古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関東五社稲荷神社


        
             
・所在地 栃木県佐野市大栗町127
             
・ご祭神 伊弉諾尊 素盞嗚尊 大己貴尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭 1025
 朝日森天満宮の北側に東西に栃木県道151号堀米停車場線が通っていて、一旦北上して同県道に合流、東武佐野線に対して潜るように交差する「若松アンダー」を越え、更に東行する。因みに「アンダーパス」とは、踏切による交通渋滞の解消等のため、道路や鉄道などと立体的に交差する下側の道路が、地中に掘り込まれている構造をいう。
 この県道は佐野市堀米地域で栃木県道
141号唐沢山公園線と名称は変わるが、同一路線であることには変わらないので、そのまま道なりに進行する。その後、1.7㎞程進んだ「犬伏町」交差点を左折し北上、450m程先の十字路を左折すると関東五社稲荷神社が北側の斜面上に鎮座している。
        
                 
関東五社稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「大栗村」の解説
 唐沢山南方の屋形(やかた)山の南に位置し、南は犬臥(いぬぶし)町。元和八年(一六二二)の本多正純改易後は幕府領となり、寛永一〇年(一六三三)より近江彦根藩領で幕末まで続く。慶安郷帳に村名がみえ、田高七七石余・畑高九一石余。彦根藩では、栃本村(現安蘇郡田沼町)、富士村・韮川村の藩領四ヵ村の山を御林山とし、番所を当村と韮川村に各一ヵ所、栃本村に二ヵ所設けて取締を行った(享保一六年「彦根藩佐野領御林山事情書」宇都宮大学附属図書館蔵)。
 
    一の鳥居に掲げてある社号額        一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 社記によると創建は天慶5年(942)で、藤原秀郷公が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したと云う。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになった。田沼町に鎮座する有名な急郷社・一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものと云う。降って明治6年に社号を関東五社稲荷神社と改称し、現在に至つている。
 
 参道途中左側に建つコンクリート製の神楽殿     参道を軸にして神楽殿の反対側にある手水舎
       神楽殿の手前には芭蕉碑がある。        石段を登った先に見える社殿
        
                    拝 殿
『下野神社沿革誌』
 犬伏町大字大栗鎭座
 村社關東五社稻荷神社 祭神伊弉諾命 素盞嗚命 於褒那武知命
 祭日 大祭十月二十五日 小祭 陰曆二月初午日 六月十五日 十一月十五日(中略)
 社傳に曰く本社は關東五社稻荷神社と稱し鎭守府將軍従四位上田原下野武藏守藤原朝臣秀郷の勸請にして朱雀天皇の御宇天慶五年寅五月十五日の創建なり 將軍是より先朝敵平將門討減の擁護を相州松ヶ岡稻荷神社に祈誓し速に殄戮し宸襟を安し奉り下億兆塗炭の苦を救ひけり依りて國家鎭護の爲め唐澤山牛ヶ城に地を卜し神殿を築き相州松ヶ岡より遷坐す(武蔵國烏森及王子上野國新福院の稻荷神社も同時に遷し祀れる故此れを合せて關東五社稻荷神社と稱す)。
 田原氏裔孫世々祟敬の神社たり 後十四代孫足利讃岐守藤原成俊(世俗佐野荘司と唱ふ園田成實の男成)文治二年巳五月十五日本郡田沼鄕に遷坐す 其後富士左京亮房行再建せり 正親町天皇の御宇天正十三年酉三月二日小田原北條勢襲來して唐澤城攻撃の時該村兵燹に罹り本社も倶に鳥有に屬す 依りて慶長二年
午十一月大栗稻荷山の南麓に遷し神殿を再建して漸く舊觀の十分ーに摸擬するに至る 寛延三年八月神位宗源宣旨を賜ひて正一位を贈らる 明治六年一月村社に列せらる 文治二年五月田沼に分靈を遷坐せしより小野寺まて渾て十ヶ所は皆本社より遷祀せるもの紀念碑及び額表に記して明かなり
 
