古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮内若宮神社

 本庄市(旧児玉町)宮内は金屋地区の西部に位置し、神川町二ノ宮と境を接している。宮内の大半は山地と谷間の谷戸田よりなり、東部にかけて児玉丘陵が続いている。宮内地区から現在の女堀川(旧赤根川)が流れ、東部塩谷地内へ流れる。集落は女堀川の両側の平場と丘陵部の両側に広がっている。北寄りで女堀川に沿って国道462号線が東西に通っている
 宮内の名の由来は、神社の存在から来ているといわれている。宮内地区内の小字天田には若宮神社が鎮座しており、その隣町の二ノ宮は旧金鑽村と云い、延喜式にもその名が見られる金鑽神社がある。この金鑽神社の東部国道わきには元森神社があり、金鑽神社の元の鎮座地とも言われている。金鑽神社は現在地に移るまでに、三度程移転しているといわれており、宮内地区の若宮神社も旧鎮座地ではないかと考えられている
 宮内の地名が歴史上始めて確認されるのは、暦応3年(1340)の安保光阿(光泰)譲状(『安保文書』)で、「児玉郡植松名内宮内郷」と見える。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町宮内1010
            ・ご祭神 田心姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 17日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                 新嘗祭 1210日

 宮内若宮神社は旧児玉町宮内地区に鎮座する。途中までの経路は塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を神川町方向に2㎞程進み、児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折する。200m程南下し、T字路を右折すると正面にのぼり幟ポールが見え、すぐ右側に宮内若宮神社が見えてくる。
 駐車スペースは、社の正面鳥居の道を隔てた反対側に数台駐車可能な空間が確保されており、そこの一角に停めてから参拝を行った。
        
                                                       宮内若宮神社正面

 児玉郡宮内村(児玉町)は暦応三年安保文書に児玉郡枝松名内宮内郷と見え、児玉党宮内氏は児玉郡宮内村より起こる。武蔵七党系図に「塩谷平五大夫家遠―太郎経遠―児玉二郎経光(奥州合戦討死)―四郎経高―宮内太郎左衛門経氏―児玉新三郎信経(弟に六郎光氏、七郎忠氏)―三郎光信(弟太郎光経)」と記載され、宮内氏は塩谷一族から分家した一族ということになる。塩谷地区と宮内地区は距離的にも近く、同じ一族というのも頷けるというものだ。
 若宮神社の創建年代等は不詳の事だが、当地は金鑚神社の旧地だとも伝えられ、また「若宮」の社号は、田心姫命が武蔵国二ノ宮金鑽神社の大神の娘であることによると云い、田心姫命が父神と喧嘩した時の云々から、当地では椿を植えることが禁忌という伝承もあり、金鑚神社と関わりの深い神社で、古くより鎮座しているものと思われる。
 
     宮内若宮神社 朱色の両部鳥居         鳥居の左側にある案内板

若宮神社  児玉町宮内一〇一〇
▢御縁起

宮内は、武蔵七党丹党の一族である安保氏の所領として既に南北朝期の文書にその名が見え、古くは若泉荘に属し、江戸時代には児玉郡八幡山領のうちであった。一方、天正十九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)よれば村柄(生産力の高さ)は「上之郷」と評価され、地味に恵まれた土地であったことがわかる。
当社は、この宮内の鎮守としてられて祀られてきた神社であり、『風土記稿』宮内村の項にも「若宮明神社 村の鎮守也、遍照寺持」として記されている。祭神は田心姫命で、「若宮」の社号は、この神が武蔵国二宮の金鑚神社の大神の娘であることによるものという。また、当社の鎮座地付近を「天田」というが、この地名については、昔、田心姫命が父神と喧嘩をした時、父神が椿の校を手に「このアマダ、アマダ」と打ちかかりながら田心姫命を追いかけて当地までやって来たことに由来するとの言い伝えがある。したがって、当社の氏子の間では椿を植えることが禁忌とされ、もし植えると神の怒りに触れて疫病がはやるとか、植えた家は身が立たないなどといわれている。
更に、『明細帳』には由緒として享保十三年(一七二八) 二月に正一位の神位を受けたこと、明治五年に村社となったこと、明治四十年に字滝前の六所神社を合祀したことが載る。
御祭神 田心姫命…厄災除け、五穀豊穣
                                      案内板より引用
       
