古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上野台八幡神社


 深谷上杉氏は、室町幕府の役職の1つである関東管領となった山内上杉憲顕が、14世紀後半頃に、北関東で勢力を持っていた新田氏やその残党を抑えるために、六男上杉憲英を派遣したことに始まり、およそ230年間に及び、第9代上杉氏憲まで続いたという。
 初代憲英から4代上杉憲信までは深谷城に近い庁鼻和城(こばなわじょう)に居城を構えたことから庁鼻和上杉氏と呼ばれていたという。その後、古河公方と関東管領との抗争が激化し、管領方の有力武将であった深谷上杉5代房憲(ふさのり)は、より一層の要害として深谷城を築きその後氏憲(うじのり、生年不詳 - 1637年(寛永14年))までの5代が深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ぶ場合もある。
 深谷市上野台地区に鎮座する上野台八幡神社は、深谷上杉氏の家臣で、武蔵国榛澤郡上敷免の城主であった岡谷加賀守清英が、天文19(1550)に、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まるという。
             
                      ・所在地 埼玉県深谷市上野台3168 
                      ・ご祭神 品陀和気命
                                
・社 格 旧郷社     
    
             ・例祭等 例大祭 10月中の吉日を含む3日間 新嘗祭 1125
    
地図 https://www.google.com/maps/@36.1832041,139.2690748,16.5z?hl=ja&entry=ttu
上野台八幡神社は深谷駅の西側を南北に通る埼玉県道62号深谷寄居線を深谷駅の踏切から寄居町方向へ南方向約2㎞進むと右側道路沿いに鳥居が見えてくる。すぐ先にはコンビニエンスがあり、その交差点手前のT字路を右折すると正面には広々とした駐車スペースがある社務所もあり、そこに駐車して参拝を行う。人見浅間神社の北側で、直線距離でも1㎞満たない場所にこの社は位置している。
 
                     埼玉県道62号深谷寄居線沿いに鎮座する上野台八幡神社(写真左・右)  
         鳥居を過ぎるとすぐ右側にある案内板             東西に長い参道が広がる。
八幡神社
当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です。


 昭和五十三年一月   深谷上杉顕彰会
                                                                  案内板より引用

  一の鳥居を過ぎて、暫く参道両側には緑豊かな林が広がっているが、一転して広場のような空間となり、そこに社務所等が設置されている(写真左)。恐らくはこの広い空間で祭事等の行事が行われるのではなかろうか。その先に朱を基調とした、目視しても非常に目立つ木製の二の鳥居が見えてくる(同右)。
            
                              二の鳥居                                   
        
                     二の鳥居の傍らに岡谷加賀守清英を祀った祠。
                                石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」
                                「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉配」と刻まれている。
                   
                参道を進むと右側に御神木の大杉が聳え立つ(写真左・右)。
 
      二の鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫               御神木の先で参道右側には神楽殿          
                        
                                 拝 殿
 岡谷加賀守清英の主である深谷上杉氏は、山内上杉家4代目当主の上杉憲顕の6男・憲英が庁鼻和上杉を立てたのが祖とする。憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任命されている。分家の扇谷上杉家と共に武蔵国を治めるが6代目・上杉憲賢(1498年?~1560年)の代に北条軍との戦いである河越夜戦によって最後の当主である上杉朝定が戦死して扇谷上杉家が滅亡すると、北条家に降伏する。
 憲賢の息子である憲盛(1530年~1575年)は父が降伏してなおも、関東管領山内上杉憲政と結んで武田信玄と笛吹峠で対戦したり、同族の長尾景虎(上杉謙信)と通じて徹底抗戦を続けるが復権はならないまま1563年、北条軍に敗れて降伏した。しかし1569年、越相同盟の締結によって深谷城が上杉家に戻った事により憲盛は深谷城へ帰参。そして甲斐武田家が攻めてきた際には防戦し勝利する。憲盛は1575年に46歳で死去するまで上杉配下として貫いた。
 憲盛の息子である氏憲(?~1637年)の代では深谷上杉家は北条家に帰参している。氏憲は小田原征伐でも小田原城に籠城しているが、元配下の秋元長朝に裏切られて小田原城は開城。氏憲はその後小久保と姓を改め、信濃国にて隠居した。ここに名族深谷上杉氏は歴史の表舞台から完全に姿を消した。
 上野台八幡神社は元々榛澤郡茅場の地に鎮座していたが、この天正十八年(1590年)小田原征伐の際、皿沼城落城と共に一旦は当社は衰退した。その後正徳年中(十八世紀初頭)上野台村の地頭大久保家がこの地を寄進し移して現在に至っている。
        
