古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

蛭川駒形神社

 平重衡は平安時代末期の武将で、父は平清盛で五男。母は清盛の継室・平時子で宗盛、知盛らとは同腹。本三位中将と称され、源平合戦、正式には治承・寿永の乱で活躍する平家方の大将の一人である。兄知盛と並んで武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。
 武将として重衡を一言でいうならば「不敗の将軍」といえよう。長兄重盛とは違い、重衡が誕生した保元2年(1157年)から保元・平治の乱を経た平和期に成長期を過ごした為、戦争を知らなかったはずであるのに、初陣24歳にして戦えば連戦連勝という輝かしい戦歴を誇ることは、それだけでも異彩を放つ才能の人物だったであろう。父清盛も重衡のその才能を期待してか、それまでの子供につけていた「盛」を付けずに、伊勢平氏の父祖である平維衡にあやかって「衡」とつけたものと思われる。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
 本庄市児玉町蛭川地区の駒形神社の境内には一の谷の合戦の後、捕えられた平重衡の首を蛭河庄四郎高家が持ち帰り供養した塚と伝えられる首塚がある。
所在地    埼玉県本庄市児玉町蛭川214
御祭神    駒形大神(天照大神他6神で構成、推定)
社  挌    旧指定村社
例  祭    不明 

        
 蛭川駒形神社は埼玉県道75号線を旧児玉町方向に進み、大天白交差点を右折し、国道254号バイパスを真っ直ぐ進む。しばらく進むと、国道462号と交じる吉田林交差点に着くのでそこをまた右折し、そのまま約5分位まっすぐ進むと、道路沿いで左側に駒形神社が見える。
              
                   道路沿いに鎮座する蛭川駒形神社正面参道
                
                         社殿の手前にある御神木
            
                               拝    殿
 蛭川氏は。庄氏より分派した氏族であり、児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男である庄四郎高家が、児玉郡の今井郷蛭川荘(蛭川・熊野堂・今井村から成る)の蛭川村に移住して蛭川氏の祖となった事から始まる。姓は藤原だが、本来は有道。蛭川氏の一族は、『吾妻鑑』などの資料に名が見える。
 社伝では、児玉党の本宗家2代目である児玉弘行が神田を若干寄進した事が伝えられている。弘行が社殿を修理した時期は、児玉党祖である児玉惟行の没後と考えられ、11世紀末から蛭川の地が児玉氏本宗家の所領内であったと伝えている。

        社殿の左側にある境内社群        境内社群の手前にある石祠 祠の台座は石棺か?
 
    本殿の奥には合祀社(写真左)や、そこから少し離れた場所にも石祠が1基(写真右)存在する。 
              
             
                           蛭川駒形神社本殿
 拝殿もどちらかと言えば素朴な造りだが、意外と本殿は彫刻などが施されており、壮麗さとある意味妖艶さも醸し出している。

 ところで、冒頭平重衡を紹介したのだが、この平重衡は連戦連勝の「不敗の将軍」と書いたが、最後の最後に1回だけ敗戦を喫している。それが有名な「一の谷の合戦」だ。そしてそこで重衡は生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、庄四郎高家によって生け捕りになったという。庄四朗高家はもちろん蛭川氏の先祖となる人物だ。
 この庄四朗高家は後に重衡が斬首された首を当地に持ち帰り、篤く祀ったという。それが蛭川駒形神社の隅にある「平重衡の首塚」である。
           
                    本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
                                                  現地標柱案内文より引用

 平重衡は平家方の大将の一人として、兄知盛と並んで勇将として全国にその名は知られていた。その重衡にとって一大事件として起こったのが南都焼き討ちで、東大寺や興福寺を焼失させ、この合戦の顛末により重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまう。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
 ただここで重衡側の弁護すれば、南都に対しては、平家は最後まで、平和的に話し合いを望んでいた。この戦いの前に平家の忠臣妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれにまったく応じず挑発的な行為で答え、清盛に決戦を挑んだことが原因である。元々当初から、南都は平家と対立し、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは合戦の最中の不慮の事故ではあるが、南都の僧侶側が自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くないと思われる。時代は下るが織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件とほとんど詳細は同じである。いや織田信長には比叡山の壊滅を計画的に画策していたから信長のほうが遥かに重いというべきか。
 その後も重衡が参戦した墨俣川の戦いや、備中水島の戦いにも勝利し、福原まで進出し、平家軍は京の奪回をうかがうまでに回復していた。
 そして重衡唯一の敗戦である「一の谷の戦い」で名だたる公達が多く討死にするが、平家でただ一人生け捕りにされ、この勇将の戦いはここで終わる。

