玉太岡神社(岡)
・所在地 埼玉県東松山市岡745
・ご祭神 天照大神(推定)
・社 格 旧岡郷鎮守・旧村社
・例 祭 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0926477,139.410808,16z?hl=ja&entry=ttu
玉太岡神社は埼玉県道257号冑山熊谷線を吉見神社からとうかん山古墳に南下する道の途中右側にこんもりとした社叢が見え、その社叢一帯に鎮座する。丁度JAくまがや吉見支店と吉見小学校の間のT字路を右折するとすぐ右側に玉太岡神社が鎮座している。
適当な駐車場もないため、路上駐車にて早めの参拝を行う。
一の鳥居の前方にポツンと立つ社号標
玉太岡神社が鎮座している東松山市岡地域は、同市の最北端に位置する。岡地区は国道407号と埼玉県道257号冑山熊谷線が胄山古墳付近でY時方向に分離する北側から東西内側に扇形に広がるように位置し、北側の地区では和田吉野川がその境となる。そして熊谷市相上地区に鎮座する吉見神社が北側の東端で、西端は和田吉野川の支流である和田川左岸となり、岡地区全体の境が国道、県道、社、一般河川内で構成されている。
両部鳥居である朱の鳥居
参道。南向きに鎮座する社殿
「埼玉の神社」による玉太岡神社の由緒では、「岡郷と呼ばれた和田吉野川の右岸に位置する地域は、北から上岡・中岡・下岡と、三つの地区からなっている。中でも、当社の鎮座する下岡は最も早く開発が進んだ地」との記述がある。
実際、岡地区周辺地域は縄文時代の北廓遺跡や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(埼玉県で2番目、全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域周辺には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。
拝 殿
武蔵国には「玉」の字に関連する郡が「埼玉」「児玉」「多摩」の3郡あり、どの地域も文化的、経済的にも先進地帯であり、古墳群が多数所在している共通事項を考慮すると、この「玉」を冠した地名の根源的意味も、水田の広大さ、生産力の大きさや、あるいは政治的な中心地帯と何らかの関係があるのではないかと考察できるのではなかろうか。
玉太岡という「玉」を冠した神社名であり、実際元亨3年(1323)武州比企郡玉太岡四国山光福禅寺の銘も存在し、古い名称であることは確かである。吉見神社の摂社にも玉造神がお祀りされているし、玉太岡神社が鎮座する近辺には「玉作」地区も存在する。新選武蔵風土記稿には「又当村より艮(うしとら)の方十五町許を隔て玉作村あり。かく玉をもて名付し故詳ならず」とその玉作村の存在は記しているが、名前由来は「故詳ならず」つまり由来は分からないと書かれていて、玉作りに関連する地名なのかは現在確認中だ。
享保八卯霜月吉日」石灯篭 「享保j十一九月吉日」 石灯篭
社殿手前は左右に置かれている石灯篭。狛犬替わりだろうか。但しどちらも約300年前に制作された文化遺産であり、大切に保存されたいものだ。
神明造りの本殿
ところで東松山市高坂地区には、「反町遺跡」が存在し、その遺跡からは、弥生時代から古墳、奈良、平安、鎌倉、室町時代にいたる遺構や土器、木器などが数多く発見されている。特記すべき点として、古墳時代前期の集落跡と大溝跡を調査したところ、集落の一画からは、水晶(すいしょう)と 碧玉(へきぎょく)を加工して玉を作った工房跡を発見されている。これらの水晶と碧玉は、当時の人々にとって大変貴重なもので、装身具、副葬品、祭祀具として使われ、本遺跡にこれらの石製品を作る工人が住んでいたことが分かっている。
但しこれだけ周辺地域が古墳や遺跡だらけな地域であるにも関わらず、肝心の神社に関する情報が全くでていない。由緒等の案内板もない。唯一の公開情報と言えば、境内にある樹齢300~400年のムクノキ木のことだけである。残念なことだ。
〇玉太岡神社のムクノキ 昭和37年3月市指定天然記念物認定 所在地:岡745
玉太岡神社の境内には、樹齢300~400年と推定され、幹周り約5.2メートル、樹高約25メートルの市指定天然記念物のムクノキと幹周り約3メートル、樹高約20メートルのカヤがあります。
古き時代から神を迎える依り代として木は大変重要視され、その名残が御神木として今日も大切にされています。
〇玉太岡神社のカヤ 平成20年3月名木認定 所在地:岡745
玉太岡神社の境内には、樹齢300~400年と推定され、幹周り約5.2メートル、樹高約25メートルの市指定天然記念物のムクノキと幹周り約3メートル、樹高約20メートルのカヤがあります。
古き時代から神を迎える依り代として木は大変重要視され、その名残が御神木として今日も大切にされています。
どちらも東松山市ホームページ 環境産業部 商工観光課より引用
社殿奥に鎮座する境内社。由来等不明。
比企郡岡村(東松山市)光福寺宝篋印塔に「元亨三年十二月八日、奉造立、右塔婆者大日本国武州比企郡玉太岡四国山光福禅寺」と銘ある。この地は嘗て和田吉野川の変遷により大里郡に属する時期もあったようだ。押切村東陽寺万治二年文書に武州大里郡岡野郷と見えるが、九条家延喜式裏文書の大里郡条里坪付に「隴ノ里」との記述がある。「隴」は「おか」とも読め、「隴ノ里」は岡村のことであろうか。
また周辺地域に鎮座する神社の中にも「隴」のつく神社、明神社がある。何か関連性があるのだろうか。
拝殿からの一風景