古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上野大宮神社

『新編武蔵風土記稿 上野村』
聖天社
祭神は猿田彦命・天津碓目命の二座なり、又五瀬命雷神・嚴嶋明神を配祀す、慶安年中社領十石の御朱印を賜はる、承和三年九月の鎭座と傳ふれど、慥かならず、唯文龜二年再建の棟札あるを以、古社なることを證すべし、其圖左にのす、
旦那代官泉州神馬代官村田大藏
助左衛門木一本大工三郎
奉再興武州入西郡越生鄕上野村聖天宮敬白
新六木綿一反五郎左衛門紙一束
森新右衛門木綿一反
次郎兵衛紙一束、   鍛冶士
(裏に文龜年辛未四月十九日とあり)
末社 稻荷社 青木明神社 神明社 荒神社
神主森村飛騨 吉田家の配下なり、先祖を式部と云、大永四年三月八日死せりと、されど家系等は傳へず、

        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町上野1732
             
・ご祭神 猿田彦命 天津確目命
             
・社 格 旧聖天社 旧村社
             
・例祭等 春季大祭 毎年4月第1日曜日 新嘗祭 毎年1123
                  
年末大祓 毎年1223
  地図 https://www.google.com/maps/@35.953128,139.3027573,17z?hl=ja&entry=ttu
 上野東山神社から北西方向に鎮座している。上野東山神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に合流、そこを左折し、北上する。JR八高線に祖稲川北西方向に向きを変えながら進むと、左手に「富士講の碑」のある石碑があり、その手前には路地があるので、そこを左折する。道幅の狭いながらも当初は民家も立ち並んでいるのだが、そのうちに農地が一面広がる長閑な田畑風景と変わり、その道を600m程進んだ先の丁字路を左折する。
 暫く進むと急に周囲が深い森に覆われ、心細さも味わいながら進んでいくと、その進行方向左手に「上野二区区民センター」が人目を憚るかのような場所に現れ、その建物の反対側で、斜面上に木々に囲まれながらも上野大宮神社の境内が見えてくる。
「上野二区区民センター」内には広い駐車スペースが確保されていて、そこから参拝を開始する。この建物の近くに鳥居はあるのだが、そこは「二の鳥居」で、そこから南側に一本舗装されていない道があり、70m程先に「一の鳥居」が建っている。
        
                  正面一の鳥居
 周囲を森と田畑に囲まれていて、決して目立つ場所にあるわけではなく、むしろひっそり感が半端ない程静かな社。しかし、周囲一帯の風景と見事にマッチした美しい姿には、まさに脱帽の一言。
        
         静かな参道を進むと正面に二の鳥居、社殿が見えてくる。
        
            「上野二区区民センター」近くにある二の鳥居
 
    鳥居の先にある味のある手水舎        鳥居の右側に設置された案内板
 越生七草めぐり スズキ
 大宮神社の由来
 当社は古来文武天皇の文武元年に創立承和三年九月従五位下武蔵介当宗宿禰家主が再建したと伝えられている。祭神には猿田彦命、天津確目命の二座なり、応永十年児玉党遠江守長隆が修営した天文六毛呂土佐守顕家が再営し更に元亀二年辛未(棟札現存)泉州神馬代官村田大蔵再び修営する。
 三代将軍家光公より社領捨石の御朱印を続いて代々の将軍より賜る。
 森村大和守を始め以来森村一家がこの社を護持していた嘉永六年三月十日延焼文久三年八月再建 この本殿は平成十二年町文化財に指定された。
 明治四年社領奉還同五年社格御制定の折村社に列せられる。明治四十年越生町如意の白坂神社同所熊野神社を合祀する。
 この社の祭神の中には昭和三十年町文化財指定の聖天雙身歓喜天像が祭られている。
 毎年春季大祭に桃の弓の歩射を奉納、戦後中止していたが、形を変えて五十年目に小学校入学者の祈願祭として歩射を復活した。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
『入間郡誌』大宮神社
 