                       拝殿上部に掲げてある立派な木製の社号標。
                   なんでも近隣に在住の方から寄付されたものだそうだ。
                 
       
                                      本殿(上写真3枚)
 因みに岡谷加賀守清英は深谷上杉家の三宿老の一人と言われていて、岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」という。
 *平成28年に本殿の修復工事を行った。
   
       拝殿左側には浅間大神の石標                      浅間大神の石標左側にある境内社・天神社
                          
                                                   本殿奥にある末社群。詳細は不明。
   拝殿右側にある境内社・台天白神社・ 天王宮           台天白神社等の右並びには、如幻庵東山稲荷社
 ところで境内社・台天白神社は「大里郡神社誌」によると以下の記述がある。
 末社臺天白神社本殿
 ・石宮流造間口一尺奥台行尺四寸安永元年(1772年)造営明治四十二年同所字天一白より移転
 ・(神話)旧来弓矢の神として衆庶の崇敬極めて深く又農作物の守護神として氏子崇敬者の信仰厚し。
       末社臺天白神社は小児の百日咳に霊験ありとて篠笛を納め来る賽客多し。
 この「大里郡神社誌」を詳しく読むとこの上野台地区の字名には「天一白」「大臺」「台前」「小台」という「大(臺)天白」を共通する地名が今だに残っているのも興味深い。現在でも「上野台」として地名の名残りとして残っているが、嘗て文字通りこの地域は「台(臺)」の地であったのだろう。
 また調べてから発見したのだが、「鼠」という地域もあり、興味がつきない。
            
                                          拝殿から参道方向を撮影
 この上野台八幡神社は10月3連休の土曜日から月曜日かけて例祭が行われる。上野台地区の鼠・上宿・下宿・小台・大台・桜ケ丘の六地区の屋台が奉曳され、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を夜間も含め3日にわたって渡御する神輿であり、悪魔払い福を招くと言われ、遷座の当初より行なわれていたという。神輿渡御は当時より、上野台の各字が年々交代に行う方法がとられていたようで、この交代制が今に続く「年番」という仕組みとなっている。
 例祭では他に、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「鼡‐深谷自治会連合会」HP
    「
Wikipedia」等

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飯塚太田神社

太田神社は旧大田村の総鎮守である。大正四年村民の総意により二十一郷社を合祀して此の聖地に勧請鎮座し奉った。爾来地区の守護神とし敬神崇祖の象徴として氏子の信仰篤く遍く神徳を施して今日に到った。
 創建以来八十年にたらんとする歳月と風雪を経て、社殿及び付属設備は老化損傷を来し予て改修を要望されていた。偶々本年は皇太子殿下御成婚の好機に際会し奉祝記念として屋根替工事等を実施するの議が盛上り氏子総代区長ら有志を以て改修委員会を組織し、直ちにその趣意を各区に伝え早急に全戸の理解と協讃を得て壱千二百余万円の寄進を申し受け着工の運びとなった、役員を始め氏子及び工事担当者の熱意と努力により短期間に見事な改修事業を完成し聳える甍の壮麗な社殿を中心に神苑諸施設も整然と修復され氏子の心に宿る尊厳と崇敬の至情が護持され高揚された事は実に意義深く慶賀の至りである。
 茲に記念碑を建て社殿修理の経緯を誌し神社と地区民の弥栄を祈り永く後昆も傳える。
 平成五年六月吉日
                            「太田神社改修事業記念碑」より引用

        
                            ・所在地 埼玉県熊谷市飯塚1431
                            ・ご祭神 大日孁貴命 木花開耶姫命 菅原道真公 別雷命 21 
                            ・社 格 旧大田村総鎮守・旧村社
              ・例祭等 1013 
  地図 https://www.google.com/maps/@36.2154096,139.3508295,16.17z?hl=ja&entry=ttu
  飯塚太田神社は国道407号を熊谷警察署交差点を北上し、「道の駅 めぬま」の交差点を左折し、暫く道なりに進むと丁字路に達する。その丁字路を右方向に進み、最初の路地を左折すると正面に飯塚太田神社の社葬が見えてくる。位置的には太田小学校の南西方向なので、その小学校を目印となる。
 周辺には適当な駐車場はないようなので、路上駐車し、急ぎ参拝を行う。  
       道路沿いにある社号標         社号標の先に真っ直ぐな参道が見える
「大里郡神社誌」によれば、大正三年六月三十日に大里郡太田村飯塚字飯塚前に817坪を新設し、社殿を新設し、全村にある大小神社を移設・合祀し、社名も太田神社としたとのこと。社としての歴史は決して古くはない。
 
