古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

能増八宮大神神社

 上田 朝直(うえだ ともなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初期は扇谷上杉氏の重臣として仕えていたが、河越夜戦で主君上杉朝定が討死し、後北条氏の家臣となる。武蔵国松山城主。母は難波田憲重の姉妹。上田長則、上田憲定の父。娘(蓮覚院)は北条氏勝の妻。通称・又次郎、左近大夫、能登守。出家して安独斎宗調。
出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流。上田政広(安独斎蓮好・上野介、元亀2年(157181日没)の子とされる。
 始め扇谷上杉家に仕えて、太田氏宗家を継ぐために岩付城に入った太田資正に松山城を譲られたという。だが、この直前に扇谷上杉家は後北条氏に滅ぼされたために、朝直も後北条氏に従った。朝直は行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという。天文19年(1550年)ごろに安独斎と号している。だが、永禄2年(1559年)頃には、関東へ出兵して来た上杉謙信に呼応し北条氏を離反している。永禄4年(1561年)に謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移される。その後、永禄12年(1569年)に武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の上田長則に家督を譲って隠居した。
 小川町能増地区に鎮座する能増八宮神社は、その上田安独斎が当社を崇敬し、社を再興して神領を寄付したとの逸話が残されているという。
                                   「Wikipedia」より参照                                              
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町能増282
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧能増村鎮守・旧村社
             ・例 祭 春祭 415日前後の日曜日 秋祭 1017日前後の日曜日 
 能増八宮大神神社は小川町の北東部に位置する能増地区に鎮座する。埼玉県道11号熊谷小川秩父線を熊谷市江南地区から小川町方面に進み、「奈良梨」交差点を右折する。埼玉県道296号菅谷寄居線を北西方向に1.6㎞程進むと、県道184号本田小川線が接続する「能増」交差点に到着。この交差点を左折すると長閑な田園風景が広がり、正面方向にこんもりとした能増八宮大神神社の社叢が見えてくる。但しそこからは道幅が狭い農道となるので、車両と交差する際には注意は必要となる。帰宅後地図を確認すると「能増」交差点からは真東方向で直線距離は300m程に社は鎮座している。
 駐車スペースはほぼないため、一の鳥居を過ぎて社務所方向に細く舗装されていない路面があり、その一角に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                能増八宮大神神社  鳥居正面 
        
                                     参道の様子 
        
                         拝 殿
 神明造りの社殿であるにも関わらず、祭神は日本武尊。河川対策からか、高台に鎮座している。

(能増村) 八宮明神社
 村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて、十一面觀音を本地佛とせり、當社古へしばしば丙丁の災に罹りて、社頭も次第に衰微せしを、松山の城主上田安獨斎再興して、神領をも寄附せし由、萬治元年別當秀永が記せし縁起に見えたれど、舊記等は皆失ひて詳なることを傳へず、
 末社。鹿島社、香取社、稲荷社
 別當南光院。本山派修驗、男衾郡板井村長命寺配下、八宮山林蔵寺梅本坊と號す、開山長山法印寂年を傳へず、本尊不動は惠心の作、
                                
『新編武蔵風土記稿』より引用

八宮神社(能増二八二)
 能増の八宮神社は、『新編武蔵風土記稿』に「村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて十一面観音を本地仏となせり、当社古しばしば丙丁の災いに躍りて杜領も次第に衰微せしを松山の城主上田安独斎再興して神領をも寄付せし由、万治元年別当秀永が記せし縁起に見えたれど旧記等は皆失ひて詳なること伝へず」と記されており、江戸時代は本山派修験の八宮山南光院が別当として祭祀を行っていた。
 一方、氏子の間では、八宮神社はこの地を治めた豪族が祀ったと伝えられており、古くから能増の村鎮守として村の人の心の拠り所となってきた。また、神社の約五〇メートル東を流れる市野川には日本武尊が東征の折に修祓をしたと伝えられる精進場という場所があり、かつては参詣する人はそこで心身を清めたものであった。
 特別な信仰はないが、「いろいろな点で村人をお守り下さる神様である」といわれ、さまざまな願かけが行われており、「神社のお陰で救われた」という人も多い。
 また、氏子の間では、鎮守として八宮神社を祀っていることから、手締めは縁起をかついで「三・三・二」の八回で行うのが習いとなっている。
                             「小川町の歴史別編民俗編」より引用
        
