古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

穴八幡古墳

大塚八幡神社の南側で、丁度参道をそのまま南下し、鳥居を越えてすぐな場所に、こんもりとした小山が目視でも見られる。これが穴八幡古墳と呼ばれる古墳時代後期の方墳である。墳丘は高さが5.6m、一辺28.2mを測り、内堀の一辺は、東西で39m、南北で約40m、溝幅は最大で7.4mで、周溝外縁は一辺61.4mに及ぶ大型の方墳である。外堀の南半分については確認されていない。首長の棺を納めた石室は、横穴式石室と呼ばれるもので、全長8.2mを測り、南に向いてその入口が開いている。
        
 かつては円墳と考えられていたが、1988年(昭和63年)の周溝試掘調査により、二重に周堀を持つ県内でも最大級の方墳であることも判明した。
 小川町下里地域で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせて造られたもので、内部は前室と後室の2室に分かれている。比企地方では、石室の胴部がやや張った形態のものが多い中で、この古墳は直線的な構造となっていて、古墳の形態や出土遺物などから、7世紀の後半に築造されたことがわかっている。別名黄金塚・増尾大塚・王子塚・王塚とも呼ばれてもいる。
 昭和34年(1959)に埼玉県の指定史跡になっている。
        
       
南側の切通し道に入口階段があり、階段上った右側に説明板がある。
 県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望にみわたせることなどから、この古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
『新編武蔵風土記稿』によれば、この古墳は寛文(16611673)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。なお、文政十二(1829)年、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。
 平成十年三月                           埼玉県・小川町教育委員会
        
            階段を上り終えると更に詳しい案内板がある。
  案内板を確認すると、この古墳一帯の字(小字)は「岩穴」との事。地形にピッタリである。
 埼玉県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字増尾字岩穴六三‐一外
 昭和三四年三月二○日指定
 平成三年三月一五日追加指定
 当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和三四年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和六三年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
 古墳は、墳丘の高さ約五・六m、一辺の長さ三二mを測り、周囲の堀は内堀が幅五・七m、外堀が三・七~四・七m、外堀の一辺の長さ六一・四mを測る、県内最大級の方墳です。
 石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長八・二mを測ります。
 当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、七世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。
 平成五年三月二五日                    埼玉県教育委員会 小川町教育委員会
        
                 穴八幡古墳南側より撮影
        
         
 ところで
鎌倉幕府の9代、最後の将軍である守邦親王(13011333)が幕府滅亡の後、この地に逃れてきて、ここに葬られたという伝承がある(6代将軍・宗尊親王とも)
 または被葬者は「梅皇子」という伝承もあるが、梅皇子とは守邦親王が名乗った別名とか、守邦親王の庶子とか諸説ある。しかし、推定されている古墳の築造年代は7世紀後半であり、守邦親王の時代より、600700年も前のことである現地解説板や小川町のHPでもその伝承について触れられず被葬者は全く不明としている。
 では一体「梅皇子」とは実在した人物なのか、実在したとしたらどのような人物だったのであろうか。
 
開口部・左右の大きな板石は後世に置かれたもの  石室内部は前室と後室の2室に分かれて
                           
奥に八幡社が祀られている
 いわゆる「古史・古伝」とは古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称であるが、現状いずれも学界の主流からは偽史とみなされている。
 それでも現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。文献そのものに史料的価値が認められなくとも、「それらの文献(偽書)をいつ、だれが、どのような背景・目的で作成したのか」を研究することは、古代史の研究とは言えないにしても、参考的な知識を蓄積する意味において、十分学問的な行為といえる。
「古史古伝」のひとつである「ホツマツタヱ(以下秀真伝)」は、日本で古い時代に用いられたとされる文字、いわゆる「神代文字」の一種である「ヲシテ文字」を使用したいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。秀真伝は五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成され、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在するという。
 秀真伝はその成立時期は不詳であり、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもあり、少なくとも江戸時代中期まで遡る。故に歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。
           
