古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野上下郷瀧野神社

 瀧野神社 御由緒 長瀞町野上下郷一二一八
 ◇荒川の滝にかかわる伝説の社
 『新編武蔵風土記稿』に「往古この所荒川の流れに、両岸岩にて狭まりし所、川瀬の中に巨岩ありて瀧となりしが、何頃にや洪水の時、此の岩破れ今は瀧なけれども、今に小名に唱ふ、瀧野社例祭九月二十九日、小名瀧上の鎮守なり、此社往古荒川の北岸にありしを、今の地に移せしと云、神職柳若狭吉田家の配下なり」と記載する。
 御祭神は日本武尊で秩父に足を踏み入れた尊の徳を称え奉斎したと伝えている。
 境には熊野神社も祀られ「おくまんさま」と呼びならわし、安産の御神徳が高いとして多くの参拝を得ている。安産を願うものは「安産帯」を受け、社頭から「底抜けのひしゃく」を借り受け、願いが成就したあかつきには「お礼」として新たな「底抜けひしゃく」と借り受けたものと合わせ納めお礼参りをしている。
 なお寛保二年(一七四二)関東各地に大洪水をもたらした水位を示した埼玉県指定史跡「寛保洪水位磨崖標」が長瀞第二小学校裏の岩肌にある。当時七月二十七日から四日間降り続いた雨の水位は十八メートルにもおよびこの付近一帯は水没したという。           
                                    境内案内板より引用

       
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷1218
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧小字瀧上鎮守
             ・例祭等 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341891,139.1217504,16z?hl=ja&entry=ttu       
 野上下郷瀧野神社は国道140号を長瀞町報告に進み、秩父鉄道「樋口駅」過ぎの集会所に車を停めて参拝を行う。社まで適当な駐車スペースがない事。またコミュニティ集会所から西へ道路沿いお歩道を歩いて進めば、一本目のT字路右側に野上下郷瀧野神社が見えるからだ。
               
               正面社号標から撮影。急勾配の階段なのがここからでも分かる。
           
 この階段は段数こそあまりないが、振り返るのが怖いほど急勾配で、見ただけでも参拝する気持ちが落ち込む程。このような階段は初めてであるし、日頃から運動不足気味な自分にとって、この社の階段は神から与えてくれた「運動と疲労」という贈り物であろうと感謝している次第だ。中央に設置されている手すりを使用して、勢いのまま休まずに踏破できたのは良かったが、帰路も同じルートかと思うと、明日以降の筋肉痛が心配だ。
*後で知ったことが、熊野神社へのコースは緩やかな道があり、そこならば道程が少し長いだけで、それほど心配する必要もなかった。
               
 階段を登り、鳥居を過ぎると真近かに社殿が目視できる。山の斜面に社を鎮座させている関係上、構造的には、社殿や境内社等並列している配置となっている。
        
                     拝 殿   
 武蔵七党は
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、その中の丹党安保氏の系列(一派)に岩田氏、白鳥氏が主に秩父郡白鳥庄を領有していた。長瀞町野上下郷に鎮座する瀧野神社は『新編武蔵風土記稿』によると、この地は秩父郡白鳥庄に属していた。
・「秩父志」「白鳥庄、属村十一.下田野、井戸、岩田、野上郷、藤谷淵、金崎、金沢、日野沢、野巻、大淵」
 この武蔵七党の活動開始時期はあくまで平安時代後期であり、それ以前に記述されている文書等にこの武士集団は関与していないことから、律令制度時期に活動した集団はどのような一派だったろうか。
 
     
       参道左側にある神楽殿          拝殿手前に設置されている案内板
 
   三笠山・御嶽皇・八海山各大神の石碑           境内社 
                      左から琴平神社・白山神社・天神社・諏訪神社
        
  
社殿東側で勾配の緩やかな参道を下がるように進と、左側に「熊野三社大神」が鎮座する。
   
        熊野三社大神              
熊野三社大神の扁額
        
                         熊野三社大神の並びには社務所がある。
 秩父郡岩田村は承平三年太政官符に「秩父郡石田牧」と見えるところから、岩田は嘗て「イシダ」と称していたという。近郊の大里郡には小園壹岐天手長男神社が鎮座しているが、この社も嘗ては「石田神社」と称していた。
大里郡神社誌 「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」
 この壹岐天手長男神社は壱岐島内に同名の社が総本社として鎮座している。
壹岐国石田郡石田郷(和名抄に伊之太と註す)
 この「石田」という地名は古代から日本海を中心とした集団として文書等に記載がある。
日本書紀垂仁天皇三十四年条 「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」
古代氏族系譜集成 「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)
 このように武蔵七党活動以前から、ある集団が九州から畿内、その後東国に移動して、移住した地に岩田、石田と命名したと考える。武蔵国北部には壱岐島由来であろう天手長男神社が多く鎮座している例もあり、岩田(石田)の地名の淵源は古く、そして集団としての活動範囲も広範囲であるといえるのではなかろうか。
                       