                                本 殿
 
  拝殿手前、右側には
天神・金刀比羅合殿      拝殿左側にある石柱。詳細不明。     
 

   
本殿左側に境内社 神明・浅間合殿     神明・浅間合殿の隣にある石祠。詳細不明。

 能増八宮大神神社が鎮座する能増地区は、小川町の北東の境に位置し、一帯は、なだらかな丘陵地帯に挟まれたほぼ1㎞幅の帯状の平野部で、その中央を縫うように豊かな市野川が流れ、水田が開けている。地名は、沼地のノマに由来するという説があり、実際、新田開発に当たり、沼を利用した足り池や新田池などがあった。能増と表記されるようになったのは、正保年間(1644~48)のことで、天正20年(1592)に旗本の水野新右衛門長勝が当地を知行した際の御朱印には「能増郷」となっている。因みに上州赤城山小沼出土の応永十三(1406)年鰐口銘に「武蔵国比企郡延益郷地蔵堂住」とあり、地頭水野家譜には「納増郷」と記載されている。
        
                    
 能増八宮大神神社は、市野川沿いに鎮座している。周辺は地勢的に耕地に恵まれていることから、古くから開発されていて、平安期の集落跡である岡原遺跡がある。また、交通の要所でもあり、当社の西脇に旧鎌倉街道が通っており、付近の小名の「町場」が、往時の繁栄を偲ばせている。鎮座立地から推して当地一帯の開拓者であったと考えられ、北殿・南殿という小名の地が周辺にあることから、有力者が存在していたと推測されている。(「埼玉の神社」から参照)
 一体どのような人物がこの地域を統治していたのだろうか。

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原川駒形神社

        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町原川74
             ・ご祭神 駒形大神(推定)
             ・社 格 不明
             ・例 祭 例大祭1015日 祈年祭43日
 原川駒形神社は笠原諏訪神社の北西100m程の位置に鎮座している。鳥居左側に若干の空間があり、そこに車を停めて急ぎ参拝を行う。小川町原川地区は兜川上流の山間地に位置し、古くは玉川領に属していたが、正保から元禄年間にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立したという。
 創建由来として、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。松山城主上田案独斎に仕えた家老原川丹波守が、天正18年(1590)の松山城落城後に当地に土着、原川丹波守が持参した「袂石」を奉斎、「明細帳」では慶長4年(1599)に再建したという。
        
                                 原川駒形神社 正面撮影
           
                                   参道・社号標柱
        
                     拝 殿
 駒形神社 小川町原川七四(原川字桜沢)
 当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
 これより先、天正十八年(一五九〇)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、『明細帳』には慶長四年(一五九九)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのであろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五〇センチメートルほどの円柱形の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものと言われ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔にあたる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという。
                                   「埼玉の神社」より引用 

 
   拝殿に掲げている「駒形神社」扁額        石碑には仙元大神宮。その奥には稲荷社。
        
                   左側には参宮記念参道改修之碑。その横にある「袂石」。

  原川の駒形神社は、天正十八年(一五九〇)に松山城が陥落した際、城主・上田案独斎に仕えた三人の家老の中の一人、原川丹波守がこの地に落ち延びて隠れ棲んだ際に、祀ったものであるという。また、境内にある高さ50㎝程の「袂石」と称する円柱状の石は、原川丹波守が袂に入れてきたものと伝えられている。
        