 重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。 『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
 そして、壇ノ浦の戦いのあった元暦2年(1185年)、重衡は東大寺に引き渡され、妻・輔子との最後の再会を果たした後、斬首された。享年29歳。 時代に翻弄されたとはいえ、太く短く駆け巡る人生で、最後はどのような気持ちでこの短い人生を締めくくったのだろうか。
 重衡の将才としての才能はもちろんだが、平時において心遣いを忘れない気を利かせる、冗談も言うユーモアを持った人物だったという。容貌は「艶かしいほど清らか」と記録が残るほどの美男。また、詩や笛など教養にも優れていた。

 蛭川地域にあるこの伝承が事実かどうかの真偽はあえてここでは問わない。ただ平安時代末期からの歴史がこの蛭川地域に確かに存在していて、それを発見できたことが自分にとってかけがえのない財産の一つとなったことはたしかだ。

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金屋白髭神社

 本庄市には「九郷用水」と言われる灌漑用水がある。この用水の由緒は諸説あり、かなり古いことは確かなようだ。この用水の北側に東福寺があり、その縁起には「昔、この地方は旱魃になやまされ、農民は苦労していた。そこでこの国の国造が、金鑽神社(神川村)に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」とお告げがあった。不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消した。その高台がここ東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水(灌漑面積600ha、流路長さ約15km)であると伝えられている。」という。
 この縁起に記されている「国造」は令制国以前にあった行政区分であり、このことからこの縁起が記された時代の上限はかなり古く感じられ、またこの国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと思われる。さらに神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
 そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと筆者は推測する。
所在地    埼玉県本庄市児玉町金屋1164
御祭神    猿田彦神(推定)
社挌、例祭  不明

       
 金屋白髭神社は、国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、途中金屋保育所交差点の手前約200m、進行方向の右側に鎮座している。境内は決して広くはないが、この社が鎮座している「金屋」という地名には興味があったし、その地域名からか社の雰囲気も中々趣のある感じだ。駐車場は北側に隣接している第二金屋公民館があり、そこに停めて参拝を行った。
           
                            金屋白髭神社正面
 この社の参道正面には社殿を遮るように御神木の大杉があり、参道もその大杉を避けて迂回して造られている。日本人古来の巨木に対する信仰がまだまだ残っていて、参拝の最初から早くもカウンターを食らった感じを覚えた。

        国道沿いにある社号標石             参道を遮る御神木に並行してある境内社
                
    金屋白髭神社参道正面に聳え立つ御神木の大杉。但し樹齢はそれほどではないように思える。
              
                              拝    殿
 この社には残念ながら由緒等の案内板がない。式内社である武蔵国二宮金鑚神社から数キロしか離れておらず、この「金屋」という地域の由来はかなり深いはずであり、その点が非常に残念だ。
           
        
             
