古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

樋春七社神社

樋春七社神社が鎮座する地域名「樋春」は「ひはる」と読む。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつである。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残していて、現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっている。
 明治5年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置した。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字ずつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均等に組み合わせて、「樋春」の地名と命名したという。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市樋春10231
             ・ご祭神 大日孁貴命 誉田別命 天兒屋根命 大山祇命
                  別雷命 大斗邊命 倉稲魂命
             ・社 格 旧樋口・春野原村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 215日 例大祭 1018日 新嘗祭 1126
             *例祭日は「七社神社沿革」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1330168,139.3487083,19z?hl=ja&entry=ttu
 樋春七社神社は埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線を東松山方向に進み、熊谷大橋を抜けて最初の交差点を左折し、右手にJA農協(ふれあいセンター江南店)の手前のT字路を右折すると正面左側に社叢が見えてくる。
 駐車場は神社の手前にスペースがある為、駐車をして参拝を行った。
        
                  樋春七社神社正面

      社の入口に立つ社号標柱                 社号額には「七社大神」と刻まれている。         
       樋春は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地に位置する地域
           今は一面水田が広がる長閑な風景が広がっている。
        
                    二の鳥居
        
                      拝  殿
 
 七社神社   江南町樋春一〇二三
 山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
 春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。
                                   「埼玉の神社」を引用

   
 
境内坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿          不動・御嶽山霊神等
        
             拝殿東側に祀られている稲荷社・手長神社
 拝殿東側には「手長神社」と並んで「稲荷社」の祠が祀られている。樋春北地域には通殿様と呼ばれる真光寺持ちのお堂があり、これは『風土記稿』樋口村項に見える「通殿稲荷社」の事という。明治24年(1909年)に宇四度梅原地区(うしどうめはら)から七社神社に合祀された「稲荷社」とは、この通殿稲荷との事だ。
                 
 樋春地区は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地が広がる地域である。本来川の近くにこの名を関した神社が鎮座している場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られていると考えるのが順当な線だが、一方でこの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。
『風土記稿』春野原村には「鍛冶屋舗」という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいた可能性も否定できず、通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 


 



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万吉氷川神社

万吉氷川神社が鎮座する地域は「万吉」と書いて「まげち」という。一風変わった地名だが、「万吉」という地名は鎌倉時代には既にあったようだ。
『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせ、権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰った。その名馬は権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたという。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまい、これを憐れんで馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としている。「○○郷」として記載されている所からも、それ以前から地域名として認識されていたと考えるほうが自然と考える。

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市万吉986
             ・御祭神 保牟田別命(誉田別命) 素戔嗚尊
             ・社 格 旧万吉村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 413日 新嘗祭 1124
                 *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1219334,139.3651518,17z?hl=ja&entry=ttu  
 万吉氷川神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を東側に進む。その県道起点である万吉橋交差点にて埼玉県道11号熊谷小川秩父線と交差し、右折するとすぐ右側に万吉氷川神社の鳥居が見える。
 鳥居の先で右側に「万吉第二集会所」があり、駐車スペースもある為、そこに駐車してから参拝を行う。
        
             東向きの参道。鳥居の手前には社号標柱
        
             鳥居の先には開放感のある空間が広がる。
 
      参道左側には案内板がある。           境内の様子
 氷川神社 
 当社は、「新編武蔵風土記稿」万吉村の頃に、「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と記載されているように、創建は古い。「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。
 明治初年の神仏分離により、見性院の管理下を離れた当社は、村社となり明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社とともにハ幡神社を合祀。本殿、拝殿、幣殿を新改築したが、昭和二十年八月十四日夜の熊谷空襲により焼失。戦後の経済困難の中、氏子各位の篤い浄財により昭和二十三年に再建され、現在に至っている。三間二間の切妻造りで、一間の向排を持ち、向排屋上には一対の唐獅子の置物が置かれている。夏の八阪祭をはじめとする祭典には多くの老若男女が参詣に訪れ、年々賑わいを見せている。

 平成三十年三月
 万吉地区文化遺産保存事業推進委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝  殿

