古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須影愛宕神社、須影諏訪神社

 京都府京都市右京区にある愛宕神社は全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在 は「愛宕さん」とも呼ばれる。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。
 有名なところでは、天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため御神籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
 羽生市にも愛宕神社が数社存在し、この須影地区にも小規模ながら鎮座している。

所在地   埼玉県羽生市須影495付近
御祭神   火之迦具土神(かぐつち)(推定) ※[別記]火産霊神(ほむすびのみこと)   
社  挌   不明

        
 須影八幡神社から南へ歩いて行くと、須影公民館の南西で、羽生警察署 須影駐在所の西側に愛宕神社がある。こんもりとした小山の上にある本当に小さな社だ。一見古墳と思われるような印象を持つが、ネット等で調べても古墳ではないようで、おそらくこの塚は人工に盛ったものと思われる。思うにあたり一面の砂丘を利用し、土を盛ったようだ。
            
                愛宕神社正面。この社は一面の砂丘が非常に印象的。
 『風土記稿』には「(須影)八幡社 村の鎮守なり、慶安2年8月24日社領19石5斗余と賜ふ、別当真言宗蓮華寺」とある。別当最期の住職潮元は、安政4年から慶応元年まで8年の歳月を費やして、今日の本殿と拝殿を造営している。
(中略)
明治4年に村社となり、同40年には村内の白山社、愛宕社を合祀する。ただし愛宕社は災厄を恐れる旧氏子の要請により返還されて今はない。

 と書かれている。この愛宕社は村内と記載されている所から見てもこの須影愛宕神社ではないか、と思うがどうだろうか。

 
 須影愛宕神社の鎮座する須影地区一帯には「会の川」という河川が流れていた。この会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川で、羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 この会の川流域には日本でも大変珍しい内陸の河畔砂丘が存在する。会の川の流路に沿って自然堤防が発達しているが、その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が堆積し、砂丘を形成している。その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3kmの志多見砂丘で、一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
             
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。

 この羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見地区の河畔砂丘は何時形成されたのだろうか。資料等の見解によると鎌倉時代にできたといわれている。というのも春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。
 したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。しかしなぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 須影愛宕神社は社自体は非常に小さい規模であるが、河畔砂丘という全国でも珍しい地形の上に鎮座していることを考慮して、今回特別に掲載した次第だ。


 須影愛宕神社の東側には須影諏訪神社が鎮座している。須影愛宕神社と同じ小高い山の頂上に祠の本殿がある。
所在地    埼玉県羽生市須影
御祭神    建御名方命(たけみなかた)(推定)
社挌、例祭 不明
             
 須影諏訪神社は小高い丘の上に鎮座しているので一見古墳か?と思ったが、須影愛宕神社同様、おそらく人口に盛ったものと思われる。小さな祠が山頂付近にあるだけなので案内板もなく、故に由緒等は不明。

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小松三神社

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・ 平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って 累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
 嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。ただ重盛は温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。
  清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。享年41歳。し、歴史のイフが許されるとして重盛が長生きしていたとしたら、平氏の歴史は違った形で存続していたのかも知れない。 重盛の死の2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は急転直下に滅亡することになる。
 ちなみに重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣と称された。

 羽生市小松地区は元々平氏の荘園があったとされ、それ所以か小松三神社は承安年間(1171~1175)小松内大臣重盛が当社に熊野白山両権現を勧請したのが始まりという。

所在地   埼玉県羽生市小松280
御祭神   伊弉諾命,伊弉冉命,小松大明神(小松内府平重盛公)
社  挌   旧郷社
例  祭   7月15日夏季例祭・7月31日大祓祭(輪くぐり)・11月23日献穀祭

       
 
 小松三神社は国道125号行田バイパスを東に進み、国道122号と合流する前の小松交差点を左折し、約500m北上すると左側に赤い立派な鳥居が見えてくる。よく見ると東向きの鳥居から真っ直ぐ進む道があり、南側に松林があるところから、この鳥居の前の道は嘗ては社の参道だったのだろう。
 鳥居の脇に駐車場があり、そこに停めて参拝を行った。
         
鳥居の先、右側には「郷社 小松神社」の古い社号標があり(写真左)、神社の北側には弁財天が祀られている。(写真右)
           