      参道左側には神楽殿       参道沿いにある「太田神社改修事業記念石碑」
        
                                        拝 殿
 飯塚太田神社の地名「太田」の由来として、嘗てこの地には「太田氏」一族が移住していたという。太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む一派である猪俣党の末裔とも、旧埼玉郡北部や大里郡にその勢力を誇った私市党の後裔、また清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも、はたまた藤原秀郷流太田氏の末とも言われていて、その出自ははっきりしない。
 室町時代関東管領上杉扇谷氏の家宰であった太田道灌は通説では摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖と言われているが、一説によるとこの武蔵国大里郡太田村から発祥した猪俣党太田氏の後裔ともいわれている。
        

                                        本 殿
 猪俣党太田氏は幡羅郡太田村より起こったという。大里郡神社誌に「幡羅郡太田村に字高城城跡あり、太田六郎宗成が居住すと云ふ」と記述されている。
 猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり、武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族である。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里地域にその一党は勢力を伸ばし土着したと考えられる。
 
                        社殿の奥にある合祀社群(写真左、右)
「大里郡神社誌」によると、飯塚太田神社に合祀された二十一社の内の二社の神職は「天田氏」、「大井氏」であったことが記述されている。
・天田氏 山城国醍醐三宝院の修験なり富瑠輪山大乗院と号し(中略)、代々富瑠輪明神の別当たり。当山修験にて維新後復飾して天田貢内と改め神職となり、大正三年太田神社の社掌を拝命す。
・大井氏 大重院と号し、富山派の修験なり崎玉郡酒零村酒零寺の配下に属す(中略)。明治維新後復職して大井中と改め諏訪社の神職たりしが大正四年天田氏の死亡後太田神社の社掌を拝命す。
        
                  拝殿からの眺め
 富瑠輪神社の由来は要約すると『嘗て日本武尊が東征の折、この地を過ぎた時に「御保呂」を置かせたのを村人がこの「御保呂」を祀り、「保呂輪宮」と敬祭したのが始まりで、後年「富瑠輪明神」と改めた』と伝えている。つまり富瑠輪とは「保呂輪」=「ほろわ」であり、嘗て戦国時代に常陸の豪族佐竹氏が深く信仰したようで、関ケ原合戦後出羽に転封になった後は、出羽国保呂羽波宇志別神社を藩主が参詣し、これをまた厚く保護し信仰したという。
 更には関東・東北中心に数十の同名の「ほろわ」神社が存在する。この「ほろわ」神社は本来の信仰形態は山岳信仰であったようだが、羽生市駅の北側には「保呂輪堂」という名の古墳もあり、時代が下り、地方に広がった過程で本来の信仰形態から違った方向で信仰されたものと考えられる。
       
             入口付近にある「合祀記念碑」     その傍らにある「塞神」



 

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西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 ・所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 ・御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 ・社 格   旧村社
 ・例 祭   春季祭 (旧暦)215

                
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にしじょう」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

               
             埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

               
             鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、『大里郡神社誌』によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

               
                       拝 殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する自然堤防のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
   
                           


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





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中山加治神社

  飯能市は埼玉県の南西部に位置する人口8.2万人の市である。地形は山地、丘陵地、台地に分けられ、北西部は山地で、市域の約76 %を森林が占めていて、都心から50km圏内と近くにありながら自然豊かな地域といえる。南東部は丘陵地および台地で、北の高麗丘陵(飯能丘陵)と南の加治丘陵(阿須山丘陵)との間に発達した市街地は、入間台地と呼ばれる洪積台地上にあり、面積は約15㎢という。
 この加治丘陵と入間台地の境に位置する中山地区の緩やかな斜面上に中山加治神社は鎮座している。
所在地   埼玉県飯能市中山字吾妻台716
御祭神   高御産巣日命・神御産巣日命・菅原道真
社  挌   旧村社
例  祭   3月25日・春祭 9月29日・例祭 11月23日・秋祭