                           金屋白髭神社本殿
  金屋白髭神社から国道462号線を西に5km程行くと金鑽神社が鎮座する。この金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。
 社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
 さて児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里町阿那志は古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。
 白髭神社が鎮座する「金屋」地区は古くから製鉄・及び鋳物師が存在していた。製鉄・鋳物と用水開削は一見何の関連性のない分野と思われがちだが、「掘削技術」を共通項目として考えるならばいささか早計ではないだろうか。その点は埼玉苗字辞典でも以下の記述があり、参考にしてもらいたい。
中林 ナカバヤシ
同郡金屋村(児玉町) 児玉記考に「旧家中林喜三郎、祖先を中林佐渡守と云ひ、倉林越後守の実弟なり。旧幕の頃は世々忠蔵と通称し、地頭の組頭役を勤続せり。文政の初年迄は倉林家と同じく盛んに鋳物師を営み全国百八軒の其一たりし」と見ゆ。天正年間の倉林越後守と兄弟説は附会にて、遥か是以前より鋳物師であった。多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。金屋村懸仏銘に「長享二年戊申六月吉日、武州児玉金屋中林家次」。静岡県富士山頂浅間神社懸仏銘に「天文十二年癸卯六月吉日、武州児玉金屋中林常貞」。大滝村三峰神社懸仏銘に「天文十四年乙巳八月吉日、三峰大明神、武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」。小平村成身院文書に「文禄四年、阿弥陀如来座像造立之檀主中林加賀守・中林主計助・中林若狭守」。当村真福寺文禄四年墨書銘に旦那中林加賀守・中林主計助。上州世良田村東照宮元和四年燈籠奉納に金屋村中林仲次。川越鋳物師寛政六年小川文書に「児玉郡八幡山金屋村いものし・中林由右衛門・同庄右衛門・同伊左衛門・同治兵衛・同治右衛門・同太郎兵衛」。秩父郡金沢村西光寺天保十五年半鐘銘に児玉郡金屋村鋳物師中林庄右衛門。当村円通寺嘉永五年地蔵尊に中林伊左衛門・中林利七・中林定五郎母なみ・中林善兵衛母すみ・中林源治郎妻くめ・中林仙蔵妻りよ。当村元治元年二十二夜塔に中林善兵衛・中林茂助あり。
真継 マツギ 我国鋳物師の元締にて江戸時代に京都の真継能登守斎部宿祢は、足立郡川口町や児玉郡金屋村の鋳物師等を支配す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
金屋村(児玉町) 金屋は金打の義で古代以来鍛冶・鋳物を業とする集団の居住地にて、小名倉林は此氏の屋敷名なり。(中略)秩父郡薄村薬師堂鰐口銘に「天正十五丁亥年十一月十五日、武州秩父郡薄之郷薬師堂鰐口処、大旦那北条安房守氏邦、武州児玉郡金屋村細工大工棟梁倉林若狭守政次」あり。風土記稿金屋村条に「天正中は倉林越前守・村民政右衛門が先祖知行せり。(中略)倉林文書(埼玉の中世文書)に「戌三月二十日(天正十四年)、伝馬三疋可出之、上州之鋳物師に被下、可除一里一銭者也、仍如件、自小田原西上州迄、宿中、垪和伯耆守奉之」あり。上州鋳物師宛てにて、前橋市上新田の鋳物師倉林氏宛てなり。金屋村倉林氏が買い求めた物であろう。児玉記考に「○旧家倉林甚四郎、先代を政右衛門と通称し、祖先を倉林越後守と云ふ、越後守は嘗て上杉修理太夫政実より旧賀美郡安保村に於て知行七貫文を与へられたる名族の後胤なり。爾来連綿同族三十有六戸皆繁盛を極む。○旧家倉林太郎兵衛、祖先は甚四郎に同じ。仁安元年(平安時代末期)始めて鋳物師となり、往時全国百八軒の其一なり。紫宸殿へ燈炉を献納し禁裏御用附となり、爾来、主上御即位毎に必ず参内せり。天福元年菊の紋章を許され現に門扉の座金に此章を附す。維新前は世々地頭の名主役を勤め苗字帯刀を許さる。



 埼玉苗字辞典では金屋地区の鋳物師は同時に鍛冶師であるという。時代は下るが平安時代以降から活躍した児玉党も金鑽神社を信奉し、崇敬していた一族という。
 金屋地区も金鑽神社を信奉する鍛冶師、鋳物師が居住していた地域だったからこそ、後世にこの地名が残ったのではないだろうか。

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下児玉金鑚神社

 金讃神社は、総本社である神川町二ノ宮に鎮座している式内社、旧官幣中社という格式の高い同名社が有名であるが、本庄市、美里町にもその関連する社が非常に多く分布している。元々この地域は武蔵七党の一つ、「児玉党」の本家筋にあたる児玉氏の本拠地とも言われ、氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国、武蔵介として下向し、その子息の有道惟行が児玉党の祖となったといわれている。
 児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
 児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており、そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。

         
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町下児玉322
             ・御祭神 天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
             ・社 挌 旧下児玉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 43日 大祓 728日 例祭 1019
                  新嘗祭 1215
 地図  https://www.google.com/maps/@36.2049214,139.1605877,16z?hl=ja&entry=ttu 
       
 下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
           
                           下児玉金讃神社正面
  
         入口付近にある社号標石              住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
  「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
 元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
 
         下児玉金讃神社正面参道                                    社殿手前左側にある神楽殿
                          
                                     拝 殿
            
                        拝殿左側に設置されている案内板
金讃神社 御由緒     美里町下児玉三二二 
□御縁起(歴史)
 児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(一三九〇)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
 このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
 一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(以下略)
                                                         境内案内板より引用
            
                      境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
                       
                     境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
 この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
                  
                             下児玉金讃神社 遠景

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関兒玉神社

 
       
             ・所在地 埼玉県児玉郡見美里町関374
             ・御祭神 仁徳天皇他13柱の神
             ・社 挌 旧関村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 関兵霊神社祭 213日 八坂神社祭 725
                  例祭 1015
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.194797,139.1846486,16z?entry=ttu 
 