                 鳥居の扁額には「小松三神社」と表記されている。
    
 案内板によると、小松神社は、熊野白山合社と小松大明神を合わせて、小松三神社と呼ばれていたそうだ。新編武蔵風土記稿では、「羽生領七十二ヶ村の鎮守となり」と書かれ、この地方では信仰を集めていたらしい。
           
           
                              拝   殿
           
                              本殿覆屋
           
          本殿覆屋の中の本殿は、白山神社(左側)、熊野神社(右側)が並んで鎮座

 今を遡り、景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
 天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
 慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
 また「新編武蔵風土記稿」小松村の項には「熊野白山合社 羽生領七十二ヶ村の鎮守なり、社領二十石は慶安元年七月十一日賜へり、勧請の年代を伝へされど、古は大社にて、宝蓮坊・安養坊・善林坊・宝珠坊・不動坊・山本坊・明見坊等の供僧ありしと云伝へ 以下略 末社 小松明神 重盛をまつりし社と云う、と記述されている。
           
                      社殿の北側に鎮座する小松大明神
 本殿内にある白山神社、熊野神社、そして小松大明神の三社で小松三社と称した。小松三神社内にある小松大明神の由来として、重盛が治承3年(1179)に没し、重臣の筑後守貞能は出家し、追善の為に小松寺を造営、遺骨は重盛が日ごろから崇拝し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。なお、小松と称する所は、当地に限らず下総・加賀・出羽の国々にもあり、それぞれに小松寺が建立されているが、これは小松内府重盛の霊を慰めるために造営されたものといわれる。
                 
                   小松大明神の脇にある小松三神社の銀杏
 平凡社「埼玉県の地名」によると、天和2年(1682)に鋳造されたと伝える銅鐘の銘文の写しが神社に残っているらしい。それには次のようなことが記されているという。
 承安年間(1171~75)、小松内府平重盛(たいらのしげもり)が当地に熊野・白山両権現を勧請、本地仏として阿弥陀如来・十一面観音を安置した。重盛没後、重臣筑後守平貞能が出家して小松寺を建立。重盛の遺骨は両権現のそばに埋葬して、目印のためにイチョウを植えたという。真偽の程は定かでないが、幹の太さといい、かなりの年代物の巨木であることは確かだ。

 小松三神社は嘗て羽生領72町ヶ村の総鎮守だった故に上記の弁天社他、境内には浅間社、日枝社、
伊奈利社等、多数の境内社、合祀社が存在する。
 
 
 

 羽生市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にある。このうち加須低地は、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 ところが加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、 ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることだ。通常低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことで、しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものといわれている。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことだ。代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもある。水はけが悪くぬかるため、縦横に溝を掘った堀上田と呼ばれるこの地域独特な田んぼがかつてはあちこちで見られた。

 さらに、昭和54(1979)年、羽生市小松では地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることが調査の結果判明した。また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2、3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなった。
  これらのことから、加須低地のすぐ下には台地が隠れている(俗に埋没台地という)ことが分かり、加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だった。埋没台地の存在は加須低地を特長づけるもので、台地性微高地や谷地性低湿地は加須低地の特異な地形という。

 
 小松三神社周辺には嘗て小松古墳群が存在していたという。が、この利根川の乱流、氾濫による土砂の堆積と、関東造盆地運動と言われる沈降により現在は埋没古墳となり、地下2,3m掘らなければ発見できないという。実際にこの古墳の存在は、下水道工事で偶然発見されたのだ。小松埋没古墳は、完全に埋没しており、その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。石室は地表から1.2mのところにあり、床面までは3mという深さだった。小松1号墳と命名、発掘調査が実施された。
 

  • 小松1号墳
    • 標高17.9m、地表下1.2mから主体部が発見された。主として角閃石安山岩を用いて構築され、奥壁まで胴張りがある複室構造の横穴式石室で、ほぼ南向きに開口している。石室の規模全長4.68m、高さ2m。床面には拳大の河原石が敷き詰められている。
    • 大刀2、鉄鏃2、瑪瑙製勾玉1、水晶製切子玉7、碧玉製管玉1、ガラス製丸玉6、滑石製臼玉1、ガラス製小玉121、耳環6が出土。このほか骨、歯、赤色顔料が確認されている。遺物は平成25年3月26日付けで羽生市有形文化財(考古資料)に指定された。