               鳥居の先左側に聳え立つご神木
 
      参道左側に立つ社日神            社日の隣にある謎の石組
五穀豊穣を願う日本の社に比較的多い五角形の碑。
        
                                     拝 殿

 ところで本庄市児玉町宮内地区には、古くから『雨乞屋台』と言われる民話・伝説が存在する。宮内若宮神社にも関連する昔話である。

雨乞屋台
千年も前のこと。平安の時代、阿久原に牧があり、京から来た別当がいた。任期を終えた別当は京に帰ったが、時代が変わり扱いがひどく居場所がないので、阿久原に戻り、ここを一族の拠点とすることにした。息子の若宮の家をつくり、そこを宮内として開墾に精を出した。
ところが、先住の大蛇(ながむし)の一族が反対し、邪魔をするので難儀した。そこで若宮と別当は、尊敬する田心姫の力を借りることにした。田心姫は天下り、協力を約束した。金鑽様も面会に来たというその美しさには大蛇族も歯が立たず、和睦を模索した。そして、開発に協力するが、田心姫を大蛇族の司と結婚させてほしいと申し入れた。若宮たちは撥ねつけようとしたが、姫は笑顔で、術を比べて、天より持ち来た小さな手箱に入る術を司が示せば、結婚を承知しましょう、と言った。大蛇族は思わぬ朗報に夜通しのお祝いとなった。
あくる朝、姫への誠意と、美男子の司はただ一人指定の沼のほとりへ来、さっそく身を縮める術をもって、姫の手箱に入って見せた。しかしこれは計略で、姫は手箱に鍵をかけると、若宮に手箱を沼に放り入れさせてしまった。さらには、これは天の神の作戦であり、沼を埋め立てよ、と言う。
大蛇族は司が沼に沈んだのは神をおそれなかった結果仕方がないとしたが、せめて日照りのときは司の霊を呼び戻し雨を降らせるから、埋めるのは許してほしいと懇願した。そこで池を埋めるのをやめ、その周りを息をつかずに七まわり半できたら姿を現し司の霊を慰めよう、と田心姫は約束し、天へ帰ったという。
時代は過ぎ江戸のこと。大日照りが続いた。大蛇の話は皆したが、司の霊を呼び戻す方法が分からなかった。そこである年寄が、大八車に大蛇の姿を作って載せ、手箱池の周りを回ったらどうか、と思い付き、そのようにした。それで雨が降ったらお礼に若宮様へ雨乞屋台を奉納しよう、と。
そうして池を五回も回るともう雨が降り出し、大八車も操れぬほどになり、空だった手箱池も、たちまち道まで水浸しになった。村人たちはすぐに雨乞屋台を作り若宮に納めたという。今も御宝蔵にある雨乞屋台はこうした何百年もの物語を秘めて出番を待っている。

*児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会 『児玉郡・本庄市のむかしばなし 続』参照

 「雨乞屋台」と同じ昔話が「児玉風土記」にもあり、昔「てばこ」と呼ばれる小さい池があり、てばこ池(手箱池)の水が満ちた時に、池の周りを左回りに7回半、息をしないで回ると美しいお姫様が池から現れると言い伝えられていた。しかし実際には息をしないで7回半回れる人はいなかった為、お姫様を見ることはなかったようだ。
 本庄市児玉町宮内に鎮座される若宮神社と想定される「雨乞屋台」という民話。社の南方向には溜池のような池が沢山あるが、手箱池がどこに該当するか、そもそも現存するのかも不明だ。
 
