古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

龍ヶ谷熊野神社

 龍穏寺(りゅうおんじ)は、埼玉県入間郡越生町にある曹洞宗の寺院。山号は長昌山(ちょうしょうさん)。9世紀から15世紀までは、近隣の霊場・黒山三滝や秩父・三峰山の影響もあり、天台宗系の修験道に属していて、この頃の名称は瑞雲山長昌寺である。
 その後1430年(永享2年)室町幕府6代将軍・足利義教が開基となり、上杉持朝が再建立。開山には無極慧徹が招かれ、曹洞宗に改められた。
 天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領され、江戸時代初頭には徳川家康より『関三刹』に任命。3,947寺(1635年時点)の寺院を統治し、曹洞宗の宗政を司った。
 関三刹に選出された寺院は次の三寺院である。
大中寺 - 下野国(栃木県栃木市大平町西山田)
總寧寺 - 下総国(千葉県市川市国府台)
龍穏寺 - 武蔵国(埼玉県入間郡越生町)
 関三刹(かんさんさつ)とは、江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所の寺院で、徳川幕府の宗教政策の一環として主に地方の農村や武士階級に影響力を持つ曹洞宗に対し、1612年(慶長17年)上記の3箇寺に関東僧録司として宗派統制の権限を与え、住職も幕府の任命制にして統制を図ったという。
 この歴史ある龍穏寺の境内で、当寺の鎮守として鎮座していたのが龍ヶ谷熊野神社である。
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 熊野社 第三世泰叟の勧請する所、境内の鎭守なり、
 この龍穏寺は、江戸期に曹洞宗関東三カ寺の一つで幕府の庇護厚き格式高い寺であったため、村民の山門出入は禁じられ参拝できなかった。明治初めの神仏分離により、境内を区画して参道を設け、村内に散在していた八坂社ほか二〇社の小祠を境内に移し、村民の参拝が許されて寺の神社から村鎮守となり、明治五年に村社となったという経緯がある。
 龍ヶ谷という山中の奥深い場所にありながらも、目をみはるほどの素晴らしい寺社の社殿や彫刻は、往時の龍穏寺の隆盛を物語っている。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷453
            
・ご祭神 伊奘冉尊 速玉男尊 事解男尊
            
・社 格 旧龍穏寺鎮守、その後村鎮守・旧村社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@35.9537504,139.2459773,19.08z?hl=ja&entry=ttu
 大満八幡神社から埼玉県道61号越生長沢線を900m程南下すると、「龍穏寺」の立看板がある十字路に達するので、そこを右折する。決して道幅も広くない農道を進む中、当初は民家も点在しているのだが、そのうち民家すら見えなくなり、道の両側には深い森が広がり、当然人気もなく、また山奥に進むその間にはすれ違う車すらない。そのような農道をひたすら進む心細さも手伝いながら、ナビを信用して進むと、民家もチラホラと見え始め、その先に陽光が差し込む龍穏寺の広い駐車場が見えてくる。龍ヶ谷熊野神社はその境内の一番端に位置しているようだ。
        
                             
龍穏寺総門からのスタート
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 村内龍穩寺の緣起には、高麗郡の内に屬すとあれど、古へは郡界のことも麁略にて、郡をたがへ書せしことまゝ有しなれば、こゝも其類にて、あながち古くは、高麗郡に隷すと云にはあらざるべし、村名の起りを尋ぬるに、當所の内に古へ深淵ありて、其所に年久しく龍ひそみけるを、龍穩寺第五世の僧雲岳が祈誓によりて、かの龍升天し、其迹變遷して尋常の平地となりしかば、農民等そこを新開せし地なるにより、此名起れりといへど、是も浮たる說にて其正しきことをしらず、正保の此の物には己に當村の名なし、今市村の内龍穩寺領とのみあり、されど今その地形を見るに、今市村を距ること凡二里に餘れり、然るをかく記せしことこれもまた疑べし、思ふに古へは此邊都て越生鄕の内にて、今市村はそれが中の本鄕なれば、かくは云しにや、その後元祿十五年の國圖に至りて、初て龍ヶ谷村の名をのせたれば、一村にたちしはこの間の事なるべし、されど龍ヶ谷の名は古きことゝ見ゆれば此比までは越生鄕の内に屬せし小名などにてありしにや、

