、先達(せんだつ)であれば法印権大僧都(ごんだいそうず)を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。
『黒石神社誕生遺跡』に記されている「法印」は「泉井村当本明院」に所属する僧侶であろうが、同時に「山伏・修験道」の僧でもあったのであろうか。但し「泉井村当本明院」は現在のどの寺であるかは、風土記稿等調べても該当した寺院はなかった謎のお寺である。

*『新編武蔵風土記稿』に記されている寺院
上泉井村 寶泉寺 寶珠山と號す、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、
下泉井村 金澤寺 禪宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍穩寺の末、泉井山と號す、 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「境内記念碑文」等

         

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須江黒石神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町須江412
              
・ご祭神 少彦名命
              
・社 格 旧須江村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0027644,139.3253522,16z?hl=ja&entry=ttu
 竹本黒石神社から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、その道を東行する。350m程進んだ丁字路を左折、その後100m先の路地を右折すると、進行方向左手の目立たない所に須江黒石神社の正面鳥居、及び社号標柱が見えてくる。
 両黒石神社との距離は非常に近く、直線距離でも600m程しかない。
 近郊に専用駐車スペース、自治会館はない。路面駐車してから急ぎ参拝を行う。
 社は南向きで、岩殿丘陵地面に鎮座しているが、社の南方正面は、長閑な鳩川の支谷沿いに水田が開ける農業地域である。
        
                  須江黒石神社正面
『日本歴史地名大系』 「須江村」の解説
 [現在地名]鳩山町須江

 奥田村の西に位置し、南は大橋村、西は竹本村、北は山嶺を挟み将軍沢(しようぐんざわ)村・鎌形村(現嵐山町)など。村内を鳩川の支流大橋川が流れ、南には同川のつくる低地が広がる。松山領に属した(風土記稿)。
 古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
       
 鳥居の前方右手にある社号標柱(写真左)と、その右並びに建つ石碑。「富士講」か(同右)。
        
                    鳥居正面
           石段を伴う長い参道であることが目視でも分かる。
  丘陵地斜面上に鎮座する社独特の風景。このアングルは筆者にはとてつもなく美しく感じる。
 
       勾配のあまりない登り階段となっているので、あまり疲れも感じない。
           参道周辺の雰囲気も良く、落ち着きはらっている。
        
                        数段の石段を越えると広い境内に達する。
 境内に達するまでの間、特別奉納された燈篭や、記念碑等の石碑もなく、集会所や倉庫などがある程度。何もないと言ってしまえばそれまでだが、物寂しさは全く感じられなかった。むしろ映画かアニメのワンシーンに登場するような、一昔ならばどこにでもあった素朴な風景で、「余計なものを省いた美しさ」が境内に到着した瞬間に受けた印象である。
 考えてみると、とかく社の格式を、奉納された燈篭や額、記念碑・案内板で飾り立てようとする現在の傾向に対して、鳩山町のお社の多くは、本来の地域の鎮守様としてのありようを無言で諭してくれているようでもあった。まあ筆者の勝手な解釈ではあるが。
       
            参道を進む途中、右側に聳え立つ「鳩山町景観樹木」であるタブノキ。
                指定年月日 平成6年8月1日
                        当社のご神木でもある。
        
                     拝 殿
黒石神社  鳩山町須江四一二
 鳩山町須江地域は、岩殿丘陵の中央部に位置し、鳩川の支谷沿いに水田の開ける農業地域である。須江の地名は須恵器にちなむといわれ、古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
 須江黒石神社の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで「枡井戸遺跡地」近くにあった瑠璃光院が別当を務めており、舛井戸遺跡は瑠璃光院の御手洗井戸として寛徳年間(1044-1046)に建設されたと伝えられることから、古くより祀られてきたのではないかという。江戸期には須江村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治44
年境内末社の愛宕社、および廃寺となった瑠璃光院(医王社)を合祀している。
『新編武蔵風土記稿』須江村の項には、「黒石明神社村の鎮守なり、瑠璃光院持」とあり、その瑠璃光院については、本山派修験の須江山光雲寺宮本坊と号し、薬師堂があったと記載されている。明治初年の神仏分離以降太平洋戦争前までは、地元の日野岡家が代々当社の祀職を務め、同家が本山派修験の流れを汲み、永く当社を守り続けたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿の左側に祀られている唯一の構造物である境内社(写真左・右)。但し社名等詳細は不明。
        
         参道を含めた境内全体に不思議な雰囲気を醸し出している社。
        
                              社の南側に広がる田園風景 
 
 因みに須江黒石神社の東側で道路沿いから「日野岡家住宅長屋門」と「舛井戸遺跡」がある。
 残念ながら「日野岡家住宅長屋門」は事前の勉強不足の為、写真に収めることができなかった。
「日野岡家住宅長屋門」
・国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 2007731
 丘陵の南裾にあり,南面して建つ。東西棟の寄棟造,もと茅葺で,平面は桁行15.7m,梁間4.6
mの規模を有し,中央に門口を構え,両側を部屋とする。軒は出桁造,小屋は扠首組で,正面外壁の腰は押縁下見板張とする。形式は簡素であるが,丁寧なつくりである。
        
