古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鵜森浅間神社

        
              ・所在地 埼玉県本庄市鵜森
248
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 4月3日 例祭 10月17日 新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2322275,139.2121654,19z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市鵜森地区に鎮座する。鵜森浅間神社は国道17号線鵜森交差点北の農地内にポツンと社叢を伴った社が見える。畑の中に社叢が見え、手前には鳥居もある為、ひときわ良く目立つ社だ。つい最近舗装された道路ができたようで、鳥居手前まで進むことができ、そこに車を停めて参拝を行った。
        
              社号額に「富士山」の名を刻んだ鳥居
         鳥居の左側に「村社浅間神社]の社号柱も立てられている。
        
 鳥居を越えると境内になり、参道に沿って正面に石段があり、塚頂部には、浅間神社が祀られている。
石段の手前右側には、由緒を記した案内板があり、左下には「子授かり神石」の名札、山腹には、小御嶽三社大神の石碑が祀ってある。
    
      
鵜森浅間神社 正面参道           石段前右側にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 浅間神社 御由緒
 □縁起    本庄市鵜森二四八
 鵜森は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られる。 当社は、集落から離れて田畑の広がる中に鎮座しており、高さ一〇メートルほどの土盛りの上に本殿があるため、遠望すると、あたかも神が一帯を見守っているかのような印象を受ける。なお、鵜森という地名は、かつては当社の杜は今よりもずっと大きく、そこには鵜が生息していたことにちなむものであるといわれている。
 当社の創建の年代は不明であるが、口碑に「名主の早野半兵衛が当社と利益寺とを建立した」と伝え、利益寺でも早野半兵衛が天正年間(一五七三~九二)に草創した旨を伝えていることから、口碑に従うならば、当社もそのころ勧請されたものと考えられる。一方『児玉郡誌』は、この地が五十子城砦の要害の地であることから、寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕の奥方の梅沢御前がその守護神として勧請し、社殿を建立した旨を載せており、これに従えば、当社の勧請は口碑に伝えるものよりも一〇〇年以上前のことになる。
 また、『風土記稿』に「浅間社 村の鎮守なり、大蔵院持」とあるように、江時代には、真言宗系修験の大蔵院が別当であ
った。神仏分離の後は、当社は明治四年に村社になり、同三十九年に字台の下浅間神社と伊勢神社を合祀したが、大蔵院は明治初年に廃寺になった(中略)
                                      案内板より引用
       
       石段前左側には「子授かり神石」 石段途中右側には「小御嶽三社大神」
        
                     拝 殿
        
  拝殿左脇には、天手長男社と八坂神社、その裏に隠れて、大黒天の石碑が祀られていた。
      
        拝殿右側奥には
天照皇大神宮(写真左)と、天神の祠が鎮座(同右)
 
 社殿裏に回ると、赤い手摺があり、石段が下っている。そこは
丸く窪んだ草地があり、冬時期の為か、今は全く水を湛えていない「水神精霊池」の看板が立つ(写真左)。精霊池の先には「浅間大神」の石碑がポツンと立っている(同右)。
 
 2017
年度・本庄教育委員会で発行された
「本庄市の地名①」において、本庄市内の地域名(主として大字)の地名由来を説明している書簡をインターネットにて紹介している。この中で、本庄地域を「本庄」「藤田」「仁手」「旭」「北泉」の5地区に分けて、旧大字ごとに紹介している。本書では江戸時代の古文書や明治時代に作成された行政文書等を参照しているが、江戸時代の文書では、地域によっては資料が残されていない場合もあり、分かる範囲で地名の起こりや、地名の持つ意味等含め本書に記録しているとの事だ。
 地名の読みは難解なものにはルビを付して紹介し、読み方が不明なものはそのままとしている。また地元で古くから呼ばれている呼び名と、現在の表記されている地名が異なる場合でも、本書では両方の読みを紹介しているとの事で、編集にも大変な努力をされたと感じるし、文面も丁寧に紹介されていて、読む方としてはありがたいことだし、このように後世の方々に向けて残すための書は素晴らしいことと感じた次第だ。

