古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上野国一社八幡八幡宮

「一国一社」という称号は、浅学な筆者にはあまり聞きなれない名称である。隣国である下野國(現栃木県)には同名の「下野國一社八幡宮」があるが、それによると「下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮」とも称されてきたとされているが、この「上野国一社八幡八幡宮」も上野国の中で第一の八幡宮、という意味となるのであろうか
Wikipedia」で検索すると、最初に「国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)」と出る。この宮は、令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮であり、「府中八幡宮」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。また単に「八幡宮」「八幡神社」と称したり、地名を冠する神社もある
 国府八幡宮には神社によって、国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く、両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから、各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから、後に総社の機能を持つようになったものもある。
 必然と「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」「総社八幡宮」と称する八幡宮も、国府八幡宮に由来するものとされるが、例外もある。例として、武蔵国では総社八幡宮として磐井神社が、国府八幡宮として武蔵国府八幡宮が鎮座しており、また国分寺市西元町の八幡神社が国分寺の鎮守であったとする説もあり、分立している。また、上野国は国府比定地に近い前橋八幡宮が国府八幡宮とする説があるが、国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮として上野國一社八幡宮が鎮座している場合もあるという。
 どちらにしても一国一社八幡宮の定義はどうも曖昧で結論は出そうにない。
        
             
・所在地 群馬県高崎市八幡町655
             
・ご祭神 (主)品陀和気命 (並)息長足姫命 玉依姫命
             
・社 格 旧郷社
             
・例祭等 新年大祭 1月第二土曜日 宵祭 44日(夜)
                  春祭 
45日 秋祭 113日 二年参り 1231日(夜)
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3396691,138.9495097,16z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線の交点、及び国道354号線の起点でもある「君が代橋東交差点」で、碓氷川に沿って走る国道18号線に入り、4㎞程西方向に進む。「八幡大門」交差点を右折すると、すぐ正面には上野国一社八幡八幡宮の大鳥居が見え、そのまま道なりに進むと、社の神門が正面に見えてくる。
 神門付近はY字路となっていて、そこを左方向に進む。上り坂の道の先は右カーブ方向に折れ曲がり、その起点付近右側に専用駐車場に入る路地があるので、そこに進行し、駐車後参拝に臨んだ。因みに「八幡大門」交差点先にある大鳥居の撮影は出来なかった。
        
                            
上野国一社八幡八幡宮正面神門
 神門は弘化2年(1845年)に竣工。この門には神仏習合の名残りがあり、元は「仁王門」と云い、今でも門の両側には仁王様が睨みを効かせている。
 13世紀世紀中頃のものと思われる正月三〇日付関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、板鼻別宮すなわち当社の預所は上野国守護安達景盛であった。当社の鎮座地は板鼻庄に含まれ、また東隣の大聖護国(だいしようごこく)寺が別当寺であったらしく、「板鼻庄八幡宮大聖護国寺」(天正一八年八月三日「徳川家康制札写」成就院文書)などと記されている。
 
神門を過ぎて石段を登った先に二の鳥居がある。        二の鳥居
 天正一九年(一五九一)由緒書写(矢口文書)および文政六年(一八二三)由来書上(清水文書)によれば、天徳元年(九五七)村上天皇の勅命により山城国石清水八幡宮を勧請したもので、永承年中(一〇四六―五三)源義家が奥州遠征の途中当社へ祈願、凱陣後の康平六年(一〇六三)、拝殿から末社までを造営し義家の鎧・兜・弓矢や神器を奉納した。
 旗竿で源氏の長久を祈願したところ一夜で根葉が出て目白の神竹となり、以来源家の崇敬する社となった。源頼朝も木曾義仲追討の節当社に祈願し、大功を遂げて神殿を残らず造営した。新田義重も格別に信仰し社殿を再興したという。
        
                       宝永5年(1708年)の竣工と推定される随神
「随神」とは、ご社殿や神社社地などを守る神様を指す。その神様は、随神門などに安置されていて、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもある。
 左右二神共、弓と矢を携え、剣を帯びているが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿で、彼らは「随身(ずいしん)」と呼ばれていた。その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったという。
 この随神門は市指定文化財。
             
            随神門の先で左側にある市指定文化財の鐘楼
      入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年(1978)に鋳造の釣鐘。
        