 ここでは、「龍ヶ谷」という地の由来(伝承)が記されていて、現在の龍穏寺が建っている場所には、深い淵があり、そこには龍が住み、人々はこれを恐れていた。そこで、第五世住職の雲崗舜徳がこれを退治すると、淵から水があふれ平地となったという。人々はこの平地を開墾し寺を移転した。またその時、寺名を龍穏寺と改めたとの事だが、正しいかどうかは分からない、との事だ。また次には「龍ヶ谷村」に関する歴史も記されている。
 また『同風土記稿』にはこれ以外にも伝承・伝説を載せている。原文のみで紹介する。
 羅漢山
 龍穩寺門前の山を云、相傳ふ昔此地に僧五人すめり、いかなる魔心を生ぜしにや、此山に登り行を修して、終に天狗となり、折にふれて土人を〇しける、其此の住僧これを祈り、五人の羅漢と祟けるにより解を得たりと云、故に羅漢山とよぶとぞ、今は老杉數十株並び立て陰森たり、かの天狗の棲し比のならはしを守て、今に至るまで杉樹の枝を伐りとることを禁ず、たまたま暴風などに折くちけたる折口をみるに、木理の美なること他木にことなりと云、この五羅漢のこと奇異の說にて、うけがたひ難きは論なきことなれど、相州關本最乘寺の僧道了が話に似たり、この類のこと他にもあることなり、
 
 龍穏寺総門を過ぎると参道が右手に曲がる。    参道途中振り返り、総門付近を撮影。
     その先には山門が見えてくる。     参道に広がる苔むした
石畳の雰囲気が良い。

 実は、当初龍穏寺総門から参拝を始めたわけであるが、そのまま進むと山門に到達してしまう。龍穏寺と龍ヶ谷熊野神社は区画がしっかりと分かれているようだ。社はその参道の東側に隣接しているので、龍穏寺総門を過ぎて、一旦道路側に移動してから、通り過ぎるように進み、社の正面に向かった。
        
                             龍ヶ谷熊野神社正面
 社の鳥居正面から真っ直ぐ進む参道は、石畳とはなっておらず、舗装もされていない。季節は正に夏本番、手入れも怠らないであろうが、一週間も経てば、雑草等は自然に繁殖する時期でもある。ある程度は自然の法則に委ねる、その日本人が古来から持ち続けている「自然との共生」という美意識、感性が未だに残っているようで不思議な安らぎを鳥居正面に立った時に感じた。
 駐車場から出た時はあまり感じなかったが、龍穏寺総門から参道を移動する中、境内の蒸し暑さには正直驚いた。周囲を大杉や森等の草木に覆われ、路面には苔も見事に成育している。道路の対岸は流量は少ないが「龍ヶ谷川」という小川も流れていて、この環境故に、湿度の高さも植物にとっては成育を助けさせる基になっているのであろうと参拝開始時にふと思った。
 それにしても境内に優しく響き渡る小鳥のさえずりや、小川のせせらぎを聞いていると、日々慌ただしく、そして時間に追われる日常生活を一時忘れさせてくれるような神聖性を感じさせてくれる空間である。
        
     龍ヶ谷熊野神社の鳥居を過ぎて参道を進むと、山門に達するルートになる。
因みにこの山門は正面からの撮影では逆光となるので、一旦通り越して裏から撮影したものだ。

   山門手前に設置されている掲示板     山門天井部分に精巧に施されている彫刻あり
       
          山門を過ぎると左方向に社の参道が変わるが、その手前付近には観音様がある。
          観音様の足元左側には「江戸城外濠の石」が置いてある。
        
                          左方向にある参道の先にある二の鳥居
          境内全体、特に苔生した石段の風情がたまらなく良い。
        
                    拝 殿
 もともとは龍穏寺の鎮守として祀られた神社である。現在の本殿は、天保15年(1844)に永平寺管長となった道海和尚の代に、山門、経堂と一緒に建てられた。壁面の彫刻は、神山之村(現群馬県太田市)の彫り物師、岸亦八によるものである。
 拝殿自体は決して規模が大きいわけではないが、細部にわたって彫刻師の仕事が行き渡っている。
        
              拝殿の脇に設置されている案内板
 龍ヶ谷熊野神社
 当神社は龍穏寺の守護として天保十五年(一八四四)に創建された。明治維新の神仏分離令により、地元の氏子に引き継がれ現在に至る。祭神は熊野本宮大社の須佐之男命である。従って縁結びの神社でもある。
 神社の特筆は壁画の彫刻である。彫師は群馬県山神村(現大田市)の名工、岸亦八による彫刻である。厚さ十センチ程の樫木に立体感あふれ、今にも飛び出して来そうな見事な彫刻である。本殿の背面にある古事記の神話を題材にした天照大神が天の岩屋戸から出た瞬間を彫った物である。その左右にも神話が物語として見事に彫られている。その脇には龍が天から降りて来る様子が怖い程見事に表現されている。又、拝殿の天井に花鳥風月の絵が色鮮やかに描かれている。作者は酒井泡一の弟子酒井泡玉による作である。
 神社の造りは、入母屋造り屋根は銅瓦葺きで、建築様式は権現造りであり、荘厳さを現わしている。
 平成二十七年十二月吉日 
 龍ヶ谷地域活性化推進の会
                                      案内板より引用