                                      鳥居の右側で、道路沿いにある地蔵堂。
         
その隣には如意輪観音や庚申塔、無縫塔などが並んでいる。   

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笠原諏訪神社

        
                                     ・所在地 埼玉県比企郡小川町大字笠原229-4
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 例大祭105日 祈年祭225日
 笠原諏訪神社は小川町から埼玉県道30号飯能寄居線を寄居方向に進み、途中県道274号赤浜小川線の陸橋を越えて最初の押しボタン式信号のある交差点を左折する。その後5差路に分かれる交差点を優先道路の路面標示された方向に進むとすぐ右側に笠原諏訪神社が見えてくる。
 因みにこの通りを真っ直ぐに進むと以前アップした笠原熊野神社に到着できる。
 笠原諏訪神社の一の鳥居付近は斜めから進む道路に対して三角地帯のような空間を形成していて、適当なスペースもあり、その場所周辺に駐車して、参拝を行う。
        
                笠原諏訪神社 一の鳥居
 笠原諏訪神社は、信州から当地に移住してきた小笠原内膳が、慶長年間(1596-1615)に諏訪大社から奉持してきた神体を当地に祀って創建したと伝えられ、江戸期には(小笠原氏から名付けられた)笠原村の鎮守として祀られていた。寄居町白岩(立原)諏訪神社・奈良梨諏訪神社(現八和田神社)と共に「兄弟三社」と称されている。
        
                                                               参道正面
        
           丘陵地端部に位置する社。高台には二の鳥居あり。
        
                     拝 殿
 諏訪神社 小川町笠原二三〇(笠原字宮ノ脇)
 当社の鎮座する笠原は、外秩父山地の東縁部、兜川の支流滝川流域の山間地に位置している。古くは竹沢村と称していたが、正保・元禄年間(一六四四-一七〇四)のころに六か村に分村した一つであった。
 当社は、創祀年代を慶長年間(一五九六-一六一五)と伝えられている。信州諏訪から落ち延びて来た武者、小笠原内膳が当地に住み着き、守護神として奉持して来た建御名方命の神体を祀ったことに由来するという。もともと笠原氏は、古代の名族の一つで、全国の各地に進出して活躍した一族であったが、その中心地が信州であり、諏訪大社の神官家の中にも笠原一族が活躍していたことが明らかにされている。したがって、この時の武者が、その流れを汲むものであることは十分に推定できよう。更には、当社の社紋が諏訪大社と同一の「穀」であることもそのことを証する。また、『風土記稿』に「諏訪社 村の鎮守なり、村民持」とあるのは、小笠原氏の末裔が奉祀していたことをうかがわせるものであろう。
 明治四年に村社となり、同四十五年四月、陣屋の愛宕神社、栃本の神明社の二社を合祀した。
 なお、当社は、かつて寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称され、近郷に聞こえた名高い神社の一つであった。
                                   「埼玉の神社」より引用

 境内は広い。子供用の遊具や、ゲートボール場などがあり、神社脇には諏訪会館という社務所兼の建物もある。日頃の清掃も行き届いている明るい社という印象。
 
           石神                                    合祀社
  
神日本磐余彦尊、大国主命、弥勒大菩薩    天満天神宮、三峯神社、愛宕神社、天手長男神社

「小川町の歴史別編民俗編」による笠原諏訪神社の由緒には、氏子の笠原イッケは小笠原内膳の後裔であるとされており、このイツケの家の間では、正月に門松は立てず、家の土間の中に一本の松を立てるのが家例となっている。これは、小笠原内膳がこの地に落ち着いたのはちょうど年の暮れであったが、門松を立てると目立って敵に見つかる恐れがあるため、家の中に松を立てて新年を迎えたことに始まるものであるという
 当地の氏子たちは「白蛇は神の使いである」と信じている。古来白蛇は、水神として崇められ、氏子の間では雨乞いが行われ、五穀豊穣が祈願されている。したがって当社では、白蛇がとりわけ大切にされ、粗相があってはならないと、蛇をついばむ鶏は飼わないという習いがあり、今なお守られ続けている。
 また、「諏訪神社の氏子は白い鳥を飼ってはならない」ともいい、昔は白い色の鶏を飼うことを禁忌としていた。
        