  社殿左側で、謎の石組の隣にある石碑      社殿の隣に鎮座する境内社。詳細不明。
         
                    境内の様子

 風土記の昔の神話に近いフィクションの類と言ってしまえばそれまでの話だが、話の内容はかなり複雑であり、要約すると、大蛇(ながむし)という先住一族との抗争、そして和議と見せかけた姑息な計略でその民族を討伐する、なかなか辛辣な出来事である。今はまだこの話が正しく古代の何かを伝えるものなのか否かは断定できないが「大蛇族」というのは同児玉の南東に行って秋山(秋平)の方にも見え、一概に否定できないようにも感じる。


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「安保文書」「本庄の地名② 児玉地域編」「児玉郡・本庄市のむかしばなし 続」等                

拍手[1回]


塩谷諏訪神社

 旧児玉町塩谷地域は、嘗ては児玉郡塩谷村と云い、承久記に「しほのや」、紀州熊野那智山米良文書に「児玉の在所の御名字の事、しをのや」、天正十九年武州之内御縄打取帳に塩野屋、高柳村長泉寺寛文七年文書に塩野谷村と見える。
 また建武三年十二月十一日安保文書に「領地武蔵国枝松名内塩谷田在家」、暦応三年正月二十四日安保文書に「児玉郡枝松名内宮内郷事(児玉町)・児玉郡枝松名内塩谷郷事」とあり、塩谷村及び隣村の宮内村は枝松名と称していた。また埼玉郡長野村長久寺所蔵の明応七年七月二十五日大般若経奥書には「武州児玉郡塩谷郷阿那志村円福寺書写之(美里町)」とあり。此地は枝松名塩谷村とかなり遠方であり、塩谷郷は相当広い範囲を唱えていたらしい。
*埼玉苗字辞典を参照
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町塩谷599
             
・ご祭神 八坂刀賣命・建御名方命
             
・社 格 旧指定村社
             
・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 例祭 1015
                  
新嘗祭 1215

 塩谷諏訪神社は旧児玉町西側・塩谷地区に鎮座する。旧児玉町駅前通りを西方向に進み、国道462号線との合流地点である「児玉駅入り口」交差点を左折、すぐ先に右折する地点もあるが、国道沿いに2㎞程直進すると左側に小高い丘が見え、その斜面上に塩谷諏訪神社は鎮座している。
 国道沿いに専用駐車場も設置されており、そこには数台分停められる。旧児玉町・塩谷地区は、児玉党塩谷氏の本貫地でもあるため、厳かな気持ちで参拝を行う。
         
               斜面上に鎮座する塩谷諏訪神社 
鳥居前で一礼、石段を仰ぎ見ると社殿が見える。    石段を登ると平地面に変わる。
                           参道の先に社殿が見える。

 児玉党塩谷氏は、武蔵七党系図に「児玉武蔵権守家行―塩谷平五大夫家遠―塩谷太郎経遠―小太郎高光―右衛門尉弘忠。○経遠の弟五郎維弘(奥州合戦討死)―三郎維盛(建暦乱和田一味〆被誅。弟五郎維定)―太郎維光(建暦三年五月二日父同討死)、弟三郎盛信―新三郎茂信(弟家綱出家、義行)。○維弘の弟民部大夫六郎家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)―太郎左衛門尉家朝(弟に左兵衛尉家範、四郎盛家、五郎経盛)―新左衛門尉定朝、弟刑部左衛門尉家氏―太郎盛家―刑部左衛門尉時家(弟又太郎家忠)―太郎家重(弟五郎貞家)。○家朝の弟五郎経盛(承久賞近江国中条拝領)―六郎経直(弟光経)―中条六郎太郎経村―又太郎宗実」と見え、この塩谷地域を本貫地としてきた一族である。
 不思議と系図を見ると、塩谷家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)塩谷経遠、塩谷維弘(通称五郎、奥州合戦で戦死)、塩谷家経(民部大夫、承久の乱で溺死)でも分かる通り、武功よりも勇ましい戦死や、戦闘中の溺死等が目立つ一族である。
        
