古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

天王山塚古墳

 神明神社の長い参道の延長線上の南側の先に天王山塚古墳が存在する。
 この天王塚は主軸をほぼ東西を示している。そして神明神社は、この天王塚に対して直角に参道が伸びている。神明神社と天王山塚との因果関係はどのようなものだったのだろうか。神明神社の創建は景行天皇の時と言う。創建年代の議論の余地はあるとして、お互い目と鼻の先にある社と古墳である。関連性がないというのがむしろおかしいのではないか。

所在地
    埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3284-1
埋葬者    不明
築造年代    7世紀前半(推定年代)
区分      埼玉県指定史跡
   
                

  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、元荒川左岸の北足立台地の笠原支台(標高14m)に立地し、「栢間七塚」と称され、現在7基で構成されている栢間古墳群の主墳である。(昭和55年度の文献で、現在は9基が確認されている) 全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。埼玉県下でも6番目の大きさである。 
 墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものであるという。


             前方部の入口付近には「埼玉県指定史跡天王塚」の石柱と天王山塚の案内板がある。

天王山塚
  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。
墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。
主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。
栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
昭和58年3月菖蒲町教育委員
                                                   現地説明板より引用
               

                           
                           前方部から後円部を撮影
                          
       後円部墳頂の様子。かなり広く、薬師寺の社殿も通常サイズですっぽりと収まる広さだ。

 栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
 古墳周辺では埴輪や須恵器が出土したが、本格的な発掘調査はまだ行われていない。また一説によれば、武蔵国造・笠原直使主の墓なのではないかとも言われているそうである。この辺りは古代「笠原郷」と呼ばれ、隣の鴻巣には笠原の地名も存していることから、その可能性は否定できないところだ。


 
神明神社、天王山塚古墳を散策終了しすぐ帰宅し、早速カメラのデータをパソコンに入力し、住所からYahoo地図で確認したところ、一つ気になることを発見した。神明神社の参道、一の鳥居を基点として、そこから玉敷神社までほぼ一直線(正確には若干の誤差はあるが)であること。また玉敷神社を基点としてそこから鷲宮神社前玉神社(ならびに埼玉古墳群)、神明神社の参道の始点までほぼ同じ距離なのであるさらに付け加えると前玉神社一玉敷神社一鷲宮神社がほぼ一直線である。単なる偶然だと思うがどう思われるだろうか。
  



 

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阿和須神社

 埼玉県比企郡滑川町には淡州神社、大雷淡州神社等、「あわす」という変わった名称の社が多数存在する。嵐山町太郎丸、滑川町水房、滑川町伊古などに社は鎮座し、総本社の伊古速御玉比売神社は延喜式内社であり、江戸時代には淡洲明神とも称されていた。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。
 淡洲神社の祭神は速御玉比売命が多いのに対して滑川町水房の社は阿和須神社と表記しているが、大和国添上郡の阿波の神社を勧請したもので祭神は息長足比売命である。

所在地 埼玉県比企郡滑川町水房238-1
御祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
社  挌 旧指定村社
例  祭 春祭 4月15日 例祭 10月13日 秋祭 12月18日
        
 阿和須神社は埼玉県道47号深谷東松山線で森林公園方向に進み、滑川町役場北交差点を右折する。県道173号ときがわ熊谷線に移り、道なりに真っ直ぐ約5分くらい進むと、右側に水房集会所が見えるのでそこのT字路を右折ししばらく進むと関越自動車道のトンネルが見えるのでそこを潜るとすぐ左側に阿和須神社が鎮座している。
 駐車スペースは神社の西側に社叢があり、数台停めることは可能。だが駐車場は一の鳥居の逆方向にあるため、一端徒歩にて遠回りして鳥居方向に向かわなければならない。当日(平成25年8月15日)は大変暑い一日で、昼間の参拝は少々堪える。

 不思議と車道の先に社号標と一の鳥居がある。         一の鳥居、先に車道が見える。

 由緒の案内板が二の鳥居の手前、右側にある。          両部鳥居形式の二の鳥居

 阿和須神社 
 滑川町大字水房
 祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
 由緒
 当社の本宮は大和国添上郡にある阿波の神社である 垂仁天皇の曾孫三枝の別連の末裔が此の郷を開き後柏江郷の戸主直道継の末裔によって永仁年中(西暦1290年中)字御山の台に三柱の神霊を祀ったと伝えられる 寛永元年に至り祐海法師により現地に遷座し その後寛延2年11月金雄法師および氏子一同にて社殿を再建した 明治6年村社となり大正5年指定村社に昇格した
 祭事 新年祭1月3日 春祭4月15日 例祭10月13日 秋祭12月18日
 平成17年5月吉日  滑川町観光協会  滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用
            
