古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

人見浅間神社

 深谷市の中部から南部にかけては荒川によって形成された櫛引台地が存在する。海抜約50mから100mにかけてのなだらかな台地だが、その北端に仙元山が存在する。この仙元山は6,340万年前から260万年前の第三紀層の残丘と言われ、長年の断層運動や河川の浸食によって周囲から取り残され孤立した丘と言われている。
 この周囲から突出した仙元山は古くは人見山とも言われ、
古来からの霊地であったという。 伝説には、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがある。仙元山という名前は山頂付近に人見浅間神社は鎮座している関係でつけられた名前とも言われている。
 
現在では仙元山周辺は仙元山公園として綺麗に整備され、陸上競技場、野球場、 テニスコート、多目的グラウンドなど、多数の屋外スポーツ施設の他、遊園地も併設されているレジャースポットとして、深谷市内外の人々も多数利用され、憩いの場所になっている。
所在地   埼玉県深谷市人見1404
御祭神   木花開耶姫命
      (合祀)伊邪諾命 伊弉冉命 大物主命 倉稻魂命 別雷命 建御名方命
社 挌      旧郷社
例 祭      10月19日 新嘗祭 (秋祭)
         
             

人見浅間神社は深谷駅の南側約2kmの所に仙元山があり、その山頂に鎮座している。埼玉県道62号深谷寄居線を深谷市から南方向に真っ直ぐ進むとほぼ前方に平たな小高い緑の丘があり、そこに向かって進めば大体間違いなく仙元山に到着することができる。ある意味仙元山は深谷市の中で一番解りやすい目標地点の一つともいえる。
 人見浅間神社専用の駐車場はないので、千元山公園内の運動場の駐車スペースは広く確保されているのでそこを利用して参拝する。
 


                    
               浅間神社正面参道にある一の鳥居
 
   一の鳥居の手前右側にある社号標           左側には案内板
浅間神社
 仙元山の頂上にまつられ、祭神は木花開耶姫命ほか六神である。古来より安産守護神として遠近の人々の信仰をあつめてきた。
 この社の創立は不詳だが、この地の豪族、大夫四郎家守が境内に建てた宝篋印塔の延文二年(1357)の彫銘により、南北朝時代にはすでに存立していたと思われる。
 室町時代、この神社は人見館(上杉館)の鬼門に位置していたので、館鎮護としてまつられた。深谷城を築造した上杉房憲は、南麓に昌福寺を開基したが、四代後の氏憲もこの社を崇敬し寄進状の中の富士山とは当社のことである。
 
江戸時代、元和元年徳川秀忠の近臣岡田太郎右衛門利永がこの地を領し代々この社を崇拝し、社殿などを寄進した。


        
             額には「富士山」と書かれた二の鳥居
             
          
          雨に濡れた社殿風景。社はこのような景色もまた良い。      
         
                      拝   殿
浅間神社の由来
 浅間神社は、深谷駅の南方2kmに位置する標高98mの丘陵型ミニ森林公園・仙元山の頂上にあり、 緑豊かな環境に囲まれて自然と共存する由緒ある古社です。
 創建年代は不詳ですが、南北朝時代にはすでに存在したようであり、また、縄文時代の昔から眺めの良い場所や水の湧く場所などは聖地として崇められ、 それが後代神社になった例もあるため、霊山としての起源は相当古い昔に遡る可能性があります。
 御祭神は、天孫「ニニギの尊(みこと)」の妻で、海幸彦と山幸彦の母の「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」であり、 ほかに6柱の神が祀られています。
 古くから安産の神として、近在ばかりか相当遠くの人たちの厚い信仰を集めて、安産講の組織も存在したと言われ、また、 養蚕守護の御利益もあったといわれています。
 人見館(上杉館)の鬼門に位置したため、室町時代は館鎮護の役割を果たしたようで、平家物語の一の谷の合戦に源氏方で登場する「人見四郎」、 その子孫で、太平記の赤坂城の合戦に73歳の高齢の身ながら白髪を染めて出陣した同名の人見四郎も、この地の出身の可能性が高く、 今でも仙元山の近くに史跡・人見館跡が保存されています。
 鳥居の神社名を記した文字は、昭和9年に皇太子として誕生された現在の平成天皇のご誕生記念として、当時の文部大臣、鳩山一郎が謹書したものです。
                                    仙元山公園 ビッグタートル ホームページより引用
             