 石室の構造、副葬品の検討から7世紀前半の築造とみられる。

 古墳を埋めてしまう力が河川にはある。事実、真名板高山古墳は現状90.5mの中型古墳だが、築造当時は127mの埼玉地方でも二子山古墳に次ぐ大型古墳で、周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。河川は大いなる災いを齎す破壊者でもあり、また平和時であれば人々に恵みをもたらす幸福の使者でもあった。

 それ故に河川を制する者は、土地をも制することが可能となる。埼玉古墳群の王者のように。



 


 

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本郷藤田神社

  藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。
 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 その用土地区北方で、旧岡部町本郷に藤田神社は鎮座している。

所在地   埼玉県深谷市本郷1525
御祭神   伊弉諾尊 伊弉冉尊
社  挌   不明
例  祭   10月14日(秋季大祭)

   (後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
        
 本郷藤田神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉方向に進み、針ヶ谷地区を越えた本郷駐在所前交差点を左折し、そのまま道なりに行くと2、3分で右側に鎮座する。この社は道沿いにあり、境内は広く奥行きもある。境内北側には社務所があり、そのすぐ隣には駐車スペースもありそこに車を停めて参拝を行った。
           
  道路沿いにある一の鳥居、その奥には二の鳥居がある。一の鳥居の左側には社号標が屹立している。
           
                       鳥居を越えると長い参道が続く。
 
          参道左側には神楽殿                                         右側には境内社、飯玉社か

 藤田神社の獅子舞は、例大祭に合わせ、7月第3土曜日及び、10月中旬に行われている。この獅子舞は法眼、男獅子、女獅子の3頭からなり、神社の夏祭りや秋祭りで奉納される。秩父の皆野­より江戸時代に伝授されたと伝わり、雨乞いや悪疫退散祈願を目的に奉納されてきたもの­である。またある説では慶長5年(1600)、地頭花井伊賀守が、疫病退散のため、左甚五郎作の獅子頭を藤田神社に奉納したことによるとも言われている。
 この藤田神社の獅子舞は、深谷市指定無形民俗文化財に昭和51年11月3日に認定を受けている。
           
                               拝   殿
           
                              本   殿
 延暦(782~806)の昔、坂上田村麿将軍の東夷征伐の途中、藤田社に詣でて武運を祈ったという。そのとき持っていた藤の鞭を地上に逆さまに挿し、「我が軍利あらば繁茂せよ」と誓うと、その藤の鞭に根や葉が生じ、やがて将軍に軍功をもたらしたという。逆藤の旧跡は、現在も伝わっている。
 用土は戦国時代に藤田重利が隠居の後に移り住んだ地でこの地に居城(用土城)し、鎮守の社として藤田神社を創立したともいい、康邦夫婦と祖先正行の三霊を祀ったとという説もある。藤田神社は現在深谷市本郷にあるが、古くは字藤の木にあったらしく、その後明治3年に字中村に遷祀、明治41年に飯玉大神社の境内だった現在地へ移転し、従来の飯玉大神社は境内神社とされた。

 藤田氏は戦国時代には関東管領上杉氏の重臣で鉢形城主だった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦に上杉方が敗北すると、多摩の豪族、大石氏と共に北条氏康に降伏し、氏康の三男氏邦を養子として家督を譲る。自らは鉢形城を出て当主の座を譲り、平野地で防御力の低い用土に館を構え、名も北条氏康の「康」、北条氏邦の「邦」の字を合わせ「康邦」と名乗った。(または名乗らせられた)
 その後康邦は用土城に入ると改名して用土新左衛門と名乗ったという。         

       
 社殿の右側にある合祀記念碑、社日、石祠群。石祠は右から外宮、内宮、天神社までは判別できるがその他は正面が削られて解らず。
          
                 社殿右側にある合祀社群、その奥にある境内社

 藤田神社の散策記を記していて、その途中から寄居町の地図を見ると、不思議に思うことがある。地図を見るとよくわかるが、この用土地区は、現在の寄居町行政区画でも寄居町の中心部から大きく北にかけ離れ、いわば「飛び地」のような形を形成しているのだ。
 上記の通り、藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷(現寄居町藤田)に拠って藤田を称したという。寄居町末野陸橋付近にあたる。歴史が下り、藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで着実に勢力を伸ばし、その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、北武蔵国随一の豪族に成長する。その寄居町の英雄である戦国時代の藤田氏の因縁の地であり、また終焉の地が用土地区なのだ。
          
