古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

冑山神社

 国道407号線は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫し混雑が激しいこの道は、関東平野の西端を走っている事もあり、国道129号や国道16号と組み合わせ、神奈川県西部や多摩地域から埼玉県西部、群馬県方面に向かうルートとして利用されている。不思議なことに東山道武蔵路はこの国道407号線上と並行していたと大体においては考えられているが詳細は完全には解明されていない。この国道407号線沿いに甲山神社は鎮座する。
  甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約51メートルの丘陵上に構築された古墳で、古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられたという。
 この古墳は、墳形が中段にテラスを持つ円墳で、規模は南北径が約90m、高さが約11.25mある。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径105m)についで県内第二位の大きさを誇り、全国でも4番目の大きさの円墳だそうだ。
  墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているように見える。
  この古墳の正式な発掘調査はなされていないようだが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた太刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されている。
 この甲山古墳とともに、北へ約1km先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長74mの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられている。

所在地  埼玉県熊谷市冑山1
祭  神  兄多毛比命
       誉田別命
       大山咋命
       素盞鳴命(明治四十二年に八雲神社を合祀)
社  格  旧村社
例  祭  不明

        
地図リンク
  大里冑山神社は国道407号線熊谷市から南方向、東松山市と吉見町との堺に鎮座する。住所を見ると熊谷市冑山1となっており、この地域の中心に位置しているといったところだろうか。南には1km足らずで大谷瓦窯跡があり、また吉見郡の延喜式内社である伊波比神社、横見神社、高負彦根神社も近隣にあり、大里郡に属する地域でありながら比企郡との関係は深かったろうと思われる地形だ。
  律令時代この冑山地方は比企郡の管轄であったとの考察もある。平安時代前期、九・十世紀ごろと推定される「九条家延喜式背紙文書」にみえる「大里郡条里坪付」は、大里地域に広がる水田地帯に施行された条里を示すものとされるが、その文書によると、当時の冑山、箕輪地域は横見郡内に相当することとなっているようだ。
 
                           
                                                          冑山古墳 遠景
            
埼玉県指定文化財 史跡 甲山古墳
 指定 平成元年三月十七日
 所在 大字冑山字賢木岡西
 甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約五一メートルの丘陵上に構築された古墳です。古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられました。
 この古墳は、墳形が中段にテラスをもつ円墳で、規模は南北径が約九○メートル、高さが約一一・二五メートルあります。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径一○五メートル)についで県内第二位の大きさをほこっています。
 墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているようにみえます。
 この古墳の正式な発掘調査はなされていませんが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた大刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されています。
 この甲山古墳とともに、北へ約一キロメートル先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長七四メートルの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられています

                                                               案内板より引用
 古墳の中腹に冑山神社拝殿、兼本殿が鎮座している。
                 

  拝殿の裏に回ると石段が墳頂まで伸びて、山頂には八幡神社がある。このような形態は初めてで、どう見ても山頂にある八幡神社の方が立派に見える。
                
                            
                                                               八幡神社本殿
 八幡神社本殿は宝暦二年(1752年)に造られ、昭和五十四年五月十四日に熊谷市指定有形文化財に登録された。一間社流造で本殿の壁面のみならずほとんどの部分に彫刻が付けられた素晴らしい建物である。
  『埼玉の神社』によると、慶長十三年(1608)に村人が古墳を発掘し、剣・鏡・五?玉・土偶・土馬などが出土したが、その後間もなく村に病がはやったので、塚を埋め戻し、祟りを鎮めるため墳頂に八幡神を祀った。一方で、冑山には文永年間(1264~1275)に勧請された日吉神社が村社としてあり、明治四十二年、すでに冑山神社と改称していた八幡神社と合併し、日吉神社を冑山神社と称するようになったが、その後、八幡神社本殿の東下に日吉神社の拝殿が移築されて、現在の冑山神社の姿になったという。

                   



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白髪神社

 所在地   埼玉県熊谷市妻沼1038
 社  格   旧無格社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
 祭  神   白髮大倭根子命(白髪武廣國押日本根子命=清寧天皇)
        (配祀) 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命 (合祀)須佐男之命
 由  緒   江戸時代は「白髪神社」と称していた
 例  祭   4月1日  例祭