                                                                      本     殿


                  社殿左側にある二柱神社の由緒の案内板          二柱神社
二柱神社由緒
「聖天様」の名で親しまれている二柱神社は、もと字瀧ヶ谷戸ほか大字人見内の各所に祀られていたいくつかの同名の小社を合祀して、明治四十年にこの地に遷座したものです。社名の由来は、御祭神に伊弉諾命・伊弉冉命の夫婦二柱の神を祀ったことによるもので、夫婦和睦また縁結びの神様として信仰されて来ました。二柱の神は、浅間神社の御祭神の木花開耶姫命から見て、祖父母の神様になります。
 ここに伊勢の神宮御鎮座二千年の吉き年に当り、安産等の神として長い歴史を持つ本社の浅間神社と並び、末永くこの地に栄え、氏子崇敬者の子々孫々までに御加護と御恵みを蒙りますように、社殿を新たに造り替え、由緒の概略を記すものです。
 平成8年2月19日
                                                      案内板より引用
 



平家物語や太平記に登場する武州の人見四郎という名の武将は、当地の出身と思われ、近くに人見氏館跡が保存されている。 
 
人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわわまさつね) がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。その子行経は寿永3年(1184年)の一の谷合戦で活躍、建久元年(1190年) 頼朝上洛の際に随行もしている。子孫は、鎌倉幕府の御家人として活躍していて、中でも人見四郎は元弘3年(1333年)2月に楠木正成が籠る河内赤坂城攻めに参戦し、壮絶な死を遂げたことで有名な武将である。
 こ
の人見氏の本家筋にあたる猪俣氏は、猪俣党とも呼ばれ、 武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり武蔵七党の一つ。小野の末裔を称す横山党の一族であった。
 
ところで猪俣氏は小田原北条史料に「猪俣能登守は、天正七年まで富永助盛と称す」と見られるように本名は「富永氏」であったようだ。

富永 トミナガ 那加(なか、なが)の那は国、加は村の意味で、登美族の渡来集落を富永と称す。
猪俣氏の本名富永氏 
 能登守助盛は猪俣城主となり、猪俣氏の名跡を継承して猪俣能登守邦憲と名乗る。弟に富永勘解由左衛門助重(清兵衛)あり。猪俣文書(本名富永氏)は東京大学史料編纂所が所蔵す。猪俣文書に「三月十四日(天正六年か)、向多留致伏兵(赤城村樽)、城主始牧和泉守次男数多討捕由、対安房守氏邦注進状、富永能登守殿(後の猪俣邦憲)、氏政花押」。「天正七年六月十日、猿ヶ京番衆(新治村)へ可申越旨云々、富永能登守奉之」。富永清兵衛覚書(猪俣文書)に「加リ金の城主倉賀野淡路守殿、是へ働之時、清水と申す観音堂焼申時、我等参やき候へば、敵観音堂迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓に相たうをは焼はらい申候事、同日の晩に惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くみ申所へ我等馬を乗入、鉄砲に中申候。滝川合戦に而、安房守様御供申、御眼前に而高名二つ仕候事」。富永清兵衛は富永勘解由左衛門助重と称し、兄富永能登守助盛は猪俣能登守邦憲と称す。
                                                埼玉苗字辞典より引用



美里町猪俣は地名から窺えるとおり猪俣党の本拠地であるが、この根拠地を中心にして周辺に勢力を伸ばした。関連氏族は「猪俣氏」「人見氏」「男衾氏」「甘糟氏」「岡部氏」「蓮沼氏」「横瀬氏」「小前田氏」「木部氏」など。
 
男衾郡の延喜式内社の一つである「小被神社(おぶすまじんじゃ)」の由緒は「安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠ったことに始まる。」と書かれていてここにも「富田鹿」という「富」姓をもつ在地の豪族が近隣に存在していて、猪俣氏と関連性があるのではないかと思われる。
 このように「人見」は猪俣党出身の一族がこの地に移住して開発した地であり、またこの猪俣党の本来の姓は「富永、富姓」と思われることから「人見」の本当の名前は「日+富」ではなかったのではないかと現時点で推測される。

*「日」の根拠として考えられることは、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがあり、古来から地方の霊山として神聖視されたというところから、「日」=祭祀の象徴であると思える。
 また猪俣氏の根拠地である美里町から仙元山は、丁度「東側」の方角であり、「東」=「日出づる場所」とも考えられていたのではないだろうか。



 