さて紹介が長くなったが、浅間神社が鎮座している「鵜森」は「藤田」地区に属し、「鵜森」は以下のように紹介されている。
○鵜森
 鵜森の意味は「埼玉県地方誌」には、ウノキからきた地名ではないかとあり、ウノキはスイカズラ科の植物で、「こねうつぎ」「たにうつぎ」の別名もある。「本庄市史」では浅間神社の森に鵜が沢山生息していたともいう。またこの神社の由来を、寛正年間に起きた五十子陣で陣地を構えた上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として祀ったという。
 ・小字名 富士・西・台・川田・石川原・本郷・本郷前・高戸・東
【小字の由来】
・富士…村社である浅間神社が鎮座し、富士浅間信仰に関連した地名だろうか。位置が五十子城の北西にあたり、寛正年間に関東管領上杉房顕の妻梅沢御前が城の守護神として勧請したとの伝承がある。社殿は塚上に鎮座しているが、以前はこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたというが、現在は残っていない。
・台…一般的に土地の高い場所をいう。小字「富士」の南に隣接する「西」のすぐ南側にある小字。鵜森ではここにある集落を「高鵜森」と呼んでいた。
・東・西…鵜森の両端に位置する。
        

 現在鵜森浅間神社の西側に「浅間大神」の石碑が建っている位置に僅かながら土塁の後らしき遺構が見られるが、小字「富士」の由来にはこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたという記述がある。またこの「富士」の東西には「東」「西」という同じラインの小字があるところから、もしかしたらこの土塁は小字「富士」周辺のみではなく、「東」「西」にも同様な土塁が存在していたかもしれない。あくまで筆者の推測ではあるが。
 同様にこの鵜森浅間神社を「物見」とした場所として推測すると、五十子陣が築造された当時、陣地近く平行ライン上に「土塁」を構築し、北、東側の敵側の来襲に備えた防御施設ともいえる。
 この五十子陣が20年程最前線基地の一つとしての同じ場所で機能を保持していたこともあり、思った以上の大規模な陣地であったことも容易に想像できる。

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東五十子若電神社

神社散策の目的の一つにその鎮座している地名の由来も含まれる。その地方の独特の名称の由来を自分なりに紐解くことで、その歴史の淵源を少しでも知ることができるからである。
 本庄市には一見変わった地名がある。「五十子」。仕事の途中で偶々通り過ぎた際に、その地名を知ったわけであるが、変に印象が強かった為、業務終了後調べてみると「五十子」と書いて「いかっこ、いかこ、いそこ」と読む。時には「いかご」」とも読まれるようだ。
 この地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
「五十子」地区はその地形上の特性から、室町時代中期に発生した『
享徳の乱』における激戦地の一つで、時の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いであり、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦である。5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した戦いであり、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
         
              ・所在地 埼玉県本庄市東五十子10
              ・ご祭神 別雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 220日 春祭り 44日 天王祭 旧暦61
                   秋祭り 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2281387,139.2089377,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東五十子若電神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに進むと、「増上寺」が右側に見え、そのお寺の隣にこんもりとした古墳上にこの社は鎮座している。駐車スペースは社周辺にはなく、隣接するお寺の駐車場に停めて、参拝を行った。
         
            
東五十子若電神社正面の鳥居。左側には案内板あり。
         
                      案内板
 若電神社 御由緒
 本庄市東五十子一〇
 □御縁起(歴史)
 東五十子は、南を小山川、北を女堀川に挟まれた地域で、集落は台地上にある。中世には五十子のうちに含まれ、長禄三年(一四五九)ころ、関東管領山内上杉房顕が当地に砦を築いて自ら滞在して陣頭指揮を執ったので、これを五十子陣と呼ぶ。元禄年間(一六八八-一七〇四)に当村と西五十子村に分村したという。
 当社は、集落の西南端に鎮座し、高さ三・ニメートル、直径約二〇メー トルの古墳の上に祀られる。創建については『児玉郡誌』に「当社は古老の口碑に、三代実録に記載しある若電神社なりと云ひ伝ふ。天慶年中(九三八-九四七)平将門追討の際、藤原秀郷当社に来り戦勝を祈願し、武蔵守就任の後、報賽として、社殿を再建し、別当職として増国寺を創立す(以下略)」と記される。また、社家の諏訪家に伝わる口碑によると、当社は元来西五十子に鎮座する大寄諏訪神社と小山川を挟んで相対して祀られていたが、小山川の氾濫により当地に流れ着いたので、神聖な古墳上に祀ったという。更に『風土記稿』には「雷電社本地十一面観音を安ず、増国寺の持」と載る。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当の増国寺から離れ、村社となった。『明細帳』によれば、現在の社殿は元和八年(一六二二)に三度目の建て替えをしたという。更に、明治四十二年一月に請負人大工本荘町小暮庄九郎、塗師請負坂本自作により改築修繕が行われた(中略)
                                    
