藤波天神氷川八幡合社
南に隣接する中分地域と並び、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつで、江川沿いの沖積平野やその支流の小河川が造り出した多くの開析谷(谷津)が複雑に入り組んでいる。
全域が市街化調整区域に位置し、全体的には台地上は主に耕作地などの農地が広がる農地的土地利用の比重が高い地域であるが、工場のほか幹線道路に近い北部に藤波団地と称する纏まった住宅地も見られる。また地域の西側の主に水田として利用している江川流域沿いの低地は、かつての荒沢沼で、荒川の遊水地的な湿地帯であったともいう。
地域内には、縄文時代草創期の遺跡である藤波遺跡があり、また、縄文・弥生期の住居跡遺跡である後山遺跡(県遺跡番号:14-030)もあるとのことで、この地域には古くから人による開発が進められていたと推測できる。
・所在地 埼玉県上尾市藤波1-282-1
・ご祭神 素戔嗚尊 誉田別尊 菅原道真公
・社 格 旧藤浪村鎮守・旧村社
・例祭等 祈年祭 2月 例大祭 10月第一日曜日 新嘗祭 11月
桶川市・上日出谷氷川神社のすぐ東側に南北に走る道を1.2㎞程南方向に進むと「つくし学園入口」交差点に達し、右折するとすぐ左手に藤波天神氷川八幡合社の正面鳥居が見えてくる。
但し、駐車スペースは正面周辺にはなく、交差点は一旦直進する。そして緩やかな右カーブとなる道のすぐ先にある路地を右折すると、社及び隣接する「藤波公民館」の敷地内に達し、そこには駐車スペースも十分にある。
藤波天神氷川八幡合社正面
『日本歴史地名大系 』「藤波村」の解説
領家(りようけ)村の北、江川の低地に延びる大宮台地上にある。北と東は下日出谷村(現桶川市)。村名は藤浪とも記される。天正一三年(一五八五)四月五日の北条氏政印判状写(武州文書)では、藤波与五右衛門に対し調儀に備えて五月五日までに軍装を整備するよう命じられている。同一五年と推定される亥三月一九日の太田氏房印判状写(同文書)では、「藤波山」から岩付城(現岩槻市)修理のための材木が伐り出され、これを受取るための人足が徴発されている。
正面鳥居の右側に設置されている案内板
同じく「藤波のささら獅子舞」「藤波の餅つき踊り」の案内板。
どちらも上尾市の文化財に指定されている。
一の鳥居から見える朱色の二の鳥居
藤波地域は台地上に位置し、地形は起伏に富んでいた。古くから高台での麦作り、低地の米作りが生活を支えてきた。しかし、谷間の田んぼは水はけが悪く、昭和時代の土地改良が行われる以前は、膝上まで浸かりながらの籾の直播き農法である摘田(つみだ)を行っていたという。
藤波全域が市街化調整区域になり、近年新たに建造された住宅地域も見られる一方、耕作地等の田畑風景もしっかりと残されているようだ。
社の境内は至って静かで、この一の鳥居から見る境内の景色は、どことなくゆったりとした時を紡いできた嘗ての懐かしい藤波地域の原風景の縮図を見ているような感慨がふと頭を過ったものだ。
「天満宮」と表記された二の鳥居
天神氷川八幡合社の創建年代は不明であり、別当寺の密厳院も創建年代不詳である。ただ密厳院は、かつては真言宗寺院であり、明応年間(1492年 ― 1501年)に臨済宗円覚寺派に転宗して再興されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
嘗ては「氷川天神八幡合社」と称していた。このことから、真言宗時代の密厳院によって、最初に「氷川神社」と「八幡神社」が祀られ、臨済宗時代になって、学問の神として崇敬されていた天満宮を祀ったものといわれている。順番が入れ替わったのは、天満宮の祭神である菅原道真に対する崇敬の念が高まったからだといわれている。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられたが、1878年(明治11年)の火災で社殿が焼失したが、1880年(明治13年)に再建された。
拝 殿
境内の土壌の関係なのか、拝殿周囲にはほとんど草が生えていない。不思議な光景。
天神氷川八幡合社 上尾市藤波一-二八二-一
祭神…菅原道真朝臣 素戔嗚尊 誉田別尊(応神天皇)
当社は、藤波のほぼ中央の南東に低地が広がる台地上に鎮座している。昭和三十五年ごろまでは、その裾から清水が湧きだして「天神様の池」と呼ばれる三〇坪ほどの池を形成していたという。
創建については不詳であるが『風土記稿』に「氷川天神八幡合社 村の鎮守なり、密厳院持」とある。別当の密厳院は相州鎌倉(神奈川県鎌倉市)の臨済宗円覚寺末で、瑞露山藤波寺と号する。元々は真言宗の寺であったが衰微したため、明応年間(一四九二-一五〇一)に叔悦禅師が、甥である岩槻城主太田資家の招きに応じ、住職となり、禅宗の一派である臨済宗に改宗して再興した。禅宗では、室町期から天神を学問の祖として崇敬していた。このようなことから、まず真言宗密厳院が、見沼を見下ろす高台に鎮座する一宮氷川神社の分霊を、地形が類似した当地に勧請した後に鎌倉の地から鶴岡八幡宮の分霊を併せ祀り、更に改宗後の密厳院が、天神社を併せ祀ったものと思われる。当社を「天神様」と称するのは、密厳院が天神社の神徳を強調した結果であろう。