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上新田諏訪神社

「諏訪神社本殿」は、当地の代官であった柴田信右衛門豊忠によって延享3(1746) に創建されたと伝えられ、その後、嘉永5(1852) に再建されました。創建時の棟札によると、「歓喜院聖天堂」の造営に深く関わった三ヶ尻村出身の内田清八郎が大工棟梁となり、上州花輪村出身の石原吟八郎が彫刻を担当しました。また、林兵庫正清が細工の意匠に関わる他、彩色は聖天堂と同じく狩野金信が施し、高い技術力を発揮しました。檜皮葺の屋根は信州松本城下の太田松右衛門などに委ねられ、いわゆる当時の日本を代表する技巧派集団によって本殿の建立がなされたことが分かります。
 本殿の構造は、間口1.47m、奥行2.27mの欅造による一間社流造で、屋根の下には三角の形をした千鳥破風、軒の下には上部が丸く形作られる唐破風を付け、正面には屋根が張り出した向拝を設けています。現在、彩色の多くが薄れていますが、各所に施された人物や動植物の装飾彫刻から放たれる雰囲気が際立ち、実際の規模以上の風格を感じることができます。
                                                   「熊谷市文化財日記」より引用

                 
               ・所在地 埼玉県熊谷市上新田227 
                    
・ご祭神 建御名方命
                    ・社  挌 旧村社
                    ・例祭等 例祭 1017
  

  上新田諏訪神社は熊谷市の荒川南岸、上新田地区に鎮座している。埼玉県道47号深谷東松山線と埼玉県道81号熊谷寄居線が交差する押切橋交差点を東側、つまり旧川本町方向を約500m位進むと左側にその社叢が見えてくる。ただ社殿は南側に向いているため、この道路に対して背をむいている。その為社殿正面に着くためには少し遠回りする必要があり初めて参拝する人は事前に地図等での確認は必要だ。
 
駐車場は、境内に上新田集会所があり、その手前の駐車スペースを利用し参拝を行った。
                       
                            上新田諏訪神社正面参道
 参道には荒川の川石を全面に敷き詰めているものと思われる。また鳥居の前にも参道の両側に大きな川石を2個利用して門のような形状となっている。何となくその配置状況が面白い。
                 
               参道の左側にある諏訪神社社号標                  案内板

諏訪神社    所在地  熊谷市上新田
 諏訪神社の祭神は建御名方命である。
 創立年代は不詳であるが、本殿は延享3年(1746)に柴田信右衛門豊忠が再建し、明治28年に修理したものである。拝殿は寛保2年(1742)に建立されたが、昭和41年の台風により倒壊、直ちに改築に着手し昭和42年に完工した。
 末社には女諏訪神社、天神社、琴平神社があり合祀されている。
 大祭は毎年10月17日であるが、前夜祭は、拝殿に一対の大きな御神灯(提灯)がつけられ、参道には各氏子の御神灯が並び、一斉に火が灯され壮観そのものである。
 最近まで、地区内を山車(だし)が屋台囃子(やたいばやし)もにぎやかに練り歩き、神楽を奉納し、この地の無病息災を祈願したもので、今でも屋台囃子を永久に保存しようと努めている。
                                                                         案内板より引用
            
                                                       
静かに佇む境内
             
                                
 拝 殿
            
           
拝殿向拝柱の水引虹梁には細やかで精巧な彫刻が施され、素晴らしい。 
              木鼻部位にも精巧な彫刻が施されている(写真左・同右)
             
                       覆堂内にある見事な本殿の案内板
               一間社流造 正面千鳥破風付 向拝軒唐破風 桧皮葺
 壁面のみならずほとんどの部分に彫刻が付けられ、さらに、柱・長押・頭貫から丸桁にいたるまで地紋彫が施されている。
現在、彩色の多くが薄れているが、各所に施された人物や動植物の装飾彫刻から放たれる雰囲気が際立ち、実際の規模以上の風格を感じることができる。
 
                     社殿の手前左側にある境内社(写真左・右)。
         由緒書きでいう琴平神社・天神社(写真左)、女諏訪神社(同右)であろうか。

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池上古宮神社

当社は、『風土記稿』に「岩倉社」と載り、また幕末に掲げられた社号額には「古宮神社・岩倉大明神」と書かれているように、古くは岩倉社、又は岩倉大明神とも称していた。
 岩倉とは、磐座(いわくら)で、磐は堅固の意であり、神の鎮座する所を表している。これは、神が社殿に祀られる以前の状態を示し、当社の創祀が古いことを物語るもので、古宮と呼ばれる由縁であろう。
                                                       「埼玉の神社」より引用