                        随神門の先で右側にある神楽殿
        
                       「上野国一社 八幡宮大大御神楽」の案内板
 上野国一社 八幡宮大大御神楽
 当八幡宮の御神楽は、現社殿の造営(江戸中期の宝暦七年・一七五七年)に当たり、それまで中断していたのを、京都神祇官領に出願し、宝暦四年(一七五四年)に伝授されて復興したものです。
 能様式をとり入れた荘重・優雅な趣があって、他に見られない特徴となっています。座数は三十七座、お囃子は下り破(さがりは)・出羽・かまくら・しようでん等の十六種目、舞は住吉・天狐(てんこ)・外道・戸隠・中切・醜女・招福・神剣・松堂・大蛇・三神和合・猿田彦の十二種目でこれらが今日全部保存されており、近年巫女舞も復活されました。
 県下でも有数の御神楽で、平成元年三月八日に高崎市の重要無形民俗文化財第一号に指定されました。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 上野国一社八幡八幡宮
 上野國一社八幡八幡宮は、群馬県高崎市八幡町にある神社である。旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮・板鼻八幡宮と呼ばれていたと言われる。現在は一般的に八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。
 上野國一社八幡八幡宮は、天徳元年(957年)に源満仲の3男・河内源氏の祖である源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建されたという。当初、八幡宮は一国一社の建立だった為、上野国一社八幡宮とも称されていて、その後、 源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀されている。
 当社は江戸時代から神仏混合になったとされ、境内には旧護摩堂(現在の拝殿)、旧仁王門(神門:三間一戸、八脚単層門、切妻、銅板葺、仁王像は失われている)や旧本地堂(天満宮:木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、間口2間、正面1間唐破風向拝付)、鐘楼(入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年:1978年に鋳造の釣鐘。)などがあり当時の名残が見られる。明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院だった神徳寺が廃され郷社に列した。
 境内敷地は約9,000坪。現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は文化11年(1750年)ないし宝暦7年(1757年)の再建とされる。本殿は天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮である。本殿・幣殿・拝殿は高崎市指定重要文化財。
                                  「Wikipedia
」より引用
        
        
          精巧な彫刻や極彩色、金箔等豪華な仕上げである本殿
 現在の上野国一社八幡宮社殿は宝暦7年(1757)に建立されたもので、拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺、平入、正面千鳥破風、桁行8間、張間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り)、幣殿(両下造、銅板葺、桁行3間、張間2間、花頭窓付)、本殿(三間社入母屋造、銅板葺、平入)が一体となる権現造り。精巧な彫刻や極彩色、金箔など豪華な仕上げで、江戸時代中期の社殿建築の遺構で優れた意匠を有する貴重な存在である事から平成10年(1998)に高崎市指定重要文化財に指定されている。
     
        境内社・日枝社(山王宮)       境内社・地主稲荷社
 
       本殿奥には
摂社二十二社         摂社二十二社の並びに
                          境内社・東照宮(疫斎神)

 上野国一社八幡八幡宮は創建から1,000年の歴史があり、多くの建物等の文化財が指定を受けている。全てを解説するのは無理があるので、以下の説明に留めたい。
 社殿(拝殿、幣殿、本殿)天地権現造り-宝暦7-高崎市指定重要文化財。
算額(三面)-天明7年・天保5年・安政7年-群馬県指定重要文化財。
大大御神楽-宝暦4年復興-高崎市指定無形民俗文化財。
胴丸2領-南北朝時代(室町時代)-高崎市指定重要文化財。
唐銅燈籠-慶応3年-野澤屋惣兵衛奉納-高崎市指定重要文化財。
八幡宮社頭造営図高崎市指定重要文化財。
境内森林-群馬県及高崎市緑地保全地区。
       
                                拝殿から境内を撮影
 上野国一社八幡八幡宮の建物結構はいわゆる神仏混淆色で、仏殿様式の建物が残る由緒深いものという。例えば元本地堂の天満宮、元仁王門の神門、鐘楼、拝殿内の護摩堂など。境内は約八千坪(2.7ha)で県・市指定緑地地区になっている。


参考資料「日本歴史地名大系」東京都神社庁HP高崎市公式HP」「上野国一社八幡八幡宮公式HP
    「群馬県:歴史・観光・見所」「ぐんラボ」「Wikipedia」「境内案内板」等 

            

       