            合祀社の右側にある紙垂が巻かれている石柱。
                            ミシャグジ神の類かどうかは不明

 
 

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今泉氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町今泉254
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 今泉氷川神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で信号のある十字路を左折すると、すぐ正面左側に、遠目からでも今泉氷川神社の鳥居が目視できる。
 
駐車場も完備していて、広く舗装もされている。休憩も兼ねてゆっくりと参拝を行った。
        
                            今泉氷川神社 正面鳥居
 鎮座地の今泉地域は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置する。度重なる荒川の氾濫に悩まされてきた当地の人々が、川を鎮める神として武蔵国一の宮の氷川神社の分霊を永仁5年(1297)勧請したという。明治4年村社に列格、明治45年弁天社を合祀している。
        
                        参道の先には社殿が鎮座する。
 境内は集会所と広場も並列されている。多くはないものの古木もよく残り、日頃から神域として整然としている印象を受ける。奉納品などからも、今泉村の鎮守として崇敬を集めていたことが伺われる。
        
                                  拝 殿
 氷川神社 吉見町今泉一一九九(今泉字竹ノ町)
 口碑によれば、当社は、永仁五年(一二九七)に武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)の分霊を勧請したものであるという。鎮座地の今泉は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置し、度々水害を被ってきたことから川を鎮める神として氷川神社を祀ったものと思われる。
 江戸時代、当社の祭祀に当たったのは、真言宗の遍照寺であった。遍照寺は氷川山と号し、当社の南二〇〇メートルほどの所にあったが、神仏分離の後は廃寺となり、今では墓地と観音堂に名残をとどめるばかりである。『風土記稿』では、当社のほかに村内の神社として、東光寺持ちの弁天社、南学院持ちの稲荷社、長福寺持ちの八王子社の名が見える。東光寺は天台宗、南学院は修験、長福寺は真言宗の寺院で、いずれも村内にあったが、神仏分離によって廃寺になった。また、これらの諸社のうち、弁天社は明治四十五年六月に当社に合祀された。
 当社は、更に、文久二年(一八六二)には本殿、慶応三年(一八六七)には拝殿が造営されたと伝えられ、明治四年に村社となった。境内は、集落の北端近くにあり、樹齢三〇〇年以上といわれる本殿裏の神木の杉に、歴史の古さが感じられる。当社の境内には、本殿と拝殿の造営に伴って奉納されたと思われる手水鉢が一基ずつあるが、そのうち慶応銘のものは手水鉢には珍しく猫足である。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        社殿に掲げている扁額               本 殿
        
                    参道右側には石祠あり 
                        左から大神宮 三峯大権現 (坂?)田大明
         

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一ツ木氷川神社

        
           ・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木165
           
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
           
・社 格 旧村社
           
・例 祭 不明
 一ツ木氷川神社は旧一ツ木村鎮守。地頭方天神社からほぼ東方向500mに鎮座していて、鳥居右側横が砂利道になっていて奥に駐車可能なスペースあり。嘗て一ツ木村は『新選武蔵風土記稿』によれば、足立郡箕田郷に属していたというが、寛永11年(1635)伊奈備前守が荒川を堀替して、堤を築いてから比企郡下吉見領に属していたとの記載がある。
        
               道路沿いにある一ツ木氷川神社の鳥居
 境内の規模は参道も長く、結構大きそうだがやや寂しい雰囲気。当日の雨交じりの天候故か、境内は鬱蒼とした社叢林が広がっていて、昔ながらの雰囲気を残しているように感じる。この社叢林が現代まで留めているのが却って歴史の深さを感じるのは、筆者の勘繰りだろうか。
        
                    境内の様子
            
                             参道左側に九頭竜大神の石碑あり。
 嘗て物資の輸送手段として舟運が盛んであったころ、荒川の流域には沢山の河岸があった。
当社の鎮座する一ツ木もそうした河岸の一つとして栄えた村であり、荒川右岸の地域性は勿論ではあるが、「九頭竜大神」も水を司る神でもあり、「水神」に対しての崇拝が高い地域であったと思われる。
 
