古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本田八幡神社

 多治比氏(たじひうじ)は、「多治比」を氏の名とする氏族。 28代宣化天皇(536?~539?)の三世孫多治比古王を祖として臣籍降下した氏族である。多治比縣守は宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる左大臣・多治比嶋の第3子にあたり、奈良時代の貴族である。
 多治比縣守は宣化天皇を出自にもち、父・嶋は左大臣を務めるなど、当時の名門家であり、順調に昇進し、元正朝に入り、霊亀2年(7168月に遣唐押使に任命され、養老2年(71810月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。
 養老4年(7209月に陸奥国按察使・上毛野広人が殺害され、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生する。その時には遣唐使使節団を率いた統率力と、東国の地方官(武蔵国守)を務めた経験を買われ、持節征夷将軍に任じられ、当地に赴き、反乱鎮圧は一定の成果を上げたといわれている。
 深谷市本田地区に鎮座する本田八幡神社は多治比縣守が東北地方を鎮撫した際、当地に筥崎宮を勧請して創建したと伝えられている。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市本田138
              ・ご祭神 誉田別尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭415日 十五夜祭旧814日 秋日待1015   
 本田八幡神社は深谷市本田地区に鎮座する。荒川を越えて埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点の北側に社は鎮座している。本田第五自治会館の駐車場に車を停めてから参拝を行った。
        
                 本田八幡神社 正面撮影    
 社伝によると、同社は養老6年(722)の創立で、多治比縣守が渡唐の際に祈願した、福岡市箱崎の筥崎神宮を勧請したもので、『誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ。後畠山に分社せるを箱崎八幡宮と云ひ、當社を誉田八幡宮と稱へ奉れり。明治初年に八幡神社と改む』と【大里郡神社誌】にはある。
 
          正面鳥居               南北に長い参道が続く。
 武蔵七党の一つである「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。多治比広成が天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられて、唐において氏として「多治比」に代えて「丹」墀を用いたのが「丹党」の名称由来とも言われている。
       
      参道の途中には2か所基礎部分がしっかりとした篭が設置されている。
    荒川右岸に鎮座している位置関係から土台をしっかりとしているのだろうか。
      
         2対の灯篭の先には、参道の左右に石碑が立てられている。
左側の石碑は不明。奥に見えるのは「庚申供〇〇」。右側の石碑には〇才尊天と彫られているようだ。
        
                    長い参道の先に明るい空間、そして社殿が見えてくる。

 冒頭で紹介した「多治比氏」は奈良時代から平安時代初頭にかけて武蔵守等の官職に就任された人物が多い。古代氏族系譜集成に「宣化天皇―上殖葉皇子(恵波皇子)―十市王―多治比古王―丹比公島(天武十三年賜多治比真人姓)―守―国人―浜成(兄は武蔵守宇美)―丹墀真人縄主―多治真人今継(武蔵介)。県守の弟広成―家継(造東大寺次官)―丹墀真人貞成(木工頭)―多治真人貞峰(右中弁、貞観十六年卒)」と系図が見られるが、その中で武蔵守、武蔵権守、武蔵権介、武蔵介に就任した人物は以下の通りだ。(上記に記されていない人物で、多治比氏である人物も併せて載せる)
養老三年(719) 武蔵守多治比真人
天平十年(738) 武蔵守多治比真人広足
宝亀二年(771) 武蔵員外介多治比真人乙兄
延暦五年(786) 武蔵守多治比真人宇美
承和十二年(845)武蔵権守丹墀真人門成
嘉祥三年(850) 武蔵守丹墀真人石雄
貞観三年(861) 武蔵権介丹墀真人今継
治安三年(1023) 武蔵介多治石良
 
「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。その真偽はともかく、これだけの多治比氏が武蔵国に来ていて、その関わりの中で名門家と地方豪族との「血の交わり」もあったのだろうか。       

        
                                   拝 殿
 時代は下り、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国は武蔵七党の勢力地図に包まれ、上野国、下野国、相模国にまで広がりを見せる中、この本田、畠山地域周辺は桓武平氏の流れを汲む、秩父氏の一族である畠山氏が平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えることにより、地盤を固め、その勢力を嵐山町・菅谷方面周辺域まで拡大することができた。
 畠山重忠の側近には榛沢六郎成清と本田次郎近常(親恒)がいた。本田地区は平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
             
