古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須影八幡神社

所在地     埼玉県羽生市須影1568
主祭神         
誉田別命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命
社  挌     旧村社
創  建      不詳


地図リンク
 国道125号行田バイパス砂山(東)交差点付近を左折し、道なりに真っ直ぐ直進すると左側に須影八幡神社が見える。平野部に鎮座する社としては比較的境内は広く、常に整備され綺麗である。専用駐車場はないが、駐車スペースは確保されている。今回は鳥居を挟んで道路の反対側にある駐車スペースに車を停めて参拝を行った。


 
                須影八幡神社拝殿
 「新編武蔵風土起稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九万石石斗余を賜う」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見える。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)までの間に、現在の本殿と拝殿を造営したものだ。
 
              本殿壁面の見事な彫刻
 
               本殿 反対側より撮影

所在地       羽生市須影
彫師        3代石原常八
彫物製作年代  安政5年(1858年)
 新編武蔵風土記稿に「村の鎮守なり、慶安2年8月24日、社領19石5斗余を賜う」と記されており、別当として蓮華寺の名がある。その最後の住職だった潮元が、安政4年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営した。拝殿の棟札には、安政5年再造、棟梁は当所の清水仙松、三村若狭正利の名がある。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲、上州雷電神社の造営にも携わった名家だ。彫刻は羽生市指定文化財になっている。
 本殿の西、北、東面羽目板には、「七福神、神功皇后縁起、大蛇退治、八幡宮地形つき」のテーマの彫物がある。八幡宮地形つきは、本殿建設工事の様子を表したもので、人々の表情がなんともいきいきとしている。テーマ的には他に類を見ないユニークなものだ。彫工は石原恒蔵主計(3代石原常八)。また拝殿棟札には市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名がある。
 
指定文化財 須影八幡社彫刻(彫刻 羽生市指定第26号 昭和44年3月20日)
 この八幡神社は。「新編武蔵風土記稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗余を賜う、」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見えます。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営したものです。
 本殿の壁面には西、北、東の3面に彫刻が2つずつ残されています。西側は「七福神」、北側は「神功皇后縁起」、東側は「大蛇退治」と「八幡宮地形つき」を主題としています。「地形つき」は、本殿の建設工事の様子を表したもので、写実的に精巧に作られており、そこに出ている人は、本人に非常によく似ていたといわれています。
 棟札によりますと、拝殿は安政五年(1858年)に再造され、棟梁として当所の清水仙松や三村若狭正利の名前が見えます。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲しており、市内常木の雷電神社や板倉町の雷電神社の造営に携わるなど著名です。彫工のなかには、市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名前も記されています。
 おのおのの彫刻の大きさは、縦1メートル、横2.1メートルです。
                                                    羽生市教育委員会
                                                      案内板より引用
 
   社殿奥にある境内社産泰神社と庚申塔               境内社 稲荷神社

 須影八幡神社が鎮座する羽生市須影地区は羽生市の南端に位置する。羽生市は古くから利根川の乱流の最も甚しい地帯で、自然堤防、河畔砂丘が存在し、一様な平坦でなく、高い部分を畑・宅地に使い、湿地を水田等に利用してきた。須影地区南方には利根川の旧流路の一つである会の川が流れているが、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だった為に沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。

 この河畔砂丘とは、利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された独特の地形であり、それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。とりわけ須影地区南方にある志多見砂丘は延長が3Kmにも及び大規模である。
 

 須影八幡神社の祭神に菊理姫命(ククリヒメノミコト)がいることも注目に値する。この菊理姫命は別名白山権現、白山明神、白山比咩(しらやまひめ)神と呼ばれているが、日本書紀では一箇所に登場するのみ。イザナミ、イザナギが夫婦喧嘩したときに仲裁したとしか書かれていない謎に包まれた国津神である。
 菊理姫神は、加賀の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神である。 一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。 同時に山は神霊の宿るところ。 山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。 それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。