略々中央宮附にあり。北及南は何れも小流の通ぜる低地にして、社地は中間の高台を占めたり。口碑には文武天皇の頃創立、承和三年武蔵介当宗宿禰家主再営、応永十年遠江守長隆(児玉氏)修営、天文六年毛呂土佐守顕季再営と伝へ、応永、天文の棟札も存すと称すれど、未だ詳ならず、次で元亀二年風土記には文亀とあり。誤れるなりと云ふ。)泉州神馬代官村田大蔵なるもの再営し、棟札今に存すと云ふ。村田大蔵とは如何なる人ぞ。天正以後毛呂村岩井に住せし村田氏とは関係の存せざるにや。社殿壮にして、明治四十年如意の白山神社、熊野、愛宕の諸社、及上野の諏訪、琴平、天神、熊野、稲荷の諸社を合祀せり。
 神職は森村氏今に三十九代なりと云ふ。

 上野大宮神社のご祭神は「猿田彦命」と「天津確目命」の二柱。この中で「天津確目命」を資料等で調べてみたのだが、該当する神が皆無であった。但し「確目」を素直に読むと「うすめ」となり、「あまつうすめのみこと」=「天鈿女命」となったのであろう。「越生町HP」でも「天鈿女命」と表記されている。
 アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れた際、その前で踊り、大神を誘い出した女神。天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)として従い、天の八衢(やちまた)にいた猿田彦神に道案内をさせた。猿女君(さるめのきみ)の祖神。一説には猿田毘古神の妻となったともいう。
 一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもあり、現在の社名である「大宮神社」もそこからの由来と考える。
 
      拝殿に掲げてある扁額              社殿左側にひっそりと祀られている境内社・
                            石祠群。詳細は不明
        
        
               精巧な彫刻を施されている本殿
「越生町HP」によると、当社は文武天皇元年(697)創建、承和3年(836)の再営と伝えられ、 児玉党の遠江守長隆や毛呂土佐守顕季による室町時代の修営、再営の記録がある。祭神は猿田彦命と天鈿女命で、御神体の双身歓喜天(聖天)の木像(町指定文化財)が祀られている。上野聖天社、聖天宮と称していたが、明治2年(1869)に大宮神社と改称した。
 現本殿は、嘉永6年(1853)に焼失したが、文久3年(1863)、上野村の大工棟梁中嶋久蔵、大谷村(現越生町大谷)の大工棟梁肝煎(脇棟梁)深田定蔵ほか、地元の大工、杣方による再建され見事な彫刻が施されている。西面に「當國熊谷住 彫工 小林齋熊山橘正信」の作銘が刻まれており、「大巳貴命の大鷲退治」「素盞鳴尊の八岐大蛇退治」「天の岩戸」の胴羽目彫刻は、小林一門の3代目、小林丑五郎によるものと推測される。
 内陣には聖天像が御神体として安置されている。御神体である聖天像は、象の頭をもつ男女の神が抱き合っている姿で、夫婦和合や子授け、福徳の神として信仰されてきた。
 上野大宮神社の本殿、聖天像ともに町の指定文化財である。
       
                 参道からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「越生町HP」
    「デジタル大辞泉」「Wikipedia」「境内案内板」等   
                            



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上野東山神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町上野1048
            
・ご祭神 建御名方大神 八坂刀賣命
            
・社 格 旧上野村産土神・旧村社
            
・例祭等 祈願祭 元旦 春季例祭 2月 防祭 7月 
                 秋季例大祭 
112223
  
地図 https://www.google.com/maps/@35.953128,139.3027573,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から埼玉県道30号飯能寄居線に合流する「越生駅」交差点を右折し、県道を毛呂山町方向に南下する。1.4㎞程先にある「上野」交差点を越えた丁字路を右折し、200m程進み、右手に小さなストアがある次の路地をまた右折すると、進行方向右側に上野東山神社やその境内が見えてくる。
 社に隣接している「上野一区公会堂」には駐車スペース入口に進入禁止用のロープが張られているので、社の境内に沿った道を回り込むようにして、正面鳥居周辺にある適度な空間に停車させてから参拝を開始した。
        
                           
上野東山神社正面一の鳥居
 上野東山神社の創建時期は不明ながら、後村上天皇の代、正平5年(1350)の創建とも伝えられ、江戸期には福寿山多門寺の境内鎮守・諏訪社として祀られていたという
『新編武蔵風土記稿 多門寺』
 慶安二年毘沙門天堂領五石の御朱印を賜ふ、是も法恩寺の末なり、福壽山瀧房と號す、開山の僧は詳ならざれど、寺の草創は寛元四年のころなりと云傳ふ、其後應仁二年僧空傳と云者住職す、是を中興の開山と稱す、本尊彌陀を安置す、
 毘沙門堂 毘沙門は立像にて長三尺、又別に一軀を安ず、秘して人の拜することを許さず、
 藥師堂 明和年中平山村より引移せしと云、
 諏訪社 天滿宮・熊野・金毘羅・辨天の四座を配祀す、
 その後明治45年多門寺境内から現在の地に移築修営遷座した。西方に「西山」と称する山地があり、これに対して神域一帯の丘陵を東山と称したことから、東山神社と号したという。現在は、上野一区の総鎮守となっている。
        
