古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武幡横手神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市横手509
              
・ご祭神 誉田別命 武御名方命
              
・社 格 旧横手村鎮守・旧村社
              
・例祭等 元旦祭 祈年祭 2月第一日曜日 勧学祭 48
                   
例祭 821日から27日までの土・日曜日
 高麗本郷九万八千神社の参拝後、埼玉県道15号川越日高線を西行800m程、「久保」交差点を右斜め前方に進路変更し国道299号線に合流する。大まかに高麗川左岸沿いに沿うように1.3㎞程進んだ先にY字路があるので、そこは左斜め方向の幅の狭い旧道らしき脇道に入り、更に300m程進むと武幡横手神社が見えてくる。
        
                  
武幡横手神社正面
 社は国道のすぐ南側で集落の中に鎮座していて、地域の方々に大切にされた鎮守様という印象。境内は綺麗に管理されており、「横手渓谷」と呼ばれる奥武蔵の山々に囲まれた美しいと高麗川の流れと周囲の山麓景観が醸し出す厳かな雰囲気が社全体に漂っている。
 境内には適度な広さの駐車場も完備されており、その点もありがたい。
             
              
武幡横手神社正面に建つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「横手村」の解説
 現日高市の西端、東流する高麗川沿いにある。東は高麗本郷村・久保村、西は白子村(現飯能市)、南は峰を境として永田村・久須美(現同上)、北は入間郡権現堂村(現毛呂山町)。川越と秩父を結ぶ道が東西に通る。小田原衆所領役帳には小田原衆松田左馬助の所領として「横手」三五貫文があり、同所は天文一八年(一五四九)に与えられた一千貫文の地の一部であった。また他国衆三田弾正少弼の所領にも横手郷がある。永禄一二年(一五六九)一一月二四日付松田憲秀判物によれば代替りとなった山口左衛門尉重明に横手村の代官職が安堵されている。重明は天正一五年(一五八七)五月八日、豊臣秀吉軍の来攻に備えて小田原城に詰めることを定められた子息弥太郎に、従来からの給恩地横手内を譲るよう松田氏から命じられたが(松田憲秀印判状)、同一七年五月一六日には隠居分として横手村を請取ることを命じられている(松田直秀印判状)。
 
鳥居を過ぎて上り坂の石段上に社殿は鎮座する    石段の中段位に設置された案内板
 武幡横手神社は貞観12年(870)の創建と伝えられている。当初八幡大神と称していた。貞治2年(1363)に武御名方命を併祀して諏訪大明神と呼ばれるようになったが、明治元年(1868)に武幡横手神社と改めた。祭神に誉田別命、武御名方命を祀っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 横手村』
 諏訪社 村の鎭守なり、例祭726日、當社に藏する棟札に、奉造營武州高麗郡横手村、諏訪大明神、大檀那大久保重兵衛殿、小檀那山口若狭守、于時慶長六辛丑二月、神主大野治郎とあり、又刀一腰を藏む、銘正恒、長二尺五寸、是は村民半之丞が先祖山口鄕左衛門の佩るところなりしを、當社に奉納すといふ、神職は大野越後なり、

 武幡横手神社(おすわさま)  日高町横手五〇九(横手字諏訪)
 当地は、高麗丘陵の西端、山地に挟まれた高麗川に沿って民家が点在する。
『明細帳』によると、当社は貞観一二年に誉田別命を祀り八幡大神と称していたが、貞治二年に武御名方命を併祀して後、諏訪大明神と称したという。
 祀職は諏訪神社勧請以来高野家によって務められているが、同家は秩父の大野(現都幾川村か)の出身であるとして、大野姓を名乗った者もあった。
 本殿は一間社流造りで内陣には諏訪・八幡両祭神の神像があり、内陣にある天明元年銘の神鏡に文政一〇年に両神像を高野越後が奉納したことが刻まれている。
 また、「寛永一二年大内左京大夫多々良義弘九代後胤武州横手住山口若狭守重明三大孫山口六良右衛門」と記される「備前国正恒」銘の二尺五寸の刀が蔵されている。
 社殿の造営を現存する棟札にみると、慶長六年本殿を造営、享保一〇年覆殿建立、寛政元年に社殿に風が強く当たることから拝殿・幣殿を建築した。文政一〇年本殿及び拝殿を再建、明治三六年拝殿幣殿再建、昭和三六年拝殿の屋根替えを行い現在に至っている。 明治元年、諏訪大明神を現社号に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額           社殿の左側にある宝蔵
        
                    本 殿
 当社の氏子は横手全域で、上(かみ)・下(しも)に分かれている。氏子の間では、氏神がお諏訪様なので、神使である蛇をいじめたり殺してはならないといわれている。
 また、戦前までは、夏に雨が少ない時に雨乞いを行っていた。この時は、代表が名栗の竜泉寺へ水をもらいに行き、当社で氏子の銘々にその水を分け、それぞれの家の屋根にこの水をかけたという。
 当社の例祭は当初825日であったが、昭和56年より21日から27日までの間の日曜日に行うこととなった。氏子はこの日を「待(まち)」と呼び、古くからササラ獅子舞を行っている。前日は「揃い(そろい)」と呼ばれ、御幣・万燈・山伏・天細女命・猿田彦命・笹楽子・導き・蠅追い・獅子・歌謡い・笛吹きの順に獅子舞の行列が氏子の檀那寺である真言宗宝雲山観音院滝泉寺へ参詣して、境内で舞うとの事だ。
 当日は「本待(ほんまち)」と呼ばれ、神職家・鳥居・神社・社務所・神社・庭(境内)・社務所・神社・庭・神職家の順に舞い巡る。
        
                 境内社・笠森稲荷社
       
    笠森稲荷社近くに聳え立つご神木で、「郷土の樹」でもあるムクロジの木(写真左・右)
 ムクロジは「無患子」と書き、本州中南部以南の山林に自生し、夏に淡緑色の小花をつける。実は球形で、中の種子は黒くて硬く、正月の羽根つきの玉に使用されるとの事だ。
 樹高 14m 幹周 2.3m。「日高の古木・名木をたずねて」に選定されている。
             
            社殿前で石段脇に聳え立つイチョウの御神木
 
  社の参道を降りると自然に高麗川にたどり着き、遊歩道沿いに清らかな川を眺める事が出来る。(写真左・右)参拝日は11月初旬。秋の紅葉はもうすぐであるが、風情を楽しむことができた。今年の夏は格別に暑く長かったが、それでも四季は必ず訪れる。ありがたいものだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
  

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