古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長沼八幡宮


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市長沼町231
             
・ご祭神 誉田別命(第15代応神天皇)
             
・社 格 旧長沼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭(元旦) 節分祭 2月上旬 春季例祭 43
                  
水神祭 7月中旬 例大祭 1017日 秋葉祭 1123
 国道462号線を本庄市街地から北上し、利根川に架かる「坂東大橋」を渡り、群馬県に入る。その後、「八斗島町」交差点の先にある信号のある十字路を右折し、1㎞程東行したのち、十字路を左折する。暫く道なりに進み、韮川に架かる「八幡橋」のすぐ先に長沼八幡宮は鎮座している。
        
                  
長沼八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「長沼村」の解説
 下道寺(げどうじ)村の南にあり、北方を韮(にら)川が東流する。西は八斗島(やつたじま)村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切(くびきれ)沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼(むこうながぬま)と称したという(伊勢崎風土記)。
        
           鳥居を過ぎた参道右側に設置されている案内板
 長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をし、後鳥羽天皇の建久6年(1195)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると社殿を造営した。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住み、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。その後時代が下るなかで、郷土鎮護の神として氏子の方々に崇敬されたという。
 創建当初は長沼邑字四ツ矢に鎮座していたのだが、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座したとの事だ。
 
     参道を進んだ左側にある神楽殿     参道を挟んで神楽殿の向かい側にある手水舎
        
                    拝 殿
 八幡宮由緒書
 祭神 誉田別命(第十五代応神天皇)
 当社の創建は、後冷泉天皇の御代、康平五年(一〇六二)源頼義が奥州鎮定の途中、山城国石清水八幡宮の御分霊を祀り戦勝祈願した地といわれ、後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると神威を畏み社殿を造営したと伝わる。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住むに当たり、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。さらに、正親町天皇の天正十一年(一五八三)皆川山城守広照が長沼城を築いたときに社殿の大修理が行われ、皆川氏滅亡の後は、郷土鎮護の神として崇敬されることとなった。
 当社はかつて長沼村字四つ矢という地に鎮座していたが、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座された。
 明治八年(一八七五)に村社となり、同四十一年(一九〇八)に字八幡道下の八幡宮(分社)を合祀し、大正三年(一九一四)には社殿の回収が行われた。
 昭和四十七年(一九七二)には社殿、神楽殿、水舎の回収と鳥居、社務所が新築され、同六十二年(一九八七)に境内社秋葉神社の遷座祭が斎行され今日に至る。
 八幡道下の遺跡には、明治十二年(一八七九)に産土神と神武天皇陵の遙拝所として、天明の大洪水で流れついた溶岩により築かれた養気山がある。住民の敬神崇祖融和団結の象徴として今日までその遺風は守られ、昭和五十四年(一九七九)十一月三日には創築百年祭が盛大に執り行われた。傍らにには、速秋津姫命を祀った水神宮の小祠があり、水神祭はここで斎行される。
 祭日
 一月  一日  歳旦祭
 二月  上旬  節分祭
 四月  三日  春季例祭
 七月  中旬  水神祭
 十月 十七日  例大祭
 十一月二十三日 秋葉祭
 境内社
 秋葉神社 火産霊命
 稲荷神社 宇迦之御魂命
 飯玉神社 宇気母智命
 熊野神社 櫛御気野命
 伊 宮   大日孁命
                                    境内案内板より引用
        
             拝殿向拝部等を飾る彫刻は江戸時代の名匠河内守弥勒寺音八の作
 河内守弥勒寺音八(音次郎ともいう)は旧長沼村の出身で、天保14年京都白川王殿に謁し、弥勒寺河内守の称を授けられたという。透し彫りの名人で、晩年郷土の安泰を祈願し、畢境の妙技を凝らして竜の透し彫を作り、八幡宮に奉納したという。
        
       拝殿正面に掲げる「八幡宮」の奉額は、幕末の書家三井親和の筆墨
                  厳然たる風格が漂う。
       
                    本 殿

 社殿左側奥に祀られている境内社・秋葉神社    秋葉神社の奥に祀られている石祠四基
秋葉神社の左側並びの建物は物置となっていた。        詳細は不明。
       
             石祠四基の並びに祀られている大黒天
       
                   境内の様子 
 長沼八幡宮の鎮座する地から1㎞程南側に「養気山」と呼ばれる溶岩に覆われている高さ8m程の築山がある。この溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火で噴出した溶岩をこの地に集めてできた小山ということのようだが、この公園は「養気山公園」というそうだが、八幡宮外苑という別名を持っていて、嘗て長沼八幡宮が鎮座していた地であるといわれている。氏子の方々もこの「養気山」に対する崇敬の念は今でも健在で、毎年春季例祭において、「養気山」の参拝を欠かさず行っているという。