 前段にて伊弉冉尊に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
 神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

 



 


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瀬山八幡神社、三ヶ尻観音山、踏鞴薬師堂

 瀬山八幡神社が鎮座する深谷市瀬山地区は、熊谷市三ヶ尻地区と隣接し、律令時代には大里郡、幡羅郡、榛沢郡との境界地域であったという。この地域は地形的には荒川北岸に位置し、荒川という名称らしく時代によって流域の位置がしばしば変わったと思われ、その結果境界域もその都度変化があったと思われる。この瀬山地区も現在は深谷市に編入されているが、古代のある時期三ヶ尻地区内に組み込まれていた期間があったことは多くの文献からわかっている。
 またこの地域は荒川の度重なる氾濫によって肥沃な土地となり、早くから稲作が行われて、また人口も多かったと言われ古代から栄えていた地域だったようだ。

 瀬山八幡神社で10月10日、11日に行われる「八幡神社屋台囃子」「八幡神社庭場の儀」は深谷市無形文化財に指定されている。

所在地   埼玉県深谷市瀬山398
御祭神   誉田別尊(ほむだわけのみこと)(御神体乗馬木彫神像)
社  挌   不明
例  祭   10月10日八幡神社庭場の儀 

       
 瀬山八幡神社は秩父鉄道明戸駅の近くで、国道140号と140号バイパスとの間に鎮座している。この地域はすぐ西側から側にかけて櫛引台地の裾野が広がる。この櫛引台地は荒川によって作られた古い扇状地が浸食されてできた沖積台地で、寄居付近を頂部としているが、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されていて、櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているとのことだ。瀬山地区の東端は櫛引段丘との境界部の東側にあたり、荒川北岸の氾濫低地(沖積地)を形成していて、瀬山八幡神社はその沖積地の一角に鎮座している。
       
           瀬山八幡神社入口 社殿の隣には広場があり、子供たちが遊んでいた。
  
       社殿の手前左側にある神明社               鳥居の右側にある稲荷社
   
            拝    殿                           本殿覆屋

 瀬山八幡神社に関して「大里神社誌」で気になる箇所があり、ここに紹介したい。

 以前は、例祭日は、正月11日であった。この祭のあらましは大里郡神社誌によれば次の通りである。
 10日の晩の「前夜祭」には、当番宿から神社への行列がある。当番宿とは、祭の世話をする四人の当番の頭(当番頭)の家のことで、当番酒宿ともいい、1年間、幣帛(御幣)を預る。前夜祭には氏子は皆、当番宿に集まり、神職が幣帛を捧げ持ち、前後をお伴の村(大字)の役員や氏子が、堤燈を携えて厳かに行進をする。神社の前庭には庭燎が焚かれ、殿内には燈篭が点される。  明けて11日午前10時から祭事が執行される。早朝に年番は真新しい大莚を10枚持ち寄り、神事が終ってのち、前庭にこの莚を敷く。社殿を背に中央に神職が座り、神職の左が区長(大字の長)、右に氏子惣代、以下定められた位置に着座し、祝盃を挙げる。おもむろに前年度の当番が暇乞いを告げ、既に選ばれている新年度の当番が披露される。そこで神職は、半紙を四つに切り、そのうちの一枚に鋏で穴を切抜き、それらを折畳んで籤を作り、新年番4人に抽籤をさせる。穴のあいた籤を引いたものが新しい年番頭と決定する。年番頭が年番酒宿となり、これを氏子惣代が発表する。こうして祝盃の宴は盛り上がって行く。
 宴の行事に「御供の儀」というのがあり、餅を取りあう余興の行事らしい。正月7日に氏子から餅米の寄付が集まり、9日に(当番)酒宿で、よく身を清めて餅をつく。この餅は「的り餅」ともいひ、手に入れた者は五穀も養蚕も大当りとなるといわれる。  「莚かぶせ」という行事は、
境内入口付近の池に莚を浸しておき、これを余興の座へ運んできて、皆にかぶせて廻る。餅の争奪に関連する行事らしい。珍しい行事なので、近郷からの見物人も多かったというが、「非文明の行事」という理由で近年(大正頃か)に廃止になった。餅の争奪ともども詳細な説明が欠けているのは残念である。  宴が終ると、新年度の酒宿へ幣帛帰還の式がある。記載はないが、おそらく夕刻に行なはれ、前夜祭と同じ行列が組まれるものと思われる。「酒宿」という名からも、古くはどぶろくが造られて、神社に供進されたようだ。
 今は、例祭は10月11日となり、「庭場の儀」に引き継がれている。
                                                 大里郡神社誌より引用

