古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

岡白鬚神社

        
               ・所在地 埼玉県深谷市岡1324
               ・ご祭神 猿田毘古命
               ・社 格 無格社
               ・例 祭 不明
 岡白鬚神社は国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に入り南下、2番目の交差点である埼玉県道353号針ヶ谷岡線との交点である十字路を右折する。この埼玉県道353号針ヶ谷岡線は途中で左方向へ車線変更するが、そのまま直進し、深谷私立岡部西小学校を越えて800m程進むと、道路沿い右側に岡白鬚神社が鎮座する。
 岡白鬚神社を一旦通り過ぎると、道路沿い右側に墓地と社の間に、駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を行った。
        
                                      参道正面
        
                             鳥居の扁額には「白鬚神社」と表記
              
                       参道を遮るように屹立する岡白鬚神社のご神木

 地図等でこの地域を確認すると、櫛挽台地の一角にあるこの岡白鬚神社周辺は、南北に細長いこの住宅街が西側に防風林を背負うように立ち並んでいて、冬時期において周辺が赤城おろしの強い地域であったが容易に推測される。参拝日が1月という事もあり、新緑深い生命力あふれる時期とは違い、寒さや強風を耐え忍んできた痕跡が、樹木の肌の至る所に見える。
        
                                         拝 殿
 白鬚神社改築記念 碑文
 当社は、岡村の新田として約三百年前の貞享年間(1684-1688)には開かれていたと言われている。
 地内の浅間神社の入口にある庚申塔には、享保元年(1716)大谷勤右衛門、加藤徳左衛門、加藤佐左衛門、小暮長右衛門、茂木善右衛門等の名が刻まれておりこれらの先人達が新田開発に携わって来たものと思われる。
 口碑によれば、明治二年(1765)に社殿の再建が行われたという。別当は、岡上にある真言宗岡林寺であったが、明治初年の神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、社格制定に際し無格社とされ、その後の合祀改築の際にも合祀されることなく現在に至っている。
 
その後、長い歴史とともに社殿も風雨に晒され耐えてきたものの、近年、特に老朽が目立つようになり、社殿改築が氏子の関心の的となっていた。
 こうした中で、平成五年、字の初会の席上に於いて、敬神崇祖の念に燃え滾る氏子達より改築の件に関し、現況では応急処置よりも社殿全ての改築を、とする意見が大部分を占め、早急に検討するべき具体案の策定まで話し合いが進展し、次の案が出され、全員の賛同を得て改築委員会の発足をみたものである(中略)
 解体後の整理中に、本殿が安置されていた台座(高さ二十センチメートル、縦横百十センチメートル)の裏面の隅の一部に、次のような記述が発見された。
 「明和六年己丑九月奉納 念願成就祈信心 當地大工作 横山市之丞、小川年次郎、加藤右藏、大谷金七、茂木重次郎、北川文藏、新井源七」、さらに、本殿裏側にあった石碑の表面に、次のような文言を確認した。
 「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」
 
以上、二つの記録により、当社が今から二百二十八年前の建立であったことが推測される。(中略)
 以上、概要を記し、多くの先人達が精神の拠り所としてこの御宮を守り伝え、「敬神崇祖」の立派な精神文化を残されたことに対し改めて感謝を申し上げるとともにこのことが、永久に受け継がれていくことを念じ、此処に此れを建立す。(以下略)
        
 本殿奥にあった謎の石。石の表面には人工的に刻んだ跡があるが、ハッキリとは判別しづらい。「白鬚神社改築記念 碑文」に「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」と書かれていた石碑の可能性はあるのであろうか。
 
 社殿左側奥には菅原神社。手前の石祠は不明。  社殿右側に鎮座する八坂神社と大黒天2基

 埼玉県には白髭神社・白鬚神社・白髪神社と白(髭・鬚・髪)を冠した社が意外と多く存在する。系統も3つに分かれているようだ。
滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
 岡白鬚神社はこちらの系統に属すると思われる。
埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。
 この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に集中して鎮座している。
清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
        
                               社殿から境内を撮影
        
                     社の道沿いに石祠・お地蔵様等が整然と並んでいる。
      

拍手[1回]