                                     拝 殿
 
    拝殿に掲げてある「諏訪神社」の扁額     拝殿左脇に「塩谷家遠略伝」の案内板あり。

 塩谷家遠略伝 金屋村役場
 塩谷家遠は児玉党の祖・家弘の弟にあたり、児玉党の勇者である。源平時代(1150年代)、当所に居館をかまえ、以来子孫代々居住していた。館址は昭和18年縣史蹟の指定を受け、昭和28616日指定文化財の標柱を建立した。家遠は守護神として信濃国の諏訪神社に勧請して居館の三方に上下諏訪・稲荷の三社を創立し、一族の安泰を祈願するとともに、居館から当社に至る乗切り馬場を作って馬術を推奨した。現在当社拝殿前から西南にのびる帯状の台地は、当時の馬場の跡をとどめている。
                                      案内板より引用
 
 拝殿手前、左側に鎮座する境内社群(写真左)。左から皇大神宮・榛名神社・手長男神社・八坂神社の石祠。また拝殿左側奥にも境内社群(同右)があり、左から稲荷神社・山神神社・八幡神社・天神神社・厳島神社・金王神社の石祠が鎮座している。
        
                                社殿手前右側にある案内板

 諏訪神社 御由緒  本庄市児玉町塩谷五九九
 □御縁起(歴史)
 当社は児玉党塩谷氏の本貫地に鎮座し、祭神は八坂刀賣命・建御名方命である。塩谷氏は児玉庄太夫家弘(児玉党の祖とされる有道遠峯の曾孫)の弟家遠が塩谷平太夫家遠と称したことに始まり、字篠に館を構えたとされる。『吾妻鏡』には塩谷一族の名が散見し、館跡も現存している。
 社伝によると、建久年間(一一九〇~九九)に塩谷氏の祖塩谷平太夫家遠が武神の祖たる信濃国諏訪神社の大神を勧請したという。当社は初め下諏訪神社と称していたが、明治四十年二月七日に字上諏訪の上諏訪神社を合祀したことにより社号を諏訪神社に改めている。また同日に上諏訪神社に祀られていた八幡神社・稲荷神社・天神社、字上ノ台の皇太神社、字篠の厳島神社を境内社として移転した。境内社の天神社には明治四十年四月八日に字天神下の北野神社を合祀し、大正七年六月に社殿を改築した。更に昭和二年十月に字大平(大平山)の阿夫利神社を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。しかし、現在氏子は「阿夫利神社(大山様)」とのみ呼称している。このほか境内社には手長男神社・山神社・金王神社が祀られている。諏訪神社の社殿は正徳二年(一七一二)に再建され、拝殿は明治二十年に再築、外宇は大正七年に新築された。また、平成四年に社殿・拝殿等の屋根瓦葺き替えを実施している。
 □御祭神 八坂刀賣命・建御名方命
                                      案内板より引用 

      
                        境内に聳え立つご神木

 塩谷諏訪神社の南側には児玉塩谷集会所、また隣接して阿夫利神社が鎮座している。当諏訪神社の境内社にあたる社である。
 
        
                   
阿夫利神社拝殿
 
         阿夫利神社 扁額          社の左側にある「阿夫利神社」石碑

 阿夫利神社
當社ハ古来ヨリ字大平ノ山頂ニ祀レルヲ大正七年諏訪神社境内ニ移轉ス山林九段二畝二十九歩ハ当村大場丈八氏管理ナリシヲ諏訪神社ニ寄進セリ
 昭和四年三月十七日  大字塩谷一同
                                      案内板より引用
        
                      国道沿いに静かに鎮座する社



参考資料 「埼玉苗字辞典」「新編武蔵風土記稿」「本庄市刊行・本庄市(旧児玉町)の地名」「武蔵七党系図」等。 

拍手[1回]