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伊勢崎神社

 律令時代、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ俊綱.忠綱父子が寿永内乱期に滅亡すると、鎌倉幕府の役人で京都から派遣された中原氏が渕名氏を継承する。一方、兼行の別の子孫は那波郡に勢力を持ち那波氏を称していたが源平合戦時、那波弘澄(広純)が源義仲に与して一族は衰亡し、中原氏の一族・大江広元が那波氏を継承した。伊勢崎市堀口町には「那波城跡」があり、鎌倉時代から戦国時代にかけて大江系那波氏の居城となる
 伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれた。戦国時代には大江系那波氏の末裔・那波宗俊が崖上に「赤石城」を築く。1560年上杉謙信が三国峠を越えて上野国に進出すると、宗俊は北条氏に従って抵抗するが、赤石城は落城、本拠の那波城は囲まれて降伏する
 因みに赤石城には那波氏の一族である「赤石氏」も存在していた。赤石城落城後、一族は近村の飯土井村赤石城(現前橋市飯土井町)へ移った
 赤石城攻略の手柄により謙信から那波氏の旧領を与えられた上野国の戦国大名・由良成繁は、日頃から信仰していた伊勢神宮の御加護と考え、伊勢神宮に那波郡の一部を寄進し、赤石城内には「伊勢宮」を勧請する。やがて庶民の信仰の利便のため伊勢宮が城外に移されると、人々が集まって門前町を形成し「伊勢の前(さき)」と呼ばれて現在の「伊勢崎」の由来となったという。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市本町211
             
・ご祭神 保食神 他27
             
・社 格 旧県社 創建 建保元年(1213
             
・例祭等 上州焼き饅祭 111日 春季例祭 415
                  
例大祭 1017日 ゑびす講祭 1119
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.3204857,139.1880026,14z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパス線を伊勢崎市方向に進路を取り、「上渕名上武道下」交差点を左折する。
但しこの付近の国道は高架橋となっているので、数百メートル手前で一旦高架橋から分かれる道に移動し、下った先の上記の交差点を左折しなければならないので、そこは注意が必要だ。交差点を左折後、群馬県道2号前橋舘林線に合流し、道なりに4㎞程進む「本町二丁目」交差点先の十字路を左折すると、すぐ右側に伊勢崎神社の正面鳥居が見えてくる。
 伊勢崎神社の正面鳥居前に10台程の専用スペースがあり、参拝は非常に楽である。街中にある社で社格は旧県社。
        
                                 伊勢崎神社正面
        
          正面鳥居の左側に設置されている「伊勢崎神社御由緒」
「伊勢崎神社御由緒」
 順徳天皇の御代の健保元年(一、二一三年)、三浦介義澄の創立したものと伝えられています。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が稲荷神社をはじめ町内数社を合祀し、伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(一、八四八年)の創建であり、幣殿並びに拝殿は昭和十一年(一、九三六)に造営されたものです。彫刻の緻密にして壮麗なことは氏子の誇りです
 御祭神 保食命(宇氣母智命)
 御神徳

 保食命は食物を初めとして産業を司る神で、人の生活上欠くことの出来ない神様です。記紀神話において、身体から食物や獣を生み出す記述があるように、物の成り出ずる力を備えています。
「衣食足りて礼節を知る」の通りで、一定の財産を持つことは人生においてとても大切なことです。家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の神様として親しまれています。
                                      案内板より引用
「伊勢崎案内記」には、当神社に関して簡潔ではあるが以下の記載がある。
「伊勢崎町字裏町に在り祭神は宇気母智神保食命なり建保元癸酉年九月三浦之輔義澄の勸請せるものなりと云ふ古來より伊勢崎町の總鎮守なり」
        
                                 参道正面・境内の様子
 街中に鎮座しているためか、「伊勢崎神社の境内地は約700坪」と当社HPに記載されているように、「旧県社」の格式として社の規模は決して大きくはない。
 但し境内は程よく手入れもされていて、神楽殿や境内社、石祠・石碑等も決められた場所におさめられている。平日に参拝したわけであるが、参拝中も多くの参拝客がお参りしていて、地域の方々に親しまれている立派な社と言う印象を受けた。
       
            参道正面左側に聳え立つご神木(写真左・右)
 現在伊勢崎神社が鎮座している地域名は「本町」であるが、嘗てこの地は「赤石」と称していた。この伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれていた。
 伊勢崎神社の西側には広瀬川が南北に流れているが、その左岸堤防付近には「赤石稲荷」という小さい社が鎮座している。どうやら調べて見ると「金蔵院古墳(赤石山古墳、伊勢崎町第1号古墳)・径25m、高さ2.7mの円墳」上にある社という事だ。
 伊勢崎発祥の地『赤石』の名前を冠にした「赤石稲荷」。「赤石」という地域名はないようだが、このように伊勢崎神社周辺には「赤石」由来の社や建物等が散在しているのも面白い。
 
正面鳥居を過ぎ、すぐ参道左手に神楽殿がある。    神楽殿の並びにある手水舎。

 神楽殿と手水舎の間のスペースに祀られている   手水舎の奥には芭蕉句碑と銅製の御神燈。
        境内社・稲荷神社。          御神燈の下には石祠群が置かれている。
       