                 
               ・所在地 埼玉県熊谷市池上606
                          ・ご祭神 石凝姥命 少彦名命 武甕槌命
                          ・社 挌  旧
池上郷総鎮守・旧村社


                              ・例祭等 例大祭 829日 新嘗祭 1123
 熊谷市池上地区に鎮座する古宮神社は上之村神社の東側に鎮座していて、国道17号バイパスを熊谷、行田方向に進み、上之(南)交差点を左折して2,3分位進むと左側に鎮座している。駐車場は境内に池上集会所がありそこに駐車スペースがあるのでそこに停め参拝を行った。  
            
                                                  道路沿いに鎮座する池上古宮神社               


古宮神社
御祭神
石凝姥命(いしごりどめのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
由 緒
 社傳に當社は紀伊國日前國懸神宮より石凝姥命を勧請し長寛二年はじめて社殿を造立す 當初岩倉社と稱し文安二年少彦名命、武甕槌命を相殿に祀り拝殿を建立 江戸期に入り京都吉田家より古社の故を以て古宮神社の社號を賜はる 古来婦人守護子育守護の信仰あり

                                                           案内碑文より引用
         
                       古宮神社二の鳥居 「岩倉大明神」と記載
 この地区は荒川の扇状地先端に位置し、伏流水の湧き出る地域で、地名の池上はその遊水池に由来する。創始の時期は、詳らかでないが、当初は社殿を造らず長寛二 年(1164)に初めて社殿を造営したと伝える。社伝によれば紀伊国日前國懸神宮より石凝姥命を勧請し、岩倉社と称した。その後、寛喜二年(1230)成田助広こと池上藤兵衛が当地に居住し、当社を深く崇敬して、池上郷総鎮守と仰がれた。
         
                  池上古宮神社参道
              静かな中にも威厳を感じさせる社。  手入れも行き届いていて、気持ちよく参拝できた。                                
                                  社殿の手前左側にある境内社(写真左、愛宕・天神・靖国社)
 

             境内社、愛宕・天神・靖国社の奥にある境内社 稲荷神社(写真左・右)
              
 
                境内社・稲荷神社の奥に聳え立つご神木(写真左・右)


          
                                                                       拝 殿



 池上は、中世埼玉郡の内にあった池上郷の遺名である。池上郷について詳細は不明であるが、当地が荒川の扇状地内に存在し、下流に当たる部分に低地帯が広がっていたため、大昔には荒川は当地の下で、しばしば、その流路を変えた。このため、流れの跡には数多くの池が生じていた。池上の地名はこの辺から付けられたものであろう。
 当社は『風土記稿』に「岩倉社」と載り、また幕末に掲げられた社号額には「古宮神社・岩倉大明神」と書かれているように、古くは岩倉社、又は岩倉大明神とも称していた。
 岩倉とは、磐座で、磐は堅固の意であり、神の鎮座する所を表している。これは、神が社殿に祀られる以前の状態を示し、当社の創祀が古いことを物語るもので、古宮と呼ばれる由縁であろう。
 社家である茂木家の記録によると、当社は、古代に、現・和歌山市秋月にある旧宮幣大社日前国懸神宮を勧請したもので、初めは社殿は造らず、新たに社殿を造立したのは、平安末期の長寛二年(一一六四)一月であるという。祭神は、天岩屋戸の段に、鏡を作って天照大神を慰めた石凝姥命である。なぜ、和歌山に祀られ鏡作部の遠祖とされる同神が、この地に勧請されたか不明であるが、埼玉地方は、武蔵国の古代文化の中心地の一つであり、近くには金錯銘鉄剣で有名な埼玉古墳群があることなどを考え合わせると、当地に神部(鏡作)ゆかりの人たちが住み、当社を祀ったとも考えられる。
 更に、茂木家の記録によれば、鎌倉期の寛喜二年(一二三〇)に当地方の名族成田助広が当地に住み、池上藤兵衛と称して当社を厚く崇敬し、社殿を再建してその規模を大きくし、以来、当社は池上郷総鎮守と仰がれるようになった。
 その後、当社に対する信仰は高まり、これを受けて室町期の文安二年(一四四五)五月五日には、相殿の神として少彦名命と武甕槌命を勧請した。また、当地の神主茂木大膳は、京都石清水八幡宮に奉納された獅子舞を拝観して感ずるところがあり、これを習得して帰り当地に伝えた。以来、この獅子舞は今日まで続けられている。
 江戸期には、当社の信仰は江戸市中まで広まった様子で、寛政七年(一七九五)九月には、当所の村田辰右衛門と江戸浅草三筋町の夏目大八とで、社前の敷石五〇枚を奉納している。社頭いよいよ盛んになった安政二年(一八五五)二月には神祇管領より「武蔵国埼玉郡池上村古宮神社・岩倉大明神」と記した幣帛が調進されている。

