矢納城峯神社
この平将平は生粋の坂東武者である反面、良識ある人物であったようだ。兄・将門が関東一円を占領し、新たに新皇になる際に伊和員経らと共にこれを諌めたという。
「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」
(口訳)「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」
その後将門は討伐さて戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。その後無事乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになったという。
秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことも事実で、真相は如何なるものだろうか。
所在地 埼玉県児玉郡神川町大字矢納字東神山1273
御祭神 大山祇神
社 挌 旧郷社
例 祭 5月5日例大祭
矢納城峯神社は神川町の細長い町域の南方にあり、神流川、下久保ダムを挟んで反対側にある神川町の城峯公園を目指すと良い。国道462号線、またの名を十石峠街道を神川町から神流川沿いに元神泉村方向に進み、途中譲原地区より左に折れて埼玉・群馬県道331号吉田太田部譲原線となり、そのまま道なりに進む。県道331号は延命寺付近で分岐し、山道特有の細い曲がりくねった道をしばらく進むと、城峰公園が見合てくる。その公園入り口に対して向かい側に矢納城峰神社の鳥居がある。
鳥居の向かって右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。参拝日は11月の下旬で丁度城峰公園の冬桜のシーズンで観光バスや観光客が沢山いて、公園の駐車場が全く使用できない状態だった。
鳥居正面には観光バスが一列縦隊状態で、そこから撮影を強行することは慮ったため、右側にある社の専用駐車場側から逆光を覚悟で撮影したが、やはり逆光状態になってしまいうまく撮影できなかった。
駐車場近くにあった城峰神社の案内板 鳥居の先には趣のある杉並木の長い参道
参道を進むと城峰神社の二の鳥居が見えてくる。
神川町ホームページには「矢納」の語源について以下の説明をしている。
地名の謂れ 「矢納」
昔、東国が乱れ人々が大変苦しんでいるという事を心配された天皇は、吾が子「日本武尊」に「東国の乱れを治めよ。」と命じた。
日本武尊は、早速軍備を整、大勢の家来を引き連れてこの山深い村に立ち寄った時の話です。
この地についた日本武尊は周囲の山々を見わたし、一際高い山に登り頂上に立って周囲の山々や峯々を注意深く見わたしたのです。その時何故か武尊は「大きな、ため息」をつかれたそうです。
周囲の山々の様子を眺められ秘策を練られた武尊は足元の「大岩」に背中につけていた矢を1本取り出し、力をこめてその大岩に矢をつき立てたのです。そして大きな声で、「私は、此処から見渡らせる緑の峯々をこの手中に治めたい。」と家来の前で力強く「宣言」をされたのだそうです。
大岩に「矢」を突きたてたという事が後々まで語り伝えられた事から、この大岩を「矢立の岩」と呼ぶようになったのだそうです。
武尊がこの地に入られるという知らせを受けた村人たちは、こぞって村の入り口近くまで出迎えたといい、この場所を「迎え平」と呼ぶようになり
何時しかこの地が「迎え平」という地名になったといわれています。
尚、柚木家に残る三枚の版木の一枚には、武尊が東征の際当地に立ち寄られた折り、弓の矢の根を御祠に収め「大山祗命」を祀られたということから、以来この地を「矢納村」と名付けられたと村名の由来が版木の一枚目に書き記されているという事です。
神川町 ホームページ参照
鳥居のある石段を過ぎると城峰神社の由来を記した案内板がある。
郷社 城峯神社御由来 埼玉県児玉郡神泉村大字矢納字東神山
由緒
人皇第12代景行天皇の41年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に至り給い当山に霊祀を設け遥に大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇の命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古事に縁由せり、天慶3年平将門の弟将平矢納城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向かい当山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり、天録2年本殿を建つ(中略)
案内板より引用
そもそも神川町は埼玉県の北西部に位置し、県境を流れる神流川の右岸に広がる平坦の地域と、その上流部の秩父山系に属する山間部で形成されている。現在の行政単位においては埼玉県に属してはいるものの、市街地は主要地方道である上里鬼石線沿いに形成されていて、山間部近くの元神泉村地区は、つい最近まで元鬼石町との婚姻が数多かったように、神流川左岸の群馬県藤岡市鬼石町との交流が昔から盛んな地域であった。
またこの神泉村の周辺には、「神山」、「両神山」、「神流湖」、「神流川」など不思議と「神」と名がつくものが多い。そして神流川の北側対岸には「鬼石町」。この鬼石町には以下の伝説がある。
上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ
鬼石町誌より引用
この城峰神社が鎮座する旧神泉村周辺域には「日本武尊伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝承・伝説が混在している神話の宝庫であり、現在の長閑な風景では到底考えられない位、真に不思議な地域だ。