                                     芭蕉句碑 
               芭蕉句碑には「よく見れば薺花咲く垣根哉」の句が彫られている。
        
                     拝 殿
 伊勢崎神社
 伊勢崎神社は、群馬県伊勢崎市本町にある神社で、旧社名は飯福神社(いいふくじんじゃ)、通称は「いいふくさま」。旧社格は県社である。
 創建は建保元年(鎌倉時代)、三浦義澄(三浦介義澄)によるものと伝えられている。鎌倉時代末期の元徳元年(1329)に、国司である新田義貞が現在の地に移し、社殿を修理して、八坂神・稲荷神・菅原神の3神を合祀したという。地元・赤石城(伊勢崎城)城主からの信仰篤く、後に上杉謙信(輝虎)や由良信濃守成繁といった武将らも崇敬していたという。
 当初、境内地を含む地域一帯は赤石と呼ばれていたが、元亀年間(15701573年)に伊勢神宮(三重県伊勢市)の分霊を勧請合祀以来、伊勢崎の地名の由来になっている。その後江戸時代以降、当地の領主が代々、社殿の修繕や祭典執行を担い、明和9年には吉田家から正一位に叙されている。(中略)
 1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。1926年(大正15年)、近くにあった稲荷神社など数社が合併し、社名を飯福神社から伊勢崎神社へと改称。1941年(昭和16年)には社格が県社に列した。

 境内には明治9年(1876)に楊州庵半海社中が建立した「よく見れは薺花さく垣根哉」の芭蕉句碑がある。
                     「群馬県:歴史・観光・見所」「Wikipedia
」より引用

 伊勢崎神社は1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。同時期近郊の社である「下渕名大国神社」「倭文神社」「火雷神社」等は既に「郷社」であり、由緒も歴史も深く、格式も遙かにこの三社の方が高かったにも関わらず、最終的にこの三社は郷社で止まり、伊勢崎神社は1941年(昭和16年)に郷社を飛び越えて一気に県社に格上げされている。
        
                        拝殿上部に奉納されている木製のプロペラ
 この昇格の背景には何があったのであろうか。拝殿正面入口の上部には、戦時中、中島飛行機(富士重工業の前身)の社員が奉納した木製のプロペラが現在でもあるが、そのことと何か関連性があるのであろうか。
        
          
        
         建物全体に精巧な彫刻が施されていて見ごたえのある本殿
 伊勢崎神社の本殿は江戸時代後期の嘉永元年(1848)に再建されたもので、一間社、流造り、銅板葺き、建物全体に精巧な彫刻が施され特に壁面には中国の故事と思われる透かし彫りが見られる。因みに拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り横板張り。幣殿は両下造(本殿と拝殿を切妻屋根で接続)、銅瓦棒葺、桁行1間、張間1間。
        
                 本殿裏にある西の鳥居

 伊勢崎市といえば、「織物」で有名な地だ。特に銘仙(めいせん)は、平織した絣の絹織物で、鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の、独特の先染め織物である。
 本来は、上物の絹織物には不向きな、屑繭や玉繭(2頭以上の蚕が1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、絹ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東の養蚕・絹織物地帯で多くつくられ、銘仙の着物が大正から昭和初期にかけて大流行した。伊勢崎、秩父に始まり、これに、足利、八王子、桐生を加えた5か所が五大産地とされている。
 元々は、主に関東や中部地方の養蚕農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていた紬の一種であった。江戸時代中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)」「目千(めせん)」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色も地味なものであったという。
 明治になって身分制度が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった。また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、女学生や職業婦人などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。
 当初は平仮名の「めいせん」であったが、1897年、東京三越での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという。
「伊勢崎銘仙」は五大産地の中では最大の生産量をもち、銘仙の中では高価な部類に入る。併用絣の技法を用いた、鮮やかな多色遣いによる手の込んだ柄が代表的で、1950年代には、一反の中に24色の糸を使用したものもあったようだ。1975年に伝統的工芸品に指定されている。
 大正から昭和初期にかけて、銘仙生産量は全国の半分を占めるまでに至り、伊勢崎銘仙の黄金期と呼ばれるまでとなったが、戦後、生活様式の欧米化により和装から洋装へと変化していく中で、需要が減退し徐々に売り上げや生産量が減少し、その生産者も減っていくことになる。
 時代の流れで和装から洋装が主流となる中でも、織物工業組合(織物協同組合)主導のもと新技術の開発や後継者問題に取り組むなど銘仙文化を継承していく活動が行われ、その活動の功績により、伝統工芸品としての高い評価を受けながら伊勢崎銘仙は現在に至っている。
 織物工業組合(織物協同組合)のもと、銘仙文化の承継活動が行われてきたが、生産者の高齢化や後継者問題は困難を極め、銘仙の新たな製造については現在危機的状況にある。毎年「いせさき銘仙の日」のイベントでは、現存する銘仙を着用したファッションショーの開催や、銘仙の生地を再利用して手さげ袋や名刺入れなどの小物に加工して販売しているという。
 伊勢崎神社の御朱印帳やお守り袋と御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)、御朱印の用紙にもこの伊勢崎銘仙を使用している。大切な地域の宝物であり、後世に残してほしいものだ。