        
                     本  殿 
 氷川神社  熊谷市万吉九八六
 万吉は既に鎌倉期から見える郷名で、貞応三年(一二二四)正月二十九日の新田尼譲状に「春原庄内万吉郷間事」とある。地名の由来については、牧の当て字とするもの、条里制に基づく牧津里から起ったとするもの、荒川に沿った曲り地がなまったもの、更にはマゲチはケチの転訛で、マケチのケチは立ち入ると不祥事が起こるとされるとするものがある。
『風土記稿』万吉村の項に、当社は「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と載る。これに見える「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。一の宮は、平安初期から鎌倉初期にかけて出現した一種の社格であることから、土人の伝えも当社の創建の古さを誇示するものと考えられる。別当見性院は天正年間(1573-92)の開山である。
明治初年の神仏分離により見性院の管理下を離れた当社は、村社となり、更に明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社と共に八幡神社を合祀し、現在に至っている。ちなみに移転前の社地は、字一本松と呼ばれる所で、その参道の入口は秩父・小川・熊谷線に面した友成士十家の前で、古くは幟立てがあり、ここから1㎞余りにわたって参道が延びていたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿左側に富士塚。傍らに祠もある。詳細不明。   社殿左側にはお狐様2体のみあり。
                             右側には三峰社か
 ところで冒頭にも記載したが、万吉氷川神社が鎮座している「万吉」という地域名は一風変わった名前だ。上記「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒にもその由来が書かれているが、ホームページにて「万吉地区文化遺産保存事業 調査研究報告会 」や「埼玉県地名誌」等で紹介されている「万吉」の由来について幾つかあげられているので、ここに記載する。
1 マキ(牧)の当て字から、マキ(牧)→マキ(万吉)→マゲチ〔埼玉県地名誌から抜粋〕
2 条里制に基づく牧津里の遺名から。〔埼玉県地名誌〕
3 マゲチは“マケチ”の転化ではないかと思われる。“マケチ”の“ケチ”は、立入ると祟り があるとされたところで、“マ”は接頭語である。
4 曲地の意味。つまり、曲地(マガリチ)が北側にも鳥居。
        
  東側の正面鳥居より小型だが、朱の塗料の落ち具合が逆に歴史の趣きを感じさせてくれる。


 万吉地区一帯は嘗て新田源氏岩松氏の所領であったという。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、南北朝時代、南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺でもある。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の一族である岩松家につたわる「正木文書」には、下野国足利氏の2代目当主・足利義兼には庶長子義純がいて、幼少期は父義兼と共に大伯父の新田義重に上野国の新田荘で養育されたという。義純は足利義兼の長男だが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させた。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗ることになる。
 ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなる。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗った。
 義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えた。新田岩松家の始まりである。そして新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、岩松氏が重忠の旧領である当地へ派遣され、万吉内に在住していたことが記されている。
但し足利義純が先妻の子を義絶したのであれば、本来岩松氏は新田庄内の数郷の領主でしかないはずで、平姓畠山氏由来の所領が存在することはありうるのであろうか。疑問は残る)
        
                  静かな境内の様子
 岩松氏は母系である新田氏を以って祖と仰いできたが、同時に父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇り、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
 南北朝時代、新田氏宗家は義貞と共に足利尊氏と敵対し没落するが、新田岩松氏は時世を読みながら巧みに世の中を渡りきり、結果的には「新田氏」を存続させたともいえる。
 