小曽根神社

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市小曽根281
             
・ご祭神 天鈿女命
             
・社 格 旧村社 創建  天明2年(1782)
             
・例 祭 不明
 小曽根神社は国道17号バイパス「柿沼」交差点を左折し、600m程行った左側にコンビニエンスがあり、その手前のT字路を左折する。道なりに500m程進むと前方右側にこんもりとした小曽根神社の社叢が見える。旧小曾根集落の南東の端にあたる場所に鎮座していて、旧社格は村社。
 
駐車場は残念ながらないので、神社脇に駐車させてもらい素早く参拝する。
 
 一の鳥居(写真左)を過ぎて、突き当たりを右側に曲がると二の鳥居(同右)が見える。
        
                                  こざっぱりした境内
        
                                         拝 殿
 小曽根神社(熊谷市小曽根二八一(小曽根字東浦))
 当地は、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されている。当社境内も“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑がある。また、小曽根は昭和二十九年まで中条村の大字であり、中条とは、古い条里制より起った呼称である。
 小曽根の地名は、やせた荒地を表すとする説がある。しかし、これは当社の祭神にちなむものではあるまいか。祭神の天の鈿女命を古くは「うずめさま」更に「おすめさま」と呼び、これがいつしか古い社名の雀宮となり、地名の小曽根となったと考えられる。
 『風土記稿』には「雀宮 村の鎮守なり、修験東光院持」とある。東光院は、当社前にある納見尚男家の先祖で、維新による復飾後も当社の面倒をみていたと伝える。また、地元の山田淳之編『小曽根と山田氏』に、納見家には「雀宮別当 権大僧都知道」と書かれた慶長十二年(一六〇七)の文書があったことが記されている。
 『明細帳』に「明治四十一年十月十二日、同大字字向河原天神社、字西浦稲荷神社ヲ合祀シ社号雀神社ヲ小曽根神社ト改称ス」とある。
 内陣に三基の霊璽が安置してある。一つは雀宮霊璽で、「武蔵国埼玉郡小曽根村 雀大明神勧請 鎮座天明二年(一七八二)三月廿六日 神祇道長上卜部良延」とある。次の一つは天神社のもので、内部に像高三二センチメートルの古い男神像を納めている。残る一つは稲荷神社霊璽である。
                                  
「埼玉の神社」より引用
 
    小曽根神社の扁額(写真左)他に雀神社と天神宮の額も掛けられている(写真右)

 小曾根村の鎮守社である当社は、嘗て祭神である「天鈿女命」を「うずめさま⇒おすめさま」となり、いつしか社名も「雀宮」と変わり、現在の地名の小曽根となったと考えられる。その後明治41年に字向河原天神社、字西浦稲荷神社を合祀、小曽根神社と改称した。その名残が3枚扁額という形で残されている。
 
    拝殿左側に並列して鎮座する石祠           石祠の隣には境内社
           白山神社と牛頭天王                 詳細不明
        
                    御嶽塚碑群
 石碑群の奥中央には
「三笠山大神・御嶽山大神・八海山大神」が鎮座し、その周りには、摩利支天・大江大神・清瀧権現・十二権現・一心霊神・三鷲義霊神などの文字も見える。

 小曽根神社が鎮座する熊谷市小曽根地区。この小曽根地域は、熊谷市北東部に位置し、東で今井、西で柿沼・代、南で肥塚、北で下奈良に隣接する。
 
ところで「小曽根」は「おぞね」と読む。この小曽根の地名由来はいくつかあって、熊谷WEB博物館等では以下の説があるという。
小曽根地区は、利根川と荒川の中間に位置し、河床由来の砂礫の多い痩せた土地で、古語でそれを意味する「埇(そね)」を当てていたことが名前の由来と言われている。〔熊谷市史〕
ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地のことか。〔日本古語事典〕
・「
ソネ」は表土の下部に岩や礫、砂などがある痩地のところで、礁の名や旧河床の部分をいう名として各地にみられる。〔日本の地名・埼玉県地名誌〕
県内に多くみられる「ソネ」という地名は、元荒川・古利根(ふるとね)川などの河川の沿岸にあるという。「ソネ」地名の発生時代は15001700年とみられる。〔日本地名学〕
アイヌ語(オソネイOsonei)から露岩の尻という意味。
             