 ここには瀬山神社の境内入り口付近に「池」があり云々と書かれている。この池はその昔「少間池」と言われ、飯玉神社の項でふれた片目のドジョウの伝説が今でも残っている。俗にいう古代鍛冶集団伝説である。
 
 少間の池は、三尻(みかじり 熊谷市)の観音山から西南へ三○○メートル、瀬山の田圃の中にある。傍らに「少間様」という石宮が祀られている。昔は深い淵だったが、今は埋まって水もなく、ただ細長い池には葦が一面に茂っているのがみられる。
 伝えるところによると、この池に棲む魚はみな片目だったといい、瀬山の人々は「少間様」のお使いだといって、どこで捕まえても「少間様の池」に送りとどける(放つ)か、その場で逃がしてやったという。
                                                埼玉県伝説集成より引用

 瀬山八幡神社の「瀬山」も元々は少間が転じたものだという。また埼玉苗字辞典にも「狭山」について以下の記述がある。

狭山 サヤマ 入間郡勝楽寺村(所沢市)は狭山庄を唱える。同郡二本木村字狭山、木蓮寺村字元狭山、峯村字狭山、三ツ木村字狭山、高倉村字狭山(以上は入間市)あり。今の狭山湖(旧勝楽寺村)より宮寺郷(入間市)の附近一帯を狭山庄と称す。現在の狭山市は昭和二十九年の名称である。また、榛沢郡折之口村字狭山(深谷市)、瀬山村(川本町)一帯を狭山と称す。瀬山村条に「村の東に少間池あり、当国名所狭山の池は是なりと云々」見ゆ。

 
この瀬山八幡神社から国道140号バイパスに向かう道路のすぐ右側に「少間池跡」が存在している。現在は一面水田地帯となっていて石祠として残っているだけだが、元々は鉄穴流し(かんなながし、砂鉄を含む土砂を水で流し、各所に堰を設けた樋に通して、砂鉄と土砂とを選り分ける方法)をしていた際の鉱物の沈殿池だったと言われている。
            
                             小間池跡の石祠
 この「少間」は「さやま」と読む。すると不思議な共通点がある場所に誘ってくれる。この瀬山地区からよく見える山、「三ヶ尻観音山」だ。
                         
                                                             三ヶ尻観音山全景
三ヶ尻観音山
  平地である市内において独立した山で、眺望もよく、特に南方は視界が開けています。標高83.3メートル、周囲約850メートルで、松・なら・くぬぎ等で被われています。
カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 南麓にある龍泉寺は真言宗の寺で、渡辺崋山ゆかりの文化財(県指定絵画の松図格天井画・紙本淡彩双雁図、県指定古文書の龍泉寺本訪へい録)を所有しています。カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 「成人の日(1月の第2月曜日)」にだるま市が開かれます。

                                                       熊谷市ホームページより引用
  観音山は龍泉寺の裏にある山で熊谷市における景観地の一つです。周囲をとりまく豊かな樹林は人々の心に安らぎを与えるとともに野鳥の絶好の生息地伴っており、貴重な緑地として、ふるさとを象徴するものとなっています。
 林相としては主にアカマツ、コナラ、クヌギ、サクラなどから構成されています。
                                                                                     熊谷市三尻観音山ふるさとの森より引用
                                                                                       