               
墳丘西側の二重周溝  左側にはっきり見えているのが外側周溝
 秀真伝地の巻 25アヤ(章)には、ニニキネ(瓊瓊杵尊)と鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)との間に3人の男子が生まれた。
・長男:ムメヒト…火明命(日本書紀) 天火明命(古事記)
・次男:サクラギ…火闌降命(日本書紀) 火照命(古事記)
・三男:ウツギネ…彦火火出見尊(日本書紀) 天津日高日子穂穂手見命(古事記)
(すべて斎名)
次男サクラギ、三男ウツギネは「日本書紀」では概ね夫々長男・次男として記述され、「古事記」では次男、三男として出てくる。山幸彦、海幸彦物語として登場する場面として有名だ。しかし「ムメヒト」は瓊瓊杵尊の子供として登場するが、それ以降の活躍場面もなく、ただ単に天火明命(ほあかりのみこと)として日本書紀では尾張氏の祖として出てくるのみである。また饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記している書物もあるが、秀真伝ではムメヒトは瓊瓊杵尊の長男であり、饒速日命の父親と記述されている。
        
                                  穴八幡古墳 遠景
 本題からいささかそれてしまった感があるが、この「ムメヒト」の「ムメ」は「梅」のことで、「ヒト」は「皇子・命」と訳され、ずばり「梅皇子」となるという事である。
 想像を逞しくすることを許して頂き、また秀真伝の信憑性が高まったと仮定して、その天火明命の子孫が7世紀ごろに時の権力者である蘇我氏に接近し、蘇我氏が方墳を採用していたことにより、これに倣ったものと考察する。時代背景として薄葬令がだされていた時期でもあり、これだけの方墳を築造できる身分で考えられるのは、天津族の血を受け継いだ在地豪族で、国造クラスの人物を現時点では推測する。
        
        大塚八幡神社の南側鳥居の道を隔てた道路の隅にあった穴八幡古墳の古い石碑

 我が国の「梅」の歴史は古い。元々梅は中国原産の花木で、2000年前に書かれた中国最古の薬物学書『神農本草経』には、すでに梅の効用が説かれている。日本へは約1500年前、薬用の”烏梅(ウバイ)”として中国から伝来したと言われている。これは青梅を薫製・乾燥したもので、実がからすのように真っ黒になることから「鳥梅」と呼ばれていて、現在でも漢方薬のひとつになっている。
 今では我が国のシンボルでもある桜の陰に隠れがちな存在でもある梅であるが、奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていたという。その証拠に『万葉集』に詠まれた梅の数では桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれている。穴八幡古墳が築造された当時も、花といえば梅だった時代かもしれない。
 そして「梅」信仰は天満宮、つまり九州地方の花といえばまさに梅。天満宮は今では菅原道真のイメージが定着しているが、道真は平安時代前半(9世紀頃)の人物であり、創建起源の古い「天満宮・天神社」については、天津神(雷神)を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がなく、全国各地に在りその発祥は不明との事だ。本来の天満宮・天神信仰とはいかなるものだったのだろうか。




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大塚八幡神社

小川町は埼玉県のほぼ中央に位置し、広い関東平野が外秩父の山脈と接する位置にあり、中心地は周囲を山々に囲まれた小川盆地で、中央を荒川の支流、槻川が流れていて、京都に似た自然景観であるため、別名「武蔵の小京都」と呼ばれている。
 小川町で高い場所といえば、笠山で標高837m、一番低い所は市野川沿いの55m、その差約800mあり、この標高差の中に山地があり・盆地・丘陵、低地がありと非常に変化に富んだ地形を有しているのが小川町の特徴である。人々はこの地形と川を生かして古くから和紙、絹、建具、酒造などの産業を起し、地場産業として定着させ町場の賑わいを造りだしてきた長い歴史があり、その代表がユネスコ無形文化遺産に登録された細川紙である。
 同時に小川町域は中世(鎌倉・室町・戦国)の時代から人びとが往来する道筋にあり、鎌倉と上州・信州を結ぶ鎌倉街道上道が町域を貫通しており、奈良梨はその中心であった。本来は軍馬が行き交う軍用道路として整備されたものだったが、人々の交流や物資の輸送にも重要な役割を果たした。仙覚律師もこの道をたどって草深いこの地につき、『万葉集註釈』を完成させたと思われる。また高見が原の合戦等の戦場となり、さらに国指定史跡となった「下里・青山板碑製作遺跡」からきり出された緑泥石片岩(下里石)で作られた板碑が町域に1000基以上現存するが全てこの時代のものである。
 時代が下り江戸時代には賑わう町場が誕生し活況を呈し、外秩父の山裾を南北に八王子と上州を結ぶ八王子街道が、川越秩父道と町場の中心で交わる交通の要衝となった小川村は、人と物資の集散地となり「民家が軒を連ね」、一と六の日には市が立ち賑わったという。
 総じて山間地が多く耕作地の少ないこの地域には副業が発達し紙漉き・養蚕・絹織物・素麺・酒造などが盛んとなりその製品が街中で売買され、同時に江戸から秩父への最短距離であったため秩父巡礼や三峯山参拝で文人墨客の来遊も多く、道中日記や旅行記等に作品をみることができる。 
        