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板」等 

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牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

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日出安駒形神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市日出安9701
             
・ご祭神 大日孁貴神
             
・社 格 旧日出安村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 714日 例大祭 1015
 戸崎八坂神社から埼玉県道305号礼羽騎西線を南下して新川用水(騎西領用水)に達する丁字路を左折、用水沿いの道幅の狭い道を900m程東行し、路地を右折すると、日出安集会所とその東並びに日出安駒形神社が進行方向左手に見えてくる
 社の西側に隣接する日出安集会所には広い駐車スペースあり。
        
               日出安駒形神社正面一の鳥居
            鳥居の左側にある石碑は「伊勢参宮記念碑」
『日本歴史地名大系』「日出安村」の解説
 正能村・外川村の東にあり、集落は騎西領用水右岸の自然堤防上にほぼ東西に連なる。田園簿によれば田高一九五石余・畑高二九七石余、川越藩領。ほかに根古屋村金剛院領三〇石、保寧寺領一〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六一〇石余、反別は田方二五町余・畑方三六町余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに二四六石余があった。
 
   手入れの行き届いた参道の両側      朱を基調とした両部鳥居である二の鳥居 
      には赤松林が並ぶ。
 嘗て当社の別当は旧根古屋村金剛院。この金剛院は、新義真言宗にて、旧山城国(現京都府)醍醐報恩院の末山という。この醍醐寺は真言宗醍醐派、別名当山派といわれ、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されている修験道の一派であるため、金剛院が別当として管理していたこの社の鳥居が両部鳥居であるのも納得できよう。
『新編武蔵風土記稿 日出安村』
 駒形權現社 村の鎭守なり、根古屋村金剛院持、もと金剛院は當社の傍にありしが、文祿の頃根古屋村へ移れりと云、已に寺領も當村にあり、當社も慶安五年の御朱印を賜ふ、神體は古き木塊の如くにて詳にのべがたし
『新編武蔵風土記稿 根古屋村』
 金剛院 新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所藏せる古器蓋の裏に、文祿五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、

 二の鳥居の右側で、道路沿いには「天保九年銘日出安邑扶助田記念碑」があり、加須市指定史跡に指定されているが、丁度参拝時間がお昼過ぎの休憩時間で、何台もの業者のトラック等が道路沿いに駐車されていて、撮影が困難であった。案内板も設置されており、その内容はここに明記する。因みに『加須インターネット博物館HP』の「昔ばなし」の項には、【39 日出安村の「扶助田」】として昔話調で内容で紹介している。
 町指定史跡
 天保九年銘日出安邑扶助田記念碑
 碑面上部に「積金贖質田記」(金を積み、質田を贖う記)とあり、以下にその由来が漢文で記されている。天保九年(一八三八年)正月造立。
 この頃日出安村では質入や売却した田畑が数百畝にも及んだ。これを憂えた篤志家らは、質金を蓄え生活に困窮する村民に貸し与えた。また、村民も日々節約し農業に励み、数年後には田畑を買い戻すことができた。その為、天保六・七年は全国で凶作による食糧難に苦しんだが、ここでは村を逃げ出す者がいなかった。そして同九年、生活に余裕のある人々が私財を出し合い、五十畝の麦田を設けることとした。これを扶助田とし、その収入をもって困窮する者を救い、零落者(落ちぶれる者)が出ないことを目指した。
 なお、当碑の書と撰文は幸手宿の儒者、金子竹香である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 駒形神社  騎西町日出安九七〇(日出安字中耕地)
 日出安は騎西町の北部、新川用水(騎西領用水)右岸に位置する農業地帯である。当社の境内は、八二〇坪と広く、脇を新川用水が流れる静閑な地にあるため、氏子の憩いの場となっている。
 当社の創建については、口碑に「上杉謙信が根古屋城を攻める時、乗って来た馬が死んだため、その馬を悼んで祀ったもの」と伝え、『明細帳』には「往古陸前園胆沢郡水沢町鎮座駒形神社の分霊を祭ると古老の口碑に有せり」とある。なお、この社の祭神は、往古駒形神あるいは神馬ともいわれ、馬を保護し、その病を治し給うとして厚く信仰された。
 慶安五年には五石の朱印を受けている。
 現在、祀職は新槙家が二代にわたって務めているが、神仏分離以前は現在根古屋にある金剛院が別当を務めていた。金剛院は、かつては当社と境内を同じくしていたが、いかなる理由からか慶長年間に根古屋に移ったという。
 なお『明細帳』による祭神は大日孁貴神で、内陣には三本の幣束と一体の神像(石造の座像)とが納められている。明治四〇年八月八日に字新道下の神明社と字中の稲荷神社が合併を許可されているが、実際には合祀は行われなかった模様である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある社の扁額       拝殿手前に設置されている社の案内板
 