                              舛井戸遺跡」
 
       舛井戸遺跡」の案内板        井戸の内部。僅かだが水があり、湧水という。
『村指定記念物  舛井戸遺跡』
 寛徳年間のころ(西暦一〇四五年)この地に日出薬師尊があった。参詣する善男善女の御手洗井戸として建設された。以来、今日に至るまで渇水することなく明泉が湧出している。
 先人たちが伊勢神宮、黒石神社に参拝の折に身体を浄めた泉といい伝えられている。又干魃の際には住民の飲料水として近年まで用いられていた。昭和三十二年道路拡張工事により一時埋立られたが、地元有志により復元され由緒ある遺跡として保存することとした。
 昭和5641日 鳩山村教育委員会
                                      案内板より引用

 説明板は「鳩山村」となっているが、この1年後の昭和57年(19824月の町制施行で「鳩山町」に変っている。行政上、簡易的に「村」の一文字だけシール等を貼ったりして、「町」に変えるよりこのままの方が趣きがあるものだ。



参考資料「文化遺産オンライン」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「案内板」等

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竹本黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町竹本1078
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧竹本村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9995914,139.3170483,16z?hl=ja&entry=ttu
 泉井神社から「亀小通り」を北上し、900m程先の埼玉県道171号ときがわ坂戸線との交点である丁字路を左折する。その後200m進んだ細い路地を右折すると、その突当たりに竹本黒石神社の鳥居が見えてくる。細い路地地点には竹本黒石神社の社号標柱があり、それが目印となるが、道路沿いからは少し離れた場所にあるので、曲がる際には注意が必要だまあ今では車両にはナビが標準装備されていて、設定さえ間違わなければ、まず迷うことはない。
 細い路地を曲がり、そこを暫く進むと、道路の行き止まりとなっていて、鳥居の右手に駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する
       
                               竹本黒石神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「竹本村」の解説
 [現在地名]鳩山町竹本
 大橋川支流黒石川の上流域に位置し、東は須江すえ村、南は上泉井村・下泉井村。「たかもと」とも読み(元禄郷帳など)、松山領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二〇〇石余・畑高六五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本日比野領。
 
 参道の両側には豊かな森林に覆われていて(写真左)、石段上に拝殿が設けられている(同右)。丘陵地面に位置している鳩山町の社は市街地以外はこのような配置となっているものが多い。
        
  石段を登り終えると比較的広い空間が広がり、更に一段高い場所に拝殿が鎮座している。
                 左側には社務所がある。
        
                                       拝 殿 
                            周囲一帯には趣のある雰囲気が漂う。

 鳩山町竹本地域は岩殿丘陵の西部で、丘陵を樹枝状に浸食して流れる鳩川の支流大橋川の上流地域に位置する。丘陵に挟まれて、細長く東西に耕地がのびている。竹本黒石神社の創建年代等は不詳ながら、当地の名主家保積家が氏神として創祀したと伝えられている。
 江戸期には東光寺持ちの社で、竹本村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年に(旧東光寺持ちの)菅原社(天神社)を合祀している。
 
        拝殿左側に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
       
          参道右手に見える鳩山町景観樹木である「カシ」の巨木
                           指定年月日 平成10年9月1日
                              指定番号 第21号 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等



      

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泉井神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町泉井320
              
・ご祭神 健御名方命 応神天皇
              
・社 格 旧上泉井村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭/ささら獅子舞 10月第2日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.995511,139.315043,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から一旦東方向に進み、「上熊井農産物直売所・ちょっくま)付近の丁字路を左折する。通称「亀小通り」を北上、鳩山町立亀井小学校を過ぎた「泉井地区集落センター」に隣接して泉井神社は鎮座している。因みに「泉井」と書いて「いずい」と読む。
 社の隣にある泉井地区集落センターには十分な駐車スペースがあり、そこの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
               
亀小通り沿いに鎮座する泉井神社
『日本歴史地名大系』 によると、嘗て泉井地域は上泉井・下泉井・大橋の三村に分かれていたといい、泉井神社が鎮座していた地は上泉井村と云った。この村は、下泉井村の西、泉井川の上流域に位置し、南は熊井村。当村および下泉井村・大橋村の三村は嘗て一村で、泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降に三村に分村したとされる。泉井の地名は地内に湧水が多かったことによると伝える。松山領に属していた。
        