             ・所在地   埼玉県比企郡小川町大塚427
             ・ご祭神   品陀和気命(応神天皇) 天照大御神 豊受大神
                  大山咋命 保食命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 元旦祭 11日 春祭 310日 例大祭 1019
                  秋祭 1123日 他小祭
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.060892,139.2495185,16z?hl=ja&entry=ttu 
 大塚八幡神社は国道254号小川バイパスを小川町方向に進み、駅前(西)交差点を道なりに直進、八坂神社を右手に見ながら、先のT字路を右折し、そのまま5分弱進むと大塚八幡神社の一の鳥居に到着する。一の鳥居は八幡神社から350m程東に建てられており、ここから北へ向かうと大梅寺、東へ向かうと仙覚律師遺跡や小川町立図書館がある。
 鳥居の先左側に町営グランド駐車場があり、そこで車を停めて参拝を行った。
           

          
小川町営八幡台グラウンドの南側に鎮座する八幡神社
 
   町営グランドから神社の社叢を望む       東側神社入口付近には案内板がある
 八幡神社 所在地 比企郡小川町大字大塚
 八幡神社は、元弘三年(1333)に、創建されたと伝えられている。
 鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
 守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。 
 慶安二年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けていたと伝えられている。守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行われていた。
 八幡神社の大欅は、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと言われている。
 昭和五十九年三月                              
                                    「案内板」より引用

 境内の案内板によれば、元弘3年(1333)創建。鎌倉幕府最後の将軍であった守邦親王(もりくにしんのう)が当地に逃れ来て、梅香岡(うめがおか)に仮寓したという伝承があるらしい。その際、鎮守神明社の境内に八幡神を勧請したのが始まりとされている。
        
       南側に回ると社号標と鳥居があり、ここが正式な正面となるようだ。
        
          旧郷社の風格もあり、境内は広く、奥行きもある空間
『増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部の地域は、中世の麻師宇郷に相当するといわれている。大塚の八幡神社は、この四か村の中央に位置する台地上に鎮座しており、古来、広範囲の人々の崇敬を受けてきた故を以て、戦前は町内で唯一郷社に列していた。 
 境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた。その後、文治三年(1187)に源頼朝が山王社(現日枝神社)を、さらに元亨三年(1323)にこの地に隠遁していた鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を境内に勧請し、その結果、八幡社が主体となって祀られるようになったと伝えられる(中略)
 また、社伝によれば、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡後、一旦京都に上ったのちに源氏と縁の深い都幾川村の慈光寺を頼ってこの地に逃れ、猿尾氏に迎えられてからは梅皇子と名乗って再挙を図ったが志を遂げられないまま没したので、その霊を自ら勧請した鶴ヶ丘八幡宮に配祀したという。「新編武蔵風土記稿」に「梅皇子の霊を祀る」と記されているのは、そのことを言ったものと思われる。
 このほかにも、八幡神社の行事や信仰には守邦親王にちなむものが多い。例大祭は親王の命日である九月十九日を祭日とし、生前に親王が的場で馬術の練習に励んでいたことから流鏑馬が行われていた。また、この日授与する矢除守は、守邦親王の父である久明親王が将軍となって鎌倉に下向した際に母君から授かったお守りに倣ったものであるという。なお、神職の片岡家は、守邦親王の子孫とされ、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派修験の寺であった。
 矢除守や、流鏑馬の神馬に陪従して無病息災を願う子育矢(陪従矢)によって、八幡神社は子育ての神として信仰が厚いが、「子」が「蚕」に通じることから、養蚕が盛んなころには養蚕の神としても信仰され、比企郡下はもとより入間・大里・児玉・秩父の各郡や群馬県に多くの崇敬者があった。また、同社は縁結びの神としても信仰されている。それは、かつて境内の芭蕉句碑の脇には、愛染椿と呼ばれる椿の大木があり、その葉を取って白紙に包み、拝殿前の石段で潰して葉が藍色に染まると相思の人と結ばれるとされてきたためである。この椿は枯死したが、現在は二代目が植樹されている』
「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
 