 小曽根神社北方近郊には「東浦遺跡」が存在し、平成17年に調査・発掘されている。古墳時代後期の住居跡や、竪穴状遺構、須恵器腿等の出土によって、開始時期は5世紀末から6世紀初めに遡る可能性が高い。「埼玉の神社」による小曽根神社の由緒では、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されていると書かれているが、
「東浦遺跡」の発掘により証明されている。

 小曽根神社境内には“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑があるという。写真でも見た通り、境内で古墳らしき面影が残っている場所は、本殿奥周辺に若干の高みが見えるだけである。『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』には直径25mの円墳。半壊で直刀出土伝承ありとの記載がある。




拍手[2回]


平塚新田八幡神社

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市平塚新田508
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 415日 春祭、715日 夏祭(雷電社・風雨順次の祈願)
                 
1015日 秋祭
 平塚新田八幡神社は国道407号を東松山方向に進み、荒川大橋を越えた「村岡」交差点を直進するが、最初の「村岡三又」のY字路を右折し、そのまま1㎞程進み、和田吉野川を渡って、熊谷警察著・吉野駐在所のあるT字路を左折する。左側に吉岡中学校を見ながら左方向に円を描くように進むと、高台のある一角に平塚八幡神社の参道入口に到着する。
 地図を確認すると、熊谷私立吉岡中学校に隣接して社は鎮座している。
 参道付近に駐車スペースなどは無いが、参道周辺には路上ではあるが駐車できる僅かな緑地帯もある為、そこに停めてから参拝を行う。
 
 入口には神社名を彫った社号柱と門柱が立つ。 門柱を過ぎるとすぐに石段になり境内まで続く。
        
                                    石段途中には鳥居

 ところで鎮座地である「平塚新田」の由来として「地名語源辞典」からは以下の説明がされている。
「平塚新田」
明らかではないが、「平塚」の「塚」は、古墳という意味があるので、古墳かさもなくば、古墳のような小山か岡があったものとみられる。「新田」とは文字のごとく、新しく開発された土地のことをさす。
『風土記稿』によると、草原の中に塚があったことに由来するとあり、実際、昭和20年頃までは地内には3基の古墳があり、最も大きな古墳は大塚山と呼ばれていたとのことなので、昔は古墳上にあった可能性は否定できない。社の鎮座地の字は「前原」であるが、別名八幡山と呼ばれているそうだ。
 
     石鳥居に掲げてある社号標        石製の鳥居を過ぎると境内が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 境内は広く、木々に囲まれているとはいえ開放感もあり、雑草等もなく、手入れも行き届いている。
        
                          平塚新田八幡神社 案内板
○八幡神社
 平塚新田村社である当社の創建は、江戸中期に当地が万吉村から分村した頃と伝えられています。
 明治四十一年四月二十七日には原新田村の村社である八幡神社が合祀されました。
 当社は、古くから「赤旗八幡」と呼ばれ、それに対して原新田の八幡神社は、「白旗八幡」と呼ばれていました。この名称については、古老の話によれば、平氏と源氏の子孫が祀る神社であることから社名に冠したとする伝承と、当地と原新田の開発が同時期で、祀る神社も同じ八幡神社であったことから区別するため社名に冠したという伝承があります。
 
本殿は、古来より流造で、現在建設中、本殿屛に拝殿は往古のままですが、外宇は元大字楊井原新田村社八幡神社の外宇を合祀と共に改築したものです。
 
年間の祭事には、元旦祭をはじめ、四月十五日の春祭り、七月十五日の夏祭り、十月十五日の秋祭りがあります。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
 
 平塚新田八幡神社社殿の左側手前には境内社・雷電神社が鎮座している(写真左)。案内板(同右)もあり、それによると、元々は吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となったという。因みに説明にでてきた「楊井」は「やぎい」と読む。
○雷電神社
雷電神社は、元々は、吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となりました。
 雷神は、文字通りカミナリの神様ですが、古代においては日神(ヒノカミ・太陽神)の分身として、天と地をつなぐ役目を果たす神の代表的存在でした。見た目には恐ろしい形相をしていますが、雨を導くカミナリは、稲の豊作をもたらす五穀豊穣の神として、古くから稲作農家には欠かせない神様でした。雷神を祀った神社は各地にありますが、どこにおいても、雨乞いや火伏せといった水火両面を司る神様として親しまれています。
 かつて、日照りが続くと原新田関谷にある井戸から水をくみあげ、御神水として雷電神社に供え、降雨を祈ったと謂われています。今日では、七月十五日に風雨順次の祈願が行なわれています。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
        