        
        
                 拝殿正面の見事な彫刻
 
        拝殿木鼻部にも精巧で細かな彫刻で施されている(写真左・右)
        
        
                    本 殿
        
                 『越生町指定文化財(有形文化財 建築物)熊野神社社殿』 
 当社は、明応元年(一四九二)に龍穏寺三世の泰叟如康が、紀州熊野本宮大社より分霊して寺鎮守としたのが起源とされる。江戸時代は格式が高く村人の参拝は許されなかったが、神仏分離令により村鎮守となり、明治五年(一八七二)に龍ケ谷村村社となった。
 現在の社殿は、天保十五年(一八四四)、龍穏寺五十六世道海沙門による再建である。入母屋造・銅板葺きで、本殿と拝殿を「石の間」と呼ばれる幣殿が繋ぐ権現造である。
 彫刻は上州新田郡山之神村(現群馬県太田市)の名工岸亦八による。龍穏寺の山門(町指定文化財)と経蔵(県指定文化財)も同人が手掛けた。亦八以降四代が、明治期にかけて各地に作品を遺している。正面蟇股や扉、側面の龍の花頭窓、背面「天の岩戸」、縁下の象鼻等々、随所に彫技が振るわれている。
 平成二十七年三月 
 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
           本殿の奥に祀られている境内社群(写真左・右)
        
               周囲の風景とマッチしている社
 これ程のレベルの社はそう多くはない。すごく気持ちの良い、雰囲気のある社参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

拍手[0回]


大満八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町大満107
             ・ご祭神 品陀和氣命・誉田別命(推定)
             ・社 格 旧大満村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9603082,139.2619831,16z?hl=ja&entry=ttu
  *地図には表記されず。但し「大満農業集落センター」北側隣に鎮座している。
 越生神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「三滝入口」の三つ又の交差点を左斜めに進路をとる。埼玉県道61号越生長沢線に合流後大きく左回りにカーブする県道を道なりに進むと、道路の周囲に「越生梅園」の看板が見え、進路の左側に梅園神社が見えてくる。当初の目的地は梅園神社の参拝にあったが、周辺には適当な駐車スペースもなく、そこでの参拝は断念。そこで、越生町南西部で、越辺川上流付近に鎮座する社を目指した。
 梅園神社から県道を南下すること2㎞程に、「大満農業集落センター」があり、その北側隣に綺麗な鳥居や高台に鎮座する歴史を感じる社が見える。予想もしていなかったが、これも神様の出会いの思し召しと感じ、急遽参拝を行う。大満八幡神社である。
        
              県道沿いに鎮座する大満八幡神社
『日本歴史地名大系』 「大満(だいま)村」の解説
 小杉村の南、越辺川上流域の山間村で、水田・人家は谷間に点在。大間とも書く。永禄三年(一五六〇)一二月一〇日の太田資正制札写(武州文書)に「大間」とみえ、堂山最勝寺領であった同地など六ヵ所に対し軍勢の違乱を禁止している。田園簿では田高六七石余・畑高六一石余、幕府領、ほかに紙舟役永六〇〇文を上納。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)。
        
            新緑の森に一際目立つ白を基調とした鳥居
        
            鳥居周辺に設置されている越生町文化財解説板
 越生町は平成元年に町制施行100周年を迎え、この年「越生100NOW-誇れる郷土の創造を」をテーマに、多くの記念事業が行われた。町では、誇るべき越生の魅力を再発見するために、地区ごとに越生を自慢できるものや、郷土の歴史や伝統、文化・自然など多様な観点から選定され、他に類をみない町おこし事業として「越生町再発見100ポイント」の標柱を設置したが、設置から30年以上が経過したことで木製の標柱が腐朽し、撤去されたものもあった。
 そこで、教育委員会では、平成
28年度事業として、標柱の立て替えを実施し、花崗岩による石製の標柱や、既に解説等が設置してある箇所については、ステンレスプレートにより表示がされたという。

 鳥居を過ぎると、すぐ先には石段があり(写真左)、石段を上り終えると手水舎等設置されている空間が現れる。社殿は高台に鎮座していて、そこからもう一段高い所にある為、再度石段を上る(同右)。
        