小島神明神社

 熊谷市小島地区は、熊谷市の中で利根川の北側にある市内唯一の地域である。「小島」という地名は「小嶋」と表記されていた時代もあり、約800年前の鎌倉時代初期にその名称は登場している。その頃から室町時代にかけて現在の群馬県にあたる上野国新田庄の一部に属していた。他の市内の地域と同じく、小島村が現在の埼玉県にあたる武蔵国、幡羅郡になるのは江戸時代に入ってからの事だ。
 小島村は上小島と下小島に分かれていた。明治時代に小島村は利根川の南側にある男沼村に合併した後、昭和時代に妻沼町に、平成時代に入ると熊谷市となった。現在旧小島村の地域は妻沼小島地区と名称となった。妻沼小島地区は群馬県太田市に囲まれるように位置し、南側に利根川、北側には石田川が流れている。
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市妻沼小島2358
              ・ご祭神 天照大御神 春日大神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 小島神明神社は、国道407号を熊谷警察署から北上し、利根川に架かる刀水橋を渡り切った「刀水橋北詰」交差点を左折、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線に合流し、利根川支流である石田川に架かる「古利根橋」方向に道なりに進む。暫く左手に利根川の風景を愛でながら1.7㎞程進んでいくと、進行方向の右手に「医王寺」が見え、すぐ先のY字路を右折、今度は埼玉県道・群馬県道301号妻沼小島太田線に入り、北西方向に300m弱程行くと右手に「熊谷市消防団小島分団」の建物が見え、その左隣に小島神明神社の社号標が見えてくる。
        
                                小島神明神社正面
 
       小島神明神社参道            参道の先に鳥居が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 江戸時代、この地域は利根川の流れを生かした舟運により栄え、妻沼小島地区は利根川の雄大な流れから恩恵を受ける一方、川の流れが人々の生活を苦しめることもあった。時に洪水や大水等の水害により、人々の住まいや野菜等の生産物等も流されるなど大きな被害を受けることもあった。地区内の神明神社等の社は、人々の信仰の場所となり、水難が起きないように、そして洪水がなく、無事に農作物が収穫できるよう、多くの願いが込められてきたという。
 
                       本 殿
           
              「
神明本社改造拝殿建築趣意書」石碑
 神明本社改造拝殿建築趣意書
 村社神明社は天照大御神春日大神の御二柱を始め數社を合祀し奉りたる鎮守にして該春日大神は元弘三年新田義貞公鎌倉北條氏討伐に際し脇屋義助當小島に本陣を構へ祭りて以て戰勝を祈願したりと傳ふ爾来郷人の崇敬最も篤く神威四方に赫赫たり明治四十二年本社拜殿等建築の工を起し略竣成したりしか翌年未曾有の大洪水の為拜殿其他の設備は倒潰流失の惨害に罹りたり蓋し當所の地形其前後に河川を控へ濁流奔騰の激甚中に在りしを以てなり然かも一人の死傷無く又民家の流失するものなかりしは是偏へに神明社の御加護に依るものとして感銘措く能はさる所郷人語つて曰く社殿の復興一日も忽諸にすへからすと然れとも連年水禍の至れるあり區民の疲弊困憊甚しく再興の計畫容易に成らす神靈に對し奉りて恐懼の極なりとせり現時社會の状勢は國體觀念の明微國民精神の作興を緊急要務とするに至り之か實現を期するには敬神崇祖の根本觀念を培養するを以て最も捷徑なりとす是に於て社掌氏子一體となり本社改造並拝殿建築の計畫を樹立して昭和十年四月工事に著手し年を閲すること三回今茲十五年四月に至り甫めて其工を終へたり殿宇清明にして尊嚴神徳愈高く氏子の崇敬益深し真に郷土の盛事にして國體の明微民心の作興に資する大なるものあるへきを信す茲に聖圖を石に勒むに當り齋戒して敬仰の情を舒へ神威の餘徳を永く後昆に傳へんとす乃ち誠恐誠惶して誌す
 紀元二千六百年聖戰第四年四月  
衆議院議員石坂養平篆額撰並書
                                      石碑文より引用
        