                 神楽殿              境内には多数の境内社が横一列に並ぶ
 
        拝殿前で参道を中心に対となっている
鳩(狛鳩 写真左・右)
 八幡神の神使は鳩だから不思議はないが、しかしながらなかなか見かけるものでもなく珍しい。
        
                     拝  殿


征夷大将軍という官職は、元来令外官(律令制定後に新設された官職)のひとつで朝廷と対立する「蝦夷」を追討するための軍を編成する際に任じられる臨時職であり、初期には征夷使、征東使などとも呼ばれていた。武家政権の為政者としての意味を持つようになるのは源頼朝以降で、この慣例は、室町幕府の足利(あしかが)氏、江戸幕府の徳川氏まで引き継がれ、1867年(慶応3)に王政復古で廃止されるまで続いた。ちなみに武家政権を幕府と称するのは、将軍の邸宅を中国風に幕府とよんだことに由来する。
 武家政権を樹立して征夷大将軍職に就いた最初に人物は源頼朝、その後頼家、実朝、この3人で源氏は途絶える。しかしその後も北条執権体制で鎌倉時代、幕府は存続した。しかし執権職はあくまで鎌倉殿を助け政務を統轄したいわばナンバー2の職権であり、名目的ではあるが征夷大将軍は鎌倉幕府が滅亡する1333年(正慶2/元弘3年)まで存在していた。鎌倉時代約140年間を通して9名の征夷大将軍が就任したが、源氏3代の後は摂家将軍2代、親王将軍4代が実権のない傀儡として細々と続いていた。
 鎌倉幕府最後の征夷大将軍は守邦親王である。前将軍久明親王の子であり、鎌倉幕府将軍の中で249カ月と在職期間が最長であったが、なんの実権も持たない形骸化された名目的な存在に過ぎなかったようだ。実際将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっていない。この小川町大塚八幡神社にはその守邦親王(ないしその庶子)の伝説「梅皇子伝説」が今なお語り継がれている。

    境内社・寅稲荷神社、天満宮、秋葉神社、天手長男神社、琴平神社、産泰神社(写真左)
           境内社・高良神社、高龗神社、新羅神社・稲荷神社(同右)
       
        
        名称 八幡神社の大ケヤキ(はちまんじんじゃのおおけやき)
 小川町指定天然記念物(1963312日指定)
 樹高 30m 目通り幹囲 5.0m 推定樹齢 不明
 八幡神社は元弘3年(1333年)年に創建されたと伝えられている。鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麗の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言い伝えがある。守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが八幡神社のはじまりであると言われている。
 八幡神社の大ケヤキは、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水がかれることがないと言われている。
        
                  拝殿からの一風景
 守邦親王やその庶子とも言われる梅皇子の伝承・伝説は真偽の程はわからない。但し大塚八幡神社が創建されたとする元弘三年(1333)以前からであることは確かである。上記「小川町の歴史 別編 民俗編」にも「境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた」との記述から、古代から信仰のある社が大塚地区には鎮座していたと推測される。
        