                    拝 殿
 当社に関しての詳しい資料は少ない。ただ『越生町HP』による大満八幡神社の由来では、古くは「降三世明王社」と呼ばれ、神仏習合の時代には、山岳仏教の修験道と深い関係をもっていた。今も大満地区の総鎮守として大切に信仰されているという。また昭和20年代まで獅子舞が奉納されていたそうである。
 この『降三世明王』(ごうざんぜみょうおう。降三世夜叉明王とも呼ばれる)、および勝三世明王は、日本の密教で信仰されている仏教の神格であり、五大明王の一尊で、東方に配置される。サンスクリット語の「トライロークヤビジャヤTrailokyavijaya」の意訳。貪(とん)・瞋(じん)・痴()の三毒を降伏(ごうぶく)し、不動に次いで重視されているそうだ。
 ヒンドゥー教の最高神として崇拝されていた「過去・現在・未来の三つの世界を収める神」であるシヴァ神やその妻のパールヴァティー神に対して、大日如来はヒンドゥー教世界を救うためにシヴァの改宗を求めるべく、配下の降三世明王を派遣し(或いは大日如来自らが降三世明王に変化して直接出向いたとも伝えられる)、頑強難化のシヴァとパールヴァティーを遂に力によって降伏し、仏教へと改宗させた。降三世明王の名はすなわち「三つの世界を収めたシヴァを下した明王」という意味であるともいう。
 
        拝殿の扁額             社殿右奥に祀られている境内社
                          左より八坂神社、金毘羅神社
 像容にはいろいろあるが,降三世明王は基本四面八臂の姿をしており、二本の手で印象的な「降三世印」を結び、残りの手は弓矢や矛などの武器を構える勇壮な姿であるが、何より両足で地に倒れた大自在天(シヴァ)と妻烏摩妃(パールヴァティー)を踏みつけているその造形は衝撃的でもある。
 確かに、その後シヴァ(大自在天)やその化身であるマハーカーラ(大黒天)は『明王』よりも下部である『天部』に所属しているので、降三世明王のほうが格上といえるが、まるでその土地の最高神と雖も、「仏教」の教えを広めるために、「力」でもって屈服させる、そのやり方はやや強引ともいえよう。
 但し、日本神話においても「葦原中津国平定」の段において、天照大皇神の命を受けた「建御雷神」「経津主神」武神二柱が、大国主神の子の兄・事代主神に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・建御名方神をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿(出雲大社)建設と引き換えに、天の神に国を譲った経緯も同じともいる。
       
         境内に一際目立ち、聳え立つご神木らしき大杉(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿 大満村』において、大満八幡神社は「降三世明王社」とも称し、地域の鎮守社でもあったが、同時にこの社は「本山修驗・西戸村山本坊」の配下にある吉祥院というお寺が別当(管理)であった。
『新編武蔵風土記稿 大満村』
降三世明王社 村の鎭守なり、吉祥院の持ち、
吉祥院 本山修驗、西戸村山本坊配下なり、
この「山本坊」とは、「関東の熊野霊場」ともいえる「越生山本坊」で、京都聖護院を本山とする「本山修験二十七先達」として、関東一円の「霞」と呼ばれる配下に影響を及ぼしていた。江戸時代における修験者は、村落に定住して加持祈祷を行い、呪術師や時には医師や祭司、あるいは手習いの師匠を務める等、村人にとっては必要不可欠な存在であったという。
        
                      緑豊かな地に鎮座する大満八幡神社
大満村地域は、越辺川上流域の山間地で、黒山地域の北東に接しており、この黒山地域には熊野神社を拠点にした山岳宗教修験道の山本坊があった。大満八幡神社がいつ「八幡神社」と改名したかは不明であるが、それまでは降三世明王社の名称として、山本坊配下の吉祥院の管理下に置かれていたのであれば、この地域も本山修験の流れを組む地であったのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「精選版 日本国語大辞典」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」等
        

拍手[0回]


上野大宮神社

『新編武蔵風土記稿 上野村』
聖天社
祭神は猿田彦命・天津碓目命の二座なり、又五瀬命雷神・嚴嶋明神を配祀す、慶安年中社領十石の御朱印を賜はる、承和三年九月の鎭座と傳ふれど、慥かならず、唯文龜二年再建の棟札あるを以、古社なることを證すべし、其圖左にのす、
旦那代官泉州神馬代官村田大藏
助左衛門木一本大工三郎
奉再興武州入西郡越生鄕上野村聖天宮敬白
新六木綿一反五郎左衛門紙一束
森新右衛門木綿一反
次郎兵衛紙一束、   鍛冶士
(裏に文龜年辛未四月十九日とあり)
末社 稻荷社 青木明神社 神明社 荒神社
神主森村飛騨 吉田家の配下なり、先祖を式部と云、大永四年三月八日死せりと、されど家系等は傳へず、

