神戸神社
蛇行の外側においては流水の速度が速くなり、侵食がみられるようになり(侵食面)、蛇行の内側においては、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになる(堆積面)。
嵐山町大蔵地区から都幾川は南東方向に流れているが、東松山市神戸地区北西部には岩殿山地が聳え、その流路を遮り、進路が真東方向から南東方向に右カーブするような流れとなる。その結果神戸地区の都幾川左岸は蛇行の外側にあたり、流水の速度が速くなり、侵食が進むことから段丘崖となっている。一方右岸は上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積する広い河川敷があり、そこには雑木林を伐採してできた田畑が広範囲に広がっていて、堆積面特有の低地が続くため、東西に長い堤防が築かれている。
東松山市神戸地区は、都幾川が蛇行して形成された堆積面を、西側から南側まで岩殿山地が取り囲むような場所に位置し、その低地面と山地面との境界付近に鎮座しているのが神戸神社である。
・所在地 埼玉県東松山市神戸875
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 例祭7月24・25日(獅子舞奉納)
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0196741,139.3453577,16z?hl=ja&entry=ttu
葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後左折し、西方向に進路をとる。進路左側には岩殿山地の峰々が広がり、右側に目を移すと道路に沿って堤防が築かれている。堤防自体は都幾川が一旦北側奥に流路を移しているため途切れるが、雑木林を抜けると一面田畑が広がる風景となる。暫く進むと、神戸神社の社叢林が見えて来る。
神社の隣には神戸公会堂があり、建物手前には駐車場も確保されているので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
県道沿いに鎮座する神戸神社
神戸神社正面
因みに地域名「神戸」は「ごうど」と読む。
一の鳥居の手前右側にある社号標柱と「神戸の獅子舞」の案内板
「神戸の獅子舞」の案内板
神戸の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
神戸の獅子舞は七月二十四、二十五の夏祭に、神戸神社で奉納される。
獅子舞の由来はつまびらかでないが、獅子の太鼓に「寛政三年(一七九一)六月吉日、太鼓屋三左衛門」と墨書されている。
この獅子は、昔は善能寺から出たものだが、寺が焼けてからは総代の家から、やがて社務所から出るようになった。
旱魃の年には鞍掛淵の河原で雨乞獅子を舞い、又伝染病の流行した年には悪魔祓いに獅子が村中を廻ったという。
獅子は「メジシ」「ナカジシ」「ホーガン」と呼ぶ一人立ちの三匹獅子舞で、昇殿カグラ、メジシカクシ、トンビガエシ等を舞う。その特色は「村まわり」をし、「土俵」の中で舞うことである。
案内板より引用
神戸の獅子舞 昭和55年(1980年)1月10日(東松山市指定文化財―無形民俗)
この獅子舞は、修理した時、太鼓を修理した際に『寛政三年(1791年)六月吉日・武州熊谷梅町・太鼓屋三左衛門』と墨書されていたことから、230年ほど前から始められたと考えられます。古くは神戸(かんべ)家(旧善能寺)で支度を整え、神戸神社まで街道下りを行っていました。善能寺が焼失してからは総代の家より、昭和3年(1928年)からは社務所で支度を整え、地区内を回り街道下りを行います。昭和41年(1966年)頃には奉納が困難となり、獅子舞演技が中止となってしまいました。村には「獅子舞の風にあたると病気にならない」との言い伝えがありましたが、獅子舞を中止した途端、赤痢や疫病などが流行ってしまい、一転演技復活の機運が高まり、昭和47年(1972年)有志により保存会を結成し、復活を果たしました。数年の休止でしたが、多くの演技内容が忘れられ、演技に関わってきた人の記憶をたどり、現在の舞の形態があります。夏の禮大祭では、神社の境内に、16俵の俵で土俵を作り(直径4メートル40センチートル)、舞庭が作られ、前庭・後庭に分け、神社に奉納します。その他では、昔、干ばつの時「昭和26年(1951年)」、「鞍掛渕(現在のくらかけ清流の郷)にすりこむ」といって、「戌亥黒雷天(いぬいくろらいてん)」の旗を先頭に、竹製の神輿と共に鞍掛山の麓の都幾川に隊列を成し練り込み、雨乞いの舞を捧げたと言われ、その帰途途中から「雷雨」に見舞われたと、長老が伝えています。また、疫病の時も、舞が奉納されたとも言われています。三匹の「獅子頭」は、見事な顔立ちで、特に雌獅子は、「一本角」で、舌を出しているなど、ひょうきんな姿も表現しており、地区の宝として、後世に残すべき貴重な文化財です。
東松山市公式HPより引用
一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居 鳥居上部には「牛頭天王宮」と
木製両部型鳥居形式で、朱の鳥居 記載されている。
拝 殿
神戸神社 東松山市神戸八七五(神戸字天王)
当地の人々は、初め村の西方の山上に谷地田を開いて集落をなし、ここに当社も鎮まっていた。その旧社地は、東松山グリーンセンターの西側にある山林内で、今に「天王山地」の地名で呼ばれている。これがいつのころか生産性の高い麓の平坦地に耕地を開いていくようになり、当社も集落と共に麓に移ってきた。
当社の創建については、一木から三体の像を彫り、一つは尾張国津島の地に、一つは上野国瀬良田の地に、一つは武蔵国神戸の地に祀られ、いずれも牛頭天王と称したとの伝承が『明細帳』に記されている。氏子の間には「世良田の天王様は当社の兄弟だ」「津島神社が本社で、この地に分祀されたためにお札が本社から頒布されていた」との口碑が残されており、この記事を裏付ける。
『風土記稿』には、善能寺持ちの社として載る。善能寺は天王山と号する真言宗の寺院で、当社の西方四〇〇メートルの地に堂を構えていた。昭和初年まで当社の祀職を務めた神戸栄松は、この善能寺法印の裔であった。ちなみに、同寺跡地には歴代法印の墓石が残り、「法印権大僧都阿闍梨□及」の延宝五年(一六七七)とある墓が最も古い。
明治初年に八雲神社と改称し、更に明治四十年には字中道の氷川社、字杉ノ台の愛宕社、字山王の日吉社を合祀して神戸神社と改めた。
祀職は、神戸家の後を渡辺好平・渡辺一夫と継いでいる。
「埼玉の神社」より引用
境内の様子
残念ながら参拝当日には参道にあるはずの「土俵」が見つからなかった。
但し参道の石敷の通路が途中途切れている部分があり、そこの空間に盛り土をして「土俵」としているかもしれない。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 観光情報HP」等