  三ヶ尻観音山は残丘と言われている。残丘とは周囲の台地面に対して一段高くなっている丘陵地のことで、深谷市の仙元山、岡部町の山崎山なども同種である。埼玉県北部のこの辺りは、大昔から利根川、荒川が入り乱れて流れていて、川の流れでまわりだけがけずられていって、観音山の場所だけなぜか残った為、現在の形状となったらしい。
 この三ヶ尻観音山はその昔は「狭山」と呼ばれていたようで、文明18年(1486年)殼恵比国紀行には「弥陀(箕田)という所に明かして武蔵野を分侍るにの径の辺名に聞こえし狭山あり。朝の霜をふみわけて行くに僅かなる山の裾に形ばかりの池あり」と記されていて、この文中にある沙山池は三尻観音山の池であると推察される。また江戸中期に記された「江戸砂子」という書に「狭山は田夫瓶尻のはげ山といい、観音堂あり、力士門の額に狭山の2文字を顕す」とあり、古くから知られていた場所だった。
 また山頂には神名を刻んだ板碑がいくつも建てられ、昔は信仰の山でもあった時期もあったと思われる。延喜式内社、田中神社や、瀬山八幡神社から見る三ヶ尻観音山はまさにランドマークであり、戦略上にも押さえたい自然の要衝だ。

 ではなぜこの三ヶ尻観音山が昔「狭山(さやま)」と呼ばれていたか。この答えを考えてみると終始古代鍛冶集団がそのルーツであったのではないかと考えてしまう。つまり狭山の「サ」が朝鮮語の鉄を意味する「ソ」であり、またある説では「砂」つまり、砂鉄が取れる山という意味ではないかと推測する。観音山において鉄穴流しをした為に少間池はできたということだ。
 不思議なことにこの観音山直下には少間山観音院龍泉寺が存在し、この寺の御本尊は不動明王だが、別に観音山の中腹にある観音堂があり、そこには千手観音が祀られている。龍泉寺の宗派は真言宗豊山派に属し、本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)で、開山開基は1590年であると渡辺崋山は著書の『訪瓺録』の(ほうへいろく)中に記しているが、この千手観音は今から約1200年前この近くの狭山池の水中より出現したとの伝承があり、少なくとも観音堂は龍泉寺の開山開基よりも古い歴史があり、また龍泉寺正統の御本尊である不動明王とは違う歴史の系図があったと見るほうが自然だし、元々観音堂がこの地にあって、後から龍泉寺が建てられれ、この観音堂を吸収、合併したと考える。
 この観音堂に祀られている千手観音は何を意味しているのだろうか。狭山池の水中より出現したという時期が奈良時代という事は少なくともそれ以前に存在していたという事になる。「発見された」という客観的な表現ではなく「出現した」という主体的な表記に隠されたその意味は大変大きい。もしかしたら観音山の鉄穴流しと関連があるのではないか、と想像を膨らましてしまう。

  この三ヶ尻観音山の西側には薬師如来を本尊とするが存在する。別名踏鞴薬師堂。国道140号バイパス沿いなのでよく見える。この薬師堂は道路を隔てたすぐ西側に瀬山正福寺があり、その寺の管理下にあるが、歴史は古く、初代薬師如来は養老元年(717)春日仏師一夜の作と言われている。
           
                         田原(踏鞴)薬師堂全景
           
                        薬師堂の左側にある案内板

 この案内板には興味深い一文が掲載しており、「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」と書いてある。この一文の意味している意味は非常に重要で、この地「田原」は「踏鞴」であり、「タタラ」であり、古代鍛冶集団がかつてこの地域に活動していた何よりの証拠ではないだろうか。



                                                                                                                 
 