                境内にある「八幡神社改修之碑」
 内碑  八幡神社改修之碑
 敬神尊皇は建國以来の諄風國体の基であり崇祖愛郷は報恩感謝に発する親和協力繁栄への道である当八幡神社の御創立は養老六年と伝へられ由縁に拠れば元正天皇霊亀二年多治比縣守遣唐使を命ぜられし折筥崎八幡宮に祈請して霊験をうけ帰朝の後更に養老四年持節征夷将軍として東國の鎮撫にも神護めてたかりしにより此處に筥崎宮を勧請して報賽の礼を行へるに因るといふ誉田別命を祀れるより誉田八幡と崇めこの地を誉田郷本田郷といふと爾来村人の尊崇篤く信仰近郷に及ふここ本田は明治二十二年本田村連合戸長役場区域の畠山村と合併し本畠村となり開化の進むに從ひ武川村と合体して昭和三十年川本村大字本田となった近時世情の進転は著しく村勢弥々盛なれば圃場の整備を行ひ道路を舗装して縦横に貫通させ将来への備へを完了した氏子総代人等は豫てから鎮守の護持に心を碎いてゐたが整備による社地の提供により多額の代償を得ることゝなったのでこれぞ神慮によることと畏みこれを機会に神社の改修を計画し氏子一同の参画多数有志の浄財をも加へて社殿社務所を改築し末社参道鳥居の修復更に境内の整備を行ひ此の度総てを竣成した依って碑を建て時の流れと経緯を記し関係者一同の芳名を刻んで永く記念とするものである
昭和四十九年一月吉日
埼玉県神社庁長武蔵一宮氷川神社宮司東角井光臣題撰並書
 

    社殿左側に鎮座する石祠群。詳細不明。     石祠群の右側には合祀社が鎮座する。
                      左から熊野神社・浅間神社・東照宮・天照宮、
                      八坂神社・天神神社・雷電神社・稲荷神社・
                            山之神社・榛名神社
        
                       社殿左側奥にひっそりと鎮座する白鳥神社

 本田氏は、畠山重忠と同じ良文流の桓武平氏で千葉氏の流れを汲む。平忠常の乱(10281031)で追討使源頼信・頼義父子に敗れ、忠常は都に護送される途中に病死した。頼信・頼義父子は忠常の武勇に敬意を示し、忠常の一族を寛大に扱い保護した。そのため、忠常の子・常将・恒親は房総半島で生き延びた。その後、千葉恒親は安房国稲田村、本田親幹は信濃国本田に居住した。
本田村の本田瑛勇家系
○村岡良文―忠頼―忠恒―恒親(安房国長狭郡穂田郷住、穂田氏)―恒益―親幹(武蔵国男衾郡本田郷住、本田氏の祖)―恒文―親雅―太郎親正(宇治川合戦討死)―道親(入道道観、武蔵本田氏祖 *太郎親正の弟二郎親恒(近常)
                                                拝殿からの参道方向を撮影
 この
本田次郎近常は、文治二年(1186)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(1179)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田近常が薩摩(鹿児島)で執行した。現在もこの地区に本田姓が多く見られる。
 本田氏・畠山氏・島津氏の3家は血脈関係で結ばれていて、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となる。畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久を介して、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していた。
        
                   埼玉県道69号深谷嵐山線沿いに鎮座する本田八幡神社

 ところで日本書紀(720)・応神天皇即位前紀に「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」と見える。「鞆」は弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物の事で、別名「ホムダ」ともいう。
 【大里郡神社誌】の一文では「誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ」と記述され、「誉田」は「本田」と地名変更されたとの事だが、そうすると、「誉田」=「本田」=「鞆・褒武多(ホムダ)」ともなる。
 つまり、弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物を作る雑工部を「鞆・褒武多」と称し、彼等の居住地に「褒武多」、後代になり佳字の「本田」を用いたのではないだろうか。本田の意味が「新田」に対する「古田」であれば、他の場所に「本田」地名が多くあってもよさそうであるのだが、武蔵国では武蔵国男衾郡本田村(旧川本町)だけで、何処にも無いのも不思議なことだ。
 