                     
地図リンク
 白髪神社は妻沼小学校、大我井神社の北側で利根川の南岸、県道407号線の東側の畑の中にポツンと鎮座している。社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。稲荷神社が合祀されているようで、鳥居も赤い。
         
         
  あるサイトに書いてあった通り、こじんまりしていて、見た目では式内社の雰囲気は全く感じることができなかった。参拝中には気がつかなかったことで後になってわかったことだがグーグルにて地形を見ると、この社は珍しい西向き社殿だった。
              
                 社殿のすぐ先には利根川の堤防が見える。

 現地に行くとよくわかるが、白髪神社の地域は利根川右岸の低地に位置していて、氾濫すればこのくらいの社はすぐ破壊される。このことから、古代からここに神社があったとはとても考えにくい。元々は高岡稲荷神社であり、そこに聖天宮から白髪神社を移し併祀したのではないかとする説もあるようだが、この小さな社が、ただ「白髪神社」と名称されたことだけで延喜内式内社であるとは到底思えない。

  すると、もともとは大我井の森(聖天山)にまつられていた白髪神社だったが、後世何らかの理由で、現在地に移された、という考え方のほうが至って無理がないように思えるのだが、どうであろうか。

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大我井神社

 熊谷市妻沼(めぬま)埼玉県北端、元大里郡の町で、熊谷市の北に接し、利根川南岸の低地を占める。かつて利根川の氾濫の多かった地域で、自然堤防や後背湿地が交錯し、水田と畑が相半ばしている。中心集落の妻沼は、江戸時代には治承3(1179)年に斉藤実盛が守本尊を祀つたことに始まる歓喜院の門前町として、また利根川の渡船場、河岸場として栄えたという。

 この「めぬま」は、中世に利根川の氾濫によって大きな二つの沼ができ、女体様を祀る沼を女沼と呼び、近世になってこれを目沼となり、妻沼となったことによるとされている。


所在地   埼玉県熊谷市妻沼1480‐1
社  格   旧村社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
祭  神   伊邪那岐命、伊邪那美命
        (配祀) 大己貴命
        (合祀) 宇迦之御魂神/倉稲魂命、品陀和氣命/誉田別命、
             天照大神、速玉之男命
                  天穂日命/天菩日命、石凝姥命/鏡作神、菅原道真
由  緒   景行天皇40年創建(伝承)
       治承3年(1179)聖天社
       建久8年(1197)歓喜院を開設
       慶長9年(1604)社殿造営(聖天宮)
       明治2年大我井神社造営
       明治6年3月村社、同40年10月神饌幣帛料供進指定

例  祭   4月17日 例祭

地図リンク
 大我井神社は国道407号線を東に入った妻沼聖天山の東、妻沼小学校のすぐ南に鎮座する。専用の駐車場はなく、社務所近くの若干のスペースに駐車するか、近くにある妻沼聖天院の駐車場に止めて歩くかなのだが、社務所近くの若干のスペースに停める事にした。
  
 参道は思っていたよりは広く開放的だ。また参道の左側には石が祀られている。何の石なのかはわからないが、神が宿るとされる磐座(いわくら)かもしれない。 
磐座 
 
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火に対 する信仰である三輪山や富士山などの神奈備(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。 
 
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座 と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
 
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 
現在では御神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

 参道を北に歩くと正面に唐門が立つ。以前は、若宮八幡宮の正門だったが、若宮八幡宮が当社に合祀された後、当社境内に遷されたものという。
 
                                                                                       大我井神社唐門の由来
 
当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した
時に昭和三十年十月吉晨なり

                                                                                                                    境内案内板より
   
             拝  殿                 拝殿に掲げられた「大我井神社」の扁額
 
                                        神明造りの本殿
 拝殿、幣殿、本殿共に飾りの少ない重厚な造りで道路を挟んで隣接する聖天院の本堂(本殿?)とまさに対照的な社だ。

武州妻沼郷大我井神社
 大我井神社は遠く神皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
 古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
 なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています』
                                            境内案内板より
 
