飯塚・招木古墳群
・名 称 埼玉県指定史跡「飯塚・招木古墳群」
・所在地 埼玉県秩父市寺尾226 他。
・時代区分 古墳時代終末期(7世紀後半〜8世紀前半)
飯塚・招木古墳群(いいづか・まねきこふんぐん)は、埼玉県秩父市寺尾にある群集墳で、荒川左 岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径5〜27m、高さ1〜4mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。
国道140号彩甲斐街道を皆野町から黒谷聖神社方向に南下し、「和銅大橋前」交差点を右折し、そこから500m程進んだ道路の周囲がこの古墳群となるのだが、秩父地方最大の群集墳に通じる道路ゆえか、この道路自体「招木古墳通り」と名づけられている。
招木古墳通り沿いにある89号古墳。嘗て「氷雨塚」と呼ばれていたという。
1977年(昭和52年)和銅大橋の架設による秩父市道38号線(現、秩父市道幹線8号、通称招木古墳通り)の新設に伴い、路線にかかる招木地区の古墳7基の発掘調査が行われた。その内の1基である89号古墳が市道脇に移築復元されていて、石室は玄室の控え積みを強固にし、周列石を2、3列巡らす児玉地方でよく見られる築造方法がとられている。
この89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていた。
「氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數カ所あり、其内二つは沖なり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、又一ヶ所は四尺に四尺五寸の口にて、奥行四尺五寸許、是も石にてつみ立たるのにて、何れも上は大石二三枚を亘せり、此二つは口罅缺して、中も能く見えたり、其餘數多の塚は中のさまは知れず、此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、下同じ、」
この89号古墳には埴輪が出土せず、副葬品も乏しいことから7世紀後半から8世紀前半にかけ、郷戸主層が築造した古墳群であるとみられている。
89号古墳前に設置されている案内板
古墳復元について
復元古墳名 飯塚招木古墳群89号墳
古墳原位置 秩父市大字寺尾三四五番地
復元現地の北、約30米市道上
復元試行 昭和56年12月8日〜同57年3月30日
一、発掘復元の事情一飯塚市招木地区は国道への連絡がきわめて不便で、この地に道路を敷設することは地区発展にきわめて重要でした。しかし、たまたま古墳群所在地のため発掘調査を必要としたものです。
発掘調査に当り文化財保護と鎮魂の立場より後日復旧の希望があり、今回実現をみたものであります。
二、復元古墳の規模・構造一復元された89号墳は市道道路敷にあった七基中の一基で、長・短径約11米、高2.5米、玄室長2.6米、羨道長2.4米、石材は羨道部は俗称真石、玄室部は砂岩室の平石を用い持送り式、棺床礫を床にしき、閉塞施設は真石を積み上げています。
三、出土品一人骨片・土師・須恵器片・蔵骨器・鉄鏃・刀子等・僅かであります。
四、仕様一復元は原形を目標とし、破壊部分は推定復元を行なった。この復元古墳によりこの地の古墳の携帯・構造の大体を把握することが出来ます。この地の古墳は七世紀から八世紀初頭営造と推定されます。(以下略)
案内板より引用
89号墳の近くにも古墳群の碑が建っている。
この古墳群は、幸いにも近代の開発の影響が少なく、群集墳の様子を最もよく残している日本でも数少ない重要な遺跡である。古墳はすべて円墳で一二四基が確認されている。荒川の左岸段丘上に分布し、墳丘の裾部が重なり接し合う状態はまさに蜂の巣穴のような密集ぶりである。耕作地としうる平地に乏(とぼ)しく、現在でも人口の少ないこの地域にかくも大規模な群集墳が営まれたのは不思議な感じさえする。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」「記念碑文」等