 関兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。
       
                    神社遠景 小ざっぱりした開放的な空間
               一の鳥居に掲げてある額には「児玉」ではなく「兒玉」と書かれている。
           
                               神楽殿
 参道を進みすぐ右側に神楽殿がある。柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。
「美里町の文化財」には、関の兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられているといい、現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しているという。
           
                                拝  殿
 兒玉神社の創建年代は不詳だが、言い伝えによると鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したという。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したという。
             
        境内に設置されている案内板                     本 殿
○兒玉神社  御由緒    美里町関374
□御縁起
 
美里町関は山崎山丘陵から志戸川流域に広がる農村地帯で、川輪・倉柱・八幡関・大関・小関・芝原・田中の字がある。川輪は猪俣党川勾氏の本貫地とされ、江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。社伝によると、当社は鎌倉時代に関村出身の関城院という修験者が、大和国大峰山で修行を行い、満願後に帰村の途中、鶴岡八幡宮に通夜して霊夢を感じ、当地に若宮八幡宮を創建したのが始まりという
 明和元年(1764)には、関村名主遠藤兵内を中心に過酷な伝馬助郷の免除嘆願の直訴(伝馬騒動)が起きた。これにより増助郷課徴は中止されたが、兵内は獄門の刑に処せられた。しかし、郷土を救った義民として崇敬が強く、文久三年(1863)白川家御近習席中嶋数馬により、神祇伯白川家より正一位の官位を受け「関兵霊神」として境内社に祀られた。
 明治四十年四月十七日に近郷の十三社を合祀し、社号を若宮八幡社から児玉神社と改称した。例祭には相模国から伝承された獅子舞と「川輪の神楽」が奉納される。また関兵霊神祭や例祭には「兵内くどき」が奉納される。
                                                           案内板より引用                                                    
            
                            社殿の奥にある石祠群
 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。
            
        石祠群の並びで、本殿の後ろ側に祀られている義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)

○義民義民遠藤兵内お宮改築記念碑
 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。 
                                                         美里町史より引用
         
                          鳥居の左側にある御神木
            

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猪俣二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する猪俣二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。

       
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣2145
             ・御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
             ・社 挌 旧猪俣村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭日 415日・1015
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1484768,139.1808087,16z?entry=ttu
  
 猪俣二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
           
       高台院からの道を道なりに進むと一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
           
                        猪俣二柱神社 二の鳥居
 
         鳥居に掲げてある社号額                    鳥居周辺に案内板あり

○二柱神社 御由緒    美里町猪俣二一四五
□御縁起

 猪俣は、武蔵七党の一つである猪俣党の本拠地であったことで知られる。猪俣党は、横山党の祖である武蔵介小野義隆の弟横山時資をその祖とし、那賀郡・榛沢郡に勢力を広げたとされ、とりわけ、猪俣小平六は保元の乱(一一五六)や平治の乱(一一五九)では源義朝に従って武功を上げ、のち源頼朝に従って一ノ谷の合戦(一一八四)で平盛俊を討ったことで名高い。地内には、この小平六の居館と伝えられる平安時代の館跡や、室町時代にその子孫が築いた山城の猪借俣城などがあるほか、猪俣党にかかわる旧跡が多い。
『児玉郡誌』によれば、当社は、古老の口碑に猪俣氏が代々崇敬した社であると伝え、永禄六年(一五六三)天正十六年(一五八八)の二口の鰐口が伝来するという。しかし、永禄六年の鰐口は江時代に別当であった正円寺に現存するが、天正十六年の鰐目は現存せず、代わりに当社に元禄十五年(一七〇二)の鰐口及び寛政三年(一七九一)の棟札が現存する。また、当社は江時代の『風土記稿』猪俣村の項に「聖天社二宇村の鎮守なり、正円寺の持云々」とあるように、元来は聖天社と称したが、神仏分離後に二柱神社と社号を改めた。
 御神前に野菜(二又大根)が供えられる事がある。これは江戸時代、聖天信仰が盛んに行なわれた事で、聖天様は二又大根が大好物であることに由来する。当二柱神社も聖天様として沢山の参拝者があったと言われている。
                                                            案内板より引用

         
                                拝 殿
 猪俣二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。
 
    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額                   本 殿
            
                          社殿の左側に並ぶ境内社
 境内社(写真右)は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等
                   
                      社殿の右奥、山の斜面上にある境内社            
           
                       拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                          美里町史より引用

猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                            案内板より引用
            
                    
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山
 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
                   
                       二柱神社に隣接した正円寺の案内板
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

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