        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町上野1732
             
・ご祭神 猿田彦命 天津確目命
             
・社 格 旧聖天社 旧村社
             
・例祭等 春季大祭 毎年4月第1日曜日 新嘗祭 毎年1123
                  
年末大祓 毎年1223
  地図 https://www.google.com/maps/@35.953128,139.3027573,17z?hl=ja&entry=ttu
 上野東山神社から北西方向に鎮座している。上野東山神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に合流、そこを左折し、北上する。JR八高線に祖稲川北西方向に向きを変えながら進むと、左手に「富士講の碑」のある石碑があり、その手前には路地があるので、そこを左折する。道幅の狭いながらも当初は民家も立ち並んでいるのだが、そのうちに農地が一面広がる長閑な田畑風景と変わり、その道を600m程進んだ先の丁字路を左折する。
 暫く進むと急に周囲が深い森に覆われ、心細さも味わいながら進んでいくと、その進行方向左手に「上野二区区民センター」が人目を憚るかのような場所に現れ、その建物の反対側で、斜面上に木々に囲まれながらも上野大宮神社の境内が見えてくる。
「上野二区区民センター」内には広い駐車スペースが確保されていて、そこから参拝を開始する。この建物の近くに鳥居はあるのだが、そこは「二の鳥居」で、そこから南側に一本舗装されていない道があり、70m程先に「一の鳥居」が建っている。
        
                  正面一の鳥居
 周囲を森と田畑に囲まれていて、決して目立つ場所にあるわけではなく、むしろひっそり感が半端ない程静かな社。しかし、周囲一帯の風景と見事にマッチした美しい姿には、まさに脱帽の一言。
        
         静かな参道を進むと正面に二の鳥居、社殿が見えてくる。
        
            「上野二区区民センター」近くにある二の鳥居
 
    鳥居の先にある味のある手水舎        鳥居の右側に設置された案内板
 越生七草めぐり スズキ
 大宮神社の由来
 当社は古来文武天皇の文武元年に創立承和三年九月従五位下武蔵介当宗宿禰家主が再建したと伝えられている。祭神には猿田彦命、天津確目命の二座なり、応永十年児玉党遠江守長隆が修営した天文六毛呂土佐守顕家が再営し更に元亀二年辛未(棟札現存)泉州神馬代官村田大蔵再び修営する。
 三代将軍家光公より社領捨石の御朱印を続いて代々の将軍より賜る。
 森村大和守を始め以来森村一家がこの社を護持していた嘉永六年三月十日延焼文久三年八月再建 この本殿は平成十二年町文化財に指定された。
 明治四年社領奉還同五年社格御制定の折村社に列せられる。明治四十年越生町如意の白坂神社同所熊野神社を合祀する。
 この社の祭神の中には昭和三十年町文化財指定の聖天雙身歓喜天像が祭られている。
 毎年春季大祭に桃の弓の歩射を奉納、戦後中止していたが、形を変えて五十年目に小学校入学者の祈願祭として歩射を復活した。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
『入間郡誌』大宮神社
 
略々中央宮附にあり。北及南は何れも小流の通ぜる低地にして、社地は中間の高台を占めたり。口碑には文武天皇の頃創立、承和三年武蔵介当宗宿禰家主再営、応永十年遠江守長隆(児玉氏)修営、天文六年毛呂土佐守顕季再営と伝へ、応永、天文の棟札も存すと称すれど、未だ詳ならず、次で元亀二年風土記には文亀とあり。誤れるなりと云ふ。)泉州神馬代官村田大蔵なるもの再営し、棟札今に存すと云ふ。村田大蔵とは如何なる人ぞ。天正以後毛呂村岩井に住せし村田氏とは関係の存せざるにや。社殿壮にして、明治四十年如意の白山神社、熊野、愛宕の諸社、及上野の諏訪、琴平、天神、熊野、稲荷の諸社を合祀せり。
 神職は森村氏今に三十九代なりと云ふ。

 上野大宮神社のご祭神は「猿田彦命」と「天津確目命」の二柱。この中で「天津確目命」を資料等で調べてみたのだが、該当する神が皆無であった。但し「確目」を素直に読むと「うすめ」となり、「あまつうすめのみこと」=「天鈿女命」となったのであろう。「越生町HP」でも「天鈿女命」と表記されている。
 アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れた際、その前で踊り、大神を誘い出した女神。天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)として従い、天の八衢(やちまた)にいた猿田彦神に道案内をさせた。猿女君(さるめのきみ)の祖神。一説には猿田毘古神の妻となったともいう。
 一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもあり、現在の社名である「大宮神社」もそこからの由来と考える。
 
      拝殿に掲げてある扁額              社殿左側にひっそりと祀られている境内社・
                            石祠群。詳細は不明
        