                              ひっそりと佇む社

参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館」「境内石碑碑文」等



拍手[1回]


奈良新田湯殿大神社

              
              ・所在地 埼玉県熊谷市奈良新田257
              ・ご祭神 大山祇命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月21日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月10日
              *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
 奈良新田湯殿大神社は南北に長い奈良新田地区に鎮座する、規模は小さいながらも旧村社格の社である。途中までの経路は四方寺湯殿神社を参照。「中奈良」交差点を利根川方向に北上し、道路沿いにある「横塚山古墳」の手前のT字路を左折すると、ほぼ正面に奈良新田湯殿大神社が鎮座する場所に到着できる。
 残念ながら専用駐車場等の適当な空間が周辺確認したが見当たらなかった為、道を隔てた東側に路駐して、急ぎ参拝を行った。
           
              南北に長い参道の先に朱の鳥居が屹立している。
 奈良新田地区は『新編武蔵風土記稿』では「中奈良新田村」として紹介されている。元々江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになったという。その後幕末に至り今の奈良新田に改称されたとの経緯があった。
 創建年代等は不詳ではあるが、江戸時代に中奈良新田として当地が開拓され、村の鎮守として出羽の湯殿山権現を勧請して創建したという。
 広大な妻沼低地の肥沃な地域の中に集落は形成され、その最北東部に社が鎮座している。まさに村の鎮守様との形容が相応しい社。
         
                      正面鳥居
         
                 拝殿手前左側に聳え立つ老木。
          ご神木と判別できないが、やはりこの姿には威厳が感じられる。
         
                      拝 殿

 湯殿大神社 熊谷市奈良新田二五七(奈良新田字東通)
 奈良新田は、江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになり、幕末に至って現行の奈良新田に改称された。この辺りは、利根川と荒川に挟まれた農業地帯であり、水利を生かして米麦が耕作されている。
 当社は、この奈良新田の鎮守として、出羽国(現山形県)の湯殿山から分霊したものと伝えられており、江戸時代には湯殿権現社と称していた。ただし、残念なことに、出羽国から分霊して当社が創建された年代については伝わっていない。また、湯殿権現社と呼ばれていた当時は、本殿に本地仏として、阿弥陀如来を中央に、その両脇に観世音菩薩と勢至菩薩を配した阿弥陀三尊像を祀っていたが、神仏分離により、当社に隣接する氏子の箕田家に移された。
 この本地仏の移動と同時に、従来当社の祭祀をつかさどってきた西福寺の管理を離れ、明治二年四月に湯殿大神社と改称し、村社となった。このことは、当時、村社として認められるには仏教色を排除することが必要であったことを物語っている。また、当社は村社ではあったが、小規模で氏子の数も少なかったところから、明治の末に奈良神社に合祀するとの話があったが、氏子の厚い信仰を尊重して合祀は見送られ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿に掲げてある趣のある扁額      社殿左側にポツンとある石祠。詳細不明。
 
  社殿の右側に鎮座する境内社・八坂神社      八坂神社の隣には庚申石碑2基
                            及び大黒天石碑あり。
        
 奈良新田湯殿大神社のすぐ東側には横塚山古墳(写真中央部のこんもりとした場所)が見える。


 
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
     

拍手[2回]


四方寺湯殿神社

 山形県にある湯殿山神社は、月山神社・出羽神社と並ぶ出羽三山神社の一つである。出羽三山は、明治時代まで神仏習合の権現を祀る修験道の山だったが、明治以降は神山となっていて、湯殿山神社では大山祇命、大国主命、少彦名命の三神が祀られている。
 熊谷市内では、「奈良新田」、「四方寺」、「西別府」そして境内社であるが、「代」各地区に湯殿神社が鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市四方寺401
             