                      静かに鎮座する藤田神社境内
 藤田康邦は重連・信吉という二人の子を連れて用土城に引退し、名を用土新左衛門尉と改め、氏邦の命令を家臣に伝達する立場となったが、その地位も次第に低いものとなったであろう。北条氏側から見ても藤田氏は邪魔者でしかなかったようで、康邦は天文24年(1555年)に亡ったが、その長男であり、名目とはいえ藤田家直系当主でもあり、北条氏邦の義兄である沼田城代、用土重連は天正6年(1578年)氏邦によって毒殺されたといわれる。
 用土は藤田氏の起源からその終焉を語る上においても重要な地であり、この地を寄居町側は決して手放したくない、そんな思いがこの行政上の区画割にも伝わる。 


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釜山神社

 秩父地方には狛犬ではなく狼を神犬とする神社が10数社ある。いわゆる真神(まかみ)という古名は現在は絶滅してしまった日本狼が神格化したものといい、別名大口真神(おおぐちまかみ)とも呼ばれる。真神は古来より聖獣として崇拝され、大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
 人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。しかし時代が流れ、人間が山地まで生活圏を広げると、狼は人と家畜を襲うものだという認識が広まった。そして狼の数が減っていくにしたがって、真神の神聖さは地に落ちていったという。
この大口真神を御祭神とする社が寄居町風布地区、釜伏峠に鎮座する釜山神社であり、この社は三峰神社に次ぎ狼像が多い社としても有名であるそうだ。

 ただこの真神が本当に狼の古名だったか、というと賛否が分かれていて、中には「記紀」に真神の記載がないことから否定する説もある。

 この釜山神社が鎮座する釜伏山は標高582mの低山で、外秩父山地の一端に位置し、男釜(おがま)・女釜(めがま)の2峰から成り、男釜は大里郡寄居町に、女釜は秩父郡皆野町にあり、その鞍部には秩父郡長瀞町から秩父郡東秩父村へ抜ける道路が通る。県立長瀞玉淀自然公園に属す。山名の由来は、日本武尊が東征の途次、神籬をたて粥を煮て、日の大神、神武天皇を遥拝し釜を伏せて戦勝を祈願したとか、大太坊という巨人が釜を伏せていったことからとの伝説があるが、ただ単純に、釜を伏せたような山の姿から名づけられたのが妥当と思われる。山は蛇紋岩より成り、頂は岩峰で、釜山神社奥宮の小祠がある。山頂からみて東側の釜伏峠に釜山神社がある。

所在地   埼玉県大里郡寄居町風布1969
御祭神   「木火土金水」の霊神 他
社  挌   不明
例  祭   例大祭 4月17日~19日
        児童福祉祈願祭 太々御神楽 5月5日

     * 釜山神社の神楽は、大正11年に秩父市太田の神楽師を招いて習ったもので、
          秩父神社神楽の流れを汲むという。

                   
  埼玉県熊谷から秩父に至る古道、秩父(甲州)往還の釜伏峠に鎮座する古社で、現在、国道140号は荒川沿いに通っているが、昔は荒川の岩場やらが危険な場所であったために、人は皆この釜伏峠を越えていたらしい。

 伝説や古文書、案内板等によると、第9代開花天皇の皇子、日之雅皇子命が武蔵野国を巡幸した折り、釜伏山・奥の院において祠を建て旅の安全と国内の平定安康を祈ったのが始まりといわれている。その後、日本武尊が巡幸した折、この神社に立ち寄って山頂において神様に供える粥を釜でたかれ、この釜を神体岩上に伏せ願望成就の祈りをしたと伝えられ、このことから「釜伏山」「釜山神社」の名が付けられたといわれている。ちなみに風布の地を通りかかった日本武尊が喉の渇きを覚え、岩肌に剣を振るうと、この泉が湧き出したとの伝説が残っていて、この泉は日本水(やまとみず)と呼ばれ、いかなる日照りの時でも、絶えることはないといわれ、現在「日本名水百選」に選ばれている。またその他の伝承として、日本武尊が粥を煮たのが粥新田(かゆにた)峠であり、地面に突き刺した箸が木になったのが、二本木峠の名の由来であると言われている。