                                   本殿(写真左・右)
 当社には特別な信仰やご利益はないが、昔から鎮守様として祀られている。この駒形様は相撲が好きだといわれ、かつては八幡講相撲と称して七月一四日の夏祭りには草相撲が行われていた。この八幡講相撲は幕末か明治の初めになくなったというが、拝殿内にある安政四年に奉納された絵馬から当時の様子を偲ぶことができる。
        
             境内に祀られている石祠四基と奉納碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
                  
  

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正能諏訪神社

 玉敷神社は、埼玉県加須市騎西にある神社。式内社で、旧社格は県社。元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社的存在の神社である。
 社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載され、小社に列格している。江戸時代までは「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48箇村の氏神でもあって、広く地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。
 実は、この歴史ある社は当所からこの地に鎮座していたわけではなく、元は現在地より北方数百メートルの埼玉郡正能村(現:加須市正能)に鎮座していた。戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。『新編武蔵風土記稿 正能村』の「小名」には、その時の歴史の痕跡がしっかりと残されている。
「宮内 騎西町場久伊豆社元當村にありし頃、供免地のありし所故此唱あり、今も久伊豆神社河野穩岐此地を持とす」
「一夜塚 永祿五年謙信騎西の城を攻陥せし時、一夜に築て士卒屯せし地なるゆえかく唱ふと、或は戰死の屍を埋めし塚とも云ふ、」
 その後、江戸時代に埼玉郡根古屋村(現:加須市根古屋)の騎西城大手門前に再建された後、寛永4年(1627年)ごろに現在地に遷座したという。

 正能諏訪神社は旧正能村の作神で、創建年代等は不詳であるが、信州の諏訪大社より勧請したと伝えられている。別当は幕末まで真言宗竜花院が務めていた。現社殿は江戸時代終りごろの嘉永3年(1850)に再建された。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀している。
 毎年7月27日の例祭に行われる「カマドッカエ」は、作神であるお諏訪様に鎌を奉納して五穀豊穣を祈る行事である。
        
              
・所在地 埼玉県加須市正能2001
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧正能村鎮守
              
・例祭等 春祭り 427日 例大祭(夏祭り) 727日 
                   秋祭り 
1027
 戸崎日吉社から一面長閑な田畑風景が続く農道を800m程東行し、埼玉県道305号礼羽騎西線に達する路地を右折、旧騎西町市街地方向に南下する。500m程進んだ先のコンビニエンスストアが見える交差点の先に十字路があり、そこを右折すると正能諏訪神社が見えてくる。
 社の境内東側には適度な駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
正能諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「正能村」の解説
 騎西町場および外川村の北にあり、集落は騎西領用水に沿う自然堤防上に立地する。慶長七年(一六〇二)の正能村の年貢銭納状(正能家文書)がある。元和七年(一六二一)の武州崎西領正能村地詰帳(同文書)によれば検地役人は私市城主大久保家の家臣で、田方は一七町五反余であった。田園簿によれば田高・畑高ともに一八一石余、川越藩領。ほかに竜花寺(院)領二〇石があった。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三九五石余、反別は田方一九町一反余・畑方一九町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに一六〇石余があった。検地は正保四年(一六四七)実施。
        
                    拝 殿
 諏訪神社  騎西町正能二〇〇(正能字当開戸)
 当地は新川用水に沿う集落で、かつてここには式内社の玉敷神社も久伊豆神社という社名で鎮座していたことがある。『風土記稿』には、小名宮内とあり、これは当地に久伊豆神社の供免地があったために付けられた名で、久伊豆社移転後もここは河野隠岐持ちであった。
当社の創建は明らかではないが、口碑によれば信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝える。
 祭神は建御名方命であり、内陣には金幣を祀る。
 別当は、幕末まで真言宗竜花院が務めていたが、明治期に入り神仏分離となり、以来神職が奉仕するようになった。初め河野家が、次いで森野家が務め、現在は新横家が継いでいる。
 明治四〇年に字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀した。このうち、雷電社は現在も旧地に石宮が残っている。以前ここには松の大木が一本生えていたことから、この辺を一本木耕地と称し、雷が来る度に黒雲が松の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、このあたりの地主三名は雷神に感謝し、明治一七年に石宮を建立している。
 当社境内には、明治から昭和にかけて奉納された伊勢太々講の記念物が多い。例えば、石灯龍・狛犬・社号標・玉垣などである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿向拝部、及び木鼻部の彫刻         境内には社の案内板も設置されている。