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中尾雷電神社

比企丘陵地域における沼づくりは、古くは古墳時代に始まったと考えられ、616(推古天皇24)年の築造とされる日本最古の「狭山池(大阪狭山市)」で採用された大陸渡来の土木技術「敷葉(しきば)工法」が近隣の遺跡でも確認されていることなどから、当地の沼も狭山池とほぼ時を同じくして造られはじめた可能性が高いと言われている。
 古社の集成としての『延喜式神名帳』(延長5年(927年))内に、当時官に知られた全国の天神地祗総計3,132社が記載されている。その中に埼玉県内に関係ある古社は33座あり、その中の1社が当地域にある「伊古乃速御玉比売神社」となっている。
 この神社には雨乞いの儀式があり、谷津沼と神事を結びつける行事となっている。日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行い、雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5mあまりの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り揉まれ、次いで二ノ宮山頂に登り、山頂の松の御神木に縛りつけられ、蛇は天に昇って竜となり雨を降らせると言い伝えられているという。
 当地域には、雨乞いの儀式を執り行う「大雷」「雷電」と名の付く神社が多数あり、古いものでは1,000年前に創立されていて、谷津沼と共に発展し、栄えた当地域の独自の文化が多数現存している。中尾雷電神社もその伝統文化が存在する社である。  
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町中尾293
             ・ご祭神 別雷命
             ・社 挌 旧中尾村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例大祭 1015日 春祭り 315日 秋祭り 1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0648567,139.3532926,17z?hl=ja&entry=ttu
 中尾雷電神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川町役場(北)交差点前の信号を右折、埼玉県道173号ときがわ熊谷線をときがわ町方向に進む。滑川に架かる橋を越えて、最初の交差点を左折し、暫く道なりに進み、5番目のT字路を右折。道幅の狭い道路ながらもそのまま進むと右側の斜面上に中尾雷電神社の鳥居が見えてくる。
 因みに参拝の際には事前にナビにて住所登録してから運転するが、今回住所を打ち込んでもなかなかたどり着けなくて困り、ナビ画面上で偶々映し出された雷電神社の表示を頼りになんとかたどり着けた。ナビは便利だが、ある程度自分でも行先は事前確認し、その上でナビを運用しなければいけないとつくづく感じた。
 神社周辺に適当な駐車場はなく、路上駐車にて急ぎ参拝を行った。
        
       丘陵地の斜面上に鎮座する社。筆者としては意外と好きなアングル
        
      両部鳥居の朱の塗料が剥がれかけている所が、逆に歴史の深さを感じる。
 
 鳥居に掲げられている「雷電宮」の社号標      階段を上がる先に見えてくる拝殿
        
                     拝 殿
        
                    境内案内板
 雷電神社     滑川町大字中尾
 祭神 別雷命
 由緒
 当社は応永九壬午(西暦一四○二)年、此の地方が大旱魃に襲われ作物が枯死寸前にあった時、里民挙って山城国加茂大神に雨を祈ったところ程なく豪雨があり郷民の苦難が救われたので里民その神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀し雷電神社と称し鎮守の神として崇拝した。
 明治六年村社の格に列す。
 昭和四十一年二十六号台風のため社殿が全壊したので氏子関係者の協力によって翌四十二年十月現社殿を再建した。
 特殊神事として「雨乞祭」があり御神木の桧の頂上に旗を立てて祈念すれば必験ありと云う
 祭事
 新年祭 一月一日   春祭 三月十五日
 例大祭 十月十五日  秋祭 十二月十五日
 平成二十三年五月吉日                     
 滑川町観光協会  滑川町教育委員会
                                      案内板より引用

        
 雷電神社  滑川町中尾二九三
 中尾は、水房村の枝郷の一つで、滑川町の西端に位置し、その西側は嵐山町に接する。当社は、この中尾の鎮守として奉斎されてきた社で『風土記稿』中尾村の項にも「村の鎮守」としてその名が見える。『明細帳』は、当社の由緒を次のように伝えている。応永九年(一四〇二)、この地方が大干ばつに見舞われて農作物が枯死寸前にあった時、里人こぞって山城国(現京都府)加茂大神に雨を祈ったところ、程なく豪雨があり、里人の苦難が救われたので、里人はその神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀して雷電神社と称え、鎮守として崇拝した。その後も、干ばつの時には降雨を祈れば霊験の広大なること必ずであったという。中尾に限らず、この地域では地内に多くの溜池があることからわかるように、天水場であり、降雨を祈願する人々の切実な気持ちが由緒の上からも推察される。
 明治四十一年九月二十二日、政府の合祀政策に従い、字広瀬無格社三島神社、字清水無格社愛宕神社、字天俵無格社天神社、字谷無格社稲荷神社の四社を当社本殿に合祀した。しかし、これは書類上の合祀にとどまっており、三島神社・天神社・稲荷神社の三社では、現在もなお個々に祭日を定め、各々地元の組の人々によって祭事が行われている。また、当社の社殿は、昭和四十一年、台風二六号により全壊したが、氏子一同の協力によって翌四十二年十月に再建された。(以下略)
                                  「埼玉の神社」より引用