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玉淀水天宮

 
所在地   埼玉県大里郡寄居町寄居703
御祭神   不明
由  緒   県指定名勝玉淀の下流で発見された水神様を水天宮として改め、水難よけや安産、子育てなどを祈願して昭和6年に始められました。 寄居玉淀水天宮祭の付け祭りとして行われる花火大会と舟山車の競演は“関東一の水祭り”と呼ばれています。 平成12年実施の21世紀に伝えたい寄居景観ベスト10の第1位となっています。
                                                寄居町観光案内より引用
例  祭   水天宮祭 8月の第1土曜日

     
 玉淀水天宮は国道254号を寄居方向に向かっていき、信号機のある「露梨子」(つゆなし)の交差点十字路を右折して寄居の街中に入っていく。荒川に架かる正喜橋を越えてすぐのコンビニエンスのある十字路を右折してしばらく走ると左側に水天宮が見えてくる。但しこの道は道幅が少々狭く、また水天宮祭花火大会の規模に比べて以外に社自体は小さい。駐車場や専用駐車スペースもないので、前述のコンビニエンスに駐車し参拝を行った。
       
                                玉淀水天宮 正面
                
                           鳥居の左側に掲げてある案内板
玉淀水天宮
   昭和6年にこの地が「玉淀」(県指定名勝)と命名された後、神社の設置の話がもちだされ、探したところ川に面したところに石の宮があるのが発見されました。これは俗にいう水神様といってこの地方の漁師たちがお祭りして、水難除けの神様として信仰していることがわかり、当時の玉淀保勝会が直ちにこの水神の神体を基として水天宮を祀りました。

水天宮の縁日は毎月「五」の日であるというので、最初の大祭を昭和6年8月5日に挙行し、現在は8月の第1土曜日に盛大に行われています。祭事のあと「つけまつり」として、町内別の供奉船が花やボンボリちょうちん等で飾りたて、笛、太鼓等ではやしながら玉淀を遊覧し、多数の煙火が打ち上げられます。夏の祭りの美観は実にみごとなもので、寄居町の年中行事のもっとも大きい祭りとして、また、埼玉県内としての大祭の一つに数えられています・
現在、水天宮は、水難除けと安産の神様として広く信仰されています。
                                                玉淀水天宮案内板より引用
                
                                こじんまりとした拝殿

 玉淀水天宮はなんでも通称「本宮」といい、「奥の院」があるという。なんでも当地周辺が玉淀と命名されて埼玉県名勝に指定されたとき、神社設立の話が持ち上がり、周辺調査をしたところ、水神が発掘されたことから、水神を神体として創建したという。この水天宮の荒川に面した斜面の一角に石祠があるのだがそれが発掘された水神であり、ここが「奥の院」であろう。
(後で知ったのだが、奥の院は、その後の洪水の時流されてしまったので、現在のお宮はその後あらためて立てられたものだということ)
               
                                玉淀水天宮 奥の院

 ところで鉢形城跡の前に広がる荒川の河原は通称「玉淀河原」と言われ、秩父山地から関東平野に流れ出る荒川が作り出した特徴的な地形で、奇岩・絶景の景勝地として昭和10年に県指定の名勝となった。アユなどの釣りをはじめ、川遊びやデイキャンプなどの行楽の場として人気だ。毎年8月の第1土曜には玉淀水天宮祭を開催。数百の提灯で飾られた舟山車が出て、約5000発の花火も打ち上げられる。河岸には桜並木があり、春は花見客で賑わう観光スポットとしても有名だ。

                  
           玉淀水天宮奥ノ院の前面に広がる荒川の風景。玉淀河原はこの上流部にあたる。

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折原佐太彦神社

所在地  埼玉県大里郡寄居町折原615
御祭神  佐太彦大神(猿田彦大神)
社  挌  不明
例  祭  川瀬祭り 例年7月20日に近い日曜日

       
 折原佐太彦神社は折原地区内を流れる坂東川が荒川に合流する少し手前の西側に鎮座している。鉢形城から折原白髭神社に行く道路をしばらく真っ直ぐに進むと右側に常光寺が道沿いに見えてくる。佐太彦神社はその常光寺の奥の北側に静かに、そして身を潜むかのようにひっそりと鎮座している。
 専用駐車場はないが、社の手前に駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
          