                                             富士塚
石段脇には角行霊神や身禄霊神、小御嶽大神、冨士浅間大神などが並び、塚頂にも冨士浅間大神。

                                                                                             明治時代以前までは、聖天宮と混祀しされ、神仏分離令によって、明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。同2年に社名を二柱神社から、古来以来の森の名にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営し、現在の形となった。また、西側聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。その聖天宮が、式内・白髪神社とみられているが、何故、最初から白髪神社と称さなかったのかはわからない。それとも称することができない理由があったのだろうか。

  

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聖神社

  秩父市黒谷に鎮座する聖神社は、秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える蓑山(現箕山、美野山、美の山)から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。慶雲5年(708)に高純度の自然銅(ニギアカネ)が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされている。
  この神社の西方を流れる荒川の対岸、大字寺尾の飯塚、招木(まねき)の一帯に、比較的大規模な円墳の周囲に小規模のものを配するという形の群集墳があり、現在124基が確認されているが、開墾前は200基を越えるものであったと推定される盆地内では最大規模の古墳群を形成している(県指定史跡飯塚・招木古墳群)。築造年代は古墳時代の最終末期(7世紀末から8世紀初頭)と見なされるが、被葬者と和銅の発見・発掘とを関連づける説もあり、更にその主体を渡来系民族であったと捉える説も出されており、また、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀も出土している。
  鎮座地和銅山の主峰簑山には、初代の知知夫国造と伝わる知知夫命に因む故事がある。

  当地方を霖雨が襲った時に命がこれを止めんと登山して祈願したといい、その際に着ていた蓑を山頂の松に掛けた事によって「簑山」と呼ばれるようになったという。 

  その知知夫命は美濃国南宮大社境内に居住していたとの伝もある事から、南宮大社が古来鉱山・冶金の神として信仰を集めている事や「美濃(みの)」と「簑(みの)」との照応が注目されている。
  最近では和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。


所在地    埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191
御祭神    金山彦命 鍛冶屋の神、金工職人の職神、金物商の神
         国常立尊 始源神・根源神・元神(神世七代最初の神)
         大日?貴尊 皇祖神のひとつ、太陽の神
         神日本磐余彦命 日本国初代天皇
         元明金命 奈良時代初代天皇、第43代天皇(女帝)
社  格    旧村社(神饌幣帛料供進神社)
創  建    伝 和銅元年(708年)
例  祭    4月13日   ( *和銅出雲神社 11月3日)

     
地図リンク
 聖神社は国道140号線(彩甲斐街道)を秩父方面に進み、皆野町を過ぎると左側に「和銅遺跡」入口の看板と聖神社の社号標石があり、そこを左折すると100m弱で聖神社の駐車場に到着する。(但し駐車場スペースは4、5台位停めるのがやっとで非常に狭い)
 この黒谷という地域は、秩父市の主要道である国道140号線の北端に位置していて、いわば秩父の玄関口とも言える。行政上秩父市の管轄ではあるが、地形上の関係で、皆野町との経済的、文化的な交流が盛んだったろうと推察される。皆野町椋神社は聖神社の北側3km足らずに鎮座し、その中間地点には、秩父地方最大の古墳である円墳大塚古墳がある。

円墳大塚古墳
 秩父市との行政境に近く、荒川右岸に形成された低位段丘に立地している。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残る。墳丘は、直径約33m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周する。深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。築造年代は古墳時代後期(7世紀中頃)
 
      円墳大塚古墳 石室部撮影                   大塚古墳 案内板
   
  
第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させたが、その発見地は当神社周辺であると伝える。

                                       
                       国道沿いに建つ社号標
 社伝によれば、当地では自然銅の発見を記念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬(ヒモロギ)を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀り、銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置して金山彦命と国常立尊、大日?貴尊、神日本磐余彦命の4柱の神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めて「聖明神」と号したのが創祀で、後に元明天皇も元明金命として合祀し「秩父総社」とも称したという。
 

                   社殿にある由来書と和銅
説明書き
 なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されたが、現存される和銅は2塊のみである。
             
