古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

石戸宿天神社

 北本市石戸宿地域に嘗て存在していた戦国初期に築城されたとされる石戸城は、別名「天神山城」ともいわれ、北足立郡域最大とされる大規模な城で、岩槻城(岩付城)と武蔵松山城を結ぶ大宮台地北部の戦略拠点であった。石戸は岩槻太田氏の支配下にあり、扇谷上杉氏の家臣太田資長(太田道灌)によりこの城は築城され、扇谷上杉氏の家臣である藤田八右衛門が居城したと伝えられている。
 荒川の東岸の丘陵に所在し、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城からと松山城、河越城を結ぶ防衛戦の一部を担っていたと思われる。
 永禄6年(15632月、北条・武田の連合軍が上杉方である松山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。
 その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割を終えるようである。
『新編武蔵風土記稿 石戸宿村』
「城蹟 廣さ四町許、今は陸田となりて僅にから堀の跡殘れり、西は荒川を帶び、東より北へ頁りては深田にして、南の一方のみ平地に續けり、元禄十六年地頭牧野某檢して高入の地となれり、昔天神山の城と唱へ、扇谷上杉氏の家人八右衛門と云人居りし所なりといへり」
        
                           「石戸城跡」案内板
 現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。この石戸城跡は昭和44101日、埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
 石戸城南方にほぼ隣接して鎮座している石戸宿天神社の創建年代等は不詳ながら、石戸城の鎮守として祀られたのではないかとも推定され、江戸期に石戸宿村の鎮守として創祀したともいう。
        
              
・所在地 埼玉県北本市石戸宿664
              
・ご祭神 菅原道真公
              
・社 格 旧石戸宿村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 225日 お日待 10月第2日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0075752,139.502544,17z?hl=ja&entry=ttu
 高尾氷川神社荒井須賀神社から一旦道なりに南下、埼玉県道33号東松山桶川線に合流し、その県道を荒川方向に400m程西行すると、Y字路に達するので、そこを左方向に進行する。通称「桜堤通り」と呼ばれる道路を1.5㎞程進んでいくと、進行方向右手に石戸宿天神社の鳥居が見えてくる。
 石戸宿天神社南方には「放光寺」が隣接しており、道路沿いには専用駐車場もあるので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                  石戸宿天神社正面
        
 社の南側で駐車場近くには「石戸宿の宿並と御茶屋(御殿)跡周辺の文化財」の案内板が目につき、暫しの時間この案内板を読みながら想像を逞しくした。
 北本市は、古くは荒川、江川、赤堀川等の川沿いにひらけ、中でも、石戸宿を中心とした荒川ぞいの開発は早かったようだ。その荒川に沿って鎌倉街道といわれる古い道が、南北に通っている。鎌倉街道とは江戸時代につけられた名称で、倉時代に幕府が各地に散在する地頭(じとう)・御家人等を鎌倉へ参集させるために整備した道路で、南北朝時代以降も鎌倉府があったため、その機能は存続していた。この街道は「上道」・「中道」を幹線道路とし、その他多くの脇街道からなっていた。
 この鎌倉街道沿った石戸地域は長い豊かな歴史をもっている。鎌倉時代の武士の館も存在し、館の主は源範頼とも、石戸氏とも伝えられている。
新編武蔵風土記稿 石戸宿村』
「土人の傳へに村内小名堀ノ内は、往古石戸左衛門尉の住せし地なりと、左衛門尉は【東鑑】に見へたる人なれば、此に住せしならんには在名を氏とせしものにて、舊き地名なること知らる、
 阿彌陀堂
 小名堀ノ内にあり、相傳へて此地蒲冠者範頼の住居の地とも、又石戸左衛門尉の居跡なりともいへり、縁起の略云源範頼故ありて當国石戸鄕に配流せられ、土俗これを石戸殿と稱せり。然るに其息女龜御前病に罹りて、正治元年七月十二日卒しければ、黄葉妙秋大姉と謚し、追福のために法譽和尚を請して一宇を創建し、西龜山無量院東向寺と呼ぶ、則此堂なりと」
        