                                階段から眼下の風景を撮影
            
                      何故このような急勾配な斜面上に鎮座したのか

 秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を登った山腹に「寛保洪水位磨崖標」がある。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだもので、この「寛保二年水害」とは1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害で、江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害である。 
 当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事ことを地元の四方田弥兵衛・滝上市右衛門が刻んだものである。(県指定史跡)
 因みにこの石碑に刻まれた水位は現在の河床から約24mにもなり、現在の人家の一階は完全に水没する水位であり、ここから2km程度下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約198mにもなったという。
 野上下郷付近は秩父盆地に降った雨が集まる、盆地唯一の水の出口で、両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいる。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなり、寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれている。
 こうした洪水の記録を後世に絶やさずにつないでいくことが大切であり、樋口駅近郊に鎮座する瀧野神社にも水に関する地名や由緒が案内板等に残されている。

岩田神楽とは
 岩田神楽は秩父地方の主流をなす秩父神社の流れを受ける。大正3(1914)の冬、耕地総出の薪山仕事の時に「岩田でもダイダイをやってみようではないか。」との話がまとまり、神楽主任浅見幸三郎、中村楠五郎両氏を師匠として約1ヶ月間、蚕室を借りて伝授を受け、2月の天神祭に初舞を奉奏、めでたく岩田神楽が発足したと言われる。神楽の道具衣装もよく保存されている。2月と11月の大祭、315日頃の滝野神社の春祭等に奉奏する。


    

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入浅見金鑚神社古墳

 入浅見金鑚神社古墳は、生野山丘陵の北東に派生した段丘上にある古墳である。古墳の北側には埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線が通り、墳丘裾の一部が削られ、工事中に埴輪が出土した経緯がある。御由緒(入浅見金鑚神社案内板)では、古墳についても触れている。元々この神社は古墳を避けて鳥居の北東付近に鎮座していたが、1928(昭和3)に墳丘南側が削平され金鑚神社社殿が移築され、この工事の際、主体部が発掘され、石室石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたという。
「格子タタキ技法」を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳
(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土していて、これらの古墳も、金鑽神社古墳と同時期の築造と考えられているので、5世紀前半の本庄市内には、何人かの朝鮮半島出身の土器製作技術者が、埴輪づくりに活躍していたことが推測されている。
                
             ・所在地  埼玉県本庄市児玉町入浅見
             ・築造年代 5世紀中葉築造(推定)
             ・形 状  円墳
             ・規 模  直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成
 入浅見金鑚神社古墳は女堀川左岸で「鷺山古墳」の南西にあり、生野山丘陵北部の丘陵の地山に築造されている。墳丘には入浅見・金鑚神社が鎮座している。1928(昭和3)に工事の際、主体部が発掘され、一部の石室・石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたが、内部主体(竪穴式石槨と思われる)は発掘調査されていないとの事だ。
 
       鳥居付近が一段目のテラス。写真でも段差があるのが確認できる(写真左)
     また鳥居横にある「本庄市指定文化財 金鑽神社古墳」標柱あり(同右)
 標柱案内柱より引用(側面部位)
「この古墳は、5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳である。また、当古墳は全国にも例の少ない叩き目を持つ円筒埴輪が樹立されており、併せて町指定文化財となっている。」との記載あり。
 
            拝殿前には階段があり             石段脇の墳丘を撮影。 
     一段高くなっているのが分かる。         綺麗に円を描てるようだ。
       
 拝殿前までの敷石に注目。この敷石、この古墳から出土した組合い式箱式石棺の部材を転用しているという(写真左)。また社殿裏境内社の脇にある平らな石材もそれらしいように見えるから不思議だ(同右)。
         
                  厳かな雰囲気漂う社

 入浅見金鑚神社古墳は、直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成の円墳で、墳丘には入浅見・金鑚神社があり、自然丘陵を利用した下段と、盛土による上段の2段で築成されていて、上段の墳丘には葺石が施設されて、下段は地山をけずりだして整形されていることが確認された。また周溝を含めると100mを超える大型の円墳で本庄市内では最大規模という。