                二の鳥居、社殿方向から撮影。
        
                        二の鳥居から石段を登ると社殿に達する。
 一の鳥居から真っ直ぐの参道を進む中、僅かであるが、上り傾斜面であることが分かる。越辺川支流・柳田川右岸に位置しながら、境内一帯丘陵地面に属し、高台を連想させる「東山」と称したのも、この社を参拝してみるとしみじみと実感できる。
       
              石段の右側に設置されている案内板
 越生秋の七草めぐり ナデシコ
 上野東山神社の由来
 当地は秩父山地東麓の越辺川右岸、支流柳田川流域に位置する。
 当神社創立年代は不詳であるが、人皇九十七代後村上天皇の御宇正平五庚寅年七月二七日信濃国諏訪郡中州神宮寺鎮座諏訪神社に座す建御名方大神・八坂刀賣命の御神霊を奉斎した由、口碑に伝へられている。
 上野村小字諏訪の地(現越生町上野一区福寿山多門寺境内)に産土神として鎮座す。
 後東山天皇の御宇貞享五戊辰年七月社殿を再修し、西方に西山と称する山地があり、これに対して神域一帯の丘陵を東山と称したことにより、神社名の起こりとされ、明治四五年(一九一二)三月東山神社と改めて多門寺境内より移築修営遷座せり。
 近郷の信仰いよいよ厚くなり氏子の敬神により神域は整備された。
 境内社は、天満宮・熊野社・稲荷社・東山甲子大黒天の四社である。(以下略)
                                      案内板より引用

       
         拝殿の手前左側に祀られている境内社・東山甲子大黒天
       
                    拝 殿
 越生町指定文化財(民俗文化財・無形) 東山神社の獅子舞
 東山神社は、多門寺の寺鎮守として祀られていた諏訪神社が明治四十五年(一九一二)に当地に遷って改称した神社である。獅子舞は、室町時代のころ、多門寺第三世教伝が秩父地方から伝えたのが起源とされている。
 笛の音と簓の調子に合わせて、大獅子と中獅子の雄獅子二頭が雌獅子を奪い合うという筋立で、「宮参り」「すっこみ」「花掛り」「竿掛り」の四庭(幕)が演じられる。ほかに「願獅子」が奉納される。谷間に見立てた竹竿を挟んで獅子が舞う「竿掛り」は、越生の獅子舞では唯一行われる庭(幕)である。また、獅子舞の通称ともなっている竹の簓を掻き鳴らす四人の「さっさらっこ」(「ちゃっちゃこ」とも呼ぶ)を、町内のほかの三ヶ所とは異なり、男子が務めるのも特徴である。
 開催期日「勤労感謝の日」に近い土曜日・日曜日。
                                       案内板より引用
 
         本 殿                 本殿内部
 
   本殿奥に注連縄で祀られている巨石         巨石の右並びに祀られている境内社二社
                              天満宮と八坂社
       
          東山甲子大黒天の右隣に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「境内案内板」等

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西和田春日神社

 筆者は日頃より、越生町の代表的な社は、その地名を冠した「越生神社」であると、勝手な思い込みをしていた。確かに、武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に、鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として「琴平社」を創建したことに始まった越生神社の歴史は確かに深く、越生町を一望できる高取山の麓に鎮座しているという地形的にも絶妙な場所でもある。
 が、今回参拝した西和田春日神社は、古来より越生十六郷の総鎮守として崇敬されてきた越生町の代表的な社であるという。越生十六郷とは「上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村」の諸村の総称で、この地域を束ねる社がこの社であった。
 春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといい、『新編武蔵風土記稿 和田村』の春日神社の記載では、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいう不思議な伝承が伝わる社でもある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町西和田317
            
・ご祭神 天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田分神
                 
木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神 大己貴神
                 
太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神
                 神功皇后 大日靈神(十六柱之神)
            