 この社は鎌倉期は住吉神社と称し、のちにこの神社を含みもつ山すなわち釜伏山に合わせて釜伏神社となり、さらにずっと後の昭和初期に釜伏山と山王様を合わせて釜山神社としたという。
 釜山神社には様々な神様が祀られてるが、本来の御祭神はこの世の五大要素といわれ、火防や盗難除け、養蚕倍盛などの御利益があるとして信仰されている「木火土金水」の霊神である。 そして崇敬者が5,000名にも及ぶ釜山神社御眷属講(釜伏講)が組織されているなど、釜山神社の信仰は広い。
          
          
 釜山神社の入り口にある立派な社号標(写真上)と社号標のすぐ先の両側にある狛犬(写真下)。ちなみにこの狛犬の下の台座の一方に「釜伏神社」、「征露記念」と刻まれていることから、日露戦争直後の建立と思われる。ここから拝殿までかなりの距離を歩く。それまでに狛犬が何種類も登場する。オオカミ信仰らしい狛犬の配置状況で初めての体験だ。それにしてもこの雄大な自然の中に囲まれてポツンとあるこの社の存在は何か違った意味で異様な雰囲気を漂わせてくる。まず空気が違うのだ。
  
 参道を歩くと明治40年に建立した2番目の狛犬が登場する(写真左)。そしてすぐ先の鳥居の前には3番目の狛犬(写真右)、昭和51年に建立したものらしい。一般的に狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じているが、この釜山神社の1番目と2番目は狛犬の阿吽の形状がなく、3番目にして初めてその形が登場する。とにかく共通点といえば全ての狛犬は痩せ型であること以外は独特で、ユーモラスな物まである。
 
一の鳥居(写真左)。そして参拝当日は1月7日のため正月用しめ縄があり、すぐ先に4番目の狛犬が見えてくる(写真右)。この狛犬は正面を向いているのが特徴だ。かなり古そうでやはり痩せ形。
 
 参道を進むと左右には石碑と共に横に向けた釜がある(写真左)。社の名称に関係したものか。またその先やはり左側には大国主神と刻まれた石碑もあった(写真右)。紙垂(しで)が2枚あるのでもう1柱神を祀っているのだろうが、残念ながら祭神は不明。
 

 広い空間にやっと到着し進行方向は三方向に分かれる。正面には社殿は見え、右側には社務所がある。左側には神楽殿(写真上部左)、そしてその先には日本名水百選、日本水の案内板等がある(写真上部右)。その先にも道が続き、日本水の源流に向かう道があり、釜山神社の奥宮へ行く道らしい(写真下)が今回はそこまで考えていなかったので断念。
 この道は釜山神社社殿のすぐ左側を通り、この道のあちこちに石祠が点在しているが祭神等、詳細は解らず。
           
           
 参道の正面には5番目の狛犬が見える(写真上)。多分これが日本一新しい狛犬ではないだろうか。とにかくこの狛犬は大変可愛く、オオカミには見えない。狛犬の台座には「敬宮愛子内親王殿下御誕生記念」と書かれていて、それを祝して奉納したということらしく、その関係で可愛くしたのか、と勘繰ってしまった。そして拝殿に向かう前の石段に大正12年建立の6番目の狛犬が登場(写真下)。拝殿までに6体×2=12体の狛犬があったことになる。三峯神社の10対以上には叶わないが、オオカミ信仰の社の面目躍如というところか。
           
    神威輝四海と大書された拝殿釜山神社 拝殿。しかし「神威輝四海」とはいかなる意味だろうか。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額等の奉納額           拝殿内部 ここにも黄金の狛犬が
           
                   日本水源流に向かう道から釜神社本殿を撮影

 日本全国には狼(山犬)を祀った数多くの神社や寺等がある。狼は山の神のお使い「眷属(けんぞく)」として、田畑を荒らす害獣を駆逐する役回りがある。。また狼自身が大口真神として神格を持つ場合もあり、害獣を退けることから、悪しきものを噛み砕く神、魔伏せの神として崇められ、山の神が火伏せや多産、豊穣の神であることから狼もまた火防や安産、五穀の神として信仰をあつめることもある。秩父(甲州)往還沿いの山間部には、山犬、狼が持つ類いまれな能力に畏怖と畏敬の念を抱き、お犬様を神様として、また神様のお使いとして、その強いお力にすがり、ご神徳を求め、信心されているお社がたくさんある。

 秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 釜山神社では、毎月17日が奥宮「お炊き上げ」で「月々の御眷属様のエサ」といい、饌米を持って奥宮に登り、「お炊き上げ祭」をして饌米を供えている。 この「お炊き上げ」の神事は、300年来、ひと月も欠かすことなく続けられ、その秘密の谷間の場所は、宮司のみの知る他言無用の地とされている。

*お炊き上げ神事
  神の意を知らせる兆しとして現れたお犬様(狼)が、その霊力を遺憾なく発揮していただくために、毎月の又は特定期間の特定日に「お犬様の扶持」、「お犬様のエサ」、「お炊き上げ」と呼び習わして、赤飯、小豆飯或いは白米を生饌のままや熟饌に調理し供える神事のこと。

             

 また釜山神社を代々祀ってきたのは新田家氏族岩松家の家系だそうだ。

 ・ 『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁神社調査団 埼玉県神社庁 1992)に〈釜山神社〉の項があり。天文二年(1533)、山頂にあった新田義宗の墓所に社を建てて、新田家の再興を願ったことが始まりで、以後氏神として岩松家が代々祀ってきた、との記述あり。また、「当時、峠の頂上から少し寄居方面に下った所に関所があり、当社はその関守を務める岩松家によって代々祀られてきた。この岩松家は、新田義貞の血を引く旧家で、(略)」とあり、
 ・ 『埼玉県秩父郡誌』(秩父郡教育会編 名著出版 1972)には「釜伏神社は釜伏峠にあり。(中略)當社の神職岩松氏は新田義宗の子孫にして徳川家康關東入國の頃より當地に居住し、天正十八年家康領内巡視の際には假殿を設けて休憩を乞ひしことあり。新田家末流たるの縁故を以て八町四方の除税地を拝領し、爾後江戸時代を通じて苗字帯刀を許され、郷士の待遇を受けたり。」とあり。

 真偽の程は定かではないが、歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、横瀬六騎と称していた。姥宮神社の項同様、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか歴史的にも共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。話の本筋はかなり脱線したが。

 ところで神社の左側の参道を進むと、丁度社殿の左方向で、斜面上にポツンと稲荷神社が1社鎮座している。
 
 お犬様とお稲荷様は、一緒に祀ってはいけないと聞いたことがあるので、オオカミ信仰の社の真っただ中に狛犬ならぬ狛キツネが2対4体あることに正直驚きと、日本独特の包容力の深さを感じた。

 そのことに関して秩父三峯神社に残る江戸時代の文書に「御眷属拝借指南」という文書があり、御眷属拝借の際に代参講の者に渡されたそうだ。御眷属拝借というのは、各地域の講の代表者が三峯神社に参拝に行って、お犬様の御札を借りてくることをいうようだ。講で代表者を決めて、参拝に行くことを代参講という。講の代表は毎年交代し、集落内での順番、持ち回りであることが多いようで、こうした信仰形態が三峯講の特徴だ。
 この借りてきた御札を、集落に祠(「おかりや」などと呼ぶ)を作り、そこに祀っていた。このとき、
お犬様の御札は、稲荷社の近くには祀ってはいけないとされていたようだ。「御眷属拝借指南」に「御眷属を稲荷社の近くに勧請しないこと」という注意書きがあるそうだ。以上のような禁忌も伝わるというのに、釜山神社の場合、オオカミ神社の境内にキツネ神社が神社の端とはいえ共に祀られている点に興味を引かれた。



 オオカミ信仰とはどういうことだろうか。1905年を最後に公式には「絶滅」したとされ、過去50年以上生存が公認されていないが、それでも「ニホンオオカミは山中に生き続けている」。そう信じる人々は数多い。なぜなら、日本人の心の中には「オオカミ信仰」というものが根強く残り、現在においても、その信仰は脈々と受け継がれているからだ。
 オオカミを漢字で書くと、「獣編に良い」で「狼」。つまり、「良い獣」を意味する。かつては「大神(おおかみ)」と書いた。これは文字通り「大いなる神」という意味であり、オオカミは神様のお使い(御眷属)と見なされていたのである。オオカミは「温和」な動物であり、むしろ田畑を荒らし回るシカやイノシシを取り締まってくれる頼もしい警察組織のような存在だというのである。その反面、子どもや女性が食べられてしまうなど、恐ろしさも抱きながら、当時の人々は共存していたようだ。だからこそたとえオオカミが人を襲うことがあっても、古来の日本人は一貫して、オオカミを邪視したことはなかったのだともいう。

