朝日森天満宮
子孫に成綱・家綱・俊綱・忠綱などがいて、代々足利に領地を広げていく。その後、久安六年(1150)源義国が足利に住み、その子孫が足利氏と称されたことから、両氏を区別して、藤姓足利氏、源姓足利氏と呼ばれる。源姓足利氏が勢力を増してくると、両氏の間に領地をめぐる争いが生じ、最終的には俊綱・忠綱は平氏の側に属し、源姓足利氏等の坂東豪族に総大将として担がれた源頼朝に滅ぼされる。
藤姓足利氏の3代当主である足利家綱は、身に覚えのない嫌疑をかけられて九州大宰府に流刑されたが、大宰府天満宮に祈念した結果、冤罪がはれたことから神恩に感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請したのが始まりと伝わっている。その後、慶長7年(1602)に現在の城山公園へ城を移すに際し、天満宮も現在地に遷座したという。
・所在地 栃木県佐野市天神町807
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧県社
・例祭等 歳旦祭 例祭 4月25日 新嘗祭 11月23日 他
JR両毛線佐野駅北口に隣接している城山公園は、明治22年に開設された県内最古の都市公園で、佐野城跡にあり、市の史跡及び名勝として文化財指定を受けて古くから市民に親しまれているという。この城山公園の西側で、南北に通じる「公園西通り」を300m程北上し、丁字路を左折し、暫く進むと朝日森天満宮の朱色の二の鳥居に達することができる。
地図を確認すると、佐野駅から北西方向の街中で、栃木県立佐野高等学校・附属中学校のすぐ西側に鎮座している。二の鳥居の脇に数台分駐車できるスペースあり。
朝日森天満宮 朱色の二の鳥居
一の鳥居は二の鳥居から300m程南側にある。
街中に鎮座している社でありながら落ち着きがあり、天神様を祀る社故梅が参道両側に100本ほど植樹されているという。梅の開花時期は見ごたえがありそうだ(写真左・右)。また、参道一帯に奉納されている朱の灯篭が地域の方々の信仰の厚さを物語っていよう。
朝日森天満宮境内入口にある神門
神門の精巧な彫刻が目を引く
綺麗に整備された落ち着きのある境内
佐野市指定史跡・顔氏家廟碑法帖(写真左・右)
境内には、陽明学者中根東里の撰文による菅神廟碑を建てるとき、その高弟須藤温が碑文字の書体を集めるのに使ったのが、この法帖である。
顔氏家廟碑は、中国唐代の忠臣で書家であった顔真卿(和銅2年~延暦3年)の書いた碑文で、顔法と呼ばれる独特の書体。温が特に顔法を選んだのは、顔真卿の忠節な一生が、菅原道真に似ているからであったと思われる。なお、この貴重な法帖は、須永文庫の中の一部として市に寄付されたものという。
天神様のなで牛
天神様の神使は牛。自分の悪い部分と同じ箇所をなでると、悪い部分が牛に移って、改善されるといわれている。
因みに神使は、神道において神の使者(使い)もしくは神の眷族で神意を代行して現世と接触する者と考えられる特定の動物で、「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいい、時には、神そのものと考えられることもある。
拝 殿
平安時代、藤原秀郷公の七代の孫家綱が、無実の罪におとしいられし時、大宰府天満宮に参篭し一心不乱に祈念した処、ようたく冤罪がはれ、所領が安堵された。 家綱は神恩を感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請し尊崇の誠をつくした。
その後 慶長七年(1602年)時の城主佐野吉信 幕府の命により城を移すにあたり 天満宮も現在地に遷座され 地名を冠し朝日森天満宮と称した。以来、佐野の氏神様として 当地の人々より天神様と呼ばれ親しまれており 初詣や初宮・七五三等で賑わっているという。佐野の氏神・学問の神様として‟天神様”の愛称で、長く当地の人々から親しまれている。
平成三十年より菅原道真を祀る神社で行われる特殊神事、「鷽替え(うそかえ)」を実施している。この鷽替えとは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において行われる特殊神事である。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる。
「朝日森天満宮HP」「Wikipedia」より引用
神楽殿 神興庫