               石戸宿天神社 正面鳥居
『埼玉苗字辞典』による急足立郡に土着していた豪族である石戸氏の素性は、ハッキリとは分からないが、大体3系統に分類されているようだ。
秩父氏流豊島氏族石戸氏
 小野氏系図に「横山権守時広(右大将家討取奥州泰衡、其首時広承之)―女子(豊島五郎妻、石戸三郎母也)」
源範頼後裔石戸氏…上記『新編武蔵風土記稿 石戸宿』参照
安達氏族関戸氏
 石戸をセキドと訓じて、関戸の字を用いていたのであろうか。安達氏系図「安達藤九郎盛長―秋田城介左衛門尉景盛―秋田城介義景―頼景(関戸二郎、丹後守。在京)―右衛門尉長宗―八郎義宗」
 玄同放言(滝沢馬琴著)
「武蔵国足立郡石戸荘堀之内村、彼堀内村を、当初足立氏の所領なりけんと思ふよしは、東鑑に所見あり。卷四十三に建長四年七月四日午刻、秋田城介義景妻・女子平産云々、号堀内殿是也といへり。義景は安達盛長の孫なり」関戸(石戸)二郎頼景も堀内殿の子であり、堀之内村で出生したのであろうか。
        
                    拝 殿
 源範頼は、平安末期から鎌倉初期の武将で、義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた。頼朝挙兵に参じ、弟義経とともに西上して、義仲や平氏追討の一方の将となった。のち建久4年(1193)曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ,伊豆修善寺(異説もある)で幽殺されたという。
 但し、範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、「吉見御所」と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

 ところで当地石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には、範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼自らが植えたとされている、範頼の別名「蒲冠者」に由来する「蒲ザクラ」は大正期に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている源範頼伝説の内容に関して編者は、吉見地域には「範頼の男阿闍梨範國當國に居し事見ゆ、元より吉見氏は横見郡吉見に住せし人なるべければ、此邊も彼吉見氏の所領にして、後年子孫のもの彼が追福の爲に建し塔なるもしるべからず」と、範頼の子孫である吉見氏が代々範頼を弔っていることへ、一定の理解を示して記載されているに対して、石戸宿地域には「當所を範頼が葬地と云は妄誕なること勿論なり」と意外と冷たく論じている一方、石戸宿地域も吉見領の一部との認識しているため、同じく範頼を弔うために「五輪塔」を建てたことは『新編武蔵風土記稿』に記されている。
 因みに「蒲ザクラ」は風土記稿編集時も大変珍しかったようで、「さはあれ珍しき老櫻なり」と一文が載せてある。
       
           社殿奥に聳え立つ「ムク」のご神木(写真左・右)
              保護樹木指定標識 指定番号 第17号
                  指定年月日   平成5年12月1日
 
  ご神木の右側に鎮座する境内社・石祠群        拝殿右側にある神興庫等
 左側2番目の石祠には「三峰神社」の木札あり 
 この神興庫の中には、毎年10月の例祭事に奉納される「ささら獅子舞」の御物もおさめられているのであろうか。
        
                            「天神社ささら獅子舞」の案内板
 北本市指定無形の民俗文化財 天神社ささら獅子舞
 昭和五十四年三月十五日 指定
 獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り、発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子(関東では、このような三頭だてが多くみられる。)が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラなどの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。
 獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけずり、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて鳴らす楽器の名から出たものである。
 市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、昭和五十三年に復活した。
 獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。
 昭和五十五年十月 北本市教育委員会

                                      案内板より引用
 
           境内に設置されている社の案内板(写真左・右)
「石戸宿と天神社」 所在地 北本市大字石戸宿
 石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回、市が立り賑わっていた。
 街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の中央に排水溝が設けられていたという。
 天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ、祭神は菅原道真である。
 祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。
 昭和六十一年三月  埼玉県・北本市

天神社 御由緒  北本市石戸宿六-六四
□御縁起(歴史)
荒川の東岸沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いたとも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神山城とも呼ばれていた。
太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請(註:三芳野神社に合祀されている)したことを考え合わせると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られていたとされるので、城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってきた」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字)奉改社地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(一七八三)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在宜範」と記されている。
また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(一七五三)の造立である。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(一七五九)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記されている(以下略)
       
                     鳥居右側にある「
ムクの木」 
             市指定天然記念物
昭和53315日指定
         樹齢600年以上 高さ20m 目どおり375cm 根まわり524cm
        
                              社殿から境内への一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブス」
    「朝日日本歴史人物事典」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等

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大野神社

 国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されている。
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記されている。一方『日本書紀』では、天地開闢(てんちかいひゃく)のときあらゆる神に先立って現れた第一神で、国土生成の中心的神とされる。但し『記紀』共に、それ以降の具体的な説話はない。
 神名の「国之常立」は、「国」を「国土」、「常」を「永久」と解し、名義は「国土が永久に立ち続けること」とする説や、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説など諸説ある。
 明治時代の神仏分離により、各地の妙見信仰社は祭神を天之御中主神と改めたが、一部には、国之常立神を祭神に改めた社もあった。国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、ときがわ町の大野神社もこの神様をご祭神として祀っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大野329
             