 最後にこの古墳は平野部ではなく、わざわざ段丘上に築造されている。更に墳丘テラス部で円筒埴輪列、墳頂で朝顔形埴輪列が並び、葺石も施設されていることから、古墳築造当時において樹木等はほぼなく,古墳のある場所からかなり遠くまで見通せたものと推測される。
 この古墳が築造された当時の地形を、現在の地形を参考とさせていただく事を条件に周囲の標高を調べてみると、入浅見金鑚神社から古墳墳頂で約90.4m96m。北側県道沿いが約86m。東側で80m程。南側で約73m77m。西側が83m程で、周囲に比べて10m20m程高くなっていて、生野山丘陵北端部ではあるが、見た目には独立した小山という印象を当時の人々は感じたのではなかろうか。
 そういう意味において、この古墳は一種ランドマークのような目立つ存在であり、「見せる為の古墳」「この地域を象徴する古墳」でもあったと思われる。

 古墳および出土品は1988(昭和63)11日付けで市指定史跡に指定された。

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入浅見金鑚神社

神流川は、長野・群馬・埼玉の県境、三国山(1818 m)に源を発し、南から北へと向きを変えて急流を一気に下り、北東に向きを変える神流川頭首工のある辺りからは、なだらかに広がる扇状地をゆっくり流れる。その後、烏川に流入して利根川に合流する流路延長 87.4km、流域面積 407 ㎢の一級河川である。
 古代律令時代には、条里制田畑が広がっていたといわれ、条里制田畑に水を供給する用水堀やため池が発達した。一説によると九郷用水は条里制施行時に用水路として造られたといわれている。 
 九郷用水は神流川から取水する用水で、全長約16㎞。その要所には不思議と金鑚神社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の一つ児玉党の勢力範囲と一致するといわれていて、この用水の開削伝承に、金鑽神社が登場する。
 昔は台風が来ると大水もたびたび出た。ある台風の後、よく晴れた中お百姓さんが川原の畑にくわ切に出かけた。ひと仕事して一服しようと、大水で流れ着いた大木に腰かけた。
すると、その大木が動き出し、実は天にも届くような大蛇であったと知れた。百姓は驚いて腰が抜け動けなかったが、暫くして我に返ると大蛇はおらず、その這った跡が東方に向かっていた。その筋が後に九郷用水になったという。
 九郷用水については次のような伝もある。大昔一帯が日照りに悩まされることが多く、これを知った国造が金鑽神社にこもって、その惨状を訴え祈願したという。すると社殿に童子が現れ、自分が金竜となり神流川の水を導くゆえ、それに従い水路を掘るように、との託宣があった。
 はたして翌朝、金色の大蛇が新宿附近の神流川に現れ、岸に上がると本庄市北堀まで進み、浅見山へ消えたという」
 用水開削時期については、古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがあり、ハッキリとした時期は分かっていない。しかし、神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
        
                      ・所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見899
                      ・ご祭神 素盞嗚尊
                      ・社 格 旧入浅見村鎮守・旧村社
                      ・例 祭 春祭り 4月3日  秋祭り 1014日  新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2049845,139.1532806,17z?hl=ja&entry=ttu       
 入浅見金鑚神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を旧児玉町蛭川地区方向に進む。「山蛭川」のY字路交差点(但し手押信号)手前にこんもりとした森が左側に見えてくるが、その森中に入浅見金鑚神社が鎮座している。
 森の手前に左折する細い道があり、そこを進むと左側にお寺があり、そこの駐車スペースを利用してから徒歩にて社に向かう。森周辺も
静かで県道沿いに鎮座しているとは思えない程荘厳な雰囲気があるが、道路事情にはやや難あり。
               
                 
入浅見金鑚神社鳥居正面
 古墳の墳上に鎮座しているので、参道途中には階段があるが、それがかえって良い雰囲気を醸し出している。この社のすぐ北側は県道が南北に走り、しかもかなりの交通量であるが、そのような喧噪や騒音がほとんど聞こえない。
        