 「関東の秘境」とも呼ばれる奥多摩地方には、そうしたオオカミ信仰が広く庶民の心に根付いている。その中心となるのは秩父の三峰神社であり、その周辺21社が何らかの形でオオカミ信仰との関わり合いをもっている(日本全国では250社を超えるとも)。勿論この釜山神社もそのオオカミ信仰の社の一社である。

 上記で紹介した釜山神社の「お炊き上げ神事」は毎月1回欠かさず行われているという。こうしたオオカミ様への「お炊き上げ」は、日本各所で行われている。というのも、オオカミ信仰は山々を渡り歩く「修験者たち」によって日本全土へ広まったと考えられているからである。この「修験者」は別名「山伏(やまぶし)」とも書く。山伏は、山の武士なのか、それとも犬(狼)を連れた杣人なのか。伏の字は、人に犬と書く。オオカミと関係はあるのだろうか。


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八日市熊野神社

 熊野神社が鎮座する神川町八日市地区は室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。熊野神社はこの地区の総鎮守で、町指定文化財の獅子舞が奉納されている。延宝2年(1674)にここの交換市で争いがあり大火となった時に獅子舞が奉納され以後厄払いとして伝えられている。ここの神社の本殿は珍しく色彩も豪華でガラスの覆堂によって保護されている。
所在地   埼玉県児玉郡神川町八日市527
御祭神   家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神 俗にいう熊野三神
社  挌   式内社論社 旧指定村社
例  祭   10月19日 秋季例大祭

       
 熊野神社は国道354号線を本庄市児玉地区、旧児玉町から藤岡市方向に進み、八日市(東)交差点を越えると左側に熊野神社のこんもりとした社叢が見えてくる。駐車場が本殿の近くにあり、そこに停めて参拝を行った。当社は村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては今城青八坂稲実神社を称していたという。
                
                一の鳥居の右側にある社号標石
熊野神社
 本社は往古より村中の氏神と称し、延喜式當國四十四座の一にして今城青八坂稲實神社なりと云ひ傳ふ。神階は往古は知れざるも、正徳3年(1713)7月正一位の神階を授けられ今其の宣旨現存す。神領は上古は明らかならざるも、徳川幕府の時代に地頭より除地四反五畝歩を寄附せらる。
 現在建物の本社は享保14年(1729)9月の再建にして、棟札を現存せり。又旧社地の村内字今城に鎭座ありしを、後に今の森下の地に奉遷したりと口碑に在り。
                                                     神社明細帳より引用
            
                          正面参道一の鳥居
              
                             熊野神社 拝殿
 
境内社として八坂神社・山神社・諏訪神社・金鑚神社       社殿の右側には社務所あり。
    社宮司社・天神社・稲荷神社がある。
           
                         拝殿内部から本殿を撮影
               
                  ガラス越しから見ることができる熊野神社本殿
 鎮座地は鎌倉街道上道付近であり、古来から市(八日市)の開かれる土地だ。八日市という地名は、室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。また八日市の熊野神社前を交差する道があり、そこの東西を結ぶ道は江戸時代の本庄・鬼石往還だという。
          
八日市の獅子舞

昭和62年3月10日 町指定民俗資料

八日市ては、古くから「八の日」に物資の交換市が開かれていた。
延宝2年(1674)四代将軍家綱の時代に、この交換市で争いがあって大火となった。八日市の獅子舞は、この後で厄払いとして奉納したのか始まりと伝えられでいる。
獅子舞は、4月15日と10月19日に神主宅や白山神社で舞い、その後熊野神社に奉納されるが、古くは雨乞いの為に奉納されたこともある。
獅子は、法眼・女獅子・男獅子の三頭で、その外にカンカチ・笛方・歌方・万灯持ちの役割がある。
また、曲目にはぼんでん掛かり・笹掛かり・橋掛かりその外がある。
神川町教育委員会
                                                      社頭案内板より引用
               
                 八日市の獅子舞の案内板に隣接してある御神木

 

 

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