ご祭神 国常立尊  配祀 大日孁貴命
             
・社 格 旧大野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭・送神祭 48日 秋季大祭 817
                  ささら獅子舞 8月第3日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9932149,139.209079,17z?hl=ja&entry=ttu
 ときがわ町・大野地域は、嘗ては秩父郡に属し、村域は都幾川の水源地である外秩父山地の山間にあり、山の中腹、或いは渓流等沿いに民家は散在している。
 五明白石神社が鎮座する五明地域から埼玉県道30号飯能寄居線を南下し、「田中」交差点を右折する。同県道172号大野東松山線に合流した後、7㎞程西行する。「ときがわ消防団第3分団第4部」(消防団といっても小さな2階建ての建物だが)を右手に見ながら更に750m程道なりに進行し、緩やかな上り坂が右方向へカーブしたその先に大野神社が見えてくる
        
                                     大野神社正面
         外秩父の山間地の小さな集落の中、高台上に静かに鎮座している。
『日本歴史地名大系 』「大野村」の解説
 椚平(くぬぎだいら)村の北西にある。近世には秩父郡のうちで、村域は都幾川の水源地、外秩父山地の山間に展開する。東は平村、西方は堂平(どうだいら)山(875.8m)や大野峠(標高853m)などを境として、秩父郡芦ヶ久保村(現横瀬町)など。北西は白石村(現東秩父村)。玉川領に属し、小名に久保・向谷戸(むかいがやと)・道上(どうじよう)・竹ヵ谷・入(いり)・並木・八木成(やぎなり)・田ノ久保・片市・原・峰・小林・藤原・七重・鳥沢などがある(風土記稿)。
「風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え(橋倉屋敷・橋倉館などという)、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。近世を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・「風土記稿」など)。田園簿によると田高五石余・畑高一三四石余、紙舟役一七五文が課せられていた。
        
                石段上にある社号標柱と鳥居
 日本武尊がこの地に来て国常立尊を祭り、「身形神社」と称したのに始まると伝えられる。江戸期になって「北滝山妙見宮」と改め、明治初年に「身形神社」に社号をもどしたが、明治四十三年には地名を採って「大野神社」と改めた。本殿に安置される毘沙門天像は、北方の守護神であるため、北極星を祀る妙見信仰により奉安されることになった。
        
             静謐な雰囲気の漂う境内と、神仏習合時代の香りが今なお残る社殿
 秩父地方では、妙見菩薩が「妙見七ツ井戸」を渡り秩父神社の社地に奉斎された後、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7カ所(第1所・小鹿野町藤倉 第2所・皆野町金沢 第3所・長瀞町矢那瀨 第4所・東秩父村安戸 第5所・都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕第6所・名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕 第7所・飯能市北川)に秩父妙見宮〔現 秩父神社〕の守護神として祀ったと伝えられている。この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれる。
『秩父志』にも、「秩父七妙見」の置かれた位置について「郡境ニ祭ル」「郡境七所ニ往古分祀セシナリ」「群境ノ村々七所ニ遷請シ奉ル」と記され、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7ヶ所に攘災の守り神として祀ったことが分かる。多くが現在の秩父地方に含まれない境界辺りに位置しているが、当時は寄居、嵐山、ときがわ町、飯能市も秩父と称していたのであろう。
        
                     拝 殿
        
            道路沿いに設置されている社の由来の案内板
 大野神社由緒
 所在地 都幾川村大字大野三百二十九番地
 祭 神 国常立尊
 配 祀 大日孁貴命
 当神社は社伝によれば日本武尊が御征討の際この地に国常立尊を祭り、身形神社と称したのが始まりとされています。その後、徳川幕府の時代に北滝山妙見宮と改称され国幣小社秩父神社の姉神として、秩父七妙見のひとつに数えられたといわれています。更に明治四十年(一九〇七)に七重地区の神明社を合祀して同四十三年に社名を「大野神社」と改め現在に至っています。
 特殊神事
 一 送神祭(県指定選択無形民俗文化財)
 送神祭は今から二百六十年前、村中に広まった疫病を追い払うために始まったものと言われています。例祭の四月八日(現在は四月の第二日曜日)には宮司を先頭に青竹と和紙で作った御輿と小旗の行列が笛や太鼓の音と共に地区内を限無く巡って村中の疫病神を村外に送り出してしまうというたいへんめずらしい祭りです。
 二 ささら獅子舞(村指定無形民俗文化財)
 獅子舞は言い伝えによれば、享保年間(一八〇一〜一八〇四)の大旱魃の時雨乞いを祈願したことから始められたと言われています。旧暦の七月十七日(現在は八月第三日曜日)には、花笠四人に「ハイオイ」と呼ばれる先達と獅子三頭が笛の音色に合わせて「白刃」を代表する「七庭の舞」と「願ざさら」等を奉納いたします。
「文化ともしび賞」受賞 昭和六十一年二月十五日
 平成八年八月十八日
 大野神社氏子会
 大野地区文化財保存会
                                      案内板より引用
        