・社 格 旧越生十六郷総鎮守・旧村社
            ・例祭等 建国際 211日 祈年祭・勧学祭 43
                 例大祭 109日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9697946,139.2967487,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町・街中方向に2㎞程南下し、「黒岩」交差点を左折する。越辺川を過ぎてJR八高線の踏切を越えるとすぐ左側に西和田春日神社が見えてくる。
 社はJR八高線に沿って南向きに鎮座。駐車スペースは、社の正面に対して道路の反対側に専用駐車場があり、そこに停めてから参拝を行った。
        
                 西和田春日神社正面
『入間郡誌』による「西和田村」の解説
 西和田は如意の西北に接せり。其如意と境を接せる辺、山吹と称する地名あり。或は言ふ。太田道灌の山吹里なりと。然るに道灌山吹の物語は史実として殆ど信ずるに足らず。従て道灌優美の心情を形容せる一伝説とのみ解すベし。然らば此地を以て其古跡なりとするも可、なさゞるも不可なき也。
 西和田地域は、嘗ての今市村の北東、越辺川左岸低地と岩殿丘陵上に位置している。江戸時代の田園簿に村名がみえ、田高一二八石余・畑高四五石余で、幕府領であった。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高一五五石余、旗本稲生領。田畑用水は越辺川から引水した。
 春日神社は古くは内裡(だいり)明神とも称し、越生郷の鎮守であったと考えられている。
        
              鳥居を過ぎて参道の先にある隋神門
        造りが新しいからか、門の両側にある阿吽の隋神像は見えない。
        
          隋神門の右側手前に設置されている「春日神社略記」
 越生総社 春日神社略記
 由緒
 延曆元年(七八二年)創建
 内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大掾、平国香(將門の伯父)が修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政十年四月内裏大明神を改称春日大明神改め、春日神社、越生十六郷総鎮守と定む。慶安三年将軍徳川家光より社領を賜う、明治四年上地令によりこれを奉還。
 猶、平安末期藤原季綱公、越生郷に居住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
 内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応三年と有る、内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也、昭和二十年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
 現在の社殿は今上陛下御大典(平成五年)の折改修されたものである。
 平成二十八年八月吉日 春日神社宮司記
                                      案内板より引用

 
隋神門を過ぎ、石段を登ると社殿が見えてくる。   石段を越えた右側奥に手水舎がある。
        
               拝殿の手前で右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 春日社
 慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年龍穏寺第七世僧良筠が書し緣起を閲るに、當社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生鄕に幽棲して、一日阿諏訪山に遊獵せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拜し、やがて一體を二所に祝ひ祝り、當所に祭れるを内裡明神と稱せり、今按に此緣起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又當國へ配流せられうと記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又當國は古より配流の例なし、緣起の妄なること知べし、されど内裡と稱することは舊きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若經の櫃の裏書に、越生郷内裡宮常住也明應三年とあり、然るを慶安年中御朱印を賜んことを願し時、内裡の唱大内にふるる故書替しと云、又云此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎭座せしを、永祿元年上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の緣起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の兩日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の來由尋るに、近戸權現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃、當社の寶物大般若經を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸權現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより、以來當社にて行ふと云ふ、されど今も社内に般若經二三巻あるは、そのかみ最勝寺へ移せし時、たまたま取道せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び當村の鎭守となせり、
 攝社 太神宮 八幡社
 末社 八百萬神社 稻荷社 天神社
 神職 石井肥前 京都吉田家の配下なり、
 藤原季綱舊跡
 字内裡にあり、此地昔藤原季綱が配せられて謫居せし所なりと云、季綱後に横見郡吉見領御所村に移りしと云傳ふ、然に土人は季綱親王と號するは全く誤なるべし、配所と云も又うけがたき事前に辨ぜし如し、おもふに越生氏の祖、大納言藤原遠峯などの邸蹟などにや、

        
                    拝殿内部
 
   拝殿の左側に祀られている境内社     内裏大黒天社の隣には「古代祭祀遺蹟・虎石」
       内裏大黒天社          奥には注連縄で祀られたご神木らしき幹あり。
        