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある。
 本田八幡神社南方近郊に本田館跡がある。この館跡の周辺には、松本鍛冶・蛭川鍛冶・岩崎鍛冶・大沢鍛冶・真下鍛冶等の鍛冶集団が居住している。また本田地域のすぐ西隣には畠山重忠ゆかりの畠山地区もあり、やはり畠山氏と鍛冶集団には切っても切れない深い関係性がそこには存在し、その中核を担う場所こそ、この「本田」地域であったと思われる。

 本田次郎近常は畠山重忠の配下に属していて、武将としても一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っているように剛の武将でもあるが、同時に重忠と別行動し、薩摩の地頭職代行のような業務もそつなくこなす能力も兼ね備えた優れた経営者でもあったのだろう。
 この本田地区周辺に多数存在する鍛冶集団の調整役も含めた総纏め的な存在だったからこそ、このような大事を勤め上げられたのだと筆者は勝手に推測しているのだが、如何だろうか。


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本堀田諏訪神社

 本庄市北堀田地域は、元は武蔵国榛沢郡滝瀬郷とあり、戦国時代までは武蔵七党丹党の滝瀬氏の本貫地だったそうだ。滝瀬氏は丹党安保氏の支族。安保氏は、鎌倉時代以後早くに党と言った血族集団(同族意識を持った武士団)から独立した氏族であった為、党(本宗家を中心とした組織)の弱体化や滅亡を共にする事はなく、結果として、丹党の氏族の中でも最も栄えた一族となった。
 本貫地である安保郷を中心に始まり、中世を通して所領は拡大していった。武蔵国内での所領は、児玉郡の塩谷郷・長茎郷・宮内郷・太田村(郷)・蛭川郷・阿久原郷・円岡郷、秩父郡の三沢村(郷)・長田郷・大河原郷・大路沢村(郷)・岩田郷・白鳥郷・井戸郷、榛沢郡の滝瀬郷・騎西部・大井郷・成田郷の箱田村、平戸村である。

                
              ・所在地 埼玉県本庄市堀田297
              ・ご祭神 健御名方命
              ・社 格 旧無各社
              ・例 祭 春季社日祭 3月社日 祈年祭 43
                   
夏越大祓 730日 例大祭 1017日 他 
 本堀田諏訪神社は前項紹介した前堀田諏訪神社の北方600m程の距離にあり、旧中山道を北西方向に進む。小山川と備前渠に挟まれた長閑な田園地帯を300m程進むと右側に農業用資材の会社があり、その先のT字路を右折、農道の突き当たりをまた右折し、すぐ左折しなければいけないが、そこからは真っ直ぐ埼玉県道45号本庄妻沼線に交差するところまで進むと、その交差点斜め右側に社は鎮座している。
        
               交通量の多い県道沿いに社は鎮座する。
 社は県道沿いに鎮座し、手押しボタンの信号ではあるが「堀田」交差点沿いに鎮座する。周囲は長閑な田園が広がっているが、県道にはかなり交通量があり、ましてや交差点でもある為、駐車スペースを探したが、適当な場所はなく、社務所等もない。僅かに社の北側に舗装はされていない路面があったので、そこの一角に停めて、急ぎ参拝を行った。
 
      鳥居上部にある社号額           鳥居の左側にある案内板
 諏訪神社 御由緒   本庄市堀田二九七
 □御縁起(歴史)
 当地は、利根川右岸の沖積地の自然堤防上に位置し、村の南端を小山川が流れる。当地は昭和二十六年に大字堀田となるまでは、大字滝瀬の一部であった。この滝瀬は、武蔵七党の丹党に属する滝瀬氏の本貫地とされ、建武四年(一三三七)の「高重茂奉書」(安保文書)に「滝瀬郷」と見える。地内には、東方の字滝瀬とその西の字北堀田、南西の字前堀田にそれぞれ集落があり、当社は字北堀田に鎮座する。堀田は、『武蔵志』に「中山道筋 滝瀬ノ新田、別村ニアラス」とある。
 社伝によると、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際、家臣の高柳隼人及びその一族が、武蔵国榛沢郡滝瀬郷北堀田に落ち延びて土着した。そこで、もとより信仰していた信濃国の諏訪大社をこの地に勧請し、一族の祈願所としたのが当社の始まりである。以来、武門の崇敬するところであったが、慶長十八年(一六一三)に至り、北堀田の鎮守となった。その後、長い年月を経て社殿が頽廃したので、天保二年(一八三一)に北堀田の崇敬者が再興した。この時の世話人は、増岡周助・高柳仙之助・塚越平八・高柳寅松・伊藤勝三郎などであった。
 なお、当社は「中山道分間延絵図」に、中山道からしばらく北に入った所に「滝瀬村之内字北堀田、諏訪明神」と書かれている。
 明治に入り、当社は無格社とされた。平成二年には、社殿瓦屋根の葺き替え工事を行った。
                                      案内板より引用
 