         社殿の左側に祀られている境内社・合祀社、石碑、力石等
合祀社に祀られている社は、山神・天満天神・大山祇・福寿稲荷・稲背脛・山峯等、右側の社は稲荷社。
      石段上には「聖徳皇太子」の石碑が、また右側手前には「力石」がある。
        
                     社殿奥にある記念碑や石碑、その奥には神興庫あり。
                                          記念
                   当社は人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊の創建せら
                   れたもので其の由緒極めて古く社号も妙見宮身形神社と
                   称えた事もあつたが明治四十年大字七重神明社を合祀同
                   四十三年六月大野神社と改称した境内地は元より国有地
                   であつたが昭和二十三年三月二十八日宗教法人令により
                   譲与の申請をしたところ同二十四年四月三十日指令社第
                   一六三六号を以て関東信越財務局長より無償で譲与の許
                   可をされたのであるこの劃期的な事項を永遠に記念する
                   ため碑を建て裏面には当時の神社関係者の氏名を録して
                   世に伝える。
                 大野神社宮司明階戸口保三書
     
     
 ところで「新編武蔵風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。
*大野弾正
『新編武蔵風土記稿 大野村』
「城跡 村の西の方高篠山の麓にあり、此所を橋倉と云。一つ離れし小山なり、山上一町四方許の平坦、巽の方を前とし乾を後とし、民坤の方谷川の流れあり、前に至り此二流合して一流となれり、堀の跡などあり、往昔大野弾正と云へるもの居住せり、」
『新編武蔵風土記稿 薄村(現両神村)』
「此の辺にて大野弾正討死すと云伝ふれど詳ならず。此の弾正は鉢形の家臣なれば天正の頃のことなるべし。郡中大野村に住せしとて其跡あり」
 
 入口正面の参道の左隣にも石段があり、その先には忠魂社が祀られている(写真左・右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「デジタル大辞泉」
    「ときがわ町HP」「神社内案内板・境内石碑文」等 

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大附日枝神社

「蟇目の神事」は、各所の神社で行なわれる鏑矢(かぶらや)を射て邪を除く神事であるが、ときがわ町・弓立山にも「蟇目(ヒキメ)」に関しても次のような伝説があるのでご紹介したい。
【弓立山の伝説】
 天慶8年(945
)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。
 弓立山は海抜426mの独立峰で、ここから西に射はなされた矢は、「ウズウ」と音を立てて地上すれすれに飛び、「振り矢」で向きをかえ、「曲り矢」で方向転換して「矢所」に落ちたという。その後、地面に突き刺さった矢は根が生えて篠やぶとなったとされている。(現在でもこの場所は霊地「矢所」として、篠やぶが大切に保存されている)
「蟇目神事」は弓矢の霊威をもって邪気を払う秘法で、民間に流布されるという。事例はあまりないが、破魔矢をみても弓矢が邪気を払うという事はよく知られている。禁中では「蟇目神事」は古来より様々な応験を顕す秘法として重用され、白川天皇御不例の際に源義家が大庭に立って弓を鳴弦したところ、病がたちまち癒されたという。
 新しい文化や生活が華やかに喧伝される一方で、日本人が古来から培ってきたものも連綿として継承され続けているのである。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字大附672
            
・ご祭神 大山咋神
            
・社 格 旧大附村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 4月 例大祭 1013日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9936667,139.2601026,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下地域から西方向、外秩父山地東端の弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面斜面上に位置する大附地域。瀬戸元下雷電神社からは最初南西方向へ鬱蒼とした森に囲まれた山道を道なりに2㎞程進行すると、一面視界が広がり、関東平野が一望できる広々とした空間に到着する。進行方向左手には「いこいの里大附そば道場」の看板があり、その先には「大附公衆トイレ」が設置されており、そこで暫し休憩。右側には東屋のような「大附道の駅」があり、そこに設置されているお洒落な「鐘」を鳴らそうかどうか、考えながら(結局鳴らせませんでした)いよいよ目標の社に向かう。
 そこから北西方向に進む山道を1㎞程進んでいくと、斜面右手に大附日枝神社の鳥居が見えてくる。山中にある静かな社である。
        