 当地は玉敷神社との結びつきが強い。これは「埼玉の神社」の興で挙げた通り久伊豆神社が奉遷されここに鎮座していたことと、玉敷神社の神楽師に正能の氏子が当たることになっていることを考えてもうかがうことができよう。現在、玉敷神社に所蔵されている文政五年の神道裁許状(神楽役)を見ると、中に神楽役の青木左近藤原貞勝・青木右門藤原保道・青木主馬藤原正直の三名が記されているが、いずれも正能の者と思われる・なお、現在の神楽師の中にも青木姓が多いとのことだ。
             
             境内にある丸正講先達富士登山成就記念碑
 丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されている。
       
                   丸正講先達富士登山成就記念碑の案内板
 町指定有形文化財 
 丸正講先達富士登山成就記念碑
 江戸時代、富士山に集団で登拝する信仰が隆盛し、富士講(浅間講)と呼ばれた。この講は先達を中心に組織され、そのひとつが丸正講の青木先達家(正能・青木浩家)であった。
 青木先達家は、一行初山の行者名を名乗る半右衛門を講祖に、元禄十二年(一六九九)には富士登山三十三回の大願を成就、以後、二代誠行二山、三代三行鏡山、四代泰行清山と続き、五代正行信山、六代正行生山の頃には傘下に四、五千人を有する関東屈指の大講社となった。
 ここに造立する碑(嘉永五年(一八五二)十月二十六日銘・総高四一二センチメートル)は、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもの。台石には建碑に関係した村名や人名が刻まれ、その影響力は五十里(約二〇〇キロ)四方に及んだという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        
       境内には石碑等並んでいて、その中に「水天宮」が祀られている。

この水天宮に関しては、「加須インターネット博物館HP」の中の「昔ばなし」において「新川(にっかわ)べりの水天宮」として以下のように紹介している。
「新川(にっかわ)べりの水天宮」
正能・諏訪神社に水天宮があります。水天宮はお産の神様で妊娠すると、安産を願ってお参りをしました。水天宮は、むかしは龍花院の南、ちょうど鐘楼堂近くの新川べりにありました。この神様は、第2次世界大戦の後、ここへ引っ越してきました。
むかしは川で溺れる人や水の事故で亡くなることが多かったようです。特に水の犠牲<ぎせい>になった人を探すのは大変難しく、どうやっても見つからないことがありました。そんな時、有り難いおまじないがありました。水天宮のお札です。このお札をお盆にのせ、川上から流します。不思議なことに、人が沈んでいるところに来るとお盆がグルグル回りだしたといいます。
こうして何人もの人が見つけだされたということです。しかし、川の改修で水の事故も減り、このお札もいつしか使われなくなりました。
 諏訪神社の境内に立つ水天宮は、高さ約80センチほどの石の祠で、正面に「水天宮」と書かれている。江戸時代の安政2年(1855)、正能村の人たちによって建てられたとのことだ。


【戸崎八坂神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市正能88付近
              ・ご祭神 素盞鳴尊(推定)
              ・社格・例祭等 不明
正能諏訪神社のすぐ東側で、埼玉県道305号礼羽騎西線沿いにあるコンビニエンスの道を隔てた反対側に戸崎八坂社は鎮座している。江戸期には「牛頭天王社」として『新編武蔵風土記稿 戸崎村』に記載されていて、明治40年戸崎諏訪神社に合祀されたが、現在も元地(字下耕地)で祀られているという。
       
                  戸崎八坂神社拝殿
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
 諏訪社 村の鎭守なり 〇牛頭天王社 以上寶光寺持
 寶光寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、諏訪山瑠璃院と號す、開山空鑁、本尊不動は智證大師の作、長二尺の坐像なり 薬師堂

「埼玉の神社」による戸崎八坂神社の由緒(戸崎諏訪神社項から)
 明治四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「玉敷神社HP」「埼玉の神社」
    「加須インターネット博物館HP」Wikipedia」「境内案内板」等
      

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小島諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市小島4414
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 春祭り 43日 大祭 827
 本庄市小島地域は、元小山川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。
 この地域は、本庄市街地から西側に位置し、古代のある一時期は上里町全域と児玉郡神川町の一部を合わせた区域である賀美郡に属していたらしい。
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる、
        