         
 中山加治神社は埼玉県道30号を小川町方面から南下し、埼玉西部消防署交差点のY字路を右折し、そのまま真っ直ぐ進むと道路沿い右側に一の鳥居が見えてくる。南北に入間台地から丘陵地に進む緩やかな勾配のある上り坂を進むと正面に二の鳥居、そして左側に広い公園があり、そこに梅の花がほのかに咲き始め、2月後半の参拝とはいえ、早春の気分を感じさせてくれる参拝となった。
           
                 道路沿いで北側にある中山加治神社一の鳥居
           
                   一の鳥居から真っ直ぐ進むと二の鳥居がある。

         二の鳥居の手前右側にある御神徳記(写真左)と加治神社の案内板(同右)

中山氏と加治神社
 伝承によると中山信吉の祖父にあたる中山家勝は上杉氏の家来として、北条氏との河越夜戦に敗れ中山に戻るとき、入間川の洪水に阻まれる。その時葦毛の馬を連れた老人に救われ、中山にたどり着く。老人は「吾は吾妻天神なり」と言い残し馬とともに、天神様の前で姿を消したという。
加治神社は、明治の初め、聖天社が改称された名称だと考えられる。その後、この伝承の残る天神様(天満宮)は、加治神社と合祀される。
 加治神社の現在の本殿は、明治40年頃智観寺の北にあった丹生神社が合祀されたときに移築されたものである。参道には寛永19年の石燈籠が六基並んでいる。中山信吉の嗣子中山信正が丹生神社中興にあたり寄進したもので、本殿とともに移転された。信正は丹生神社の祭礼にも力を注ぎ、中山村の隆盛に力を注いだ。
 加治神社は、中山氏の足跡を残していると同時に一時は中山町と称されていた中山村繁栄の一端を示している。    平成15年3月
                                                           案内板より引用

 案内板では、加治神社は慶長元年(1596年)、武蔵七党の丹党中山家範の家臣本橋貞潔が主君の遺命に奉じて天神社として勧請したという。武蔵七党とは平安時代末期から鎌倉・南北朝時代にかけて、武蔵国を中心に下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士集団の総称であり、必ずしも七党に限られたものではなく、横山・猪俣・西(西野)・野與・村山・児玉・丹(丹治)・綴・私市の九党が武蔵七党に該当する武士団として挙げられる。
 この武蔵七党の一派である丹党は宣化天皇の曾孫多治比古王の後裔と伝えられる。多治比古王が生まれたとき、産湯の釜に多治比 (虎杖=いたどり)の花が浮かんだことから姓を多治比と賜ったという。子の左大臣島(志摩)は丹治と改め、その子県守、 広足らは武蔵守に任じられ、やがて武蔵に土着するようになったという。俗にいう「丹党秩父氏」の起源譚だ。
 その後、時代が下り、秩父郡領となった武経や、その子武時は石田(岩田)牧の別当となり丹貫主を号し、その子孫は本家である大宮郷(現秩父氏大宮)を領有した中村氏を始め、古郡・大河原・塩屋・横瀬・秩父・勅使河原・新里・安保・青木・高麗・加治・肥塚・白鳥・岩田の諸氏が分家として発展し、武蔵国の主に秩父郡周辺と飯能市周辺に勢力を伸ばした一族だ。飯能という地名も丹党の一族である判乃氏が居住したとも言われる。またこの丹党が居住していた地域には丹生社が多く、丹一族の鎮守社との意味合いも深い。

             
           二の鳥居から緩やかな上り坂の参道を進むと正面に社殿が見えてくる。

 参道を進むと右側に社務所があり、社務所入り口付近の上部には「吾妻天神・加治神社」と書かれた木製の社号額が掲げられていた。

 加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、次男綱房は新里氏、三男成房は榛原氏、四男重光は小島氏、そして五男高麗経家の次男である家季が加治氏を称したとされる。この家季は元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死し、その後その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため飯能市元加治にある円照寺を建立したという。
 つまり加治氏が飯能市元加治を本拠地とした時期は、家季が加治氏を称した時からその子家茂が円照寺を建立した間となろう。
             
     参道の先にある社殿。また参道には寛永19年丹党中山信正が寄進した6基の石燈篭がある。
           
                              拝     殿

 縁起に云、天文20年川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文15年なるを20年と云は、縁起の年代をあやまれり。
                                                   新編武蔵風土記稿より引用