参考資料「伊勢崎風土記」「伊勢崎案内記」「伊勢崎市役所公式HP」「群馬県:歴史・観光・見所」
    「伊勢崎神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
      

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今市瀧尾神社

 2006年(平成18年)320日に、今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の「日光市」が発足した。2006年以後の日光市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、合併後最初の日光市長は元今市市長が務めていた。この合併により、「門前町」日光は元より、日光江戸村など周辺の観光地も「日光市」に含まれることとなった。
 面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市、静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めている。
 ところで体裁上、「日光市」という名称は残っているが、市町村合併後の日光市街とは、旧今市市の中心市街を指している。
 筆者も知らなかったことだが、20063月、合併前旧日光市の人口は、16,301人で、同じ時期の今市市の人口(61,998人)と比べて少なく、また旧足尾町(人口3,220人)、旧藤原町(人口10,545人)、旧栗山村(人口1,916人)と、旧藤原町を上回る程度の人口規模だった。市町村の経済的な基盤は基本的には人口数で決まる。国際観光都市として「日光」は認知されている反面、旧日光市の人口は減少傾向にあり、「消滅可能性都市」のひとつに挙げられていたという。
 どちらにせよ、新たな日光市の中心地域は紛れもなく今市地域であり、現在の日光市役所の西側に、嘗ての今市総鎮守である今市瀧尾神社がどっしりと鎮座している。
               
             
・所在地 栃木県日光市今市531
             
・ご祭神 田心姫命 大己貴命 味耜高彦根命                   
             
・社 格 旧今市総鎮守 旧郷社
             
・例祭等 節分厄除け祭 23日 例祭 4月第2土・日曜日
                  八坂祭 77日~14 
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.7253236,139.6862282,17z?entry=ttu
 森友瀧尾神社から一旦南下し、国道119号線との交点である「森友」交差点を右折する。その後国道119号線を西行し、3.8㎞先の「今市小前歩道橋」に到着すると、ほぼ正面に今市瀧尾神社の立看板と社号標柱が見えてくる。地図を確認すると東武日光線・上今市駅の南側に位置し、社の南側に今市小学校がある。専用駐車場は神社左側にあり、十分なスペースが確保されている。古社の貫禄を醸し出している旧今市市の総鎮守である。
        
               風格すら漂う今市瀧尾神社正面。
              文化財の石鳥居が壮大にそびえ立つ。
『日本歴史地名大系』 での「今市市」の解説では、「県中央から西北寄り、日光山塊南東麓に広がる。北は塩谷郡栗山(くりやま)村・藤原町、東は同郡塩谷町・河内(かわち)郡上河内村、南は宇都宮市と鹿沼市、西は日光市。塩谷町との境界を鬼怒川が東流する。栗山村との境は赤薙(あかなぎ)山・大笹(おおざさ)山など標高1,0002,000mの女峰(によほう)連山東端部にあたる。栗山・日光・今市三市村境界赤薙山(2,010m)が最高点で、市域は南東に下る一方の広い傾斜面にある。中央部は東へ横断して流れ鬼怒川に入る大谷(だいや)川の形成した今市扇状地、北部は女峰連山の東端から渓谷を流れて鬼怒川に入る板穴(いたな)川と、それに合流する小百(こびやく)川・砥(と)川のつくる狭い河岸段丘と扇状地。南東部は今市扇状地の南側面から湧水して南東へ流れ、鬼怒川へ合流する田川とその支流赤堀川などの形づくる河岸段丘、南西部は行(なめ)川の沖積小平野。気候は夏冬の気温差は大きいものの、七―八月でも平均気温摂氏2122度と冷涼で、夏期には雷雨が多く、局地的豪雨や、降雹をみることもある。市域の60%は山林・原野で、農地は20%、宅地は三分足らずにすぎない。なおかつて市域西半は都賀(つが)郡、東半は河内郡に属していた」との地形多岐な特徴を解説している。
              