         旧郷社の格式でもあり、総鎮守に相応しい貫禄ある社である。
     

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成沢赤城神社

成沢赤城神社が鎮座する地域である『成沢』の由来として、熊谷市のホームページでは以下の通りに紹介されている。
「なりさわ」を「鳴る沢」から変化したとすると、水量の豊かな沢や谷のある地形から名づけられた地名と推測され、地図を見ると「成沢」には江南台地を開析する谷がいくつかあり、静簡院の北側や行人塚の北側は代表的な谷です。特に後者は板井付近から柴沼を経て運動公園へ続くもっとも大きな谷となっていて、途中にドカドカ橋(運動公園前)と呼ばれた橋もあり、水音が大きく響いていたことがうかがえる。
        
             ・所在地  埼玉県熊谷市成沢237
             ・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 お日待415日 天王様724日 お日待1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1245559,139.3454709,17z?hl=ja&entry=ttu
 成沢赤城神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を万吉氷川神社方面に東行し、コンビニエンスが右側に見える成沢交差点を右折すると、正面右側に神社の社叢が見えてくる。
神社の西側奥には会議所や子供の遊び場を兼ねた広い空間もあり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                 
成沢赤城神社 正面鳥居
 
     鳥居の手前左側には案内板あり        参道途中、右側にある三峰社
 赤城神社
 赤城神社の祭神は大己貴命・豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
 当社の神体は、金箔の木像である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで末社には、熊野神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
 古老の説によると、「本社の創立年代は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るもが多かった。」といわれている。
 なお、末社の熊野神社は本字の根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座のところ、明治維新の際赤城神社境内に移転したものである。
 末社の津島神社の大祭は、毎年七月二十四日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変にぎやかである。
                                      案内板より引用
        
                     拝  殿

 赤城神社 江南町成沢五四六-一
 当地を含む荒川中流右岸の辺りは、平安末期のころから上野国新田氏の所領で、貞応三年(一二二四)一月二十九日に新田義兼の妻新田尼から孫の岩松時兼に譲り渡され、以後新田岩松氏の所領となった。
 創建年代は明らかではないが、上野国との結びつきの深かった時代に新田氏の崇敬した赤城神社が勧請されたことが推測される。
 室町期の当地の状況を伝えるものとして、成沢氏と静簡院がある。成沢氏は「成田分限帳」に成沢藤三郎の名が見えるので知られ、当時忍城主の成田氏の家人であることから、この地域も成田氏の支配下にあったと見られる。また、静簡院は、深谷域主上杉憲盛の開基と伝え、憲盛は天正三年(一五七五)に没しており、このころは上杉氏の支配に属していたことがわかる。当時、この成沢氏や上杉氏によって当社も崇敬を受けたものであろう。
『風土記稿』には「赤誠社 村の鎮守なり、傍の庵室を赤城庵と号し、当社の進退をなせし」とある。これに見える赤城庵は修験と思われるが、詳細は明らかではない。文政十一年(一八二八)には、神祇伯の執奏により正一位に叙された。
 明治初年の社格制定に際しては村社となり、同じころに字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀した。
 内陣には、室町期作と伝える木造赤城大明神座像を安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿横には合祀社が鎮座                合祀社の並びに鎮座する境内社 津島神社
       
          社の西側にある会議所と共に
笠鉾・山車の倉庫もある。
 末社の津島神社の大祭は、毎年7月24日、江南地域の成沢にある赤城神社にて行われる「成沢の天王様」といわれる祭りで演奏される囃子である。囃子は、笠鉾・山車の曳き回しの際に行われていたが、現在は据え置き屋台での居囃子の形態で演奏されることが多くなった。祭囃子の種類としては、「鎌倉流五人囃子」といわれ、大人たちによる囃子のほか、多くの子どもたちが屋台に上がり、太鼓を打ち続ける姿は圧巻との事だ。
        
                              
成沢赤城神社・境内の一風景
 ところで成沢赤城神社から南に約300m位で、段丘方向(南側)進むと「行人塚古墳」があり、成沢交差点から南下する道路の西側林内にある。古墳であることを示す標識があるけれども,道路がカーブしているところなので,見落としやすい場所かもしれないので、注意は必要だ。
             