 埼玉県は他県に比べて溜池(ためいけ、農業用水の水源)の総数は少ないというが、県の中央部から北部にかけての比企郡、大里郡、児玉郡に局所的に集中して、小規模な溜池が数多く分布している。なかでも比企郡は傑出しており、約600箇所もの溜池が存在し、これは埼玉県全体の約80%に相当する。
 滑川町は東西約
5㎞、南北約7㎞と南北に細長く、面積約29.7㎢で北武蔵丘陵の北端に位置しているが、町中に約200ものため池があり、この数は埼玉県の市町村では最も多く、埼玉県全体の1/4に相当するという。というのも滑川町は第三紀の地質からなる丘陵である比企丘陵地域に位置し、樹枝状の細かい谷で開析され、 大河川からの取水が困難なことが小規模なため池の多い理由であるという。
        
 比企丘陵の北側には大きな河川が存在していなく、そのようなこの地域においても先人たちは、米作りを行うべく努力を重ね、知恵を出してきた。中山間地域に位置づけられるこの地で作られたのが、山と山の間をせき止め、米作り用の水を確保する場所すなわち「谷津沼」と呼ばれている「ため池」で、丘陵地の谷津(やつ)と呼ばれる地形を活かして造られた沼は、今日までずっと、地域の暮らしを支えてきた伝統文化でもある。
 地域の方々の努力は「比企丘陵農業遺産推進協議会」などのホームページ等で理解しているつもりだが、自分自身も大切に守って頂きたいと思うと同時に、何かお手伝いできることがないかと散策中ふと感じた次第である。


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福田熊野神社

三匹獅子舞(さんびきししまい)は、関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞であり、一人立三匹獅子舞、三頭獅子舞などと言うこともある。篠笛とささらが伴奏につき、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞う。中には、天狗・河童・猿・太夫・神主・仲立といった道化役がいるものもある。
 地域の神社の祭礼として、五穀豊穣、防災、雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多い。地元の人たちは「獅子」、「獅子舞」、「ささら獅子舞」、あるいは単に「ささら」などと呼んでいたりする。正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする伎楽系(神楽系)の獅子舞とは系統を異にする中世・近世に発達した風流系の獅子舞である。
 市街部の多くの氏子に支えられた神社の祭礼とは違い、「村祭り」的な小規模な祭礼に行われるものがほとんどで、地元氏子以外には認知度も低く、後継者難は深刻である。古来、伝承者を農家の長男に限定しているところが多く、これは本来は、その土地を離れる心配のない者を選び、伝承を安定させる目的があったものとされている。しかし現代においてもこの条件を頑なに守り、舞が絶えてしまったところも多い。反対にそのような条件にこだわらず、地元の小中学校の児童生徒にまで教えているところもある。(*Wikipedia参照)
            
                    ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田1734
                    ・ご祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
                    ・社 挌 旧指定村社
                    ・例祭等 例祭 415日 天王様 715日 秋祭り 717
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0782891,139.3483419,18z?hl=ja&entry=ttu
 福田熊野神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線を東松山方向に進み、福田交差点にて一旦県道に沿って進む道路を南下し、最初のT字路を右折、そのまま道なりに進路をとると正面左側に福田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 駐車場は鳥居の横に駐車できるスペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                   福田熊野神社正面

                              鳥居を過ぎてから石段を登る先に拝殿が見えてくる。(写真左・右)
            
                              階段を上り終えると左側に案内板がある
 熊野神社  滑川町大字福田(下福田)
 祭神 速玉男命 伊邪那岐命 事解男命
 由緒
 当社は紀伊国牟婁郡に鎮座する熊野速玉神社の分社として祀られたと伝えられるが創建の時代 は明らかでない。新編武蔵風土記稿によれば当熊野社は天台宗普光寺持と記載され、同寺は資料から見てその開山は鎌倉時代に遡り、室町後期までは下福田地域で寺耺を司る寺と推察されることや、境内に樹齢五百年を越えると見られる杉の大樹が繁茂していたことから、当社の創建は室町以前と推察される。明治四年三月村社となり、昭和八年指定村社に昇格した。
 祭事
 例祭 四月十五日  夏祭 七月十五日
 秋祭 十月十七日  大祓 十二月三十日
 獅子舞奉納
 毎年七月十五日と十月十七日に氏子により熊野神社前の庭でささら獅子舞が行われる
 平成二十三年十二月吉日   滑川町観光協会 滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用