        
               精巧な彫刻を施されている本殿
「越生町HP」によると、当社は文武天皇元年(697)創建、承和3年(836)の再営と伝えられ、 児玉党の遠江守長隆や毛呂土佐守顕季による室町時代の修営、再営の記録がある。祭神は猿田彦命と天鈿女命で、御神体の双身歓喜天(聖天)の木像(町指定文化財)が祀られている。上野聖天社、聖天宮と称していたが、明治2年(1869)に大宮神社と改称した。
 現本殿は、嘉永6年(1853)に焼失したが、文久3年(1863)、上野村の大工棟梁中嶋久蔵、大谷村(現越生町大谷)の大工棟梁肝煎(脇棟梁)深田定蔵ほか、地元の大工、杣方による再建され見事な彫刻が施されている。西面に「當國熊谷住 彫工 小林齋熊山橘正信」の作銘が刻まれており、「大巳貴命の大鷲退治」「素盞鳴尊の八岐大蛇退治」「天の岩戸」の胴羽目彫刻は、小林一門の3代目、小林丑五郎によるものと推測される。
 内陣には聖天像が御神体として安置されている。御神体である聖天像は、象の頭をもつ男女の神が抱き合っている姿で、夫婦和合や子授け、福徳の神として信仰されてきた。
 上野大宮神社の本殿、聖天像ともに町の指定文化財である。
       
                 参道からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「越生町HP」
    「デジタル大辞泉」「Wikipedia」「境内案内板」等   
                            



拍手[1回]


上野東山神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町上野1048
            
・ご祭神 建御名方大神 八坂刀賣命
            
・社 格 旧上野村産土神・旧村社
            
・例祭等 祈願祭 元旦 春季例祭 2月 防祭 7月 
                 秋季例大祭 
112223
  
地図 https://www.google.com/maps/@35.953128,139.3027573,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から埼玉県道30号飯能寄居線に合流する「越生駅」交差点を右折し、県道を毛呂山町方向に南下する。1.4㎞程先にある「上野」交差点を越えた丁字路を右折し、200m程進み、右手に小さなストアがある次の路地をまた右折すると、進行方向右側に上野東山神社やその境内が見えてくる。
 社に隣接している「上野一区公会堂」には駐車スペース入口に進入禁止用のロープが張られているので、社の境内に沿った道を回り込むようにして、正面鳥居周辺にある適度な空間に停車させてから参拝を開始した。
        
                           
上野東山神社正面一の鳥居
 上野東山神社の創建時期は不明ながら、後村上天皇の代、正平5年(1350)の創建とも伝えられ、江戸期には福寿山多門寺の境内鎮守・諏訪社として祀られていたという
『新編武蔵風土記稿 多門寺』
 慶安二年毘沙門天堂領五石の御朱印を賜ふ、是も法恩寺の末なり、福壽山瀧房と號す、開山の僧は詳ならざれど、寺の草創は寛元四年のころなりと云傳ふ、其後應仁二年僧空傳と云者住職す、是を中興の開山と稱す、本尊彌陀を安置す、
 毘沙門堂 毘沙門は立像にて長三尺、又別に一軀を安ず、秘して人の拜することを許さず、
 藥師堂 明和年中平山村より引移せしと云、
 諏訪社 天滿宮・熊野・金毘羅・辨天の四座を配祀す、
 その後明治45年多門寺境内から現在の地に移築修営遷座した。西方に「西山」と称する山地があり、これに対して神域一帯の丘陵を東山と称したことから、東山神社と号したという。現在は、上野一区の総鎮守となっている。
        
                二の鳥居、社殿方向から撮影。
        
                        二の鳥居から石段を登ると社殿に達する。
 一の鳥居から真っ直ぐの参道を進む中、僅かであるが、上り傾斜面であることが分かる。越辺川支流・柳田川右岸に位置しながら、境内一帯丘陵地面に属し、高台を連想させる「東山」と称したのも、この社を参拝してみるとしみじみと実感できる。
       
              石段の右側に設置されている案内板
 越生秋の七草めぐり ナデシコ
 上野東山神社の由来
 当地は秩父山地東麓の越辺川右岸、支流柳田川流域に位置する。
 当神社創立年代は不詳であるが、人皇九十七代後村上天皇の御宇正平五庚寅年七月二七日信濃国諏訪郡中州神宮寺鎮座諏訪神社に座す建御名方大神・八坂刀賣命の御神霊を奉斎した由、口碑に伝へられている。
 上野村小字諏訪の地(現越生町上野一区福寿山多門寺境内)に産土神として鎮座す。
 後東山天皇の御宇貞享五戊辰年七月社殿を再修し、西方に西山と称する山地があり、これに対して神域一帯の丘陵を東山と称したことにより、神社名の起こりとされ、明治四五年(一九一二)三月東山神社と改めて多門寺境内より移築修営遷座せり。
 近郷の信仰いよいよ厚くなり氏子の敬神により神域は整備された。
 境内社は、天満宮・熊野社・稲荷社・東山甲子大黒天の四社である。(以下略)
                                      案内板より引用