 境内交差点側に鎮座する境内社。詳細不明。      境内社の右隣に並ぶ石碑等
                       
庚申塔、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音  
        
                               重厚感のある拝殿正面
 時代が下り丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝=新田義貞についたため、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していった。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方したため、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されている。ただ丹党の氏族のうち、阿保氏は足利氏に属したため、その所領を永く維持した。
 戦国期の安保氏は在地土豪を家臣団として編成し、小大名的な存在にまでなっていたが、永禄
12年(1569年)、武田信玄の御嶽城攻略を最後に姿を消す事となるとある。その武田家も滅亡後の安土桃山時代になって、家臣一族がこの地に土着し、諏訪信仰が根付いたのだと思われる。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
        
                          境内社。瓦の紋から推測すると天神社か。



 

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前堀田諏訪神社

 本庄市堀田地区は大部分が小山川と備前渠に挟まれた田園地帯が広がった地域であり、平均標高40m程。昔の榛沢郡滝瀬村字堀田は古の村名にて、松陰私記に「文明三年・五十子近辺堀田」と見える。
 古代での日本では城や館を「堀内」・「堀ノ内」と称していて、濠に囲まれた場所としてつけられた地名だが、「堀内」・「堀ノ内」の源となる「堀(ホリ)」は「モリ、ホル、ホリ、フル」とも読まれていた。但し本来は神聖なる社の周囲を「堀」という漢字で表していたともいう。
本庄市堀田地区には「前堀田」と「北堀田」の2つの地区に分かれ、いずれも諏訪神社を祀っている。 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市堀田1059
              ・ご祭神 健御名方命
              ・社 格 旧無各社
              ・例 祭 初午祭 2月初午 祈年祭 43日 夏越大祓 730
                   例大祭 1017日 新嘗祭 1210日 他
 前堀田諏訪神社は、国道17号バイパスを「道の駅 おかべ」を過ぎ、「岡(西)」交差点を右折し、旧中山道をに合流して小山川を越える地点に所在する滝岡橋を抜け、北西方向に時計回りに400m程進んだところを斜め右後ろ方向に曲がると、前堀田諏訪神社に達する鳥居に到着する。
               
                      社号標柱
 社号標柱には「村社」と表記されているが、明治時代の近代社格制度では、滝瀬村として、滝瀬神社が村社となり、当社は無各社とされたとある。
        
                  
正面鳥居から撮影
        
                 鳥居近郊にある案内板
諏訪神社 御由緒   本庄市堀田一〇五九
御縁起(歴史)
正保二年(一六四五) の「本庄町外石高等領地図」(中原家蔵) に「滝瀬村ノ内掘田」と見え、更に『武蔵志』には、堀田は「中山道筋 滝瀬ノ新田別村ニアラス」とあり、古くは滝瀬村に属していたことがわかる。堀田は、前堀田と北堀田の二つの地区に分かれ、いずれも鎮守として諏訪神社を祀っている。当社は前堀田の方の諏訪神社で、神社を中心として西方の地城の小名を上諏訪(通称は上)、東方の地域の小名を下諏訪(通称は下)と呼んでいる。
社蔵の明治初年の「明細帳」によれば、往古甲斐の国士逸見儀左衛門は信濃国の諏訪大社を深く崇敬していた。永禄十年(一五六七)のころにこの逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、堀田の字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪大社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。以来武門の崇敬を集めたが、永い歳月を経て衰微してしまった。そこで寛延二年(一七四九)に前堀田の氏神として再興し、遷座祭を執行した。この時、逸見郷右衛門・粂原友之丞・荻野万兵衛・内田清兵衛・田沼四郎衛らが世話に当たったという。
明治初年の社格制定に際しては、古くから滝瀬村の鎮守であった滝瀬社(旧聖天社)が村社となり、当社は無格社とされた。明治二十七年には、幣殿増築並びに本殿修繕を行った。
                                      案内板より引用
        