                                                         「埼玉の神社」より引用
            
                          
本殿奥にある塞神や石碑
        
 
                                 社殿からの風景


 ところで古宮神社には市指定無形民俗文化財である池上の獅子舞「疫神祭」が行われ、室町時代からの伝統である舞を披露しているという。

「熊谷市指定無形民俗文化財 池上獅子舞
 池上にある古宮神社に伝わる獅子舞は、室町時代に神主の茂木大膳が、京都石清水八幡宮で目にした獅子舞に感銘を受け、当地に伝えたものといわれています。
 この獅子舞は、三頭の獅子と「めんか」が一組となる勇壮な舞いで、神社の祭り行事として、「悪疫退散」「五穀豊穣」「家内安全」などの祈願のほか、「雨乞い神事」にも舞われてきました。
                                                        「熊谷市HP」より引用

                                                                                        


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帯刀 菅原神社

 上里町帯刀地区の「帯刀」の地名の由来は古く、平安時代末期まで遡る。
 源 義賢は、平安時代末期河内源氏の武将で源為義の次男。源義朝の異母弟にあたり、源義仲(木曾義仲)の父である。保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では義朝に代わって河内源氏の嫡流を継承する権利を有していた人物だった。
 その後父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下り、上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵に館を構え、近隣国にまで勢力をのばしたが、久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。
 
上里町帯刀地区の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。そんな地名の由来の意味会いを感じながら厳粛な気持ちで菅原神社の参拝を行った。
所在地   埼玉県児玉郡上里町帯刀235
御祭神   菅原道真公、武夷鳥命、火雷神
社  挌   旧郷社
例  祭   3月25日  例大祭

       
 帯刀菅原神社は長浜地区にある長幡部神社から北東方向約1kmの場所に鎮座している。この地域では珍しい神明系の社で、旧郷社という社挌に不釣り合いなほど立派だ。古社独特の社叢に囲まれた雰囲気はなく開放的で、境内も良く整備されている。また駐車場も完備されており、厳粛な気持ちの中での参拝ではあったが一方では気持ちよく行うことができた。

       (旧)郷社菅原神社の社号標                                                  案内板
           
                    大鳥居。また綺麗に参道も舗装されている。
 帯刀菅原神社の創建は延喜5年(905年)で、延喜3年(903年)、菅原道真公の没後、陰陽博士(おんようはかせ)である紀友成(きのともなり)は、道真公の御意を全国に広めるために、全国行脚の旅に出たという。そして、延喜5年(905年)に、友成公は、当村に立ち寄られ、道真公の絵姿を与え、村内に道真公を祀る小さな祠が建てられたという。そして、神代の神々より武夷鳥神、火雷神をお迎えし、現在の形となったとする。その後、幾多の興廃を繰り返し、新田義貞が挙兵された際は、社殿をも焼失してしまうこともあったが、それも村民の力によって再興されている。

 この由来から考えると、延喜5年(905年)創建という時代の真偽はともかく、菅原道真の絵を祀る前の元々のこの社の祭神は武夷鳥神、火雷神の2柱だったのだろう。火雷神も京都府加茂に鎮座する賀茂別雷神社の神を勧請したものではなく、板倉雷電神社系の素朴に雷の猛威に対する畏れや、稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対するこの地域に住んでいた人々の信仰から生まれた昔からある地主神ではなかったろうか。
           
                               拝    殿

 菅原神社の社殿の奥には古墳(直径14mの円墳)がある。元々この帯刀地区には小円墳が多数あり、帯刀古墳群を形成しているという。この帯刀古墳群は関越道上里SA南方の台地上に分布していて、32基以上の古墳からなり6世紀中葉から7世紀にかけての築造と推定されている。菅原神社の奥にある古墳は菅原神社古墳いうが、墳頂に社殿を構えていない。古墳の規模が小さすぎたためか、それとも大昔の一族の墓の上に神社を築造することを末裔として憚ったためなのだろうか。

 