                         折原佐太彦神社 社号標
           
                         神社入口の明神鳥居
 よく見ると鳥居の柱には洪水対策であろうが鎖がついている。以前に何度も流されたのであろうが、自然の力はなんと凄まじいものであるかこの鳥居の現状を見てもわかる。
 
    鳥居の右側にある境内社・稲荷大明神          境内社・稲荷大明神の隣には神楽殿
                  
                                       社殿左側にある境内社3社。詳細不明
           
                              拝   殿
 この拝殿の右手側には樹齢1200年以上の樫の木の御神木が悠久の時を越えて静かに佇んでいる。
           
                              本   殿
            
                      素晴らしい彫刻の施された本殿

                         
 折原佐太彦神社では毎年7月下旬に執り行われる例祭・川瀬まつりで奉納される太々神楽が有名らしいが 、伝承によると、この神社ができた翌年神輿を担ぎ荒川の川瀬の中流で一同礼拝したところ、何処からか純白の霊鳥が一羽、神輿の間近に現れて天に舞い上がり、佐太彦神社の方向に飛んでいった。後を追っていくと境内の大樹に止まり、次に本殿の屋根に移り、しばらくして姿を隠した。このことがあってから川瀬祭りを続行している、ということらしい。


                      

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折原白髭神社

 寄居町折原地区は、その昔は「織原」と書き、戦国時代後北条氏の家臣であった丹党織原氏の屋敷が折原地区に存在していた。この丹党は武蔵七党の一党で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および 児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した 武士団で、宣化天皇の後裔と言われ、その皇子殖栗王よりでたと称されている。天皇の曾孫彦武王の産湯にたじひ(いたどり)の花が浮いていたので多治彦と称し、その子孫は多治比・多治・丹遅・丹治等を名乗った。
 殖栗王の12代孫という武信が、陽成天皇の元慶年中、武蔵国に配流され、賀美郡、秩父郡に住んだが、その子桑名峯信は丹二を称して京都と秩父の間を往来した。その子峰時は初めて石田牧の別当となり、土着して丹貫首(丹党首)と称したという。。その後、武峯の子に至って郡の内外に拡散して一大勢力を持つようになった。
 武峯の嫡男経房は秩父中村郷に住んで、その孫の時重が丹党嫡流中村氏を名乗った。また、武峯の二男長房は秩父郡両郡に分かれて薄氏を名乗り、三男基房秩父五郎と称し、四男行房は秩父皆野へ分かれて白鳥氏を名乗った。薄長房の二子泰房が大里郡折原村に住した事により織原丹五郎を称したのが始まりという。
所在地   埼玉県大里郡寄居町折原469
御祭神   猿田彦命
社  挌   旧村社
例  祭   不明


 折原白髭神社は寄居町の荒川南岸に位置し、埼玉県道30号飯能寄居線、古くは「相模街道」と呼ばれていたらしいが、寄居方面に進み、荒川に架かる正喜橋の手前の信号を左折する。
 この地域一帯は有名な鉢形城址が存在する。鉢形城は関東の中世史を語る上では欠かせない城郭であり、その歴史は古く文明8年(1476)に長尾景春により築城されたと伝わる。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしており、またこの地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でもあった。戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となっていて指定面積は約24万㎡。一昔は古城という響きがよく似合う荒れ果てた城址だったが、城址公園化に伴う整備が施され、美しい城址となっている。