  社殿の左側手前には大黒天の石碑あり     社殿の右側奥に祀られている石祠三基
                             と倉庫(?)か
關東五社稻荷神社額表之寫
明治二十六年三月下野國安蘇郡犬伏街大栗稻荷山鎭座關東五社稻荷神社氏子等廣募郷民新設神樂講社實可謂敬祟之至不堪感激也夫尋此稻荷神社之由緑距今九百五十一年前天慶五年壬寅五月十五日我大宗鎭守府將軍藤原朝臣秀郷公祈誠受擁護討減賊魁感喜之餘移相模國松岡稻荷大明神于此以建設是祠云松岡稻荷者在鎌倉大祖大織冠公大化二年之所創建祭神伊弉諾尊素蓋嗚命大己貴命也而同時自元祠松岡移祀者拜武藏國烏森同國王子上野國新福院下野國大栗稻荷山而五因皆稱之關東五社稻荷大明神矣曰田沼一瓶稻荷文治二年五月佐野荘司成俊所祀也曰西塲稻荷建仁二年九月西塲太郎成行所祀也曰土塔原小山稻荷元久元年二月小山新左衛門尉朝長所祀也曰阿曾沼金屋稻荷元久二年二月阿曾沼四郎廣綱所祀他曰熊谷稻荷元久二年二月藤倉太郎直政所祀也曰細谷稻荷文保二年二月園田四郎左衛門尉光氏所祀也曰藤岡稻荷元亨二年二月藤岡伊勢守房行所祀也曰岩崎稻荷文龜元年二月岩崎左馬助重長所祀也曰田島稻荷永祿六年二月山上美濃照久所祀也曰小野寺稻荷寛治二年二月小野寺式部大輔通成所祀也此十祠是自大栗稻荷山稻荷所移祀也大栗之地者我大宗以來世々之荘園也故其祭祀改建無有懈怠降至天正十三年三月小田原北條氏直攻我唐澤山城此地距城僅一里祠宇亦一朝罹兵燹神寶古記悉歸烏有惜哉尋壯嚴新建比舊不及云(以下略)
【現代訳】
明治二十六年三月下野国安蘇郡犬伏南の大栗稲荷山に鎮座する関東五社稲荷神社の氏子等が広く地域の人を募り神楽講社を新設した。実に神を敬う心が強いということができ感激に耐えない。そもそもこの稲荷神社の由縁は今から九百五十一年前の天慶五年壬寅五月十五日我が大宗鎮守府将軍藤原朝臣秀郷公が神に祈願し、その擁護を受けて賊の首領を討滅した感喜のあまり相模国松岡稲荷大明神をここに移しこの宮を建設したという 松岡稲荷は鎌倉にあり祖先の大織冠公が大化二年に創建したもので祭神は伊弉諾尊・素蓋嗚命・大己貴命である 同時にもとの宮松岡より移し祀ったのは武蔵国烏森・同国王子上野国新福院・下野国大栗稲荷山でこの五つはそれにより皆関東五社稲荷荷大明神と称している。
関東五社稲荷神社と称し崇敬されている。田沼一瓶稲荷は文治二年五月佐野荘司成俊の祀ったものである。西場稲荷は、建仁二年九月西場太郎成行の祀ったものである。土塔原小山稲荷は、元久元年二月小山新左衛門尉朝長の祀ったものである。阿曽沼金屋稲荷は、元久二年二月阿曽沼四郎広綱の祀ったものである。熊谷稲荷は、元久二年二月藤倉太郎直政の祀ったものである。細谷稲荷は、文保二年二月園田四郎左衛門尉光氏の祀ったものである。藤岡稲荷は元亨二年二月藤岡伊勢守房行の祀ったものである。岩崎稲荷は文亀元年二月岩崎左馬助重長の祀ったものである。田島稲荷は永禄六年二月山上美濃照久の祀ったものである。小野寺稲荷は寛治二年二月小野寺式部大輔通成の祀ったものである。この十祠は大栗稲荷山稲荷より移し祀ったものである。大栗の地は我が大宗以来世々の荘園であるゆえに神社の祭祀改建は怠ったことはなかった。降って天正十三年三月小田原の北条氏直が我が唐澤山城を攻めた。この大栗の地は城を距たるわずかに一里、宮の建物は一たび兵火にかかり神社の宝物、古い記録等ことごとくなくなってしまった。惜しいことである。後、神社のりっぱさを調べ新に建てたが、もとのものに比べると及びもつかなかったといわれている。
        
          地域の方々からの信仰の篤さを感じさせてくれる社
 
  正面鳥居の左側にある
月待塔・十九夜塔     鳥居の右側にある享保三年銘の庚申塔

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