              道路沿いにある行人塚古墳の標識
   
   行人塚古墳は、道路に近い林の中にあった         古墳の案内板
 熊谷市指定記念物(史跡)
「行人塚古墳」
 行人塚古墳は面積500㎡、一辺が23m、高さ3.5mの方墳である。四隅に浅く残されている周溝には、古墳時代前期の竪穴式住居跡1軒が検出されている。
 住居跡からは古墳時代前期の土器類のほか、フイゴの羽口・鉄滓・台石・叩き石などが出土している。この住居跡が製鉄か鉄器製作にかかわる小鍛冶跡であることが推測される。
 平成273
月 熊谷市教育委員会
                                      案内板より引用
        
          
行人塚古墳の手前の高台附近に祀られている庚申塔

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樋春七社神社

樋春七社神社が鎮座する地域名「樋春」は「ひはる」と読む。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつである。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残していて、現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっている。
 明治5年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置した。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字ずつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均等に組み合わせて、「樋春」の地名と命名したという。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市樋春10231
             ・ご祭神 大日孁貴命 誉田別命 天兒屋根命 大山祇命
                  別雷命 大斗邊命 倉稲魂命
             ・社 格 旧樋口・春野原村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 215日 例大祭 1018日 新嘗祭 1126
             *例祭日は「七社神社沿革」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1330168,139.3487083,19z?hl=ja&entry=ttu
 樋春七社神社は埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線を東松山方向に進み、熊谷大橋を抜けて最初の交差点を左折し、右手にJA農協(ふれあいセンター江南店)の手前のT字路を右折すると正面左側に社叢が見えてくる。
 駐車場は神社の手前にスペースがある為、駐車をして参拝を行った。
        
                  樋春七社神社正面

      社の入口に立つ社号標柱                 社号額には「七社大神」と刻まれている。         
       樋春は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地に位置する地域
           今は一面水田が広がる長閑な風景が広がっている。
        
                    二の鳥居
        
                      拝  殿
 
 七社神社   江南町樋春一〇二三
 山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
 春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。
                                   「埼玉の神社」を引用

   
 
境内坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿          不動・御嶽山霊神等
        
             拝殿東側に祀られている稲荷社・手長神社
 拝殿東側には「手長神社」と並んで「稲荷社」の祠が祀られている。樋春北地域には通殿様と呼ばれる真光寺持ちのお堂があり、これは『風土記稿』樋口村項に見える「通殿稲荷社」の事という。明治24年(1909年)に宇四度梅原地区(うしどうめはら)から七社神社に合祀された「稲荷社」とは、この通殿稲荷との事だ。
                 
 樋春地区は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地が広がる地域である。本来川の近くにこの名を関した神社が鎮座している場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られていると考えるのが順当な線だが、一方でこの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。
『風土記稿』春野原村には「鍛冶屋舗」という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいた可能性も否定できず、通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 


 



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万吉氷川神社

万吉氷川神社が鎮座する地域は「万吉」と書いて「まげち」という。一風変わった地名だが、「万吉」という地名は鎌倉時代には既にあったようだ。
『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせ、権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰った。その名馬は権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたという。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまい、これを憐れんで馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としている。「○○郷」として記載されている所からも、それ以前から地域名として認識されていたと考えるほうが自然と考える。

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市万吉986
             ・御祭神 保牟田別命(誉田別命) 素戔嗚尊
             ・社 格 旧万吉村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 413日 新嘗祭 1124
                 *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1219334,139.3651518,17z?hl=ja&entry=ttu  
 万吉氷川神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を東側に進む。その県道起点である万吉橋交差点にて埼玉県道11号熊谷小川秩父線と交差し、右折するとすぐ右側に万吉氷川神社の鳥居が見える。
 鳥居の先で右側に「万吉第二集会所」があり、駐車スペースもある為、そこに駐車してから参拝を行う。
        