            
                                               拝 殿
 熊野神社  滑川町福田一七三四
 当社が鎮座する福田は、滑川支流の中堀川の開析谷の低地と丘陵部に位置し、隣地に接する大沼のほか、大小多くの沼地が点在する。祭神は、伊弉冉命・事解男命・速玉男命の三柱で、熊野三所権現像が内陣に奉安されている。この像は、付近の分山から切り出された石材によって作られており、宮本倭蔵と称する石工の銘がある。倭蔵は、越後国から寛政期(一七八九-一八〇一)ごろに当村に移住して来た人だといわれている。
 当社は、紀伊国に鎮座する熊野三社を勧請して奉祀したというが、その年代は不詳である。したがって、推定するしかないのであるが、『風土記稿』によれば、当社はかつて地内にあった天台宗普光寺が別当寺であると記載されており、また、同寺の開山賢意の寂年が貞享元年(一六八四)となっていることから、恐らくは、このころに当社も地域の鎮守として勧請されたのであろう。なお、古老の話では、その創建は室町期以前にさかのぼるとしており、当社本殿近くの樹齢五百年の杉がそれを物語っているという。
 明治初年の神仏分離により普光寺の管理下を離れた当社は、明治四年に村社となった。大正二年三月には、地内の伊勢・八雲・稲荷の三社を合祀した。
                                                       「埼玉の神社」より引用
                
                                   福田熊野神社参道から見る下福田地区

 「一人立三匹獅子舞」のような伝統文化はその特別な技術や知識を持つ人々や組織が存在し、表現・伝承していかなければ受け継がれていかない。農山等では、近年の過疎化と高齢化の進行により、貴重な「伝統文化」の担い手消滅の危機にあり、担い手づくりは重要な課題である。担い手不足により一度中止した祭りや後継者の居なくなった技術は、復活が非常に難しくなるという。
 そこで、これまではある世代・組織だけが担っていた技術、地域内に住む人だけが参加していた祭りや行事等、地域社会の合意の上で、参加者のすそ野を広げたり、しきたりを拡大解釈することで、地域活性化の資源に生まれ変わる可能性があり、まず地域社会により価値評価された様々な資源を、これまで担ってきたのは誰なのかを理解し、どのような経緯で変化・発展し、あるいは弱小化しつつあるのか等、現状を見据えた上で、地域の課題に対し地域社会全体で共通認識を持つことが重要となると浅学菲才な若輩者の言とは感じつつも、愚考した次第である。


 

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代八幡神社

 国道407号と17号熊谷バイパスが交差する地域を「代」という。
「代」という地名の由来として一般的に言われている事は低地から仰ぎ見て高地に広がる平担地を意味しているといい、土地の形状・特性を表わす地名と考えられている。
 荒川はその名称通り、「荒ぶる川」との異名を持ち、有史以来,多くの水害を被っていて、扇状地内において河道変遷を繰り返し(一説では8通りの旧河道が考えられるとしている),現在の自然堤防と旧河道を形成した。また荒川扇状地は勾配が 1/300 と比較的緩やかであるため,自然堤防が発達しているのが特徴であり、形状も平地の自然堤防帯に見られるような細長いものとは限らず,楕円や四角形など様々な平面形を持っているという。
 代八幡神社はその昔の自然堤防帯上の、微高地の一角に鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市代1343
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 219日 例祭 1015日 新嘗祭 1124
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1730434,139.363084,17z?hl=ja&entry=ttu  
 代八幡神社は熊谷市役所の北西約3㎞の国道17号線熊谷バイパスの直ぐ南側に鎮座していて、くまぴあ交差点を左折し、最初の信号である「くまぴあ前」交差点を右折、私立学校給食センターを左側に見ながらさらに直進すると左側に八幡神社の社叢が見えてくる。
 鳥居前に車が止められるだけのスペースが有るので、そこに駐車してから参拝を行った。
               