                石段上に立つ泉井神社の鳥居
 泉井神社の創建については詳細不明であるが、治承年間(11771181)に比企掃部允が創建したと伝えられている。
 この比企掃部允は平安時代後期の武士で、源頼朝の乳母である比企尼の夫。比企氏の出自には諸説あるが、『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする。
 比企掃部允は武蔵国比企郡の代官で、源為義・義朝に仕えたとする説がある。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている。
 妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図ったという。
       
           境内の片隅に、孤高の如き屹立する
鳩山町景観樹木である「モミ」の巨木
        
           拝殿までにはもう一段石段を登らなければならないが、
             その石段の手前で左側にある「
合祀記念碑」
        *地面に近い刻字の中に解読できない文字もあり、その場合は〇で表記した。

                                    
合祀記念碑
          
本殿ハ元無格社諏訪八幡ノ両座祭神ハ建御名方命應神
          
天皇ノ二柱ヲ奉祀スルナリ然ルニ明治三十九年勅令
          
第二二〇号ヲ以テ神社合祀ノ件御發布アラセラレ〇○
          
旨ニ基ヅキ合祀出願明治四十年五月十四日指令地〇○
          一二七六号ノ四ヲ以テ認可セラル是ニ於テ字櫻坂一二
          三九番元村社黒石神社祭神大己貴命字愛宕一〇二三番
          元無格社稲荷神社祭神倉稲魂命仝字一〇〇九番元無格
          社愛宕神社祭神軻遇突智命ノ三神ヲ合祀シ社號ヲ村社
          泉井神社ト改稱明治四十三年二月十九日指令〇○第〇
          七六号ノ五ヲ以テ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル〇
                          テ茲ニ其由ヲ録ス
                     
昭和二丁卯年三月(以下略)

 石段を挟んだ反対側には、
鳩山町指定無形文化財である「泉井神社獅子舞」の案内板がある。
        
                        「
泉井神社獅子舞」の案内板
 鳩山町指定無形文化財 泉井神社獅子舞
 指定 昭和五十二年五月十八日
 所在 大字泉井 泉井神社
 長禄元年(一四五七)七月、諏訪大明神を勧請して祭祀し、悪魔退散、無病息災、五穀豊穣を祈願したのが、この獅子舞のはじまりである(明治四十年、近隣三社を合祀し、社号を諏訪八幡神社から泉井神社に改めた)。
 獅子舞は、三頭の嗣子、猿田彦、花笠、行司、万燈、笛、唄とからなるササラ獅子舞で、毎年十月の第二日曜日に奉納される。
 現在、氏子全員により獅子舞保存会を結成し、保存に努めている。
 平成二十四年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 石段上に見える拝殿
        
                                        拝 殿
 泉井神社 鳩山町泉井三二〇
 当社は元来「諏訪大明神」と称していた。『明細帳』によれば、天徳二年(九五八)に健御名方命を字蛇子沢の地に勧請したが、長禄元年(一四五七)七月に至り、神幣が字正南の地に飛んで来たことから、これを神のお告げであるとして遷座を行った。これが現在の鎮座地である。その後、元禄十年(一六九七)に字北ヶ谷に勧請した八幡神社を合祀して相殿としたことから宝暦八年(一七五八)一二月に社殿を再建したという。
『風土記稿』には「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、宝泉寺持」とある。これに見える宝泉寺は宝珠山と号する真言宗の寺院で、当社西方五〇〇mほどの地にあったが、明治期に入って廃寺になったようで、跡地には地蔵尊が残されている。
 明治初年の社格制定に際して当社は無格社となり、字桜坂の黒石社の方が村社となった。
 しかし、明治四十年の合祀に際しては当社がその中心となり、黒石社をはじめとして字愛宕の無格社愛宕社・稲荷社の三社が当社に合祀された。これにより社号の八幡神社・諏訪神社合殿を村名を採って泉井神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                        本 殿
 
    社殿左側にある境内社・御嶽山        本殿右側奥に境内社・稲荷神社
        
                                   境内の一風景

 ところで、熊井黒石神社から「亀小通り」の北上途中、東側の高台附近に『南比企窯跡群(みなみひきかまあとぐん)』といわれる遺跡がある。南比企窯跡群は、鳩山町を中心に嵐山町・ときがわ町・東松山市の一部にかけて広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで須恵器や瓦を生産した。
 奈良時代中頃(8世紀中頃)には武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、南へ約40km離れた国分寺まで運ばれ、最盛期の窯の数は500基ほどあったと言われ、東日本最大級の規模という。
 その「南比企窯跡群(律令制期東国屈指の大窯跡群)」の東側の一画を占め、当窯跡群の中核を成す、鳩山町のほぼ全域に広がる窯跡群の総称を「鳩山窯跡群」という。

 6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40km離れた国分寺へ運ばれたという。
 泉井地域に所在する遺跡はこの「新沼窯跡」で、昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「鳩山町役場HP 鳩山窯跡群」「境内案内板・記念碑文」等
 

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