境内掲示板より引用
 
    参道正面。古墳頂上部に社が鎮座          参道途中右手には手水舎
 五十子(いらこ・いかご)の戦いは、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いである。「享徳の乱」における激戦の一つであり、武蔵国の五十子周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦で、
関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に陣を構え築いたものが五十子陣である。
 この「五十子」は本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれた。このように武蔵国五十子(現埼玉県本庄市)は上杉房顕&顕定が古河公方:足利成氏(しげうじ)と約
20年に渡って対峙し続けた場所であり、短期間とはいえ上杉方にとっては攻防一体の戦陣に適した戦略上の重要拠点でもあったといえる。
      
           古墳前であり、社の階段前に聳え立つ御神木。
 もともと
この乱の発端は、南北朝時代から始まるという。本拠地が関東でありながら、南北朝の混乱のために京都の室町にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍・足利尊氏が、将軍は常時京都に滞在せねばならない為、留守になってしまう関東を統治するため、自身の四男である足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として、関東に派遣した事に始まる。
 以来、将軍職は尊氏嫡男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(当初は関東執事)には上杉(うえすぎ)氏が将軍家の命により代々就任する事になったが、徐々に、鎌倉公方は将軍家、並びに将軍家のお目付け役であり、後見的存在でもあるである関東管領とも対立し、独立政権として、自らの道を歩み始めようとするようになった。この対立構造は年々顕著になっていき、これを話し合いという平和的な解決方法ではなく、軍事的な行動により決着させようとした、俊才でありながら「籤(くじ)引き将軍」とも「万人恐怖の独裁者」と言われた6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)。その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。
 しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。
         
                  社殿。墳頂部に鎮座する。
 再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら成氏派に反発し、関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、宝徳2年(1450年)に成氏を攻めた。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。
 鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展したとされている。
 
   社殿に掲げてある「若電神社」の扁額        社殿手前には神楽殿あり
 享徳31227日(1455115日)、長尾景仲が鎌倉不在の隙に鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠を謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が長尾実景・憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟上杉房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。
         
                     境内の様子
 この「五十子」地域は河川等が合流して形成される段丘上に位置する地形上の要衝地である以外にも、
鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る結節点でもあり、古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。
 武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。
 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。

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下浅見八幡神社

「児玉党」は平安時代末に出現した武蔵武士団である武蔵七党の一派である。かれらは神川町の阿久原牧という牧場に派遣されてきた別当 (牧場を管理する職務)の貴族藤原氏と主従関係(或いは血縁関係)を結び、自ら開いた土地を「児玉庄」という庄園を作り貴族に寄進して中央権力の庇護を得た。
 児玉町域内にいた児玉党の一族は「庄・児玉・蛭川・塩谷・阿佐美・河内・真下氏」等がいた。その彼らの党祖とも言える児玉弘行・経行兄弟は八幡太郎義家に従い奥州合戦に従軍し、その後も義家の命で上野国多胡氏を討ち滅ぼしたりして活躍し、武家の棟梁たる源氏と児玉党と塩屋氏館跡推定地の深い繋がりを築いた。
 児玉党の一派である阿佐美氏(あさみし)は、武蔵国児玉郡入浅見村(現在の埼玉県本庄市児玉町入浅見)発祥の氏族で、武蔵七党中最大の武士団とされた児玉党を構成する氏族である。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町下浅見879
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧下浅見村鎮守・旧村社
            ・例祭等 春祭り 44日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1210
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2115669,139.1636033,17z?hl=ja&entry=ttu  
 下浅見八幡神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を児玉町方向に進む。小山川を越えて暫く道なりに進み、下児玉交差点を右折してしばらく進むと、進行方向に対して左側にポツンと独立した大きな鳥居が見えてくる。参拝時刻は午前中で快晴であったが、鳥居正面に対して太陽を正面に浴びる状態になり、逆光状態での撮影となってしまった。
        