         拝殿に掲げている社号額                     本     殿

 現在の社名は加治神社ではあるが、近郊の人々は古くからの名前を尊び、また親しみを込めて「天神様」、そして古くからの呼称を知っている人は「吾妻天神」とも呼ぶ。加治神社が鎮座する地は「吾妻台」と呼ばれているが、この「吾妻」の語源を考えると「稲妻」=「雷神」ではなかったのではないかと考えられる。
 雷神信仰として有名なのは京都の「加茂別雷神社」「加茂御祖神社(下鴨神社)」の2社である。御祭神は加茂別雷大神、玉依姫命(加茂別雷大神の母)と言われているが、関東地方周辺に広がる雷神信仰はそれとは違った形態と思われ、遥か昔からの民間信仰から自然発生的に生まれた信仰であったと思われる。
 群馬県板倉町を総本山とする「雷神神社」は関東を中心に約80の分社があるが、「雷」の付く神社の鎮座地は、いずれも落雷多発地域であり、社地が自然堤防上の微高地や氾濫原など河川や湖沼沿いにあるという共通点がある。御祭神は火雷・大雷・別雷大神であり、この神々は雷を支配する神であり、荒魂・和魂双方の性格を有する。荒魂としては、雷の威力によって降水をもたらすと同時に病害虫を駆除する農業神として崇められ、また和魂としては恵みの雨をもたらし、万物に生気を与える神である。特に関東では雨乞いの神として崇敬者を集めているという。
 俗にいう天神信仰は、現代では菅原道真と結びついて菅原道真=天神様=火雷天神という形で畏怖・祈願の対象とする神道の一信仰形態となっているが、元々の「天神」とは地主神である「国津神」に対する「天津神」の総称であるという。天神の起源に関しては通説といわれる前出の記述とは違う考察を筆者は考えているが、長くなるのでここでは敢えて省く。とにかくこの天神信仰は江戸時代に菅原道真と結びついた後に神格が変化し、日本全国に波及し、天神=菅原道真=学問の神・雷神という図式となったわけだ。

 天神信仰は、民間伝承による雷神信仰の起源ほど、時代は古いといわれている。加治神社に伝わる話はそのうちどちらであろうか。新撰武蔵風土記稿では天文20年(1546年)の川越夜戦を加治神社の創建時期を明記しているが、筆者の考えは、何となくボンヤリではあるが、この説話は丹党加治氏がこの地を治めた時期よりも遥かに古い伝説のような気がしてならない。
                
                              本殿内部
 武蔵七党・丹党は秩父地域から名栗川・入間川に沿って進出し、飯能市・入間市方面まで移住先を伸ばした。しかしそもそも丹党加治氏は何故この入間・飯能市方面に移住先を決めたかのか。この加治丘陵の地層にヒントは隠されていた。
 加治丘陵は入間川のつくった台地と多摩川がつくった台地の間に半島状に突き出したもので、その地質は下位よりの更新世の浅海にたまった飯能れき層、仏子粘土層そして河川堆積物の金子礫層とローム層から出来ていて、関東ローム層(火山灰・粘土層)を上部に、第三紀・樹木化石を含む地層があり、第四紀・礫層は砂鉄の含有が多いと言うことが調査の結果判明しているようだ。残念ながら現在においても飯能市市内には製鉄の遺跡等は確認されていないようだが、加治氏(鍛冶氏)が採掘・選鉱・錬金・たたらの方法などを熟知していた一族で、良質な砂鉄が出土するこの地を移住先に選んだのであろう。

            
                           社殿の奥にある境内社
                三十番神社、三峯神社、八坂神社、愛宕神社、琴平神社

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渡瀬木宮神社

 武蔵国の北辺に位置する賀美郡は地形上利根川や烏川、または神流川を隔てて上野国との繋がりが古来より頻繁な地域であり、神川町もまたつい最近まで神流川を中継して鬼石町との交流が盛んな地域であったようだ。この神流川流域の狭い空間にある古社(金鑚神社、鬼石神社、土師神社、丹生神社、木宮神社)には共通した文化圏を形成していたと思われ、その関連性も注目される。
 神川町渡瀬地域にはこの木の神である句句廼馳神を祀る木宮神社が鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡神川町渡瀬737
御祭神    句句廼馳神
社  挌    旧村社
例  祭    4月中旬の日曜日 渡瀬の獅子舞  10月14日 木宮神社座祭