            拝殿の奥には本殿が独立して祀られている。
『入間郡誌』には、『新編武蔵風土記稿』に記されていない当社の解説があり、全文掲載する。
 春日神社
 大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?
(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山の飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。
『入間郡誌』では、『風土記稿』にて表記されている「内裏(内裡)」に関して、その大元は「大利」であることを記している。この「大利」が何を根拠にしてこのような表記となったかの説明はない。この地域の小字も確認したが、『風土記稿』には残念ながら載っていなかった。
「内裏」(だいり)とは、基本的に古代都城の宮城における天皇の私的区域のことで、現在京都にある「京都御所」がこれに当たる。禁裏(きんり)・大内(おおうち)等の異称がある。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている「春日社」の内容において、この地に嘗て「内裏(内裡)」があったという伝承に、『同風土記稿』の編集者たちも「緣起の妄なること」と記していながらも「内裡と稱することは舊きこと」と、その名称が古くからあったことについては、一定の理解を示している。これは『入間郡誌』の編者も同様である。

 由来不明の「内裏」の名称。その鍵を握るヒントは、武蔵国における修験霊山・霊場である「越生山本坊」ではないかと筆者は考える。
 越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは「将門宮」と称し、平将門の13代目末裔との伝承が残る栄円により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。
 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、平将門の後裔といわれる相馬氏出身でもある。詳しくは「露梨子春日神社」参照。
     
            本殿の右手奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                社殿から眺める風景
 
 参拝が一通り終了し、帰路に向かう。帰路にも順路があるようで、隋神門から直接戻るのではなく、門手前で左側に進む道があり、隋神門の右側に祀られている境内社に向かう道を進む。そこには「若宮八幡宮」の石祠や、若宮八幡宮の右手には「藤原大納言遠峯・季綱邸蹟と平将門内裏蹟」の石碑もある。(写真右)
 西和田春日神社の正面にある鳥居から隋神門に向かう参道の右側には「西和田集会所・兼社務所」があり、そこには広い空間が確保されている。隋神門の右手にある「若宮八幡宮」や「石碑」の並びで、社務所の奥の角地には「天照皇大神」の掛け軸と共に幾多の境内社・石祠が祀られている。(同左)
             
   鳥居の手前でJR八高線の踏切近くに設置されている「春日神社の流鏑馬」の案内板
 春日神社の流鏑馬
 毎年十月九日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
 当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承もある。
 大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。 昭和三十四年(一九五九)を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和四十一年に台風で中止され、以来中断されたままになっている。
 平成二十七年三月  越生町教育委員会
                                      案内板より引用

        
               駐車場側から見た境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等
      

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越生神社

 越生町(おごせまち)は、埼玉県の西部にあって、入間郡の北西部、秩父山地の東麓に位置し、東は比企郡鳩山町、南東から南は毛呂山町、西は飯能市、北は比企郡ときがわ町に接しており、東西に9.5㎞、南北に7.9km、総面積40.39km2を有していて、人口 110292020。入間川支流越辺川の谷口集落として発展した町で、中心部は同川の河岸段丘上にある。
 当地は古くから仏教文化が栄え、如意(ねおい)観音寺の如意輪観音像、堂山最勝(どうやまさいしよう)寺の釈迦如来像、越生法恩寺の大日如来像など平安期の仏像が残り、中世は越生郷の中心地で、同郷を領した越生氏の本貫地でもある。関東三大梅林の
1つである越生梅林を有している。
『新編武蔵風土記稿 今市村』
「當村は越生郷十六村の本村にして、古くより市場となせし所なれば、越生の今市とも唱へ、又越生とのみも呼べり、現に寛永十年毛呂郷前久保村八幡へ、材木を賜りし時の記録に、市川孫左衛門御代官所越生村と書したれば、此頃はかく唱へしこと知らる、今市と改めし年代は詳ならざれど、正保の改めに高室喜三郎が御代官所今市町と出たれば、此以前より唱へしこと知らる、元禄年中の郷帳には町を改めて、今の如く今市村と記せり(中略)當所は相州及び八王子邊より上州へ通ふ往來の宿驛なり」
 中心地区の越生は越辺川の谷口集落で,鎌倉時代から既に市が開かれていたことから、嘗ては「今市村」との村名であったという。「今市村」は現越生町の南東部、大高取山の東麓の山裾で、越辺川右岸台地に立地し、古くから上野国と相模国を結ぶ街道上の要衝であった
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町越生1015
             