                                
大附日枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「大附村(おおつきむら)」の解説
 [現在地名]都幾川村大附
 瀬戸村の西に位置する。村域は外秩父山地の東端弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面に展開し、越辺川支流上殿(かみどの)川の水源地帯になっている。南は上谷村(現越生町)。「風土記稿」によると村民六左衛門の先祖左近が天正年中(一五七三―九二)松山城(現吉見町)の落武者として当地に土着、大月氏と号したことが地名由来と伝え、古くは大月とも記したという。また、当地の旧家大附(大月)・山岸・吉野・島田の各家の祖先はいずれも松山城から落武者として当地にきて土着したとの伝えがあり、各家の墓地には永仁三年(一二九五)・正和五年(一三一六)・永正三年(一五〇六)などの年紀がある板碑が十数基現存する。

        
               道路沿いに設置されている案内板
 日枝神社由緒
 御祭神 大山咋命
 御神体 懸仏山王七社の本地仏が梵字で刻まれ、裏面に「奉掛本社山王御本宇大施主孫次郎、
         
永正四年丁卯(一五〇七)十二月十三日」とある。
 創 建 長禄元年(一四五七年)
     古くは山王権現と称し水境の地に鎮座されていたが、火災により焼失、現在地に
     建される。
 御神德 五穀豊穣 無病息災 家安全
 御神事 四月祈年祭 十月例大祭 保存会獅子舞奉納 
 末 社 愛宕神社 迦具土神 火伏の神
     疱瘡神社 少彦名命 医業酒造の神
 御神木
   平成十七年三月吉日建之
                                      案内版より引用
 
     
大附日枝神社正面の石製の鳥居         石段右側には社号標柱が立つ。
       
                      石段を登り終えると境内、正面に拝殿が見える。
       
                     拝 殿
 大字大附の日枝神社で毎年1013日に近い日曜日に奉納される「ささら獅子舞」は、現在町重要無形民俗文化財に指定されている。
 この獅子舞は江戸時代に越生町の麦原から伝わったと言われていて、朝方から夕方まで「四方がかり」「花がかり」「一ツ花」「千鳥ぬけ」「女獅子隠し」の五つの庭(舞)が奉納されるようだ。
 
                 拝殿奥にある精巧な彫刻で拵えている本殿(写真左・右)
        
              本殿の奥に巨木が伐採された跡がある。
 これは大附日枝神社の大欅(目通り幹囲 6.7m、推定樹齢700年、環境庁「日本の巨樹・巨木林 関東版(Ⅱ)」にも掲載された)の跡で、平成31年(2019)に樹形の変化及び樹勢の著しい衰退により氏子により伐採されたという。
 今でも巨木の幹部分には注連飾りが巻かれ、大切に保存されている。当地の方々の御神木に対する崇敬の念を改めて感じた次第だ。
 
 社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。     境内社の正面に置かれている巨石。
                           何か曰く等あるのであろうか。

 都幾川は、比企郡中部を流れる荒川水系の一級河川で、流路延長約30㎞。堂平(どうだいら)山・大野峠・刈場坂(かばさか)峠の稜線を分水界とする外秩父山地の東方を水源地帯とし、都幾川村西平で氷川、玉川村で雀川(玉壺川とも)、嵐山町菅谷で槻川を合せて流れ、東松山台地と岩殿丘陵を南北に分けながら東へ進み、川島町長楽で越辺川に合流する。
 一方、槻川(つきかわ)は、埼玉県西部を流れる延長25㎞の荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。秩父郡東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発する。外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東南東方向から東方向に向きを変える。安戸地区を過ぎると小川町腰越地区へ入り、南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地に達する。
 兜川と合流後、小川盆地を抜けると次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では再度南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地である。渓谷を抜けると東へ直線的に流れ、最終的に嵐山町鎌形で都幾川の左岸に合流する。
 このように、槻川は河床勾配が急な河川で、地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れている特徴を持つ。
 合流点までの河川延長は、山地を挟みすぐ南側を流れる水源がほぼ同じな都幾川とは大差はない。また総延長は本河川である都幾川とあまり変わらない。
        
