古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

明戸諏訪神社

        
                      
            ・所在地 埼玉県深谷市明戸504
            ・ご祭神 建御名方命
            ・社 格 不明
            ・例 祭 春例大祭 415日 秋例大祭 1015日 八坂祭 727
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2100705,139.2956778,16z?hl=ja&entry=ttu

 明戸諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸東」交差点を左折する。埼玉県道127号深谷飯塚線の緩やかな右カーブの道路を300m程進むと右側に明戸諏訪神社が見えてくる。社以外周囲は長閑な田園地帯が広がり、進行方向上やや左側に見えるこんもりとした社叢は、旧県社・楡山神社で、直線距離でも500m位しか離れていない。
 社に隣接する明戸西部自治会館兼社務所の前には、数台分停められる駐車場所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                  明戸諏訪神社正面入り口
               社は小山川右岸の徴高地に鎮座する。
        
                     鳥居正面
 
         社号標石               鳥居に掲げてある社号額
        
           鳥居を過ぎて参道右側には神楽殿と八坂神社あり。
 元々この社は「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。神楽殿の隣に鎮座している八坂神社は本来の地元で祀られていたが、現在は諏訪神社の境内の片隅で末社扱いとなってしまった。
        
                          参道途中右側にあった「諏訪神社」社号標
              嘗て鳥居前に掲げてあったものだろうか。
        
                                         拝 殿
 創建は、慶長十六年(1611)諏訪大明神を厚く信仰する上野国高岡村の田村外記・亀井宇丹の両名が、信濃国諏訪大社より神霊並びに神巻を拝受して当地に移住し、これを祀る祠を建立したことによると伝えられる。『風土記稿』によると、別当は当地の真言宗阿弥陀寺である。 開山は伝慶で、寛永六年(1629)の草創である。
 主祭神は、建御名方命で、かつては本殿に諏訪大明神の本地仏である普賢菩薩を祀っていたという。
 
        社殿左側に鎮座する境内社(写真左、右)どちらも詳細不明。
 
  社殿右側に鎮座する境内社 稲荷神社     稲荷神社正面に掲げてある「改修記念碑」

 明戸諏訪神社が鎮座する「明戸」地名は、熊谷市にも同名で「川原明戸」として存在している。熊谷市のホームページ(「熊谷市Web博物館」)では、熊谷に残る地名について紹介し、その由来について解説されている。
        
                            県道沿いに鎮座している明戸諏訪神社

 この「明戸」地名由来として、“川原明戸”と書いて“カワラクト”と呼ぶ。“明戸”は、昔“悪戸”と書いた。“アクト”は“アクタ”(圷)から出た言葉で、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたのであろう。その後、堤防の技術が進み人工の排水が行われ、耕作が出来、人々が住みつき、村を形成するようになった。そうなると悪字を用いる必要もなく、好字であり、しかも開発の意味もある“明”を用い“明戸”としたのであろう。〔埼玉県地名誌〕
 深谷市・明戸地区も熊谷市の川原明戸地区と同様な地形的な特性を持つ場所であったと考えられる。

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