       
         拝殿の手前左側に祀られている境内社・東山甲子大黒天
       
                    拝 殿
 越生町指定文化財(民俗文化財・無形) 東山神社の獅子舞
 東山神社は、多門寺の寺鎮守として祀られていた諏訪神社が明治四十五年(一九一二)に当地に遷って改称した神社である。獅子舞は、室町時代のころ、多門寺第三世教伝が秩父地方から伝えたのが起源とされている。
 笛の音と簓の調子に合わせて、大獅子と中獅子の雄獅子二頭が雌獅子を奪い合うという筋立で、「宮参り」「すっこみ」「花掛り」「竿掛り」の四庭(幕)が演じられる。ほかに「願獅子」が奉納される。谷間に見立てた竹竿を挟んで獅子が舞う「竿掛り」は、越生の獅子舞では唯一行われる庭(幕)である。また、獅子舞の通称ともなっている竹の簓を掻き鳴らす四人の「さっさらっこ」(「ちゃっちゃこ」とも呼ぶ)を、町内のほかの三ヶ所とは異なり、男子が務めるのも特徴である。
 開催期日「勤労感謝の日」に近い土曜日・日曜日。
                                       案内板より引用
 
         本 殿                 本殿内部
 
   本殿奥に注連縄で祀られている巨石         巨石の右並びに祀られている境内社二社
                              天満宮と八坂社
       
          東山甲子大黒天の右隣に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「境内案内板」等

拍手[0回]


西和田春日神社

 筆者は日頃より、越生町の代表的な社は、その地名を冠した「越生神社」であると、勝手な思い込みをしていた。確かに、武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に、鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として「琴平社」を創建したことに始まった越生神社の歴史は確かに深く、越生町を一望できる高取山の麓に鎮座しているという地形的にも絶妙な場所でもある。
 が、今回参拝した西和田春日神社は、古来より越生十六郷の総鎮守として崇敬されてきた越生町の代表的な社であるという。越生十六郷とは「上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村」の諸村の総称で、この地域を束ねる社がこの社であった。
 春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといい、『新編武蔵風土記稿 和田村』の春日神社の記載では、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいう不思議な伝承が伝わる社でもある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町西和田317
            
・ご祭神 天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田分神
                 
木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神 大己貴神
                 
太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神
                 神功皇后 大日靈神(十六柱之神)
            
・社 格 旧越生十六郷総鎮守・旧村社
            ・例祭等 建国際 211日 祈年祭・勧学祭 43
                 例大祭 109日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9697946,139.2967487,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町・街中方向に2㎞程南下し、「黒岩」交差点を左折する。越辺川を過ぎてJR八高線の踏切を越えるとすぐ左側に西和田春日神社が見えてくる。
 社はJR八高線に沿って南向きに鎮座。駐車スペースは、社の正面に対して道路の反対側に専用駐車場があり、そこに停めてから参拝を行った。
        
                 西和田春日神社正面
『入間郡誌』による「西和田村」の解説
 西和田は如意の西北に接せり。其如意と境を接せる辺、山吹と称する地名あり。或は言ふ。太田道灌の山吹里なりと。然るに道灌山吹の物語は史実として殆ど信ずるに足らず。従て道灌優美の心情を形容せる一伝説とのみ解すベし。然らば此地を以て其古跡なりとするも可、なさゞるも不可なき也。
 西和田地域は、嘗ての今市村の北東、越辺川左岸低地と岩殿丘陵上に位置している。江戸時代の田園簿に村名がみえ、田高一二八石余・畑高四五石余で、幕府領であった。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高一五五石余、旗本稲生領。田畑用水は越辺川から引水した。
 春日神社は古くは内裡(だいり)明神とも称し、越生郷の鎮守であったと考えられている。
        
              鳥居を過ぎて参道の先にある隋神門
        造りが新しいからか、門の両側にある阿吽の隋神像は見えない。
        
          隋神門の右側手前に設置されている「春日神社略記」
 越生総社 春日神社略記
 由緒
 延曆元年(七八二年)創建
 内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大掾、平国香(將門の伯父)が修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政十年四月内裏大明神を改称春日大明神改め、春日神社、越生十六郷総鎮守と定む。慶安三年将軍徳川家光より社領を賜う、明治四年上地令によりこれを奉還。
 猶、平安末期藤原季綱公、越生郷に居住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
 内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応三年と有る、内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也、昭和二十年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
 現在の社殿は今上陛下御大典(平成五年)の折改修されたものである。
 平成二十八年八月吉日 春日神社宮司記
                                      案内板より引用