                国道沿いに建つ今市瀧尾神社社号標柱 
         因みに「たきお」ではなく「たきのお」と読むそうである。
        
          鳥居近郊に設置されている「今市瀧尾神社 案内碑」
 今市総鎮守 瀧尾神社
 御祭神 -大己貴命(大国主命)田心姫命 味耜高彦根命
 天応二年(七八二) 勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るに始まる その後 人皇第百弐代 後花園天皇寛正元年(1460) 正月十五日改築 今日の神域整う。
 明治十年七月 近郷十八ヶ村(現在の日光今市市)の郷社に列せらる。(以下略)
        
                西方向に伸びている参道
 国道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内は静寂に満ちていて、とても穏やかな雰囲気の中、気持ちよく参拝することができた。正面には朱を基調とした神橋が見える。「叶願橋」という。
 
 参道途中左右に祀られている石祠群・境内社(写真左・右)。左手にはお稲荷さんの狛犬があることから一基は稲荷社であろう。右側の境内社は不明
 
   参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎には、花がたくさん飾られていた(同右)
        
                            境内前に建つ二の鳥居。一の鳥居と共に市重要文化財である。
        
                二の鳥居の左側にある案内板
 日光市指定文化財 今市瀧尾神社石造明神鳥居
 種  別・・有形文化財(建築物)
 員  数・・二基
 規  模・・「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ
             「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ
 材  質・・石造
 建築年代・・未詳
 旧瀧尾権現社の鳥居、制作年代については、鳥居そのものの表面がかなり風化しているために、刻銘が判読できず、特定できない。しかし、日光二荒山神社との関連などから、約四〇〇年~五〇〇年前と推定される。「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ。
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ。鳥居の形式は、明神鳥居の典型で格調高い。また、鳥居上部の「貫」上下端切込面は類例を見ない。石材は地元大谷川から採取したものと思われる。
平成七年三月十日  日光市教育委員会
                                      案内板より引用
 重要文化財として指定されている鳥居は、
「二の鳥居」「三の鳥居」と記されている。つまり当然「一の鳥居」があったはずである。どこにあったのであろうか。
        
                  重厚感のある拝殿
 今市総鎮守 瀧尾神社 勝道上人 御創祀の古社
 天応二年(七八二)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。その後、人皇百弐代後花園天皇寛正元年、正月十五日に改築、明治十年七月に近郷十八カ所(今の日光市の一部と今市)の郷社に列せられる。
 例大祭は四月十四日に神輿を中心に氏子区内十八カ町を供奉、約二百五十人により盛大に執り行われる。また、この祭の期間には氏子町内の屋台の引回しがある。桜花が咲き誇る中、大鳥居前には山岡鉄舟筆の関東一の大幟が奉掲され、まさに春迎えの先駆けの祭りである。
 また七月七日~十四日には当社、末社八坂神社の八坂祭が執り行われる。この祭りには関東一とも言われる神輿が氏子青年会多数の奉仕により奉舁され日光街道に御神威赫々、幻想幽玄の世界が現出し多くの氏子崇敬者に感動を与える。
                                「栃木県神社庁HP」より引用

        
             拝殿前にある賽銭箱。
神紋は「左三つ巴」。
        
 社殿の左手前には、ご祭神の大己貴命(父・大黒さま)、田心姫命(母)、味耜高彦根命(子・恵比寿さま)の石像がある。
        
                      本殿。彫刻や彩色はなく、シンプルな造りである。
 
 社殿左手奥には鳥居の先にある小さな石祠が一基。今市瀧尾神社の奥社という(写真左)。またその隣には木々に囲まれた中に境内社が並んで祀られている。天候も雨は上がったが、決して良いわけでもなく、また夕方でやや薄暗い参拝時間で、また境内社のある辺りは木に覆われ、少し独特な雰囲気を醸し出していた(同右)。稲荷神社・菅原神社・雷電神社・琴平神社・八坂神社・宇佐八幡宮・正八幡宮等。
        
                              静まり返った境内

*追伸
 実は去年11月に家族旅行を兼ねて日光方面の神社を参拝したのだが、この「今市瀧尾神社」の掲載を忘れてしまい、今になって気づいて紹介した次第である。かなり唐突の登場となったことをお詫びしたい。


参考資料「日本歴史地名大系」「栃木県神社庁HP」「Wikipedia」「境内案内板等」等
 

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常泉御嶽神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市常泉311
              