 鉢形城跡を見ながら道なりに真っ直ぐ進み、八高線の踏切を越え、5、600m進むと右側に小さいが白髭神社の鳥居が見えてくる。但し専用駐車場はなく、適当な駐車スペースもないので路上駐車をして急ぎ参拝を行った。
 
            鳥居と社号標                       鳥居から正面を撮影
 
こんもりとした社叢林に囲まれた気持ちよい神社で、拝殿も思った以上に立派である。
 
   拝殿に掲げられた「白髭太神」の扁額       社殿の左側には巨石を祀っているのか石祠あり
 
     社殿の左側に並んでいる石祠群              境内社2社、天神社、八坂神社
 
        社殿の右側にある末社               境内社3社、若宮八幡宮、?、大神宮

                    本   殿

 折原白髭神社の祭神は猿田彦命といい、日本神話に登場する神である。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
  猿田彦命は天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から葦原の中国(地上)に降臨するとき、天宇受売命も供として一行に加えられていた。
 一行が天津八街
(アマツヤチマタ)と呼ばれる、多方面に道が分かれる要所に至ると、そこに魁偉な顔をした大男が立ちはだかって、行くてを塞いでいたので、兵を出したが敗れて帰ってきた。
 そこで天宇受売命が派遣され、「天津神が地上にお降りになる道をなぜ塞いでいるのか」と問うと、(天宇受売命に一目惚れした)大男はそれまでの態度を一変して、素直に「私は国津神の猿田彦命と申す。天津神の御子が降臨されると聞いたので、道案内をしようとお出迎えにきたのだ」と答えた。瓊瓊杵尊の一行は、猿田彦命の先導で無事に筑紫の日向の高千穂の峰に到ることが出来たという。

 猿田彦命の特徴は、鼻は天狗のように長く、目は鏡のように丸く、赤ら顔で、身体は毛深かったので、ちょうど猿のようで、また国津神でありながら天孫族の降臨の道案内をしたことにより「道祖神」となり、集落のはずれや道の辻に祀られ、”道を護る神””行人を護る神”として現在に至っている為、神々の中でもある意味ユニークな存在であるといえる。


                折原白髭神社遠景

 折原白髭神社が鎮座する寄居町「折原」、この地名に関して埼玉苗字辞典には以下の記述がある。

折原 オリハラ 神功紀に意流村(漢城の地)と見え、三国史記に尉礼城(百済の王都漢城)と見ゆ。雄略天皇二十年紀に「百済記に云はく、狛の大軍来りて、大城(こにさし)を攻めること七日七夜にして、王城(漢城、今の広州)陥り、遂に尉礼国を失ふ」とあり。意流(おる)のヲル・ヲリは大の意味で、大城(古代朝鮮語のコニサシ)・ヲル村は大ノ国のことで、クダラ(大邑、大国)と同じなり。原のハラ・ハルは邑・国・城(都)の意味で、特に非農民の職業集団居住地を云う。すなわち、折原は鍛冶・木工・石工等の百済渡来人の居住地を称す。男衾郡折原村寄居町)あり、織原とも記す。

 また、近隣には「鉢形」という地名もあるがこれも不思議な地名だ。

鉢形 ハチガタ 男衾郡鉢形村(寄居町)あり。八方にて、八(あま)・海(あま、ばた)族の渡来地なり。和名抄の男衾郡幡多郷(はた)にて、後世の和田郷なり。


 この「和田」に関しても、海(ばた、はた)の転訛であり、海(あま)族居住地であるとの説もある。それに加え、「折原」、「鉢形」両地区の荒川を挟んだ対岸には「宗像神社」が鎮座している。言わずと知れた海上・交通安全の神であり、古代のある時期、海洋族が移住してきたと考えられ、その道案内役をした地元出身の人物を没後祀った神社がこの「折原白髭神社」だったのかもしれない。あくまでも推測の域ではあるが。


 ところで折原白髭神社の北西約300m位の場所には佐太彦神社が鎮座している。もちろん御祭神は猿田彦命だ。

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