 
本殿は一間社流造銅板葺。宝永6年(1709年)から翌7年にかけて、大宮郷(現秩父市)の工匠である大曽根与兵衛により市内中町の今宮神社の本殿として建立されたものであるが、昭和39年(1964年)に当神社本殿として移築された。彫刻に桃山文化の遺風が僅かに残り、秩父市内における江戸時代中期の建造物としても優れている事から、昭和40年1月25日に市の有形文化財(建造物)に指定された。
           
 
また本殿左脇に大国主命を祀る和銅出雲神社が鎮座する。11月3日に例祭が斎行され、黒谷の獅子舞が奉納される。昭和39年に旧本殿(文化4年(1807年)の竣工)を移築したもので、一間社流造銅板葺、向拝中央に唐破風、脇障子に彫刻を飾る。加えて本殿右手には八坂神社が鎮座する。

 ところで荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀が出土している。この蕨手刀は注目に値する。


蕨手刀
 古墳時代終末期の6世紀から8世紀頃にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例。太刀身の柄端を飾る刀装具である柄頭が、蕨の若芽のように渦をまくのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。
                                           
日本全国で200点以上が確認されている。ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。発見場所の分布は北海道・東北地方が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。




 現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもあるがまだ断定できていない。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されている。岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』だが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられている。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴だ。
 出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものだったが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質していく。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた) 蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われている。

 関東地方で見つかるのは珍しい蕨手刀が聖神社周辺で発見されたことから、蕨手刀発祥の地に推定される信濃諏訪、佐久地方と東北蝦夷地方と東山道を通じてこの地が大きな関わりを持っていたと思われるが詳細は不明だ。

  またこの黒谷地域及び秩父地域には多胡碑で有名な羊太夫伝説が数多く点在する。
 小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。この「お塚(古墳)」は小鹿野町指定史跡になっている。文化財解説によると「お塚」とよばれるこの古墳は、長留川左岸の段丘に位置し、高さ3米、直径15米の円墳である。墳項部には「お塚権現」と称する小祠が祀られている。古墳時代後期、7世紀ごろのものと推定される。地元では「お塚」を羊太夫の墓とする言い伝えがある。羊太夫とは群馬県吉井町にある多胡碑にまつわる伝説上の人物であると思われ、当地域の伝説との関連が注目される。」とある。そして、俗に「お舟観音」と呼ばれる札所32番法性寺には羊太夫が納めた大般若経があったという。さらには、札所1番の四萬部寺の経塚は、羊太夫が納経したとも言われている。

 
羊太夫伝説の伝承地の3分の2は群馬県多胡郡周辺に集中するが、このように埼玉県西部山岳地帯にもその痕跡は存在する。この事柄は何を意味するのか。蕨手刀、和同開珎と共に聖神社周辺には古代武蔵国のいくつかの謎を解く鍵を握っている地帯であるように思えてならない。


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鴻神社

 鴻巣市(こうのすし)は、埼玉県の東部中央、大宮台地の北端に位置する人口約12万の市である。都心から50キロ圏内にあたる場所に位置し、市の中央には旧中山道が通っており、それを挟むように、国道17号線とJR高崎線が通っている。市の西側には荒川が南流し、川を境に吉見町、東は騎西町、菖蒲町、北は行田市、川里村、南に桶川市、北本市と接していて、昭和30年代以降は住宅地の拡大や工場の誘致、バイパスの開通などにより、都市化が急激に進んでいる。
 鴻巣の地名は古来からのものらしい。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

 
古代から近世までの鴻巣市域は主に武蔵国足立郡に属し、一部の地域は埼玉郡、大里郡に属していた。日本書紀によると504年、安閑天皇より笠原直使主が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原郷(現在の加須市種足から笠原、久喜市菖蒲町付近)に拠点を持ったとされる。笠原から元荒川の上流10キロほど離れた埼玉郡埼玉(現在の行田市埼玉)にある埼玉古墳群は同時代の古墳であり、何の基盤の無い当地に突如として、関西地方に匹敵する中型古墳群が現れた事、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読める事から、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の笠原氏の古墳ではないかという説があるが、あまりにも少ない資料や出土品などから推定された仮説であることを忘れてはならない。
 また元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される