                   境内からの一風景
 筆者が昔から不思議に思っていた事なのだが、「都幾川」と「槻川」は、水源がほぼ同じ場所でもあり、名称(発音)もよく似ていて、「都幾川」を「つきがわ」とも読めそうでもある。
 都幾川に架かる上唐子・大蔵両村の橋を「月田橋」といい、『新編武蔵風土記稿 比企郡』には「都幾川は郡の中程を流る、【源平盛衰記】に木曽越後へ退きしに、頼朝勝に乗に及ばずとて、武蔵国月田川の端あをとり、野に陣取とあり、今下青鳥村は郡の中央にて、則この川槻川と合せしより、遥に下流の崖にあり、ざれば彼記に月田川と記せしは、此川をさすこと明なり、田の字もし衍字(えんじ・間違った文字)ならんにも、當時下流までつき川と號せしならん、されど今は槻川と合てより、下流はすべて都幾川と號して、槻川とはいはざるなり」とある時期までは、嵐山町大蔵地域で槻川と合流したその下流の下青鳥、及び本宿地域附近の都幾川を月(田)川と称していた。
        
                             正面鳥居の右側にある湧水
 また正安三年宴曲抄に「大蔵に槻河の流もはやく比企野が原」とあり、合流している大蔵村の都幾川を槻川と称している。
 ときがわ町平地域の慈光寺は都幾山(つきざん)と称し、平・雲河原地域は嘗て都幾庄(とき)を唱えていたのだが、その由来は、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山(ときざん)より起ったともいう。
 このようにこのときがわ町周辺地域と「つき」は密接な関係があったと考えられる。
 今回参拝した日枝神社の地域名は「大附」。「大附」と書いて「おおつき」と読む。「つき」を共有しているこの地域は、どのような歴史が繰り広げられていたのであろうか。 
       
                大附地域から見た関東平野


*追伸として
 さいたま市浦和区岸町には「調神社」が鎮座しています。延喜式内社で、旧社格は県社という堂々たる格式であります。祭神は天照大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊の三柱。
 社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたといわれています。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとしています。
 このように「調(つき)」は、古代の租税の徴収に当たる職名とも想定され、「シラベ・チョウ・ミツギ」ともいい、和銅6年(713年)元明天皇「二字佳字の詔」により、後代に「月・築・槻・附・都幾」等を用いたといいます。この「月・築・槻・附・都幾」等の漢字は「都幾川」「槻川」にも共有されています。偶然の一致でしょうか。
 また別説では、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もあります。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘され、当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされています。
 ときがわ町北側には、東松山市唐子地域もあり、渡来系の人々が移住した地とも言われており、ときがわ町にもこのような渡来人を祖とする一族(調族)の移動・移住の可能性もありそうです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 HP」「Wikipedia」
    「案内板」等    


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瀬戸元下雷電神社

 都幾川支流である瀬戸川はときがわ町・大附地域の弓立山(標高426m)を源とする延長約2㎞の小河川で、瀬戸・関堀・馬場各地域を流れ、旧都幾川村本郷・田中地域付近で都幾川と合流する。
 恐らく「瀬戸」地域は、この都幾川支流である「瀬戸川」から派生した地名であるか、その逆パターンであろう。この両者はお互い固有名詞である「瀬戸」が共有していて、加えて隣接して存在している為、何かしらの関連性はあることは確かである。
 さて、この「瀬戸」地名由来には、各説があり、ハッキリとしたものはない。筆者も多くの解説書やHP等を確認したが、この地名の多くは海近くか、河川に面した地域由来が多いが、だからといって陸地にも数多くこの地名は存在する。
 結論から言うと、この地名は、海のあるなしに関わらず、狭い出入口をいうような『狭処(セト)』が本来の意味で、「瀬戸」という漢字は後に転じたものであるという。 「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られるとの事だ。
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元下4471
            ・ご祭神 大雷命(推定)
            ・社 格 旧瀬戸村鎮守
            ・例祭等 例祭 10月15日(ささら獅子舞)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9965833,139.2694904,17z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社が鎮座する瀬戸元下地域は、桃木地域の丁度真南側に位置し、現在は瀬戸元上・元下各地域に分かれているが、嘗ては同じ「瀬戸村」を成していた。
 途中までの経路は桃木八幡神社を参照。埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を直進し1.2㎞程進むと、信号のある丁字路があり、その先の路地手前付近に「瀬戸雷電神社」の立看板が見えるので、そこを右折する。そこからは道なりに200m程進んだ瀬戸川に架かる橋の手前付近に瀬戸雷電神社の看板が見えてくる。
 河川沿いに路上駐車できるスペースがあり、そこの一角に車を停め、徒歩にて西方向に進む。
        