       
 渡瀬木宮神社は埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町から藤岡市鬼石方向に南下し、渡瀬郵便局の先にホームセンターが左側にあり、その道路を挟んで右側に鎮座している。但し道路沿いにあるのではなく、民家のすぐ西側に鎮座しているし、道も狭い。駐車スペースも十分確保されていないので、ほぼ横付けして急ぎ参拝を行った。
           
                          南方向にある一の鳥居

   一の鳥居の手前で左側にある石祠、石碑群。      一の鳥居の手前ですぐ右側にある社日。

 この渡瀬地域は三波石の産出地である鬼石町三波石狭に近く、渡瀬木宮神社境内にも多くの石碑等がある。この三波石狭は,藤岡市南部,神流川中流の下久保ダムから下流約 1.5kmの間の渓谷。緑泥片石に石英の白い縞模様のある三波石の大転石が河床に重なり合って美しく庭石に利用されている。国の名勝・天然記念物に指定されている。

 一の鳥居付近のある大きな石碑(写真左)。何と彫られているか不明。また境内参道途中の右側には「猿田彦命」と彫られた石碑(同右)もある。どちらも石碑の上部が削られている形跡がある。
           
               「猿田彦命」の石碑の先にある「渡瀬の獅子舞」の案内板

渡瀬の獅子舞       昭和62年3月10日  町指定民俗資料
 渡瀬の獅子舞は、稲荷流といって藤岡市の大塚から、200年程前に伝授されたという。
 その昔、渡瀬に流行病があった時に、厄払いとして松山稲荷に獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられ、当時は長男に限られていたが、現在は特に制限されていない。
 獅子舞は、春祭(4月中旬)、秋祭(10月中旬)に木宮神社でおこなわれるが、八坂神社の例祭(7月下旬)にも奉納される。
 獅子は、黒獅子・赤獅子・青獅子の三頭で、その外に、花(?)・ひょっとこ・カンカチ・天狗・花万灯持ちの役割がある。(中略)
                                                          案内板より引用
           
                         「民俗資料 座祭」の舞台
           
                          木宮神社座祭の案内板

木宮神社座祭    昭和35年3月1日 県選択無形民俗文化財
 木宮神社座祭は、木宮神社で10月14日に行われ、県内はもちろんのこと、関東地方においても類の少ない古式の祭である。 
 座祭は、渡瀬の草分け百姓と伝えられる32戸の旧家が本家筋と分家筋の二つに分かれ、それぞれ一戸ずつが組みを作り、都合16組が1年交代で頭屋を務めて行われる。この場合に本家筋を「真取り」といい、分家筋を「鼻取り」という。
 座祭は、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に須藤新兵衛が仲田弐反歩を奉納して、ここから採れる神米で祭を賄ったことに始まったと伝えられている。
 また延享3年(1746)の座席図によると、この頃には32戸が座祭に関係していたことがわかる。
 座祭の当日は、「座奉行」が一切を取り仕切り、拝殿に対して「一の座」、左側に「二の座」、右側に「三の座」の三つの座が設けられ、それぞれの座には、中央に「本座」があり、稚児により順次御神酒・赤飯が給付される。祭の最後には、新旧頭座が中央に対座し、引渡しの儀式を行い祭の全てを終了する。
                                                           案内板より引用

 案内板に書かれている「須藤家」は神川町渡瀬地区に多く存在する。須藤家系図に「永享十二年須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、また児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す。慶長年間に至り、須藤安左衛門は同社に神田二反歩を寄進す」と案内板とは違った名前(須藤安左衛門)で登場する。もしかしたら同じ人物であった可能性もある。

            

                             拝      殿
           
 木宮神社の拝殿上部に掲げてある社号額はこの地の実業家である原家の別荘に来訪した伊藤博文の書である。龍宝寺安政四年三ツ具足寄附に原太兵衛。明治二年五人組帳に年番名主原太兵衛・組頭原喜十郎・組頭原庄作。明治四年戸籍に原喜十郎・原庄作・原治平・原浪太郎。太兵衛の子原善三郎(文政十一年生、明治三十二年没)は実業家にて、貴族院・衆議院議員を歴任したという。その縁故で、この地に伊藤博文が来訪したその際に書かれたものだろう。
           
           
                             本      殿

         社殿の奥にある境内社                 社殿の左側に並んだ境内社群

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