                 
鳥居前から境内を撮影
       
         鳥居を過ぎる手前で左側に
ケヤキの大木があり、その奥
            にはイチョウの大木が並ぶように聳え立つ。
        
                     拝 殿
 八幡大神(代)の由緒
 八幡神社  熊谷市代一三四三
 当社の由緒について、次のような伝承がある。鎌倉時代、上州岩松に土着した清和源氏の流れをくむ新田義重は、源氏の氏神である八幡神を山城国石清水八幡宮から勧請した。その後、新田家から分家し、里見家を興した義重の弟から一五代目に当たる里見義次が、天正六年(一五七八)の上州大間々要害山の戦に敗れ、武州代村(当地)に落ち延びた。代村に土着した義次は同八年(一五八〇)に郷里の岩松から八幡宮を分霊して当社を創建した。下って、慶長十八年(一六一三)行者三海を開山として顕松院を建立し、当社の別当とした。これより同院は九世にわたり、当社の祭祀に専念したが、文化四年(一八〇七)に廃寺となるに至った。このため、里見助左衛門が祀職となるべく上京し、白川家の許状を得、当社の社家となったという。
 現在、拝殿に掛かる文化二年(一八〇五)惣氏子中奉納の「新田義貞」と文化十二年(一八一五)当所里見氏奉納の「新田義貞鎌倉攻め」を描いた二枚の絵馬は、右の言い伝えにちなむものであろう。 
『明細帳』によると、明治五年に村社となり同四十一年に代の地内にあった熊野神社・磯崎社・八坂神社・諏訪神社の四社を合祀した。
なお、祀職は、昭和三十七年まで先の里見家が務めていたが、その後、古宮神社社家の茂木家が継いで、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用                                

        
                  境内社諏訪社・八坂社

 荒川扇状地(あらかわせんじょうち)は、埼玉県の寄居町を中心とした巨大な扇状地で、その中央には荒川が流れている。熊谷市、深谷市が扇端にあたり、数多くの勇水があり、湖沼が発達している。近年水量が減少している。なお、扇頂から約8km下流から扇状地中に河岸段丘を生じ、植松橋付近(深谷市川本)を扇頂として大芦橋(鴻巣市吹上)付近を扇端とする新たな扇状地形が形成されていて、これを「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも)と称している。(Wikipedia参照) 
 嘗て荒川扇状地では有史以来,多くの水害を被ってきており,また江戸時代に行われた荒川の西遷事業を皮切りに,嘉永2年水害や明治43年水害などで甚大な被害を受けてきた。現在でも熊谷市街地に存在する水塚や,軒先に小舟を下げている民家が残存することから,この地域がいかに水害と近い存在であるかが窺える。
 因みに縄文時代,弥生時代,そして古墳時代の集落と自然堤防との関係は,奈良・平安時代に見られる遺跡と自然堤防の関係に一致していると言われ、扇状地周辺に見られる住居位置の割合も,旧石器時代を除いて大きな変化はないとの事だ。これにより,時代や生活様式に関わりなく自然堤防は集落の形成に大きく関わっていたことが分かる。
       
                 境内の一風景を望む

 熊谷市は、埼玉県の北部、荒川扇状地の東端に位置し、地形的に見ても市内に多くの自然堤防などの微地形が存在し,現在でも道路や宅地などへの土地利用から目視でも確認できる。
 荒川扇状地内において,集落の遺跡は自然堤防上に多く存在している。自然堤防が水害を軽減する効果を持っていて、例え自然堤防は0.5mほどの微高地であっても、これらを上手に活用し,また,堤内地の微地形を考慮に入れることで,より経済的かつ効果的な氾濫水の制御を行える可能性が大であることも、遺跡の発掘等により少しずつ分かっている。
 但し沖積地の全ての遺跡が自然堤防上で発掘されていたわけではなく,また,全ての自然堤防で遺跡が発掘されていたわけでもない。自然堤防と集落がどのような関係にあるか,更なる研究が必要であり、今後,自然堤防の治水に与える今日的役割について、詳しく調べていく予定でもある。


     

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