                            開放感のある拝殿
            
            
                                 本 殿
 
 こちらの御祭神は大鞆和気命(応神天皇)、気長足日売命(神功皇后)、武内宿弥命の三柱で伊古乃速御玉比売神社と同じだが、洲と阿和須で「あわす」と読み方が同じでも、こちらは大和国添上郡の阿波の神社を勧請したものなので、速御玉姫命とは関係無いようだ。

            境内社 八坂神社                  八坂神社の隣にある境内社 稲荷神社
          
                ゆったりとした静かな時間が流れる。大切にしたいものだ。

        
                                                                

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吉見神社

 熊谷市相上(あいあげ)地区は荒川の南に位置し、国道407号線上に隣接している冑山神社に近く、行政区域としては熊谷市だが吉見町との文化的、経済的にも繋がりが濃い。この相上地区には吉見神社が鎮座している。この吉見神社は延喜式内社 横見神社の論社、比定社に紹介している書物も多い。
 この相上地区は地形上、東西に和田吉野川が流れ、北側の無谷、高本地区との境界線を形成している。この和田吉野川(一級河川)は嵐山町の溜め池を水源とする、用排兼用の河川で、比企丘陵の谷地を江南町、滑川町、熊谷市と西から東へと流れてくる。吉見神社の北側に和田吉野川右岸の洪水を防ぐために江戸時代初期に造られた相上堤の堤防は長さ千百三十間(約2034m)”とあり、荒川の合流地点までの和田吉野川の右岸側を防御するための堤防であったようだ。

 なお、相上堤の南側延長線上には縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。古の吉見の地は、現在の比企郡吉見町ではなく、この吉見の地だった可能性も捨てきれないような気がしてならない。

所在地     熊谷市相上1639-1

主祭神     天照大神?
社  挌     旧郷社
例  祭     4月17日


地図リンク
 吉見神社はとうかん山古墳から埼玉県道257号冑山熊谷線を道なりに北上し、和田吉野川の上に架けられた漆喰橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見え、そこを左折すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
 
              県道沿いにある一の鳥居
 
一の鳥居を真っ直ぐ進み突き当り右側にある二の鳥居        参道の先に社殿がある

               神楽殿

 『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だったというくらいで、境内摂社・末社が非常に多い。
 
                       参道左側の末社群                                    末社群の先にまたある末社
左から天神宮、金毘羅大神社、頭大宮、辯才天女宮等  三島・興玉・秩父・瀧祭・玉造・斎・浅間・日枝
                                                                               雨降加々美・二荒・水分養蚕・豊受荒魂など

     
摂社 から伊奈利神社・東宮社・天神社            拝殿の右奥の方にも末社がずらりと並んでいる            
                                             詳細は不明         
 
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。

村指定無形民俗文化財 相上神楽
 指定  昭和五十四年五月十四日
 所在地 大里村大字相上
 期日  七月十五日、吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
                                                      掲示板より引用



           吉見神社拝殿(上段)及び本殿(下段)

 吉見神社は古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったようだ。敷地内には安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などが祀られている。水防祈願と思われる水に関する神様である。なお、社殿の北側には沼があるが、そこには藤原長盛の大蛇退治の伝説がある。
 新編武蔵風土記稿には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものだろうか。

 『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。

 和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。

 
また『大里郡神社誌』にもこのように記されていている。

 
大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と

 
とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。

 この「須永」、「須長」氏について「埼玉苗字辞典」ではこのように記述されているので紹介する。

須永 スナガ
 須中、須長、砂永、砂賀に同じ。須は金(す)、那は国、加・賀は曷(か)で村の意味。中・永は奈良・那羅と同じで、鉄(くろがね)の産出する国、村を須永と称す。此氏は毛野氏に率いられて渡来し、渡良瀬川及び利根川流域の上野国、下野国、武蔵国に土着し、三ヶ国以外には無し。毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)は、韓半島南部にあった加耶諸国の呉国より毛野族須永氏を率いて上野国山田郡川内村(大間々町川内、桐生市川内)に土着し、其の地を別称須永郷と唱え、後世は須永御厨と云う。桐生市川内に氏寺の崇神寺あり。足尾銅山に従事した鉱山師集団である。武蔵国では荒川、都幾川の砂鉄の採れる流域にも存す。

須長 スナガ 大里郡相上村(大里町) 大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と。寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。(中略)風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう。明治九年副戸長須長宣冬・天保十二年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に松山町須長宣冬。昭和三年興信録・所得税に「吉見村・須長常章・百一円、須長富夫・十円」あり。五戸現存す。

 
相上の須長氏について日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろうとの記述が上記で記しているが、この中にある「高魂命」とは高皇産霊神(タカムスビ)のことで、熊谷市の高城神社の祭神でもある。また本来日奉連とは宮廷の太陽神祭祀に奉仕するための部であろうということは、諸説が認めているところであるが、その日奉連の祖先が高皇産霊神であるという事には正直驚いた。もしかしたら太陽神祭祀とは天照大神がその対象ではなく、日奉連の直系の先祖である高皇産霊神ではなかったか、という事になるのではなかろうか。それと同時に高皇産霊神と御諸別王にも何かしらの接点があるのだろうか。