 そこで以前参拝して撮影した写真を載せる。因みに撮影日は平成26年8月4日の午後。撮影する時刻も考慮する必要もあると反省したと同時に、カメラ機能の調整(ISO感度は少し低めに調整するか露出補正で明るさ調節等)により、逆光状態でも十分に対応できることも、参拝終了後改めて知った。


        
               撮影日 平成26年8月4日(午後)
 鳥居を過ぎると正面にこんもりとした社叢が見える。
神社境内地の大部分が元は古墳だったのではないかと思ったが,案内板等では近郊の館である「関根氏館」に対して見渡せる小高い丘を選んで館の守護神として鎮座しているとの事だ。
 因みに「関根氏館」は阿佐美実高の館があったと伝っているが、「関根氏」の館の名称からも後代に関根氏が住んでから付けられたと考えられ、阿佐美氏とどのような関係があったかは現在判明していない。明治の地籍図でも確認されているが70mほどの方形区画に水路として使用されたと思われる外堀跡もみられ、一説によると外堀は幾重にも設けられていたと伝わるそうだ。
 駐車スペースは社殿外に確保されており、そこに停めて参拝を行った。
          
                        社殿前には朱を基調とした二の鳥居が立つ。
                        
                                 鳥居の近くにある案内板
               
                     拝  殿
 □八幡神社 御由来 
 御縁起(歴史)   
 下浅見は、かつては入浅見と共に阿佐美といわれ、児玉党阿佐美氏の本貫の地とされる。 児玉党系図(諸家系図纂)によると、児玉庄大夫家弘の末男弘方が、阿佐美氏を称している。弘方の子実高は、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍し、翌年の源頼朝上洛の際にも供奉したことが『吾妻鏡』に見える。 地内の字新堀には「関根氏館」と呼ばれる館跡があり、一辺が七   〇メートル前後の正方形の内堀が現存する。この地をかつては「二重堀」と呼んだことから、外堀もあったと考えられるが、現状では確認できない。明治期に書かれた「下浅見地誌」には、浅見実高が居住したとある。
 当社は、『児玉郡誌』によれば、浅見実高が奥州征伐の帰陣の際、鶴岡八幡宮を当地に勧請して産土神としたという。当社は、館跡から見て南東で、館に続く街道沿いの小高い丘の上に鎮座することから、館を見渡せる場所を選んで、館の守護神として祀ったのであろう。
『風土記稿』によれば、当社は村の鎮守で、地内の成就院持であった。 成就院の開山頼元は、元禄七年(一六九四)寂と伝えられる。
 明治に入り、当社は別当成就院を離れて、村社となった。明治四十年には字雷電山の無格社雷電神社を本殿に合祀した。なお、『明細帳』によれば、現在の社殿は正保五年(一六四八)の再興である。本殿には、木造の騎乗八幡大明神像(高さ二二センチメートル)が奉安されている。
                                      案内板より引用
 
   拝殿に掲げている「八幡宮」の扁額             本  殿
        
      社殿の左側には広い空間があり、その周りには境内社等が鎮座している。
 
      境内社  名称不明
          社殿の左奥で丘の上に鎮座する末社群
 
      社殿奥の丘上に鎮座する                社殿の奥で丘上に鎮座する末社群
   
御嶽大神、三笠山大神、八海山大神等            名称不明

 児玉党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一軍団で、主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。
 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していたという。氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった有道氏である。また「有」とは、有道氏の略称として伝わる。子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている。
 古書などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかったために滅びにくかったというだけのことであり、負け戦も少なくはない。但し他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実でもある。
        
               駐車場から撮影、やはり逆光。

「浅見」との地名の由来は、埼玉県本庄市児玉町入浅見・下浅見発祥。戦国時代に「阿佐美」の表記で記録のある地名で、苗字としても同地で平安時代末期に阿佐美姓を称したと伝えている。「浅見」という苗字は埼玉県特有の苗字らしく、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布する。