 
隋神門を過ぎ、石段を登ると社殿が見えてくる。   石段を越えた右側奥に手水舎がある。
        
               拝殿の手前で右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 春日社
 慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年龍穏寺第七世僧良筠が書し緣起を閲るに、當社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生鄕に幽棲して、一日阿諏訪山に遊獵せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拜し、やがて一體を二所に祝ひ祝り、當所に祭れるを内裡明神と稱せり、今按に此緣起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又當國へ配流せられうと記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又當國は古より配流の例なし、緣起の妄なること知べし、されど内裡と稱することは舊きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若經の櫃の裏書に、越生郷内裡宮常住也明應三年とあり、然るを慶安年中御朱印を賜んことを願し時、内裡の唱大内にふるる故書替しと云、又云此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎭座せしを、永祿元年上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の緣起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の兩日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の來由尋るに、近戸權現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃、當社の寶物大般若經を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸權現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより、以來當社にて行ふと云ふ、されど今も社内に般若經二三巻あるは、そのかみ最勝寺へ移せし時、たまたま取道せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び當村の鎭守となせり、
 攝社 太神宮 八幡社
 末社 八百萬神社 稻荷社 天神社
 神職 石井肥前 京都吉田家の配下なり、
 藤原季綱舊跡
 字内裡にあり、此地昔藤原季綱が配せられて謫居せし所なりと云、季綱後に横見郡吉見領御所村に移りしと云傳ふ、然に土人は季綱親王と號するは全く誤なるべし、配所と云も又うけがたき事前に辨ぜし如し、おもふに越生氏の祖、大納言藤原遠峯などの邸蹟などにや、

        
                    拝殿内部
 
   拝殿の左側に祀られている境内社     内裏大黒天社の隣には「古代祭祀遺蹟・虎石」
       内裏大黒天社          奥には注連縄で祀られたご神木らしき幹あり。
        
            拝殿の奥には本殿が独立して祀られている。
『入間郡誌』には、『新編武蔵風土記稿』に記されていない当社の解説があり、全文掲載する。
 春日神社
 大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?
(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山の飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。
『入間郡誌』では、『風土記稿』にて表記されている「内裏(内裡)」に関して、その大元は「大利」であることを記している。この「大利」が何を根拠にしてこのような表記となったかの説明はない。この地域の小字も確認したが、『風土記稿』には残念ながら載っていなかった。
「内裏」(だいり)とは、基本的に古代都城の宮城における天皇の私的区域のことで、現在京都にある「京都御所」がこれに当たる。禁裏(きんり)・大内(おおうち)等の異称がある。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている「春日社」の内容において、この地に嘗て「内裏(内裡)」があったという伝承に、『同風土記稿』の編集者たちも「緣起の妄なること」と記していながらも「内裡と稱することは舊きこと」と、その名称が古くからあったことについては、一定の理解を示している。これは『入間郡誌』の編者も同様である。

 由来不明の「内裏」の名称。その鍵を握るヒントは、武蔵国における修験霊山・霊場である「越生山本坊」ではないかと筆者は考える。
 越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは「将門宮」と称し、平将門の13代目末裔との伝承が残る栄円により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。
 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、平将門の後裔といわれる相馬氏出身でもある。詳しくは「露梨子春日神社」参照。
     
            本殿の右手奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                社殿から眺める風景
 
 参拝が一通り終了し、帰路に向かう。帰路にも順路があるようで、隋神門から直接戻るのではなく、門手前で左側に進む道があり、隋神門の右側に祀られている境内社に向かう道を進む。そこには「若宮八幡宮」の石祠や、若宮八幡宮の右手には「藤原大納言遠峯・季綱邸蹟と平将門内裏蹟」の石碑もある。(写真右)
 西和田春日神社の正面にある鳥居から隋神門に向かう参道の右側には「西和田集会所・兼社務所」があり、そこには広い空間が確保されている。隋神門の右手にある「若宮八幡宮」や「石碑」の並びで、社務所の奥の角地には「天照皇大神」の掛け軸と共に幾多の境内社・石祠が祀られている。(同左)
             
   鳥居の手前でJR八高線の踏切近くに設置されている「春日神社の流鏑馬」の案内板
 春日神社の流鏑馬
 毎年十月九日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
 当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承もある。
 大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。 昭和三十四年(一九五九)を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和四十一年に台風で中止され、以来中断されたままになっている。
 平成二十七年三月  越生町教育委員会
                                      案内板より引用

        
               駐車場側から見た境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等
      

拍手[2回]