当社は明治六年四月村社に列した。同十一年十二月三十一日に火災となり、社殿を消失したが、氏子の寄付により、同十三年九月二十五日に再興した。その後、本殿が雨ざらしになっているのを憂えた氏子一同は、大正六年に本殿の覆屋を新たに建設した。
年間の祭典は二月の祈年祭、九月の例大祭、十一月の新嘗祭の三回である。そのうち、九月の例大祭には上尾市指定民俗文化財の「ささら獅子舞」が奉納されている。また、元旦には「餅搗き踊り」が行われている。
境内社に「浅間社」「三峯社」「稲荷社」を祀る。
案内板より引用
本 殿
上尾市指定無形民俗文化財の「藤波のささら獅子舞」は、例祭の際に奉納される舞の1種であり、古くから続いている行事である。嘗ては9月25日に奉納されたものであったが、現在は10月の第1日曜日に行われる例祭に奉納されている。また同じく市指定無形民俗文化財である「藤波の餅つき踊り」も社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演しているという。
上尾市指定無形民俗文化財 藤波のささら獅子舞
(保持団体)藤波のささら獅子舞保存会
「藤波のささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3頭の獅子が舞う、三匹獅子舞と呼ばれる風流系民俗芸能である。伝承では、藤波の領主であった牧野氏が寛文七(1667)年に検知した際、村人に獅子舞を奨励したのが始まりといわれている。獅子舞は、毎年、藤波地区の鎮守である天神社の例祭の日である九月二五日に奉納されるものであったが、現在は一〇月の第1日曜日に奉納している。
舞手の構成は、雌獅子と中獅子、雄獅子の3人と、舞の先導役の宰領(猿岩)の、4人1組である。舞は笛に合わせ進行し、獅子は舞いながら腰に着けた太鼓を叩き、花笠をかぶった岡崎と呼ばれる役が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
演目は、「十二切」と呼ばれる一曲形式が基本で、約2時間にもおよぶものだが、同じ動作の繰り返しを省略するなど、現在は十二切の上演は1時間半程度となっている。舞の中盤には歌が入り、後半は「雌獅子隠し」となる。雌獅子隠しは、岡崎の間に入って隠れた雌獅子を、中獅子と雄獅子が探して奪い合うという内容になっている。このほか、十二切の短縮版の八切と四切がある。現在は、祭りの当日の午後に十二切を2回、夜間に八切を1回奉納している。
上尾市指定無形民俗文化財 藤波の餅つき踊り
(保持団体)藤波の餅つき踊り保存会
餅つき踊りは接待餅ともいわれ、本来は祭りや行事で上演することが目的ではなく、主として「おびとき」といわれる現在の七五三のお祝いに呼ばれて披露する民俗芸能であった。「藤波の餅つき踊り」は、江戸時代後期に名主の篠田金右衞門が若者に賭博をやめさせるために習わしたのが始まりと伝わる。
藤波地区の餅つき踊りは、4人1組でつくのが基本である。演目は「餅つき」と「曲づき」に大別される。「餅つき」は比較的軽い杵を使い、実際に餅をつきながら踊るもので、演目は立ちボーウチ、座りボーウチ、餅殺し、一本抜き、七五三、早づき、八人づきである。
なお、立ちボーウチと座りボーウチは、この地域の麦作の作業歌である麦打ち歌であるボーウチ歌に合わせてつく。「餅つき」の基本は餅殺しで、一本抜き、七五三、早づき、八人づきはその変形となる。一方「曲づき」は「餅つき」が終わった後に、さらに細く軽い杵を使って、空の臼の周りで演じるもので、「獅子追い」「寝ず」などの演目がある。高度で複雑な動きをする踊りである。
現在、七五三のお祝いで上演する機会はなく、藤波地区の鎮守である天神社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演している。
上記どちらも案内板より引用
本殿後ろに無造作に置かれている石等 同じく本殿奥にある巨木の伐採跡
「力石」らしき物も含まれているように見える。 嘗て社のご神木であったのであろうか。
社殿の右側に聳え立つ巨木二本
境内に祀られている境内社三基
左から、稲荷神社・三峰神社・浅間神社
社殿からの一風景
静かな境内。ゆったりとした時間が流れているようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」「Wikipedia」
「境内案内板」等