                                 鳥居の左脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 金鑚神社 御由緒   
 所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見字西裏八九九
 □御縁起(歴史)
 入浅見は古くは隣接する下浅見と共に「阿佐美」といい、武蔵七党児玉党の氏族である阿佐美氏の本貫地であったとされ、当社の境内のすぐ北側に当たる「城の内」という場所は、この阿佐美氏の居館の跡と伝えられる。また、地内には古墳が多く点在しており、当社の境内にもその一つがある。そのため、元来は古墳を避けるような形で鳥居の北東付近に鎮座していたが、昭和五年に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。
 当社の由緒については『児玉郡誌』に、当社は阿佐美右衛門尉実高が勧請した社で、天正四年(1576)九月に領主黒田豊前守の寄附によって社殿が改造され、享保年間(171636)に正一位の神階を奉授した旨の記載がある。また本殿には、往時神階叙位に伴って掛けられたと思われる「正一位金鑚大明神」の木製の社号額や、天保三年(1832)に拝殿を再建した際の棟札などが納められている。
 江戸時代には、真言宗の金鑚山観音寺が別当であったが、神仏分離によって同寺は廃され、現在では観音堂(当社の三○○メートルほどに所在)にその名残をとどめている。一方、当社は明治五年に村社となり、政府の合祀政策に従って、字聖天平の諏訪神社並びにその境内社を当社境内に移転した。当社の祭神は素盞嗚命である。(中略)
                                      案内板より引用
        
                       参道。綺麗に維持され、手入れも行き届いている。
        
                                         拝 殿
 本庄市入浅見地区は、本庄市旧児玉町共和地区の南部に位置し、生野山の北東の方角に続く緩い丘陵地と、生野山の東部で二つの尾根の間の谷部、生野山西部の先端部の北側を含む。この生野山の北東の尾根より分断された小丘陵上の南斜面に集落が集中している。入浅見の北側は児玉条里水田地帯の南端にあたり、中央部は2本の尾根に挟まれた谷となっている。条里水田は九郷用水を用いて、谷戸田の水田は生野山麓の複数ある溜池(ためいけ)の用水を用いている。
 入浅見は本来下浅見と一村であったが、戦国時代以降2村に分村する。浅見は「阿佐美」とも書き、この地名が初めて資料に見えるのが天正5年(1577)の「北条氏邦朱印状」(武州文書)で「入阿佐美・阿佐美村」と記載されていることから、この時期には分村していたことが分かる。
        
                                         本  殿
 古代における入浅見地区は、5世紀前半には「金鑚神社古墳」が築造され、共和地区内周辺地域と同様に、児玉条里地帯に一部が含まれた先進地域であった。古代末期には児玉郡内に児玉庄という荘園があったことが平安時代末期 - 鎌倉時代初期の公家である九条兼実の日記『玉葉』に見られる。
 当時の児玉庄の実態は『玉葉』に記されたもの以外で史料等なく不明であるが、その当時から入浅見地区も含まれていた可能性がある。入浅見の北部は条里地帯に含まれている一方、中央部、生野山の二つの尾根に挟まれた谷も水田として開発されていることが発掘等によって分かっているが、この地域は条里地帯からは外れていて、所謂「谷戸田」と言われる水田である。
 
        
                            社殿奥に鎮座する境内合祀社二棟        
          左側「疱瘡神社・絹笠神社・手長男神社・菅原神社」  
           右側「八坂神社・稲荷神社・伊勢神社・二柱神社」
 
         社殿右側奥に諏訪神社が鎮座        鳥居の左側(西側)にも境内社あり
                                詳細不明
        
                                 社殿からの一風景
 古代末期児玉郡内に武蔵武士の前身にあたる児玉党等多くの武士集団が発生するが、この児玉党内に阿佐美氏も含まれる。当然阿佐美氏の支配領域は児玉庄に含まれるはずである。その児玉庄の根幹をなす条里水田は本来国衙領(公領)であり、荘園の管理や年貢の収納・治安維持等の権限はあっても、児玉党武士団の所領ではない。しかし、入浅見の谷戸田地域は国衙領に含まれず、児玉党独自での開発により、自己の所領として得られる地域で、これを地盤として、荘園内外での所領を拡張することができたと考えられる。
 現在児玉地域で発掘されている古墳群や条里遺跡、及びその周辺の水田遺跡や九郷用水の規模等を考慮すると、この入浅見地域は児玉党にとっては周辺へ開発する際に重要な開発拠点であったと思われる。