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神保原 石神社

 古の日本人は天、海、大地、山など、荘厳な自然の中に神を見出していた。俗にいう「八百万の神」という自然物や自然現象、思考、災い、人物、創造主、王権などを神格化し「多くの神様」を祀ってきた。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。
 石信仰も自然崇拝の一つであり、石や岩に心霊が宿るという信仰で、磐座(神社が建築されるより前の時代、山や木、石などの自然物を、神の依り代として祀っていた。その名の表す通り、「磐=岩」「座=座席の座」で、神の座る岩である)、磐境(神石の上に神が顕れる。その点では「磐座」と同様、依り代的な役割)、そして石神の大体3種類に分かれるという。
 古代日本人の死生観として、魂(タマ)は海のかなたにある他界からやってきて(生)、他界へ去ってゆく(死)というものがあった。タマが流動的だと考えられていた。人の体もともとタマ(魂)の入れ物と考えられていた。石もタマの入れ物・宿る物として考えられていたのだ。
 そういう意味において古代日本の石信仰は物理的な「個」を祀る信仰には違いないが、その根本には精神的な「魂」にも関係があるのではないだろうか。
所在地   埼玉県児玉郡上里町神保原965
御祭神   高御産巣日神、神皇産霊神、大己貴命、少彦名命
社  挌   不明
例  祭   11月2、3日 例大祭

        
 神保原石神社は国道17号を本庄、高崎方面に北上し、神保原交差点を右折して進むと正面突き当りに石神社が鎮座している。ちなみに「石」と書いて「せき」と読む。石神社の具体的な創建時期は不明となるが、元弘3年(1333年)に、新田義貞が上州より鎌倉に攻め上がる際、当社にて、戦勝を祈願したとされており、以来、当地の鎮守の森を「勝の森」と称するようになったという。
            
                                正面参道

     「日本惣社」と彫られた鳥居の神社名碑             鳥居を過ぎて右側にある手水舎
 石神社が鎮座する上里町神保原字石神の「石神」は中世の石神郷がその諸元となっている。烏川(からすがわ)から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名である。全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。一般にこのような石棒は、縄文時代中期に関東、中部地方を中心に発達した古代の石神信仰の信仰物であると考えられている。

 参道を進むと左側に石仏のような物が2体納められている祠があり、元来養善寺の薬師堂で境内社の磯崎社のようだ(写真左)。またさらに進むと山車のような建造物がある。(写真右)今では山車を覆う建物によって上部のみしか見られないが、記録によると日露戦争の戦勝記念に曳行したのが最後で、現在は石神社境内に常時飾り置きしているらしい。
             
                           白が基調の石神社拝殿
           
                               本    殿

  当地は中世の石神郷と考えられる。『風土記稿』では、烏川から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名と伝える。
  全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。主祭神は高皇産霊神・神皇産霊神であり、大己貴命・少彦名命が合祀されている。
  元弘3年(1333)に新田義貞が上州より鎌倉に攻め上る際、戦勝を祈願し、以来この鎮守の森を「勝の森」と称するようになったという。また天正10年(1582)に北条氏邦・氏直と滝川一益が戦った神流川合戦の際、氏直が参拝して戦勝祈願したとも伝えられる。
  社殿は元禄16年(1703)9月に再建、昭和2年9月拝殿改築、幣殿新築された。昭和38年11月、不審火により社殿をぜんしょうしたが、神体の石棒は難を逃れた。社殿は昭和54年に再建された。

  境内社は八坂神社・磯崎社・勝盛神社・富士浅間神社で、八坂神社には境内社の白鳥明神社・天王社及び村内の天王社一社・稲荷社三社・白山社一社が合祀されている。磯崎社は石体二座の背面に嘉応元年(1169)7月銘があり、元来養善寺の薬師堂で、神仏分離の際に当号に改称した。勝盛神社は明治40年8月に字柿ノ木の三社神社・字中浦の琴平神社を合祀し、勝の森にちなんで勝盛神社とし、天手長雄社(あめのたながお)・稲荷社・琴平社を祀っている。富士浅間神社は明治40年8月に字東台に祀られていた社を境内社として移転したものである。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁発行より引用

            石神社に並んで鎮座している境内社富士浅間神社(写真左、右両方とも)

       社殿の奥にある境内社 富士塚か                   同じく合祀社群
                                  八坂神社・白鳥明神社・天王社及び村内の天王社一
                                    社・稲荷社三社・白山社一社が合祀されている。

                                     

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