             帰路社殿側から一の鳥居方向の風景を撮影
 
   和田吉野川から鎮座地方向を撮影           和田吉野川の流れ

 平塚新田八幡神社が鎮座するこの地域は、平均標高25m30m程の和田吉野川を境として左岸の河岸低地、右岸は東南から北西方向に広がる江南台地(洪積台地)に移る境となっていて、低地帯からの標高差15m程の微高地を形成している。
 社の東側には吉岡中学校、南側の微高地には民家が立ち並ぶが、北側・東側は台地への境界でもあり、北側は耕作地、東側は崖面もあり、開発されていない。昼間ながらほの暗い場所でもある。


 

拍手[1回]


箕輪船木明神社

 箕輪自治体は、熊谷市の南部に位置しています。南側は船木台地区に、西側は東松山市岡地区に接しています。北側には一級河川である荒川が流れています。東側は箕輪耕地と呼ばれる広大な水田が広がっています。船木神社は、その昔南部丘陵の耕地に面した高さ15mの船木山頂にありました。創建はかなり古く、江戸期には村の産土神を祀る明神社とされてきましたが、明治期に祭神豊受姫命(伊勢神宮外宮の祭神で農業進展の神様)となりました。
 
船木山の裾に「つねぎした」という地名があります。船木神社の歴史を綴った史料である社伝によると、昔山裾を荒川が流れており、対岸から来る船を山頂から眺め、「船が来た…船来…船木」となったと言われているそうです。また、「つねぎ」は「繋ぎ」、つまり船を係留したところという意味があります。
 
平成元年の団地造成により、御神体を他の場所に移す遷座が要望されました。そこで、箕輪との境である現在の場所へ、標高35mの丘を築き、旧社殿と同様に西向きの社殿を新築しました。 
                       「くまがや自治連だより」平成29年8月号より引用                                  

        
              所在地 埼玉県熊谷市船木台5-3-2
              ・ご祭神 豊受姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 箕輪船木明神社の現鎮座地である船木地区は熊谷市の南側に位置し、荒川の河岸段丘上には現在、分譲住宅が多く建てられ、工業団地も隣接する住宅地との調和を図りながら、先端企業の立地を誘導しているようだ。
 大里村南部土地区画整理事業施行区域でもあり、土地区画整理事業による基盤整備の効果が、その後の無秩序な建築行為等により損なわれることのないよう地区計画を策定し良好な居住空間の創出を誘導し質の高い市街地の形成を図ることを目的としているとの事だ。
        
                  箕輪船木明神社正面
 箕輪船木明神社は埼玉県道66号行田東松山線を旧吹上町から荒川を南下し、東松山方向に進む。大芦橋を越えてから最初の交差点は直進し、次の手押し式の交差点では右折する。この交差点は右斜め方向に大きな工場が目印になる。右折後800m程暫くそのまま進み、次の十字路を左折、その後西南方向150m程の阿諏訪野公園を目指して頂く。箕輪船木明神社は阿諏訪野公園の隣に鎮座している。
 因みに現在熊谷市船木台地区に鎮座しているので、神社名も「船木台船木神社」と表記したほうが正しいのだが、平成元年に当地に遷座した関係で、それ以前に所在した場所は「箕輪」地区である。また新編武蔵風土記稿では「神社」として記載されておらず、「明神社」と書かれていたので、今回「箕輪船木明神社」として紹介する。但し所在地に関しては現在の鎮座地を記載した。
 近年遷座した関係で、神社も奇麗に整備され、周りの雰囲気もあり小ざっぱりとした印象。
        