        旧無各社ではあるが、社格のある社と遜色ない風格も感じる。
       
             社殿左側に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 日本書紀神代上に「素戔鳴尊、新羅国に降り到り、曽尸茂梨の処に居す」。元慶年間(877885)の日本書紀講書に「曽尸茂梨は、今の蘇之保留の処か」とある。
 曽尸茂梨(そしもり)・蘇之保留(そしほる)は素戔鳴尊が天降った先の古代朝鮮、新羅(しらぎ)の地名である。黄海道鳳山(こうかいどうほうさん))。すなわち金の山、輝く山の意で、神降臨にふさわしい聖所でもあり、古代は除伐(しょぶる)、又は金城(そふる)と称した。
 一説によると、天下った聖地である「金城」は新羅国の首都である「金城」であるという。その首都の名称から、モリ、ホル、ホリ、フルは城とか都の意味であり、その場所に生活している非農民である役人や商工者、鉱山鍛冶師等の集落を称していた。
 その後渡来人鉱山鍛冶集団は砂鉄の採取出来る川岸附近に土着して集落の通称に堀(ほる、ほり)の佳字を用いていた。

 日本語には一字一音一義といって、五十音の一字ごとに意味があることが特徴であり、世界の言語にはそれはほとんどない特別な言語でもある。それ故に日本語は世界の言語語源に対して「孤立した言語」とも言われている。
 残念ながらいまでは戦後教育の成果(?)で、そうした日本語独特の意味を我々日本人自体が忘れてしまったため、この本来の意味を取り戻すのはちょっと大変であるが、もうそろそろ本来の日本の懐の深さを知るべきではないかと考える。
 
  社殿右側奥に鎮座する境内社。詳細不明。   社殿右側奥にも石祠、石碑、供養塔あり。

追記 滝岡橋に関して
 社に到着する前に「滝岡橋」を通るが、この橋は鋼製8連桁橋で、橋延長は146.7 m、幅員は6.3 m 2008年(平成20年)37日に国の登録有形文化財で、日本の近代土木遺産のひとつとなっている。
 中山道の旧藤田村滝瀬と旧岡部村岡との境界を流れる小山川に架かる橋。 それぞれの地名の一文字を当てて「滝岡橋」と命名されていている。元々江戸時代からの渡し(渡船場)であったが、明治時代の19013月に木橋が完成していて、その後大正8年より小山川の改修と併せて施工され、昭和3年に完成している。 鋼桁橋として古い形態を留めており、親柱や欄干に花崗岩を用い、橋台の 表面には深谷にあった日本煉瓦製造の赤レンガを用いている。

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新井稲荷神社

 平成18年(2006)に本庄市と児玉町が大合併して現在の本庄市が誕生したが、合併以前の本庄市は「本庄」「藤田」「仁手」「旭」「北泉」の5地区により構成されていた。
 旭地区は本庄市野最北端に位置し、北は利根川が流れ、地区全体が利根川の氾濫原で平坦地となっている。その中で「新井地区」は「山王堂」地区の西側にあり、共に直接利根川の左岸に位置していて、本庄市北端の地区でもある。
        
              ・所在地 埼玉県本庄市新井1
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭 211日 祈年祭 43日 大祓 723
                   新嘗祭 128     
 新井稲荷神社は国道17号を本庄市街地から上里町方向に進み、「小島」交差点を右折し、小山川を越えて道なりに北上する。「本庄旭小」交差点をそのまま進むと左右に「都島角折神社」「本庄市旭公民館」が見え、そこから250m程先にT字路があり、そこを左折すると、道路沿いすぐ右側に新井稲荷神社が鎮座する地に到着する。
 社の左側は広い空間となっていて、お子様の遊具の邪魔にならない所に車を停めて参拝を行った。
 
田園地帯が広がる新井地区にあって、この新井稲荷神社周辺には住宅街が多くあり、北側利根川方向に目を転ずれば本庄利根工業団地も存在している。昔ながらの懐かしい青々とした垣根を伴った一軒家を見ながら、現代産業を担う工業団地や近代建築の住宅が入り混じった、不思議な空間を感じながらの参拝ともなった。
        