・ご祭神 大山祇神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 四方寺湯殿神社は国道407号を熊谷警察書から旧妻沼町方面に北上し、「中奈良」交差点を右折、埼玉県道359号葛和田新堀線に沿って、暫く2㎞程進むと、道路沿いに「四方寺農村広場」と呼ばれる公園があり、その隣に四方寺湯殿神社はひっそりと鎮座している。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、県道に対して背を向けて鎮座している配置となっており、また社務所や自治会館等ないため、専用駐車場がない。そこで南側に回り込むように移動し、社正面近くの路肩に停めてから、急ぎ参拝を行った。
        
                            南向きの四方寺湯殿神社
             
                     社号標柱
 
          石製の鳥居           「慎ましい」という表現が似合う境内
 
        社殿手前で左側に境内社            同手前右側に境内社
       左から八坂社・天神社          左から神明社・石灯篭・伊奈利社
        
             ひっそりと鎮座する
四方寺湯殿神社拝殿
 湯殿神社 熊谷市四方寺一〇六五(四方寺字西田)
 利根川と荒川のほぼ中間の低地に位置する四方寺に鎮座し、大山祇命を祀る当社は、『風土記稿』に「湯殿山権現社 村の鎮守とす」とあるように、古来、四方寺村の鎮守として奉斎されてきた。創建の年代は定かではないが、村一番の旧家である吉田家によって祀られたとの伝えがある。吉田家の屋敷から見ると、当社はちょうど艮(北東)に当たるため、この伝えによるならば、初めは、同家の鬼門除けとして祀られたが、村の発展に伴い、村の鎮守になったものと推測される。
 江戸時代には、地内の蓮華院が別当を務めた。蓮華院は、湯殿山と号す真言宗の寺院で、開基は不明であるが、やはり吉田家によって建てられたものとの伝えがある。また、当社は享和元年(一八〇一)九月に神祇管領卜部良連から幣帛を献じられており、これは今も本殿内に奉安されている。かつては、このほかに、金の幣束も本殿に入っていたが、いつのころか盗まれてしまい、以後「本殿に神体が入っていないから『カラッポコ様』だ」と揶揄されることもしばしばあった。
 旧社格は村社で、『明細帳』には祭神の項に「合殿 月夜見命」とあるが、合祀の記録はなく、口碑にも伝えがないため、月夜見命を祀るようになった経緯はわからない。境内には、元は杉の大木が林をなし、参道が南に長く延びていたが、杉はキティ台風で倒れ、参道は区画整理でなくなったため、昔からみると随分寂しくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               社殿右奥に鎮座する境内社・金比羅宮
「四方寺(しほうじ)」という地名も変わっているが、『埼玉県地名誌』によれば、「はっきりしていないが、寺名ではないであろう。撓んだ土地を意味する。“シオジ”の転化からきたものではないか」と簡潔に説明されている。
「撓んだ」とは「曲がる・傾く・ たわむ」という意味があり、思うに河川等の氾濫により、自然堤防等が形成され、そこから低地帯とはいえ、緩やかな凸凹のある地形に地区全体が形成されていたのではないだろうか。
「シオジ」とは漢字変換すると「塩地」になると仮定して、話を進めよう。「塩」を冠したこの地域で、土地から塩が採れたり、交易品として集った事実はないようで、そうすると地形に由来するものと考えることができる。
        
                四方寺湯殿神社からの遠景

 旧男衾郡には塩村が存在していて、今の江南町塩地区がそれにあたるが、江戸時代の文献には嘗て「四方郷」と呼ばれていた。この塩地区は、「地名辞典」などでは、“シワ”と同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明していて、実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面から形成されている。つまり、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージを、当時の方々は「シオ(塩)」という言葉で表現し、それが今でも使われているかもしれない。

 四方寺という地名も、「塩地」を語源と考えると、妻沼低地に位置しているとはいえ、全ての土地が現在のように均一のとれた地形ではなく、河川のより出来る堤防もあれば、窪地や高台もあったであろう。自然がつくりだす造形をうまく利用し、低地を開拓し、田畑をつくり、自然堤防等の高地に居住していたに違いない。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉県地名誌」
          「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等 

拍手[2回]