                                       拝 殿
 船木神社 大里村箕輪八六七(箕輪字船木)
 箕輪は、比企丘陵の東端部にあり荒川水系の和田吉野川右岸に位置する。地名は、かつて荒川や和田吉野川が増水した際、辺りが水の輪すなわち川の縁になったことに由来する。鎮座地は小高い丘の上にあり、その周辺からは弥生期から平安期に至る住居跡が発見されている。また、近くには冑山古墳やとうかん山古墳などの大型古墳が存在し、これは荒川の対岸にある行田の埼玉古墳群と同時期(五、六世紀)に築かれたものといわれている。
 社名並びに小名である「船木」の由来については、日本武尊が東夷征の折、当地に船で着いたという伝承と胃山古墳の被葬者が武蔵国造兄多毛比命であるとの伝えから、この兄多毛比命が船で着いたという伝承がある。いずれにしても、当地はかつて荒川や和田吉野川を舟で渡って来る要地「船来」すなわち「船津」であったのであろう。あるいは、埼玉古墳群の被葬者と政治的にかかわりがあったかもしれない。
 このような背景から考えるに、当社は船で往来する人々の安全を見守る「船来の神」であったのであろう。これが後世、村を開くに当たり、鎮守として崇敬されるようになったものと思われる。
 当地は初め箕輪胃山村と称していたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに箕輪村として一村となっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    石段手前、左側に並ぶ石祠群         拝殿の手前、左側に鎮座する境内社群
                       左から大神宮、白山神社、八幡・諏訪・日枝 
                       神社石祠、不明×3
 新編武蔵風土記稿では、箕輪船木明神社は地域の「産神」であったという。この「産神」とは
・その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
出産の前後を通じて、妊産婦や胎児・生児を守り、また、出産に立ち会い見守ってくれるとされている神。
 この「産神」は「氏神」とは違い、「氏神」は「今住んでいる地域を昔から守ってくださる神様。我々の日常生活を守ってくださる最もかかわりの深い存在」といい、「産神」は「自分が生まれた地域、土地に昔からいらっしゃる神様。その地域で生まれた子供の一生の健康と命を守る。産土神とも言い、出生地を意味する」と箏を指す。
        
                                        本 殿
 欽明天皇十四年紀に「蘇我大臣稲目宿祢・勅を奉じて、王辰爾を遣はし、船賦を数録せしむ。即ち王辰爾を以って、船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為す、今の船連の先也」と見える。この王辰爾という人物は、百済系王族の系譜から来た渡来人と言われている。
・百済貴須王―辰斯王―辰孫王(応神朝来朝)―太阿郎王(仁徳天皇近侍)―亥陽君―午定君―辰爾
欽明天皇十四年紀の上記では、王辰爾(辰爾)に「船賦を数録」せしめ、「船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為」したということから、「船(フナ)」と関連性のある人物と考えられ、この系統の一派が、この「船木」地区にも存在していたのではないかと考える。
        
                 社殿から鳥居方向を撮影

 昭和48年調査の船木遺跡での発掘調査では、弥生時代後期から古墳時代・奈良平安時代の住居跡16箇所を検出した。とくに古墳時代後期初頭の住居跡からは滑石製模造品や未製品が多数出土したことから、玉作工房跡の発見となった。出土土器は5世紀末の須恵器・土師器が伴い当時の土器組成を知る格好の資料とされる。

    

拍手[2回]


玉作八幡神社

           
              ・所在地 埼玉県熊谷市玉作343
              
・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 玉作八幡神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」と呼ばれているが、その農道を吹上・吉見町方向に進む。津田八幡神社の参拝後、一旦県道に合流し更に南下すると、和田吉野川の土手を下る右手方向に玉作八幡神社のこんもりとした社叢が見える。
 和田吉野川の土手を下る最初のT字路を右折すると、すぐ左手に「桜リバーサイドパーク」公園駐車場があり、そこに駐車する。玉作八幡神社はその駐車場の東側に隣接していて、特にフェンス等の遮蔽物もないので、駐車場南側から回り込むようにして参拝を行った。
        
              参道から離れた玉作八幡神社一の鳥居
 玉作八幡神社が鎮座する熊谷市玉作地区は、北は荒川水系の支流で東西方向に流れる和田吉野川が玉作水門に達する下流域の南岸周辺に位置し、東は荒川右岸に接している。南は埼玉県道307号福田鴻巣線の北側の田園地帯付近で、西はその県道と枝分かれし、北西方向の相上地域に進む道路の東側がその地区範囲となる。
 玉作地区の中央部を南北に貫通する「みどりの道」を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
        