                  
新井稲荷神社 正面
                 正面撮影を禁ずるとの看板表示があり、斜めから撮影。
 新井地区は本庄利根工業団地もあり、烏川と利根川が合流するすぐ近くで、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625年)の利根川大洪水後の烏川の流路変更により、上野国から武蔵国に所属が変わった経緯があり、その為、旧家には上野国との関わり合いの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
 
          案内板                       社号標柱の左側に並ぶ阿夫利神社石祠等

 稲荷神社 御由緒   本庄市新井1
 □御祭神…倉稲魂命
 □御縁起(歴史)
 新井の周辺地域は、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625)の利根川大洪水後の烏川流路変更により、武蔵国に所属が変わった。そのため、旧家には上野国とのかかわりあいの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
 稲荷神社は、古くから村の産土として信仰されてきた社である。創建の年代は定かではないが、当社には寛延三年(西1750)九月に京都の神祇官領長吉田家から受けた幣帛が安置されていることから、このころには既に現在のような形で祀られていたことが推測される。また「風土記稿」新井村の項に「稲荷社 鎮守なり、清淵寺持」と記されているように、江戸時代には真言宗の清淵寺が別当として当社の祭祀を行っていた。殿内装飾から神道護摩が行われていたかもしれない。
 神仏分離によって、当社は清淵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。その後、政府の合祀政策に従い、明治四十五年に字御陣場の村社稲荷社を合祀した。同社の依代であった御幣は、当社に移されているが、これには「稲荷大明神 元禄八乙亥(一六九五)七月七日寄進 武州台河原 宮下新左衛門」の墨書がある。また、同年、字屯の無格社厳島神社、字御陣場の無格社琴平神社及びその境内社の大杉神社を当社境内に移転し、これらを境内社として祀るようになった。
                                      案内板より引用
        
                                         拝 殿
 
 社殿後方にはたくさんの石祠や石碑が一ヶ所に集められていて(写真左)、天照皇大神・春日大神・八幡大神、蔵王大権現、大江神社、御嶽山神社、八海山神社、天野御中主神などの名が見られる。
 また石祠、石碑群の右隣には境内社あり(写真右)。中には二基の石祠が納められているが、詳細不明。

 案内板に紹介されている「境野氏」について調べてみると、
 □境野氏
 元は那波氏家臣の境野氏であり、今でも群馬県佐波郡赤堀町や群馬郡多野郡新町、伊勢崎市にもその氏は存在し、新井地区に多く今でも現存していて、古代以来の土着者とも言われている。またその氏は周辺地区、滝瀬地区や宮戸地区や深谷市・新戒地区にも広がりを見せていて、地域限定の一族でもある。
武蔵国児玉郡誌
「大字新井の稲荷神社は、明徳年間に境野宗秀の創立せし社なり」
「三友河岸船問屋境野万右衛門。当村安政三年庚申塔に境野儀助。明治九年戸長境野儀八郎・文政六年生、副戸長境野重衛・文化五年生、副戸長境野佐平・文政十年生、立会人境野藤吉」
明治二十一年皇国武術英名録
山念流新井村境野新三郎・境野重三郎」


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沼和田飯玉神社

 沼和田飯玉神社は山王堂地区の南側に位置する沼和田地区に鎮座している。沼和田の地名由来では、「和田」は川の曲がって流れている部分や丸みのある平地を指すといわれ、『埼玉県地名誌』では沼のある和田の地の意味であろうと推定している。『本庄の地名』では明治18年(1885)に測量された陸軍陸地測量部の迅速図を見ると、乱流する利根川が良く分かり、旧流路ともども丸くなった地形が、地名の発祥と想定させてくれる。
 沼和田地区は山王堂地区や東側に隣接する仁手地区等周辺の村と共に、江戸時代初頭頃までは上野国那波郡に属していた。
 直現在の沼和田の読みは「ぬまわだ」だが、昔から愛称もこめて「ヌマンダ」と発音している方も多いという。
 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市沼和田926
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 不明  
 沼和田飯玉神社は国道17号を本庄市街地から上里町方向に進み、「小島(北)」交差点を右折する。埼玉県道351号沼和田杉山線に合流し、そのまま北東方向に700m程進むと左側に本庄市立旭小学校が見え、そのまま進み、次の信号のある交差点を右折すると左側に社の鳥居が見える。鳥居のそばには沼和田センターがあるので、そちらに駐車してから参拝を行う。
             