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上池守天神社

埼玉県熊谷市大字池上と埼玉県行田市大字上池守にまたがり星宮地区がある。村内を流れている、星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」の一字ずつ取り、星宮村とした。昭和24、忍町を行田市に名称変更して市制施行。昭和30年に星宮村が編入された。
 全国には「星宮」のつく星宮神社・星神社と星宮の地名が多く存在し、その中心は栃木県である。栃木県内では「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌を伴うことが多い。
 星宮は、全国で348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。因みに石裂山とは、「おざくさん」と読み、前日光・鹿沼市と上都賀郡粟野町(現鹿沼市)の境にある山で、勝道上人の開山と伝えられ、古くから「おざく信仰」の山として知られる。
 上池守地区の「星宮」と何か関連性はあるのだろうか。 
        
             ・所在地 埼玉県行田市上池守740-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧上池守村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1569084,139.4307418,17z?hl=ja&entry=ttu
 上池守天神社は埼玉県道128号熊谷羽生線の「上池守北」交差点の南角に鎮座している。上池守の村社格の神社社殿、参道は南向きであり、車の進行方向上に沿う道に面した部分には石玉垣で境内が囲われている為、一旦T字路の交差点を右折し、すぐ先の鳥居前と隣接している商店の間に路地に進む。路地の奥には多少の駐車スペースがあり、そのスペースに車を停めて参拝を行った。
        
                    二の鳥居
『日本歴史地名大系 』「上池守村」の解説
 北は星川を隔てて下川上村(現熊谷市)、南は中里・皿尾の両村、東は中池守村・下池守村。条里遺構が地下に埋没している。中世には中・下の池守村とともに池守郷に含まれた。観応三年(一三五二)七月二日、室町幕府管領・武蔵守護仁木頼章は足利尊氏の命により池守郷および大里郡久下郷内宇波五郎入道・同七郎等跡(現熊谷市)地頭職を、久下弾正忠頼に引渡すよう仁木義氏に命じている(「仁木頼章奉書」久下文書)。

                
                     拝 殿
 新編武蔵風土記稿による上池守天神社の由緒
 上池守村 天神社三宇
 一は村の鎮守とす、皆村持なり

 
上池守天神社が鎮座する上池守地区は、現在の熊谷市星宮地区にあり、嘗ては北埼玉郡星宮村であった。その前の江戸時代は池上村・下川上村と、これ又地域の歴史を物語る由緒ある村の名前をもっていた。池上、下川上の地名の由来としては
・池上…中世、埼玉郡内にあった池上郷の遺名を村名としたもの。なお、池上郷の由来については、現在不明である。
・下川上…はっきりしたところはわからないが、昔あった上川上ノ里が三つの村(上川上村、下川上村、大塚村)にわかれたさい、上川上村に対応する呼称として、“下川上村”と称したものと思われる。〔成田村誌〕
 
           社殿左側に鎮座する
境内社宇賀神社(写真左・右側)
 
       境内社 八坂神社等        
芭蕉の句碑は社殿の左方に建立されている
                          
 上池守天神社が鎮座する「池上」地区「上之」地区に隣接し、古代から開発が進んだ地域だったといわれている。
 奈良時代の律令制度では、各国には「郡」がその下部組織としてあり、その「郡」には必ず「郡衙」が存在していた。(因みに武蔵国は22郡置かれていて、陸奥国の40郡に次いで多い)
中でも郡正倉は、米を貯蔵するための倉庫として重要な施設であり、その立地条件としては、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。「武蔵国埼玉郡衙」は未だに不明とされているが、その有力候補地の一つがこの「池上」地域とも言われている。
        
                                     境内の一風景

 行田市小敷田(こしきだ)遺跡と、これに隣接する熊谷市池上遺跡の場所がその最も有力な候補地と考えられていて、そしてその所在地を推定する際の決め手になるのが、河川交通との関係である。
 それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう。地面に掘った大きい穴)に廃棄された型で出土し、更にこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、嘗ての河川跡が見つかっている。推測するに、この二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。
 また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
 埼玉県内の他の郡衙関係遺跡の立地をみても、嘗ての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。
 

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下池守子安神社

『池守村子安明神の伝承』
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 
        
              ・所在地 埼玉県行田市下池守549
              ・ご祭神 木花咲哉姫命
              ・社 格 旧中池守村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 816日(お子安様の祭り)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1645404,139.4424489,17z?hl=ja&entry=ttu   
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
 
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材       境内社 詳細分からないが、
         詳細不明           左側の社はその置物から稲荷社だろうか。
        
 子安神社の由緒
 中池守村 子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
                    境内の様子 
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

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