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宮戸八幡大神社

        
           ・所在地 埼玉県本庄市宮戸1071
           ・ご祭神 誉田別尊
           ・社 格 旧村社   創建・建立 文正年間(14661467)
           ・例 祭 祈年祭 415日 初穂奉告祭 720日・1220
                例大祭 10月
15日 新嘗祭 11月23日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2393791,139.2388439,19z?hl=ja&entry=ttu
 宮戸
八幡大神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、「道の駅おかべ」の先にある岡(東)交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした社叢と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見える。(横瀬神社並びに華蔵寺)その手前の十字路を左折し、また道なりに1㎞程真っ直ぐ進み、2番目の十字路を右折すると宮戸八幡神社が見える。
 正直実母方の墓地がある
華蔵寺、横瀬神社からそう遠くない場所にこのような社があるとは想像も出来なかった。これも神社散策での奇縁ともいえる。
 駐車スペースは社の道を隔てた場所が広い空間となっていて(但しそこが駐車場かは分からなかったが)そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                 宮戸八幡神社正面から撮影
        
                        鳥居の左側にある案内板
 八幡神社 御由緒   所在地 本庄市大字宮戸一○七-一
 □御縁起(歴史)
 当地は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置する。
 社伝によれば、
当社は文正年中(一四六六~六七)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また『児玉郡誌』には、承応元年(一六五二)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄附されていた旨が述べられている。
『風土記稿』
村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。当社の東隣に本堂を構える観泉寺は、八幡山無量院と号する真言宗の寺院で、応永年間(一三九四~一四二八)に新田氏の家臣金井主水が開基したと伝えられ、万治三年(一六六〇)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、当時は惣持寺の末寺であった。
 当社は
神仏分離を経て、明治四年に村社となり、同四十年に字中道北の八幡太神社、字山神の山神社、字藤塚の稲荷社の三社の無格社を本殿に合祀した。同四十一年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
 平成
十年七月十八日、同地区に鎮座していた清水川稲荷神社を配祀した(中略) 
                                      案内板より引用
        
         境内は決して広くはないが、境内はちゃんと整備されている
             静かな
佇まいと共に荘厳さも持ち合わせた社

 宮戸地区は本庄市の最北端東寄りに小和瀬地区とともに位置していて、利根川に近く、低地部に属している。宮戸の歴史は古く、天正19年(1591)の検知帳にこの地が記されていることから、江戸時代に入ってかなり早い時期に検知が行なわれている。『風土記稿』を確認すると江戸時代から明治初期までは榛澤郡藤岡領に属していた。
 因みに宮戸の名前の由来は不明で、お宮があったことから由来するか、「ヤト」からくる湿地帯だった事からとしていて、はっきりとした根拠もなくわかっていない。
              
        案内板の左側にある「本庄市指定文化財 宮戸八幡大神社の格天井絵」

 宮戸
八幡大神社の天井花鳥画は拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画で、江戸時代末作成。宮戸出身の角田岱岳をはじめ、島村の金井烏州、金井研香らの作で、保存状態もよく、彩色でみごとであるという。
 金井
は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。
 また
『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没している。弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。(伊勢崎市教育委員会)
 金井
烏州は江戸時代後期の画家であり、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれていて、その苗字と出生地が示す通り、新田一族である金井氏の後裔にあたる。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。
 
    鳥居を過ぎてすぐ左側にある末社群         末社群の隣には神楽殿あり
        
                      拝  殿
        
                 拝殿向拝部の見事な彫刻
 社伝によれば、
当社は文正年間(14661469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
 
      神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か         社伝の左側奥にある末社群

 宮戸八幡神社は利根川
南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
 「元弘
三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」

 新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
 遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。

           


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仁手諏訪神社

        
             ・所在地 埼玉県本庄市仁手353
             ・ご祭神 健御名方命 妃八坂刀売命
             ・社 格 旧元仁手村鎮守・旧指定村社
             ・例祭等 祈年祭 43日 例祭 1019日に近い日曜日
                  新嘗祭 129
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2436692,139.2112425,16z?hl=ja&entry=ttu
 仁手諏訪神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、正面に傍示堂稲荷神社が見えてくるが、そこから北側にこんもりとした社叢が見える。そこが仁手諏訪神社であり、傍示堂稲荷神社からも400m弱北側で、ほぼお隣さん状態で仲良く鎮座しているような印象も受けた。
        
                  仁手諏訪神社正面
 
     正面鳥居の左側にある案内板     鳥居を過ぎると参道と共に広い境内が広がる

○本庄市指定文化財「諏訪神社獅子舞」
 この獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。それは天明八年(1788)当時この流派の奥義を極めた高原喜八が諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりといわれるからである。のちに仁手の家々の多くの人がこの舞の技能をおさめ毎年十月十九日の祭礼に、神社に奉納し今日まで継続されている。特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)仁手村の領主笹山彦左衛門が常陸国の城主蔭山数馬から拝領したものといわれ、特色がある。
 昭和37年3月23日  本庄市教育委員会                  
境内案内板より引用
        