 なんとなく取り留めのない書き出しになってしまったが、御諸別王と吉見神社の須長氏、また高城神社の高皇産霊神には何かしらの関連性はあることだけは確かなようだ。


                                                                                                                      

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中蒔田椋神社

所在地    埼玉県秩父市蒔田2167  
主祭神    猿田彦命 大己貴命 天下春命
         (合祀)菅原道眞 大山津見命 素盞嗚命 大山津見命 武御名方命 大地主命
社   格    式内社 旧村社 
社   紋    抱き稲
例   祭    3月3日

 
                   
地図リンク
  中蒔田に鎮座する椋神社は、秩父鉄道大野原駅から、直線で北西2kmほどの場所にある。秩父橋を越えて、299号線を西へ道なりにまっすぐ進むと大きくカーブしている場所があり、蒔田交差点の手前のT字路を右折すると正面に蒔田椋神社のこんもりとした森の空間がそこにある。
  東南向きに小じんまりとした境内があり、中央に社殿がある。また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。
  永禄年間に甲斐国領主武田信玄の進行に遭い兵火に罹り、社殿・古記録を焼失し、社領も没収されたという。その後宝暦十三年に社殿を再建し、明治六年に、熊谷県より、延喜式内と称することを許可された。
                      
                      
椋神社
 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。
                                                  昭和27年神社明細帳
            
                                本   殿
  
中蒔田椋神社は、秩父地方でも古風の形態の神楽である秩父神社系神楽を今日も百数十年間も継承し、秩父市指定無形文化財に認定されているそうだ
   

市指定無形文化財
中蒔田椋神社の神楽
 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。
 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。
 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。
 昭和47年4月6日 指定
 秩父市教育委員会
                                                                                                                 境内案内板より引用

 
     
社殿右側境内社八坂・産泰神社        社殿右側に鎮座する境内社稲荷・八幡神社

 


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上蒔田椋神社

  創立年度は不詳ながら、一説によると景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越えると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まるという。その後当所の椋の大樹の下に大己貴命を奉齋して椋大神と称したという。
 永禄12年(1569年)に武田信玄によって焼き払われ、その後は衰退し、江戸期は秩父神社によって管理されていた。
 毎年3月3日にはお田植え祭が行われる。この祭は、椋神社の境内を田んぼに見立てて、酒を飲んで赤ら顔になった氏子代表12人が神部となり、ユーモラスに田植え唄を歌いながら模擬的な農作業を行い今年の豊作を祝う祭である。

所在地    埼玉県秩父市蒔田2842  

主祭神    大己貴命 (配祀)猿田彦命
社  格     式内社 旧村社 
社  紋    葵
例  祭    3月3日(お田植え祭)


地図リンク
  
 上蒔田に鎮座する椋神社は、中蒔田椋神社より南西に約2㎞弱、国道299号を小鹿野町方向に進むと道路の北側にあり、参道入口の鳥居が見える。小さな丘を背負う立地条件で拝殿の奥は山林が続くがこれはこれで大変趣がありなんともいえない気持ちの良い時間が流れる。天気も良く、また開放的な空間にこの社は鎮座しているため、なんとなく長居をしてしまった。
 社地の500メートル手前には蒔田川がながれる。この蒔田川は荒川水系の一支流で、丁度皆野町の椋神社や大塚古墳あたりで荒川と合流する河川であり、この皆野地方の椋神社が河川にも関係があるのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 
    
国道299号線沿いに一の鳥居と社号標がある。
 
     参道の先に二の鳥居や社殿が見えてくる。
 
      拝殿。拝殿の家紋は葵の紋が付けられていた。
 
市指定民族資料
蒔田椋神社御田植神事
 この社は遠く「延喜式」に載る古社で、ここに伝わる御田植神事は春の農作業に先がけた三月三日(旧暦の頃は二月三日)今年の稲作の豊穣を願って行われます。境内にしめ縄を張りめぐらして御田代に見立て、鳥居の外には、わらで龍を形どった水口が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人の神部が選ばれ、その中の二人が作家老となって神事の主役となりますが、神部のいでたちは、烏帽子に白装束で、手には鍬を模した竹製の農具をもって演じます。
 祭典ののち坪割り(四方固め)つづいて水乞い神事に丹生神社までまいり、水ぬさと呼ぶ御幣をいただき御田代水口に立て、田仕事が始まります。苗代つくりから種子播き、本田の耕起から田植までの実際の農耕順序にしたがい「御代の永田に手に手をそろえて、いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承している貴重な民族資料です。
                                                    秩父市教育委員会
 
                 本   殿

                                                                                    
  





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