              
「みどりの道」西側に鎮座する社
        
        水害対策の為か、朱色の鳥居基礎部分が頑丈に補強されている。
        
                                      境内の風景
 参道周辺は綺麗に手入れがされている。樹木に覆われているが、参道周辺は陽光もさすような幅設定となっている。但し参拝当日は小雨交じりの天候で、境内周辺の湿度はかなり高い。
 
    参道左側には石碑(写真左)や末社の石祠(同右)が並んでいる配置となっている。
        
                     拝 殿
 八幡神社 大里村玉作三四三(玉作字成瀬)
 船木遺跡の出土品に見られるように、古代、大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。玉作の地内は、中央部を南北に貫通する大里比企広域農道を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
 『郡村誌』に「往古は玉造神社と唱へたりと云」とあるように、当社は、古くは玉造神社と呼ばれ、古代の玉造部が創祀し、奉斎した社ではないかと考えられている。この玉造神社が八幡神社になった時期や経緯については明らかではないが、地内にある玉泉寺は源頼朝の弟である範頼草創の慈眼院を再興したものであるとの伝承があることや、近くの津田には鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会料所にかかわると思われる八幡神社があることから、源氏の台頭に伴い、源家の氏神である八幡神社が玉作に勧請された結果、旧来の玉造神社が衰徴したか、社名を改め、今日の八幡神社になったものであろうか。
 江戸時代、当社は不動寺の持ちであったが、神仏分離後はその管理を離れ、明治七年に村社になり、同四十二年には字成願にあった稲荷社と荒神社を境内に移した。なお、稲荷社は、中世当地の北西隅にあった永福寺という大きな寺の境内社であったといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
「玉作」とは古い地名でこの神社も嘗ては玉造神社と称したとの伝承があるそうで、古墳時代にこの地に勾玉などの製作に従事していた玉作部が住んでいたことに因むとの見解もある。
 玉作八幡神社~北西方向に直線距離にして1㎞程、荒川南部環境センターに近い場所に「下田町遺跡」が存在する。この遺跡は現在の和田川と荒川の合流点付近の自然堤防上に位置する遺跡である。弥生時代から中世にかかる内容が明らかになり、鉄剣の出土した弥生時代の土壙墓1基、方形周溝墓9基・竪穴住居跡163軒・堀立柱建物跡30棟などが 検出されている。
 遺跡の主体は古墳時代から平安時代であり、古墳時代では子持ち勾玉が出土している。

下田町遺跡 場所 熊谷市大字津田
 下田町遺跡は和田吉野川と荒川が合流する地点に位置し、両河川によって形成された氾濫原の自然堤防上に立地しています。 これまでの調査で発見された遺構は、竪穴住居跡163軒、掘立柱建物跡30棟、方形周溝墓9基、井戸跡328基、溝跡601条、道路状遺構2条、土壙586基があります。 弥生時代から中世までの複合遺跡で、主体を占めるのは古墳時代前期から後期、平安時代にわたる集落です。 これらの集落は、低地に面した小高い地形に立地していたため、連綿と人々が生活の場にしていたものと考えられます。
 今回の調査で特筆すべきは、奈良時代の井戸から木製の壺鐙(つぼあぶみ)が発見されたことです。鐙とは馬に乗るときに足をかける道具ですが、今回発見された壺鐙は、表面に黒漆(くろうるし)が塗られた優雅な形のもので、たいへん珍しく貴重な資料と言えましょう。
 壺鐙のほかに注目される遺物としては、刻骨(こっこつ/古墳時代前期)、子持勾玉(こもちまがたま/古墳時代末)、 瓦塔(がとう/奈良時代)、合子型香炉(ごうすがたこうろ/平安時代)、 「占部豊川」と線刻のある紡錘車(ぼうすいしゃ/平安時代)、黒漆塗の鞍(くら/平安時代)、 和鏡(わきょう/中世)などがあげられます。
             「公益財団法人
埼玉県埋蔵文化財調査事業団」 ホームページより引用
        
 

拍手[2回]