             東向きの参道。鳥居の手前には社号標柱
        
             鳥居の先には開放感のある空間が広がる。
 
      参道左側には案内板がある。           境内の様子
 氷川神社 
 当社は、「新編武蔵風土記稿」万吉村の頃に、「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と記載されているように、創建は古い。「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。
 明治初年の神仏分離により、見性院の管理下を離れた当社は、村社となり明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社とともにハ幡神社を合祀。本殿、拝殿、幣殿を新改築したが、昭和二十年八月十四日夜の熊谷空襲により焼失。戦後の経済困難の中、氏子各位の篤い浄財により昭和二十三年に再建され、現在に至っている。三間二間の切妻造りで、一間の向排を持ち、向排屋上には一対の唐獅子の置物が置かれている。夏の八阪祭をはじめとする祭典には多くの老若男女が参詣に訪れ、年々賑わいを見せている。

 平成三十年三月
 万吉地区文化遺産保存事業推進委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝  殿

        
                     本  殿 
 氷川神社  熊谷市万吉九八六
 万吉は既に鎌倉期から見える郷名で、貞応三年(一二二四)正月二十九日の新田尼譲状に「春原庄内万吉郷間事」とある。地名の由来については、牧の当て字とするもの、条里制に基づく牧津里から起ったとするもの、荒川に沿った曲り地がなまったもの、更にはマゲチはケチの転訛で、マケチのケチは立ち入ると不祥事が起こるとされるとするものがある。
『風土記稿』万吉村の項に、当社は「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と載る。これに見える「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。一の宮は、平安初期から鎌倉初期にかけて出現した一種の社格であることから、土人の伝えも当社の創建の古さを誇示するものと考えられる。別当見性院は天正年間(1573-92)の開山である。
明治初年の神仏分離により見性院の管理下を離れた当社は、村社となり、更に明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社と共に八幡神社を合祀し、現在に至っている。ちなみに移転前の社地は、字一本松と呼ばれる所で、その参道の入口は秩父・小川・熊谷線に面した友成士十家の前で、古くは幟立てがあり、ここから1㎞余りにわたって参道が延びていたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿左側に富士塚。傍らに祠もある。詳細不明。   社殿左側にはお狐様2体のみあり。
                             右側には三峰社か
 ところで冒頭にも記載したが、万吉氷川神社が鎮座している「万吉」という地域名は一風変わった名前だ。上記「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒にもその由来が書かれているが、ホームページにて「万吉地区文化遺産保存事業 調査研究報告会 」や「埼玉県地名誌」等で紹介されている「万吉」の由来について幾つかあげられているので、ここに記載する。
1 マキ(牧)の当て字から、マキ(牧)→マキ(万吉)→マゲチ〔埼玉県地名誌から抜粋〕
2 条里制に基づく牧津里の遺名から。〔埼玉県地名誌〕
3 マゲチは“マケチ”の転化ではないかと思われる。“マケチ”の“ケチ”は、立入ると祟り があるとされたところで、“マ”は接頭語である。
4 曲地の意味。つまり、曲地(マガリチ)が北側にも鳥居。
        
  東側の正面鳥居より小型だが、朱の塗料の落ち具合が逆に歴史の趣きを感じさせてくれる。


 万吉地区一帯は嘗て新田源氏岩松氏の所領であったという。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、南北朝時代、南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺でもある。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の一族である岩松家につたわる「正木文書」には、下野国足利氏の2代目当主・足利義兼には庶長子義純がいて、幼少期は父義兼と共に大伯父の新田義重に上野国の新田荘で養育されたという。義純は足利義兼の長男だが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させた。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗ることになる。
 ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなる。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗った。
 義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えた。新田岩松家の始まりである。そして新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、岩松氏が重忠の旧領である当地へ派遣され、万吉内に在住していたことが記されている。
但し足利義純が先妻の子を義絶したのであれば、本来岩松氏は新田庄内の数郷の領主でしかないはずで、平姓畠山氏由来の所領が存在することはありうるのであろうか。疑問は残る)
        
                  静かな境内の様子
 岩松氏は母系である新田氏を以って祖と仰いできたが、同時に父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇り、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
 南北朝時代、新田氏宗家は義貞と共に足利尊氏と敵対し没落するが、新田岩松氏は時世を読みながら巧みに世の中を渡りきり、結果的には「新田氏」を存続させたともいえる。
 

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