 当社は、子授け・安産祈願の社としても有名で、当社の「木曽檜樹魂塊(きそひのきじゅこんかい)」は、子授け・子育て・安産のご神体とされている。

所在地   埼玉県鴻巣市本宮町1-9
主祭神   素盞鳴尊  嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神
        速玉之男命 唾液の誓約力が速く玉の光のごとき霊力をもつ男性
        賀茂別雷神 雷神
社  格    旧村社 鴻巣宿鎮守
例  祭    10月14日


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 鴻神社は国道17号線を熊谷市から鴻巣市方面に向かい、宮地交差点を右折し、直進し約500m位、道路沿い左側に鎮座している。駐車場は境内に駐車スペースがあり、そこに停めることができる。市街地に鎮座する社で交通の便も良く、また社内は開放感があり、境内は掃除が行き届いていて清潔感もあり、平日であったが参拝客も多かった。



  江戸時代、鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。当初は市内宮地5丁目にあったが、後に現在地に移転した。なお、旧社地には現在も八幡、稲荷、氷川の三社の祠が残されている。

大本となった三社のうち
・ 氷川社は鴻ノ宮氷川大明神または端ノ宮(はじのみや)と言い鴻巣郷総鎮守として広く崇敬を集めた古社である。また「こうのとり伝説」の由来となっている社でもある。
・ 熊野社は古くは熊野権現と号した古社だが創建は不明である。近隣の豪族の深井対馬守景吉が永禄4年(1561年)に紀州熊野社を参詣して、その社地の霊土と御神燈を持ち帰り、鴻巣宿の熊野社の社殿の下に霊土を埋めたと伝えられている。
・ 雷電社は現在の鴻神社の場所にあり、竹林が多い事から「竹の森雷電社」とも呼ばれた


鴻神社 由来
氷川社
鴻巣宿字本宮390番地(宮地5丁目)
鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。
熊野社
鴻巣宿字本宮389番地(宮地1丁目)
熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地3000坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。
竹ノ森雷電社
鴻巣宿字東側2283番地(現在地)
雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(瀧馬室常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

 現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治6年9月24日に社号を鴻三社と定めた。
 明治35年から40年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治40年4月8日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
 ここには鴻巣市の文化財に指定されている「香具拾三組御定免」「議定書」「商人講中連名帳並焼印」等貴重な史料が残されている。またここ鴻神社では10月14日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。         
                                                   境内掲示板より引用

 
               神楽殿                       「なんじゃもんじゃ」の木
 
             田鴻の宮                         三狐稲荷神社
                 
                      鴻神社の御神体である夫婦銀杏
            
                           鴻神社 旧本殿


鴻巣」という名前の由来は、古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす)」と呼ばれたのが始まりとされ、それが「こふのす」となり、後に「コウノトリ伝説」から「鴻巣」の字をあてはめるようになったと云われているが、事実はどうであったのだろうか。まず漢字から連想してみると、鴻巣の字体は「鴻」+「巣」で本来の地名は「鴻」ではなかったかと推測する。そしてこの「鴻(コウ)」はいわゆる佳字で本来の名は別ではなかったのではないか。埼玉苗字辞典には次のような記述が掲載してあったのでここに紹介する。


河野 コウノ 高野(コウノ)の佳字なり。足立郡鴻巣郷周辺に多く存す。元鴻巣村(北本市本宿)より宿場を移して今の鴻巣宿(鴻巣市)となる。当宿の総鎮守氷川社は鴻ノ宮と称し、今は鴻神社と称す。鴻は高(コウ)の佳字で、古代に高ノ一族の奉斎神であったものを氷川に改称したか。(中略)

 この「鴻巣」という地名の本来の名は「高野(コウノ、タカノ)」であり、「高」一族が古来よりこの地に先住していたという。但し証拠は全くない。地名からの推察に過ぎないが、この鴻巣地方には「河野」姓が非常に多いことをどう説明したらよいのだろうか。


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