                  
小島諏訪神社正面
 途中までの経路は小島唐鈴神社を参照。小島唐鈴神社の参道入口の一の鳥居から南下し、「小島4丁目」交差点を右折、埼玉県道392号勅使河原本庄線を北西方向に進む。ちなみにこの県道は、旧中山道であり、国道17号から県道に降格された路線で、起点である上里町大字勅使河原から終点の本庄市諏訪町の「日の出」交差点に至るまで、国道17号および高崎線に並行しているとの事だ。
「小島4丁目」交差点から県道沿いに300m程進み、路地を右折する。道幅の狭い道路と住宅がそれなりに並び、四方見通しがきかないため気をつけながら北上すると、正面にこんもりとした如何にも古墳らしき塚とその塚全体を囲む社叢林が眼前に広がり、その入り口には真新しい小島諏訪神社の鳥居や狛犬が見えてくる。
 
  鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     鳥居の手前で左側にある由緒の案内板
        
                            石段上に鎮座する小島諏訪神社
                    社殿前で右側には五重の石塔が立っている。
       
                  
小島諏訪神社社殿 
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 諏訪社 長松寺持 下同じ、〇稲荷社二 〇牛頭天王社 〇愛宕社 〇智方明神社 村民持、
 長松寺 新義眞言宗、江戸護持院末、唐鈴山藥師院と號す、開山宥海正保四年十月十六日化す、
     本尊藥師、

 諏訪神社 御由緒  本庄市小島四--一四
 ▢御縁起(歴史)
 小島は、利根川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。地内には、多数の古墳(旭・小島古墳群)が存在していたが、昭和三十年代後半からの急激な宅地造成によって、その数も激減してしまった。
 当社は、そのうちの一つの円墳上に祀られる。創建については伝えられていないが、地内の今井達雄家には、享保十二年(一七二七))に長松寺の住僧慶尊が新兵衛と名乗る者に宛てた文書が保管されている。その内容は、享保十二年より長松寺が諏訪大明神の別当となり、願いにより畑一反一畝一一歩の年貢上納を行うが、「神前之義」は新兵衛らが行うようにというものである。これに続いて、「寛永五年(一六二八)新兵衛ト改名ス、明暦四年(一六五八)此所へ移ル、万治二年(一六五九)此所へ諏訪大明神鎮座ス」と記されている。
 今井家には新兵衛と名乗っていた伝承はないが、同家は古くから「お諏訪様」と呼ばれている。口碑によれば、当社の氏子 の先祖たちは信州から移住した時は台地の下に住んでいたが、中山道整備に合わせて台地上に屋敷を構えるようになり、諏訪神社も今の場所に鎮座することになったという。前記今井家文書に「元禄十一年(一六九八)面地ヲ買置」と書いてあるのも注目される。
 明治に入り、長松寺の管理下を離れた当社は、無格社とされた。(以下略)
                                                                    案内板より引用
        
              社殿の左側に祀られている稲荷社
        
  鳥居の右側に並列し祀られている六基の庚申塔や二十二夜塔、一番右側には
御手長大明神。

 社の氏子は『明細帳』によれば「氏子六十七人、内戸主十四人」と載るように、古くからの一四戸が氏子であるという。ゆえに、氏子区域は、字元屋敷の中でも社の南側の一部の範囲に限られている。
 この限られた氏子を三組に分け庚申講を結成していた。一年の最後の庚申の日に持ち回りの宿に集まり、「庚申祭り」と称して床の間に猿田彦のお姿を描いた掛軸を下げ、その前にお供え物をしてから揃って手を合わせ、その後、料理を御馳走になりながら皆で酒を酌み交わす。この庚申講は歴史が古く、社の鳥居脇には享保七年(一七二二)の庚申塔をはじめとして、各年代の庚申塔が六基立っている。
 六基の庚申塔の一番右側には廿二夜塔が立っている。上記の男性が集まる庚申講に対して、氏子の女性だけで二十二夜講を結成し、かつては、毎月二十二日の日中に宿に集まり、二十二夜様の掛軸の前にお供え物を上げ、お茶を飲みながら雑談していたというが、今は春・秋の年二回だけとなっている。
 社が鎮座している地名は字元屋敷という。この字名の由来として「本庄の地名」では、中世の豪族の屋敷があった場所という。古い集落があったと思われ、江戸時代になって中山道が村内を通過すると、街道沿いに集落が移動していったのではないかと思われる、と載せている。
        
                  小島諏訪神社遠景


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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