不思議ついでにもう一つ。矢納地区にある城峰神社のすぐ南側に同名の城峰神社がある。こちらは秩父市吉田地区石間の標高1038mの城峰山の山頂近くに鎮座していて、やはり平将門伝説が伝わっている。
ちなみにこの城峰山は『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。
吉田地区石間城峰山の将門伝説
下野の豪族、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に追われた平将門は城峰山の石間城に立てこもって戦いましたがついに落城。将門は捕らえられました。しかしその後将門そっくりの影武者7人が捕らえられ、秀郷は誰が本物の将門かわからなくなりました。そこで将門の侍女、桔梗にたずねたところ「食事をする時にこめかみが一番よく動くのが上様でございます」と答え、秀郷は本物の将門だけを討ち取りました。将門は怒り「桔梗よ、絶えよ」と叫んで死んだため、以後この城峰山には桔梗が咲かないようになったという。
この吉田地区石間城峰神社拝殿には大きく金色で「将門」と書かれている。この社の御祭神は何故か平将門を討伐した藤原秀郷が建立し祀られている神社であるのに、敵対していた平将門の名が記されている。
なにかしっくりしない伝説と現実との乖離がここには存在する。
社殿に通じる石段を登り切るとその両側に日本武尊にちなむ山犬(狼)型の狛犬(写真左、右)が控えている。
神様のお使いは、動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを総称して「眷属」(けんぞく)という。
城峰神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、真神は古来より聖獣として崇拝された。狼が「大口真神」になったのは江戸あたりでそれまでは「オオカミ様」「ヤマイヌ様」と様々な呼び名があり、古くからは「狼」の「オオカミ」は「大神」にあたるとされ山の神の神使とされた。
オオカミ信仰は、かつては秩父を中心に関東一円から 北は福島。西は甲斐や南信州まで多くの信仰を集めていたという。
拝 殿
秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
矢納城峰神社は昭和40年代まで毎月1日と15日に「お炊き上げ」が行われていたという。本殿右手にある石組みの処が「献饌場所」になっており、お饌米は黒塗りの会席膳に盛られ、息が掛かると「お犬様が嫌って食べない」ので、膳部から口を逸らせて捧持する仕来たりであったと伝えている。
城峰神社境内にある「亀石」
矢納城峰神社の奥には標高732mの神山がある。神山山頂は奥行きのある平坦地で、城があったとしてもおかしくない地形である。また、古代より信州と武蔵を結ぶ重要なルートであった神流川沿いの街道を見下ろす戦略上の地点にあり、なにより「神山」という山名が古代においてはとんでもない名山であったのではないか、という考察を抱かせてしまう程のインパクトがある。
上記において、この地は「日本武命伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝説、伝承が混在した神話の宝庫と書いた。しかしこの地にはもう一つ重要な伝説が存在している。
その伝説は「羊太夫伝説」だ。
羊太夫伝説は西上州から秩父地方が主要な分布地となっている。(*但し質、量共に西上州の分布が圧倒的に多いが、『羊太夫伝説』によると羊太夫は秩父黒谷の銅山採掘の功により多胡郡の郡司となった経歴があることも参考としなければなるまい。)
この二つの地域の中間地域にこの神泉地区がある。考えるに奈良時代前後、古代のこの地域の道は後代の鎌倉街道のルートよりも西側、つまり武蔵国における「山の辺の道」の一つとして鬼石から神泉村を経て皆野町国神に至るルートがすでに存在していたのではないだろうか。あくまで推測にすぎないが。
神山の北側には、神流川を堰き止めた人工湖がある下久保ダムと神流湖があり、川は群馬県との県境である。
そして矢納城峰神社のすぐ東側には城峰公園があり、参拝時期も11月中旬で丁度冬桜が咲いている時期にあたり、多くの観光客が見物に来ていた。
城峰公園までの道のりはかなりの山道であるが、日当たりのよい場所にはこのような冬桜ががまわりの木々の紅葉とマッチして運転中にも関わらず、急停車して思わずその風景に見入ってしまった。今回は矢納城峰神社の参拝を優先していたため、また次の参拝先も決まっていたため、城峰公園の散策はできなかったが、次回の楽しみに残しておこう。
この冬桜は、薄紅色の小さな八重の花をつける「十月桜」で、その特徴は、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花することだ。花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。また萼筒が紅色でつぼ型である。春は開花期に新芽も見られる。また、秋より春のほうが花は大きいという。
山道沿いの見事な紅葉
日本には四季折々の美しい風景がまだ残っている。また失われつつあるとはいえ、日本人にはその美しい風景を体で感じる感性も持ち合わせている。どんなに機械化、IT化が発達しても、日本人のDNAには縄文時代から受け継いだ遺伝子がまだ体内にあると信じている。
現代はバブル崩壊後の不況の真っただ中にあり、さらに東日本大震災や御嶽山の噴火等の自然災害や放射能汚染の人為的な災害、さらに世界を見ても、イラク問題やテロの問題いずれを取り上げても、現在人類は大変な危機に直面している。この状況を救い、切り抜けることのできる一つの方法は、多様な文化を包括的に包み込むことができ、自然と共生できる日本の文化ではないかと考えている。
日本人は謙虚な人種と言われている。それはそれで決して悪いことではない。ただ我々日本人もこのような自分の文化にもっと誇りと自信を持つべきではないだろうか、と今回矢納城峰神社の参拝中の折に感じたことを何となく感じた次第だ。