                      駐車した地点から暫く徒歩にて社に向かう。
 歩道の右側は「瀬戸川」なのだが、ほぼ「沢」と言っても良い小川であるが、水質も良さそうで綺麗である。この河川沿いを暫し進むと、正面に瀬戸雷電神社の石段が見えてくる。因みに歩道左側は鬱蒼とした森が続いていて、もしかしたら一昔前はこの歩道も参道の一部だったのか、とも感じる位風情がある。
 神社紹介のブログではあるが、このような歩道からのスタートも悪くない。 
        
                  瀬戸元下雷電神社正面
 参拝日は4月後半の平日。春時期とはいえ、日中は真夏を思わせるような日差しであり、少し歩くだけでも汗ばむ陽気だが、新緑に覆われている森に入ると至って涼しく清々しい。舗装されていない歩道も一昔前の風情や情緒があり、どことなく懐かしさを感じながら暫し歩いて行くと目の前に瀬戸雷電神社の石段、そしてその奥に鳥居が見えてくる。
 
 石段を登り終えると正面に石製の鳥居が見える(写真左)。鳥居の左側には社務所も設置されている。どうやら鳥居の正中線上からやや左向きにずれて社殿は鎮座しているようだ。
 河川沿いの歩道は周囲木々に覆われ、ほの暗くもあったが、鳥居を越えると状況は一変し、明るい境内が一面に広がる(同右)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 瀬戸元下雷電神社の創建時期、由緒等は不明。但しその西側で「雷電山」頂上部に鎮座している雷電神社奥宮は、雷除けの神様が祀られているという。因みに雷電山はときがわ町にある標高418.2mの低山で、埼玉百名山に名を連ねている。
 またこの雷電神社で1013日に近い日曜日に行われている「雷電神社ささら獅子舞」は、古文書から江戸時代の享和元年(1801)には、ささらに関する記録があり200年以上のわたり行われていることが分かっており、舞は「花がかり」「雄獅子かくし」「一ツ花」という。
 この雷電神社ささら獅子舞は町の無形民俗文化財に指定されている。
       
    境内は幾多の木々に覆われているが、その中でも特に立派な大杉の大木(写真左・右)
        
                    境内南側に設置されている「助成施設」という神興庫
         この中にささら獅子舞等が大切に保管されているのであろうか。
        
         社殿より境内を眺める。瀬戸地域を静かに見守る鎮守様。
 ところで『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
 この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣で、各村に土着した一族の末裔といわれている。
 瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ」

 
         参拝終了時、瀬戸川の流れが気になり撮影(写真左・右)。

 社は2段の石段上の高台に鎮座しているが、その理由が当初分からなかった。せいぜい斜面上に鎮座しているので、参拝者の方々への利便性から石段を設けた、という単純な考えしか浮かばなかったが、社に沿って流れている瀬戸川を見ると、おぼろげながらその理由がわかってくる。
 瀬戸川は現状川底がハッキリ見える位の清流で、穏やかな姿をしている。尚且つ、洪水対策として護岸用のブロックもしっかりと組まれているようであるが、この川幅に対してブロック壁の高さを鑑みても、一旦大水等が発生すると土砂災害による被害が出そうな地域と変貌しそうな外観であった。
 事実「ときがわ町 土砂災害マップ」を見ても、丁度社の東側及び瀬戸川周辺は「土砂災害特別警戒区域」「土砂災害警戒区域」になっていて、この地域の危険地帯の「へそ」に当たる場所に鎮座しているこの社の存在意義を改めて確認したような思いであった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町HP」等

       

        

 

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桃木八幡神社

 桃木八幡神社周辺は、桃木の名前にちなんで花桃がたくさん植えられていて「花桃の里」と呼ばれていて、三月下旬から四月上旬には社参道で、「花桃まつり」も開催され、多くの人で賑わう。この「花桃の里」には、1本の花桃の木にピンクや赤、白の花を咲かせる「源平花桃」や、濃い桃色の八重咲きの「矢口桃」などが咲き、そしてこの種の「枝垂れ花桃」が道路沿いや庭先に咲く。
 地域住民団体の「花桃の会」のメンバーは、花桃の咲く里づくりによる地域の活性化と、心の触れ合う住みよい地域社会をつくることを目的に、平成八年(1996)から植栽のなどの活動を行ってきたという。
 今回何のレクチャーもなく、4月下旬という中途半端な日に参拝したため、花桃を見ることは出来ず、その点は大変残念。いつの日にか、桜と共に咲き誇る花桃の美しい風景を愛でたいものだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町桃木399
             