               沼和田飯玉神社 正面社号標柱
 社号標柱に『神饌幣帛料供進』と彫られているが、この神饌幣帛料供進社とは如何なる社の事を謂うのか調べてみた。
神饌幣帛料供進指定神社
 神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ) とは、郷社・村社を対象に勅令に基づいて県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社のことを指している。
 明治40年(1907年)からは、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の供進を受けることが、大正3年(1914年)4月からは祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることが、それぞれ認められ、神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治8年(1875年)の「神社祭式」では、幣帛として布帛などの現物のほか、金銭を紙に包んだ「金幣」を加えることとされた。金幣は祭典にさきだってあらかじめ地方庁に交付され、地方長官に供進させた。
 現在、全国の神社本庁包括下の神社の例祭には神社本庁から「幣帛料」として金銭が贈られている。
                                    Wikipediaより
参照
        
                              一の鳥居
 
  一の鳥居の左側に庚申塔等の石塔が並ぶ。       二の鳥居に続く参道
   昔からの信仰心が今も残されている。    地方の社には長い参道が今も残されている。
        
                                  二の鳥居
        
                        拝 殿

  境内は思いのほか広く、手入れも行き届いていていて、境内社等の配置も整然としている。
 
     拝殿上部に掲げてある扁額           扁額の左側にある社号額
       
               参道の左側境内入り口にある御神木
             
                御神木の手前にある境内碑
 境内碑  飯玉神社由来記
 當社創立ハ不詳ナレドモ往古室町時代ニハ上野國那波郡那波城主ノ崇敬アリシ社ニシテ神徳遠近ニ輝キシト云フ祭神ハ倉稻魂命ヲ祀ル五穀ノ祖神ナリ舊社地ハ村ノ東方字飯玉ノ地ニアリシヲ天正十八年ニ今ノ地ニ遷ス舊境内ニハ周圍參拾餘尺ノ欅ノ老樹アリシカ明治二十年一月二日燒失セリ建物ハ本殿幣殿拜殿社務所等ノ施設ヲ完備ス
 境内ハ四百七拾万坪ヲ有シ社格ハ明治五年村社トナリ明治四十二年ニ無格社雷電神社稻荷神社八幡神社諏訪神社ヲ境内社ニ移轉シ大正十年二月二日神饌幣帛料指定社トナル神域ノ樹木欝蒼トシテ神威赫々タリ茲ニ由来ヲ調査シテ略記シ後世ニ傳フト云爾
正三位勲六等金鑚宮守題額幷撰  
逸見應次敬書
 
  社殿左側に鎮座する境内社・諏訪、雷電社     草木に覆われているが富士塚もあり
       
     本庄市指定文化財として有形文化財(天然記念物)に指定されているサイカチ。
                  
目通り周囲は3.2m
*サイカチ
 マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木。別名はカワラフジノキ。漢字では皁莢、梍と表記する。日本では中部地方以西の本州、四国、九州に分布するほか、朝鮮半島、中国に分布する。山野や川原に自生する[2]。実や幹を利用するため、栽培されることも多い。
 木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いられ、莢にはサポニンを多く含むため、油汚れを落とすため石鹸の代わりに、古くから洗剤や入浴に重宝された。豆果は皁莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。種子は漢方では皁角子(さいかくし)と称し、利尿や去痰の薬に用いた。また棘は皁角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされた。
 サイカチの花言葉は、「壮大」
『万葉集』に収録された和歌の中にも詠まれている。
・万葉集(巻十六) 皂莢爾 延於保登礼流 糞(屎)葛 絶事無 宮将為
 かわらふじに 延ひおほとれる屎葛(くそかづら) 絶ゆることなく宮仕えせむ(高宮王)
                                     Wikipediaより
参照
 
     左側の赤い石祠は三峯神社。       赤い鳥居は稲荷社。隣の石祠は不明。
中央の石碑の左側石祠が天手長男神社、右が菜種
          八幡神社と刻まれている。

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