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 少彦名命
              
・社 格 旧常泉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り 415
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1062419,139.6049173,18z?hl=ja&entry=ttu
 加須市常泉(つねいずみ)地域の見竹耕地に鎮座する。「常泉」という地名は、当地に村を潤す豊かな泉があり、常の文字が永久不変を表すところから、涸れることなく湧き出す泉を称え名付けられたという。
 土地の人々は、この豊かな泉をもたらす遥かなる山々に神威を感じ、当村開発に当たり、水の神として当社を祀ったと伝えている。これが御嶽社で、「見竹(みたけ)」の地名は当社に因むものであるという。創建年代等は不詳。
 この社は、耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかったという。
        
                                  
常泉御嶽神社正面
 下高柳八坂社から一旦「下高柳集会所」先の埼玉県道149号加須菖蒲線へ合流し、そこを左折する。新川用水(騎西領用水)を越えた「常泉」交差点を左折すると、すぐ左側に常泉御嶽神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場や社務所等もない。道路の向かいにコンビニエンスがあり、そこで買い物を済ませてから急ぎ参拝を行う。
 
       鳥居の社号額            北方向に伸びる参道の先に拝殿が見える。
『日本歴史地名大系』による 「常泉村」の解説によれば、この村は、北は新川用水路を境とし、東は油井(ゆい)ヶ島村・小浜村。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高一〇七石余・畑高五四石余、川越藩領、ほかに大英寺(現騎西町)領三〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三〇五石余、反別は田方一七町四反余・畑方一二町八反余、ほかに新開高一二二石余、田方六町九反余・畑方四町八反余。元禄九年(一六九六)の旗本米倉氏領知目録(米倉家文書)に村名がみえ、高四二八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本小笠原領。同帳には枝郷として油井ヶ島村が載る、との記載がある。
 常泉御嶽神社はこの地域の最北端に位置し、新川用水(騎西領用水)から里人を守るように鎮座している。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 常泉村条』
 常泉村 
 御嶽社 神明社  「
以上二社、村の鎮守にて、圓福寺持」
 圓福寺
「新義眞言宗、根古屋村金剛院末、御嶽山と號す、本尊地蔵を安ぜり、開山末長寛文十三年三月七日寂す」

        
             境内にある「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
 常泉、見竹の地は水清き緑豊かな平坦な地であり、先人達はそこに御嶽社を勧請し村の鎮守としてきた。
 御嶽社は、本殿に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祭神として祀り、古来より常泉地区の氏神として人々から厚く敬われてきた。また明治三十二年には神明社を合祀し、祭神として更に大日孁命が祀られた。毎年四月十五日には枠灯籠を飾って春祭りを行い、この行事は今日まで継承されている。
 当社は特に耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかった。
 昭和八年本殿改築が行われたが、拝殿、幣殿の老朽化が著しく進み、雨漏り等が始まり、平成八年、氏子一同に計り改修資金の浄財を集め、積み立てを行い、平成十四年建設委員会を設立した。同年四月四日、仮殿遷座祭を行うとともに建設委員総出の奉仕により、社殿の解体、土盛り、境内樹木の伐採等に汗を流した。本殿を一時移転し、基礎完了後、元に戻して改修し、幣殿、拝殿の新築を行った。
 斯くして六月十一日に上棟祭、十月二十日に本殿遷座祭、十一月三日に奉祝祭を挙行して社殿の完成を祝った。ここに、長年に亘る神々の御神徳に感謝すると共に、更なる恩恵を氏子、崇敬者一同の上に給わらん事を祈念して、この碑を建立した(以下略)
                                     記念碑文より引用

 
          拝殿手前、参道の両側に鎮座する石碑二基(写真左・右)
          共に(御嶽)大明神と刻印されているように見える。
        
                                静かに鎮座する社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑」等

       

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下高柳八坂社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下高柳1081
              
・ご祭神 素戔嗚命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后
                   
菅原道真公・天穂日命・武夷鳥命・倉稲魂命
              
・社 格 旧下高柳村鎮守 旧村社
              
・例祭等 天王様 7815 
     
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.109308,139.6077661,17z?entry=ttu
 加須市下高柳地域は、東武伊勢崎線の加須駅と花崎駅との中間地点で、鉄道南部に位置する「ショッピングモール」、「下高柳工業団地」等を内包する地域である。このショッピングモールの敷地は元々、下高柳工業団地として造成されていたが、企業が集まらなかったため、工業団地の一部を商業地として転用した経緯がある。近郊にはイオンモール羽生やモラージュ菖蒲などの大型ショッピングモールが開業したものの、建設当時はこのショッピングモールが周辺地域初の大規模ショッピングセンターだったので、「埼玉県北部最大のショッピングセンター」、「関東平野のど真ん中にでっかくオープン!」などのキャッチフレーズが用いられたという。
 このショッピングモールの西側を南北に通る埼玉県道149号加須菖蒲線をモールを通り過ぎた地点から500m程南下し、新川用水(騎西領用水)手前の十字路を左折する。その後「下高柳集会所」先の丁字路を左折し、暫く北上すると下高柳八坂社の鳥居が見えてくる。
        