・ご祭神 品陀和気命
             
・社 格 旧妙覚郷八ヶ村総鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0047598,139.2657312,18z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から北西方向にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を右折し、「ときがわ町立都幾川中学校」を左手に見ながら次の信号の手前にある上り坂の路地を左折し、暫く道なりに進むと、右手に桃木八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                        綺麗に整えられている
桃木八幡神社周辺環境
『日本歴史地名大系 』「桃木村」の解説
 関堀村の西に位置し、南西方に弓立山がそびえる。玉川領に属し、いわゆる妙覚郷八ヵ村の一つ。小名に「根キハ・トチ沢・山口」があった(風土記稿)。田園簿には桃ノ木村とみえ、田高九〇石余・畑高二六石余、ほかに紙舟役五〇三文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高一四二石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領。以降、同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。化政期の家数三〇、用水は平村地内で都幾川から取水した(風土記稿)。
 鎮守は八幡社(現八幡神社)。妙覚八幡大菩薩御縁起(西沢家文書)によれば同社は妙覚郷八ヵ村の総鎮守で、延暦二四年(八〇五)の勧請という。
        
                  桃木八幡神社正面
 都幾川を見下ろす丘の上に鎮座する桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられている。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、その後明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていたという。
        
        参道は100m以上続く中、周辺の環境整備もしっかりとされている。
 桜や花桃の開花の時期は過ぎてしまったが、新緑が若々しく、木々も活力溢れているようだ。
          空気も澄み渡り、春時期ならではの気持ちよい散策。
        
 境内も広々としていて、神仏習合の名残りが今でも残っている独特な造りの社殿と相まって、良い雰囲気を醸し出している。また社殿の奥に聳え立つ巨木等の木々も良い感じである。
        
さすが明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守の風格といったところか。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 桃木村』
 八幡社
 妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
 別當妙覺寺
 もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
 寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし、
 鐘樓 延寶六年鑄造の鐘なり、
 地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、
 
    社殿左手に鎮座する境内社・稲荷社    社殿右手奥に鎮座する境内社・大洗磯前神社
       
        境内社・大洗磯前神社手前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
「埼玉の神社」によると、神仏分離まで別当を務めた明覚寺は、古くは明王院といい、本山派修験の寺であったが、神仏分離後は西沢姓を名乗って復飾した。当主の泰一で二九代を数えるといい、『風土記稿』や『明細帳』に載る由緒は同家所蔵の社記によったものである。また、当社の本殿の軒には卍の紋が入っており、神仏習合当時の名残が見られる。なお、西沢家は代々当社の鍵を預かっており、当主が氏子総代として神社運営のまとめ役になっているなど、今も当社と深いかかわりがあるという。
 この西沢氏は、八幡社別当修験妙覚寺宮本坊文書に「十世貞山智歓法印・北条氏島崎云ふ、改西沢帯刀光輝靭負正、大永元年八月十三日寂・西沢靭負正道房。十一世寿山林盛法印、元亀三年九月三日寂・西沢靭負尉道光。十二世速山長歓法印、寛永六年四月四日寂・西沢右近将監」と記載され、それ以降も29代と続くこの地域の名主的な存在であるのであろう。
        
              境内社・稲荷社・八坂社・山神社合殿
              
        社殿前には神仏習合の名残を象徴する宝篋印塔が立っている。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔である。
 宝篋印塔を礼拝供養することによって、亡くなられた方が現世で犯した罪を消し、極楽浄土へ往生できるとされている。また、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられており、ご先祖様の供養だけでなく、子孫を守り、一族を繁栄へ導くともいわれている。
 参拝では「宝篋印陀羅尼」を唱え、塔の周りを右繞三匝(うにょうさんそう/仏に対して右回りに3回まわる参拝の作法)することで効力を発揮すると伝えられている。

 この宝篋印塔は寛政九年(一七九七年)神仏習合の時代、当地に造立されたが、明治元年(一八六八年)政府の神仏分離令により解体され、一部は放置、一部は地中に埋められた。
 調査の結果、百四十年の時を経て、平成十九年二月、塔の全部分が発見される。ここに再び地域の繁栄と住民の健康、幸せを祈り、造立当時の姿
「塔 高サ壱丈壱尺、敷石掛ヶ高サ四尺二シテ六尺四方、メ惣高サ壱丈五尺也」
 に復元し供養する。
 平成十九年六月吉日
                             「
宝篋印塔下部供養碑文」より引用

        
                静かに佇む古社の趣のある社
          


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「フォトさいたま」宝篋印塔供養碑文」等
 

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