         境内社 秋葉神社          社殿手前・左側にある石碑
                     文字が刻まれているが、読み取れなかった。
        
                                         拝 殿
 一ツ木氷川神社について、『埼玉の神社』はこう述べている。
「当社の裏には、近年まで、長さ一三〇センチメートルほどの石棒が立っていた。この石棒は、竜宮に通じると伝え、その先が揺れると境内の北側にある宮川という沼の水面も揺れたという。」
 一ツ木村は南北に長く、「宮川」境にして上下が分かれていて、上の鎮守が荒神社、下の鎮守が氷川神社となったのではないか。因みにここに記した荒神社は氷川神社の北方200m程の荒川西岸・土手面に鎮座している社である。
       
    社殿前にある対にある巨木以外にも、存在感のある老木も存在する。(写真左・右)

 一ツ木氷川神社の北側には「碗箱淵」と言われる南北に細長い沼が存在し、一説によれば、荒川の「切れ所跡の沼」ではないかとも。江戸時代に編纂された『新選武蔵風土記稿』にはこの沼を「宮川」と記載されている。
*碗箱淵
「村の中程にあり、或は宮川とも云、昔此沼に怪異あり、農家に来客多き時、沼中へ書を投て請求れば、椀具用に随て辨ずと云、故に沼に名くとぞ、長三百三十間幅四十間」
                                  新編武蔵風土記稿より引用
 もしかしたらこの付近に宮川という河川が流れていて、荒川瀬替えによる河川の後退で、その淵部位(水深が深い箇所)が現在の沼として残っているのかもしれない。
        

 また沼にまつわる伝説も多いようで、上記「碗箱淵」には道路沿いに案内板がある。

「この池の伝説によると、武田信玄の家臣の原美濃守虎胤の妻は、諏訪湖にいた竜神の化身で、子供が出来てから宝珠を残して湖に帰ったが、その後、虎胤は吉見領に移り諏訪湖から遠く離れてしまった。その子孫の良方、良清の代には、そばの大沼に向って祈ると膳や椀など不足なく出たという。そのため、この淵を椀箱淵といい、諏訪湖と通じているといわれていた。
 このため、淵のほとりには龍神を祀った塚があり、かつては耳を患う人の信仰が厚かった。
時を経るに従い、淵も逐次埋め立てられ、面積も縮小されて昔日の原形はとどめないが、今は貯水池として農業用に、また、防災用に地域のため大きな役割を担っている。」
                                吉見町・埼玉県案内板より引用
        

 碗箱淵の案内板に出てきている「原美濃守虎胤」は戦国時代、「甲斐の虎」として名高い武田信玄の家臣であった武将で、信玄亡き後、勝頼の代に武田氏直系は滅亡する。その滅亡後原一族はこの地に土着して子孫を残したという。
 原氏に関して『新編武蔵風土記稿』は以下の事を記している。
*家者徳太郎
「當村草創の民なり。先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり。甲州没落の後、久しく當郡松山に住す。文禄年中當所に土着して民家に下る。其の後良房慶長六年七十一歳にして卒す。其子右馬祐良清は寛永十六年六十五歳にして卒す。墳墓龍ヶ谷にあり、此の正統は則徳太郎なり。良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は今名主作兵衛是なり」

上記に記されている「原隼人正」とは原昌胤のことで、碗箱淵の案内板に登場する「原美濃守虎胤」とは苗字は同じでも虎胤は千葉氏一族であり、原昌胤は土岐源氏の庶流であるため、別系統と言われている。原昌胤は信玄の信用も高く、武田二十四将の一人にも挙げられるが、1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死する。

「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろうと言われている。
 また余談ながら一ツ木氷川神社の北側200m程に鎮座する「荒神社」
の創建に関しても、「原氏」と関係していて、文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。

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