                 
下高柳八坂社正面鳥居
 社の周囲は民家が立ち並ぶ住宅街の一角に鎮座していて、嘗ての「旧下高柳村鎮守・旧村社」という格式に対して、その歴史的な重みがなくなった第一印象。社殿や境内も最近改築等して一新し、綺麗に手入れもされているが、筆者が想い抱いていたイメージとはかなりかけ離れたものであった。
 
        民家の間にある参道           参道の先にある二の鳥居
       
                    二の鳥居を過ぎると明るい境内が広がる。
『新編武蔵風土記稿 上高柳村条』によると、元々は上下高柳村は共に一村を成していたが、正保年代に二村に分けられたという。
「文永の頃高柳弥五郎幹盛と云ふもの住せし故、此の唱ありなどものに見ゆれど土人は伝へず(中略)元は下高柳村と一村なりといへど、正保の改に上下二村とす、」
また風土記稿に記されている「高柳弥五郎幹盛」とは、武蔵七党・野与党の氏族である大河戸氏から分かれた高柳氏が居を構えた場所とされている。この「高柳弥五郎幹盛」は、『吾妻鑑』にも登場しており、卷五十二「文永二年五月二十三日、高柳弥次郎幹盛」と記されている。
 下高柳八坂社の創建年月日は明らかでないが、風土記稿によれば下高柳村の鎮守で、明治元年(一八六八)六月まで牛頭天王社と称されていた。また吉祥寺持ちとされている。
       
                     拝 殿
       
             境内に設置されている「社殿修築記念碑」
                  「社殿修築記念碑」
       八坂社の祭神は須佐之男命で極めて霊威高き神である平安の古き御代
       神仏習合に依りて牛頭天王として数多の社に鎮め祀らる此の神社の創
       建不詳なるが江戸の御代には牛頭天王社と称え村民の崇敬の的となる
       天文二年三月二十一日神祇官領からの宗源宗旨に依り正一位の神階が
       与えらる明治の初め八坂神社と改名明治五年村社に列格す後に村内に
       鎮座する三島社住吉社天神社鷲宮社稲荷社等を合祀し神威高揚に努む
       現在は八坂社と称す長年の歳月経て社殿老朽化し総代事取人に早急な
       改築の声高まる議りに議りて建設委員会を設置氏子一同に趣旨を通す
       崇敬の念に富み愛郷の情深き諸人等賛同し浄財を奉納宮司神社本庁に
       改築承認申請書提出す平成十七年二月一日付本庁統理より承認書届く
       直ちに着工建築に関わる神事行事百余名の氏人清き誠の心にて奉仕し
       盛大に執行大神等の高き尊き御神徳を蒙り奉りて工事順調に進展社殿
       内外の装飾麗しく整い尊厳な風格を加え神威を増し神聖な社となる平
       成十八年三月吉日社殿修築工事竣工奉告奉祝祭を大御国風高々に挙行
       忠実人等の顔歓喜に満ち神に祈る姿最も美し茲に竣工を寿ぎ地域の発
       展子々孫々の繁栄を祈り氏子等の美徳を称え謹んで一碑を建立して後
       世に伝えるものとする(以下略)
 
     境内にある古い祀念碑。            社殿左側にある神興庫か。
        
               神興庫の並びに鎮座する境内社等
        右から境内社・稲荷神社、弁才天・弁才天女の石碑等、力石。
        
                                      力 石
      左側の石の重量・38貫目、約140㎏。右側の石の重量・30貫目、約110㎏。
        
                                    境内の風景
『日本歴史地名大系』 「下高柳村」の解説
 [現在地名]加須市下高柳
 南は新川(につかわ)用水路を境に小浜村・常泉(つねいずみ)村と対し、北は青毛堀(あおげぼり)川を限り、西は上高柳村(現騎西町)。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高三六〇石余・畑高三六五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二四七石余、反別は田方一三町九反余・畑方一三町二反余、ほかに新開高二四七石余、田方一三町九反余・畑方一三町二反余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。化政期には常陸下妻藩領で(風土記稿)、幕末まで同藩領であったとみられる(改革組合取調書など)。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」Wikipedia
    「境内碑」等

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