・ご祭神 誉田別命 大山咋命 素盞嗚命 倉稲魂命
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 越生まつり/神輿・山車 7月下旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9625121,139.2959214,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から西側に南北に通る埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、最初の丁字路を左折し250m程進み、突き当たりから正面に見える細い路地を道なりに進むと、越生神社が左手に見えてくる。
 社の創建年代は不詳としながらも、元来は武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として琴平社を創建したことに始まるという。その後、明治42年(1909年)に、近在の小社として旧越生村村社の八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、他各地に点在していた稲荷社を合祀し、現在の形となったとの事だ。
        
                細い道沿いに建つ社号標柱
                 社号標の左手には庚申塔を始めとする石碑等が建っている。
 
    社号標柱付近にある一の鳥居      一の鳥居から参道を進むと二の鳥居が見える。
 越生氏は武蔵七党・児玉党の一派にして、有道姓、児玉惟行より出たと称し、鎌倉時代の始より戦国の頃まで存続した。その本拠地は今の越生神社(大字越生)の付近という。
『武蔵七党系図』
「有大夫弘行―河内権守家行、弟資行(入西)―有行(越生三郎、新大夫)―右馬允有弘―左馬允有高―藤内左衛門尉太郎有信―新馬允信高(弟三郎頼氏)―太郎左衛門尉弥太郎季信(弟二郎高綱)、有信の弟二郎兵衛尉有直―太郎長経―弥太郎経高、有直の弟民部丞有綱―太郎有茂(弟五郎有信)―又太郎信茂―弥太郎。右馬允有弘の弟別当二郎有頼―中務丞三郎頼季―右近将監頼員―右近将監頼清(弟四郎時景)、頼員の弟二郎左衛門尉頼高―太郎景高(弟二郎季高)、頼季の弟左馬允頼高―太郎親景―小太郎為長―弥太郎幸綱、親景の弟二郎光景―二郎太郎時景、左馬允頼高の弟刑部丞時光―時仲―五郎信員。別当二郎有頼の弟四郎有平―岡崎四郎二郎有基―有氏―又太郎経氏」
        
             木々に囲まれた厳かな雰囲気のある境内
 越生(おごせ)氏の祖としては、入西資行の四男である入西有行が、越生に居館を構えて越生新太夫を名乗ったとされている。
 因みに入西資行の長男・入西行成は浅羽氏、次男・入西遠弘は小代氏の祖となった。
 その後、越生館に入った越生有行の子には、越生有弘、越生有頼、越生有平の三兄弟がいて、越生有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子・越生有年は鳴瀬氏(成瀬氏)とにり、越生有光は黒岩氏を、越生有基は岡崎氏へと分家したという。
        
       社は高取山麓の緩やかな斜面上に鎮座していて、石段上にある拝殿。
             この背後に越生氏の詰めの城とされる高取城跡のある高取山がある。
 明治421909、越生氏の氏神といわれる八幡社を中心に、越生市街地に点在していた神社を統合して高取山麓に造営された。社自体は決して古くはないが、越生氏が高取山に居館を構えた際の鎮守社として平安時代末期ごろに創建されたというその歴史が醸し出す雰囲気は十分に感じ取ることができた。
        
                    拝 殿
        
               境内に設置されている案内板
 越生神社と高取山城跡  越生町越生
 越生神社は明治四十二年(一九0九)に、神社合祀令を受けて、琴平神社に、旧越生村村社八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、ほか市街地に点在していた稲荷社を合祀して造営された神社である。
 七月下旬に催される「越生まつり」は、牛頭天王を祀る八坂神社の祭典、祇園祭(天王様)の系譜を引いている。神社を出立した神輿が町内を渡御し、夕刻から曳行される六台の山車の上では、華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。
 越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城跡がある。標高約百七十mの頂上が平らに削られ、空堀と土塁で画された郭(曲輪)が数段残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。越生四郎左衛門は『太平記』に登場する、南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。
 一方、現存する遺構は室町期後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。
 令和二年三月三十一日 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
   拝殿手前で左側に鎮座する境内社・     拝殿の右側に鎮座する境内社・日吉神社
       稲荷神社
と石祠群