足利 家綱(あしかが いえつな)は、平安時代末期の武将で、通称は足利壱岐守・孫太郎。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の3代当主である。 怪力士家綱の伝承や、朝日森天満宮・安楽寺・孫太郎神社など、数多くの神社仏閣の建立や復興・移転に関わったことも伝えられている。
足利郡司で相撲人としても有名だった父、藤姓足利氏の2代当主足利成綱の子として生まれるが、成綱が早世してしまい、祖父足利成行の養子となる。家綱が成人するまでは一族の足利行国が藤姓足利氏の当主を代行したが、その後は家綱が藤姓足利氏の当主となる。史実においても家綱もまた亡き父同様、相撲人として広く知られるようになり、その怪力と大柄な体格は、以降の子孫にも代々継承されていく。
本 殿
その後、源義国の家人となり、滝口武者として京都へ上洛した際、同僚の滝口武者の小野寺義寛の嫉妬による讒言により謀反を企てていると疑いをかけられ、九州筑紫の大宰府の安楽寺に流罪となった。安楽寺は菅原道真が居住していた寺であり、自らと菅原道真の境遇を重ねて毎日のように天拝山に登り天満宮に祈念したとされる。
大宰府流刑中の元永元年(1118年)、朝鮮より3人の力士が渡来し、日本の力士と試合を行い負けた方が貢物を行う取り決めとなったが、京の都にはこの三人の力士に敵う者がいなかった。そこで家綱は京に呼び出され、後白河天皇に試合を行うように命を受ける。一度は流罪により体は衰え戦う気持ちも湧かないと断ったが、九州に戻った後にも後白河天皇の使いが家綱を訪れ、その熱心さに折れ、試合に出ることに決める。そして、いざ試合が始まると大声を上げ、1人は踏み倒し、もう1人は持ち上げ投げ飛ばしてしまい、最後の一人は相撲もせずに帰国してしまった。
この華々しい活躍により功績が称えられ、九州太宰府からの帰郷が許されることとなり、同時に罪は小野寺義寛の讒言であったと認められたという。そして他にも褒美を与えると言われ、安楽寺の山門と天満宮を賜った。これらは帰郷の際に船に乗せ、江戸から川を登って佐野に入り、唐沢城中の天神沢に朝日森天満宮を建立。安楽寺の山門も唐沢城に持ち込んだといわれるが、元永三年(1120年)に現在の場所に移転したとされている。
合祀社八社。詳細不明
境内社・三峯神社 石祠二基 詳細不明。
元永二年(1119)には建立した朝日森天満宮の祭りに朝廷の勅使、中御門大納言が都から下向し、家綱はこれを下馬し迎えたという話が今に伝わっており、足利市に「下馬橋」という場所が残っている。このような些細な話が今なお伝わっているところから、家綱が民衆から慕われていたことを伺うことが出来る。流罪のきっかけとなった小野寺義寛とは、正確な年代は分かってはいないが、小野寺義寛から謝罪を行い、足利家綱はこれを許したと伝わっており、実際に孫娘を小野寺義寛に嫁がせている。
仁安2年(1167)、嫡男の足利俊綱がある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となった際、足利市両崖山の足利城を離れ、能忍地(佐野市田沼町の愛宕山麓)の能忍寺に蟄居したと伝わっている。現在この場所には総合運動公園が出来てしまい遺構は残されていないが、公園設立以前は土塁などが残されていたという。また、能忍寺に移り住んだ際、朝日森天満宮を唐沢山西麓に移したというが、江戸時代には現在の佐野市天神町に移設された。安元元年(1175)1月13日、足利俊綱は佐野市の赤見城に移り住んだが、家綱は能忍寺に残って余生を過ごしたと言われている。
社殿からの一風景
寿永2年(1183)2月、志田義広が源頼朝を討たんと挙兵すると、家綱の嫡男・足利俊綱と孫・足利忠綱は呼応するが、小山朝政や小野寺道綱の策略によって志田義広は敗北し、藤原足利氏は戦わずして敗北してしまう。戦後の処理の中で、足利俊綱は死亡、足利忠綱は逃亡するが、源頼朝からは妻子含め本宅資材に関しては安堵が通達され、家綱は生き残る。
寿永3年(1184)5月14日には、栃木市岩舟町の住林寺で、足利俊綱の供養のために小野寺道綱が仏像を建立し、家綱は結縁した。
家綱の生涯は、大きく見ると「藤性足利氏」の全盛期と、その後の衰退期・消滅期を1代で体現した人物ともいえるのであるが、地域の方々からは「相撲人」として慕われていたことも伝承として現在でも残っていることからでも察し得よう。
参考資料「佐野市HP」「佐野市観光協会HP」「朝日森天満宮HP」「Wikipedia」等