                     拝 殿
 
          本  殿                拝殿脇にある案内板

 諏訪神社御由緒   所在地 埼玉県本庄市仁手三五三
 □縁起

 創立年代は不詳であるが、「明細帳」によれば、上杉忠清が本庄領主であった永禄四年(1561)には下畑五段十五歩の除地があり、本庄美濃守が本庄領主だった天正十一年(1583)にはその所轄となって萱野四段歩の寄付を受けたという。また、氏子の梅沢甚三郎家の先祖は、鉢形城の最後の城主である北条安房守氏邦の家臣で、落城後に当地に来て土着したとの伝えがある。
 これらの伝承と、鉢形城内に諏訪神社が祀られていたこと、本庄領一帯では長禄から天正(14571592
)にかけて諏訪神社が勧請されている例が多いことなどを合わせて考えると、仁手諏訪神社は鉢形城麾下の諏訪信仰を背景にして勧請された社の一つであると思われる。ちなみに、利根川の対岸に位置する上仁手にも諏訪神社があり、北条氏麾下の茂木某の勧請と伝えている。
 『風土記稿』の元仁手村の項に「諏訪社 村の鎮守なり、宗福寺の持」とあり、江戸期は真言宗の諏訪山宗福寺が当社の別当であった。しかし、実際の祭祀は、宗真院のすぐ西に居を構えていた茂木家が行っており、記録によれば文政八年(1825)に茂木兵吾が京都の吉田家の配下となり、その子孫は明治十年(1877)まで当諏訪神社の神職を務めた。また元禄十五年(1702)に社殿が改築されたと伝えるが、老朽化のため、本殿以外は昭和六十年(1985)十一月に建て替えられた(中略)

 

 境内には社殿と並んだ状態で、境内社・末社等が鎮座しているが、その詳細は不明である。『風土記稿』等資料により、合祀社は「戸隠神社」「大杉神社」外四社(不明)であり、末社に関しては稲荷神社,蚕影神社、祖霊社等らしいのだが、それ以上は判明しなかった。
        
                 道路沿いにある案内板

 諏訪神社 所在地 埼玉県本庄市大字仁手三五三
      祭  神 健御名方命 妃八坂刀売命
 当社の創立はいつのころか明らかでないが、かなり古い社で、元禄四年(1691)に当時の領主・上杉忠清が神田五反五畝十五歩を寄進しこえて元禄十五年(1702)には、社殿改築されたと伝えられる。その後老朽化したので昭和六十年(1985)十一月諏訪神社社殿、稲荷神社、蚕影神社、祖霊社、末社を往時のままに復元新築した。
 文政八年(1825)ころは、京都吉田の配下、茂木兵吉が神主となり、その子孫が明治十余年頃まで奉
仕していた。明治四十四年(1911)境内社の戸隠神社、大杉神社外四社を合祀。
 大正九年(1920)四月、本県より幣帛料供進社に指定。諏訪神社に奉納される獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。
 それは、
この流派の奥義を極めた高原喜八から諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりであったからである。
 その後
氏子の相伝となり1019日の祭礼に奉納されるが特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)に仁手村の領主蔭山数馬から拝領したものといわれている。
 なお、当社奉納の獅子舞は市の指定文化財になっている。
 昭和
613
月                              境内案内板より引用

        
 ところで本庄市
仁手地区は、本庄市の利根川沿いにある最北部西端に位置する地区で、昔から利根川や烏川の影響を強く受けざるをえない地形的な宿命を持った地区でもある。特に水害では明治期に大きな被害が出ており、分かる範囲でも、明治23年、同31年、同43年と大きな被害を受けていて、特に31年には堤防決壊1件、堤防破壊2軒の記録が残されている。
 この地区は
現在利根川が北部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後寛永年間の大洪水により、烏川の流路変更に伴い、武蔵国に入った。
        境内南側の門の端部び立つ庚申塔、及び猿田彦大神(写真左・右)
  
 天正8年
北条氏邦朱印状(長谷部文書)には「栗崎・五十子・仁手・宮古島・金窪」の地名が見え、当時の鉢形北条氏の直接支配する勢力範囲の北限を示しているという。
 この
「仁手(ニッテ)」の地名由来として上野国足利一族の「新田(ニッタ)氏」からの転訛とも、「ニタ」は湿地の意味から由来するとも言われている。

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