   拝殿手前にある越生神社神輿(三基)        越生神社神輿の案内板
 越生町指定文化財(民俗文化財・有形)
 越生神社神輿(三基) 平成二十三年九月二十八日指定
 越生神社神輿
 越生神社は大字越生の八幡神社、八坂神社、日吉神社、大字黒岩の八坂神社ほかの神社を当地の琴平神社に合祀して、明治四十二年(一九〇九)に造営された神社である。
 毎年七月の越生まつり(天王様)に渡御する三基の神輿のうち、本宮は越生の八坂神社、中宮(置宮)は黒岩の八坂神社で維持されてきたと伝えられている。本宮の台輪には八坂神社(祇園社)の社紋「祇園守紋」の餝金具が付けられている。若宮には八幡神社の社紋「三巴紋」が飾られており、元来、越生の八幡神社の神輿があったとことが推測される。中宮には両方の紋が配されている。
 制作年や製作者は不明であるが、合祀の前年に撮影された写真に二基の神輿が写っていることから、少なくとも百年以上の星霜を経ていると思われる。
令和四年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用


        
                     一の鳥居の右手には、越生子ノ権現が祀られている。
 
    
越生子ノ権現の案内板が設置されている。     足腰の神様である事からか、
                           草鞋が供えられていた。
 越生子ノ権現
 飯能市の子ノ権現(天龍寺)は、足腰の病に験のある神仏として各地に勧請されている。越生に子ノ権現が祀られたのは古く、鎌倉時代以前と推測される。『法恩寺年譜』文治四年(一一八八)の条、越生一族・倉田孫四郎の妻・妙泉尼に関わる記事に「子権現」という言葉が出てくる。また大字上野との境には「子の神」という地名が残っている。
この地に社が建立された年代は不明であるが、文化四年(一八〇四)に、越生村の新井源四郎が再建したという記録が残る。
「ひじりだいごんげん」として越生の人々の信仰を受けていたが、越生神社の創建後はその境内に取り込まれ、その後には日吉神社に合祀され、社を失った。しかし、地元の熱意により、平成二十七年十月十八日、遷座祭を行い、旧観を取り戻した。
 平成二十八年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用




参考資料「
武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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下真下金佐奈神社

『児玉飛行場』は、嘗て埼玉県児玉郡児玉町(現本庄市)・上里町にあった陸軍の飛行場であり、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月に完成。1944年(昭和19年)10月に児玉基地と改称し、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地となった。帝都防衛と硫黄島への攻撃を担った。現在大部分が児玉工業団地となっており、一角には飛行場の記念碑と第四教育飛行隊鎮魂碑が建っている。また、当時の兵舎をそのまま流用した立野南公民館にも児玉開拓農業協同組合による石碑が建つ。2016年までは排水路の遺構も残っていたが、撤去された。
 下真下金佐奈神社の旧社地は現在地から西北に1km程行った、小字「金佐奈」にあったようで、昭和17年、陸軍児玉飛行場の開設にあたって現在地に遷座されることになったという。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町下真下149
             
・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             
・社 格 旧下真下村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 43日 例大祭 1015日 新嘗祭 1210
                  
大祓 1225
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2137175,139.1406306,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・児玉町下真下地域は、上真下地域の北東部に位置する。「真下」を共有するこの地域は、児玉党真下氏の名字の地とされ、元々は一村であったが、のち真下が当村と上真下村に分村した。その経緯は不明ながら、本庄市・今井の鈴木家文書によると、「真下左京亮」と「下真下新六郎」の名前が見られ、戦国時代には児玉党真下氏の系譜を引く武士がいて、この時期には既に「下真下」の名称があり、また分村していた事を示唆させる書き方をしている。
『日本歴史地名大系 』「下真下村」の解説
上真下村の東に位置し、北は賀美(かみ)郡立野(たての)村(現上里町)・原新田(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、のち真下が当村と上真下村に分村。慶長一六年(一六一一)の検地帳写(下真下地誌)では田方一四町二反余・畑屋敷二〇町七反余。元和五年(一六一九)佐久間府官(正勝か)の知行地となる(下真下地誌)。田園簿によると田方二三七石余・畑方一四八石余、旗本日向領二八六石余・同加藤領一〇〇石。国立史料館本元禄郷帳では旗本加藤・大岡の二家の相給。

 途中までの経路は蛭川駒形神社を参照。蛭川駒形神社の東側隣にある「平重衡の首塚」から北方向に伸びる脇道を進み、女堀川を過ぎた一本目の十字路を左折し、350m程進行、その後丁字路を右折してそのまま道なりに進む。周囲一帯長閑な田園風景を愛でながら2㎞程北上すると、斜め左方向に進路が変わり、そのまま進行すると、左側に下真下金佐奈神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                 
下真下金佐奈神社正面
 下真下地域には古代末期から既に児玉党。真下氏が存在していた。真下氏の館は上真下地域の字東と中内而付近にあったと考えられるが、下真下地域にも数カ所の館跡が存在し、児玉工業団地造成の際の発掘調査でも中世の遺構が検出されている。下真下地域内字石橋にある観音堂は真下氏が建立したとの伝承がある。
一の谷合戦で真下基行が乗っていた馬に平家方の放った矢が当たり、基行は最後と観念したところ、突然馬は空を飛び、安全なところまで飛んでいき基行は命拾いをした。これは日頃より金鑚神社を深く信仰していたためのご神徳によるものと思い、所領に観音堂を建立した
 嘗てこの地域にあった小字名である「金佐奈」は、現在工業団地内に入っており、消滅している。昭和18年(1943)の陸軍児玉飛行場の造成以前はこの地に金佐奈神社があったが、非工場の造成に伴って南部の現在地に移転した。尚江戸時代の名寄帳には「金皿」「かなさら」と記載されていることから、昔は「かなさら」と発音していたかもしれない。
 
     鳥居に掲げてある社号額         境内の様子。
規模は大きくはないが、
「金鑚」ではなく「金佐奈」と表記されている。  手入れはしっかりとされていている様子。
        
                    拝 殿
        
             赤い鳥居の右側に設置されている案内板
 金佐奈神社 御由緒  本庄市児玉町下真下一四九
 □御縁起(歴史)
 下真下は、古くは隣接する上真下と共に一村であったが、天正のころ(一五七三-九二)二つに分かれたものと推測されている。下真下の字石橋五六四には真下氏の館跡があるように、この地は武蔵七党児玉党の真下氏の本貫地であり平安・鎌倉のころから開発が行われていた古い村であることがうかがえる。『児玉郡誌』が、「元暦元甲辰年(一一八四)八月十五日・児玉党支族にして当地の豪士真下太郎基行の勧請せし社なりと云ふ(中略)其後永禄元亀の頃(一五五八‐七三)・下真下新六郎と云ふ人あり、社殿を再興して崇敬せりと云ふ」と記しているのも、当社とこの真下氏との関係の深さを示すものである。
 当社の境内は、元来は現在地から西北に一キロメートルほど行った所(字金佐奈)にある金佐奈山(平山ともいう)にあった。ところが、昭和十七年、彼の地が陸軍の児玉飛行場開設に当たり、その用地となったため当社は移転を余儀なくされ、新たな社地を検討した結果、中屋敷の中央部に近いこと、桑畑で造成も容易であることを理由に、中島隆治家から有償で土地の譲渡を受け、現在の場所に遷座した。
 江時代には、『風土記稿』下真下村の項に「金鑽神社 村の鎮守にて、竜泉寺持」とあるように、臨済宗の竜泉寺が当社の別当であった。同寺もまた真下太郎基行を開基とする古い寺院で、明治三十年に火災で堂宇を焼失したが、間もなく復興され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用


 社殿の左手には「猿田彦」と刻まれている石碑が一基。またその奥には合祀社が二社、中に二基の石祠が祀られ、その右手にも石段上に二基の石祠が祀られている。
             
                 社殿左手にある石碑。
        読みづらかったが「猿田彦」と刻印されているように見えた。
        
              社殿奥で、一番左側にある合祀社。
     二基の石祠は、左側は「大年神」、その隣には「伊勢神社」の看板があり。
 年神(としがみ、歳神とも)・大年神(おおとしのかみ)は、日本神話・神道の神で、「とし」は、元々穀物などの実り、収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来豊かな実りをもたらす神の意。国津神に属する。
『古事記』には、須佐之男命と神大市比売との間に生まれ、また伊怒比売,香用比売などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝えられている。また『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
 生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、稲のゆたかな稔りをもたらす穀物神としての性格がよく表れている。
 民俗学者である柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
 
  真ん中に祀られている合祀社・石祠二基     一番右側に祀られている石祠二基
左側は「天神社」その隣は墨が薄くて解読不能     こちらも墨が薄くて解読不能



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「朝日日本歴史人物事典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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