古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北根久伊豆神社

 埼玉県の元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)は面白い社である。御祭神は大己貴命でありながら、同じ系統の氷川神社(御祭神・須佐之男命、稲田姫命、大己貴命)と同化ないしは合流もせず、元荒川左岸という至って限定された地域に根を張って独立を保ち、今尚地域住民の方々の崇拝を受けていることは不思議としか言いようがない。
 元より現在の元荒川は江戸時代に時の権力者から「荒川の西遷」と云われる公共的な土木事業により入間川と合わせられ、河川としての本来の姿からは程遠い姿となっているが、元荒川こそ荒川本来の流路であった。近代以前土木技術も発達していなかった時代にあり、元荒川は埼玉県東部の低地帯を縦横無尽に流路を変遷させた。地域住民の方々にとって元荒川は「豊富な栄養を含んだ恵みの河川」であると同時に一旦水害が発生すると「荒川」の名の如く全ての耕作物を飲み込む恐ろしい川でもあった事だろう。
 久伊豆神社も元荒川左岸に分布していると云われているが、河川の流路は簡単に変わるものだ。人々の長年の経験値から導き出された自然堤防等の僅かな高台に鎮座することにより、恐ろしい災害から難を逃れると同時に、地域住民の避難場所と穀物の蓄え等の確保の役割も備えた施設でもあったと思われる。
 創立起源として平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているというが、社の起源は鎌倉時代よりも遙かに古いので、野与党・私市党は自らの守護神として社の権威を高め、また同時に社の勢力範囲を広げたのであろう。
 埼玉郡北根村(旧川里町)は、賜蘆文庫に「享徳十五年閏二月九日、武州崎西郡北根原合戦」と見え、古くからあった地名であり、この地域にも久伊豆神社は鎮座している。
               
               
・所在地 埼玉県鴻巣市北根1282
               
・ご祭神 大己貴命
               
・社 格 旧北根村鎮守 旧村社
               
・例 祭 例大祭 1024
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1146548,139.5187888,18z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市北根地域は赤城神社が鎮座する赤城地域の南東部に接している。川里赤城神社からは直線距離で南東方向500m程の場所で、道路沿いに鎮座している。正直細かい農道等を説明する必要がある為、あえて簡潔に説明する。社の東側には野通川が南北に流れ、「みょうじんばし」と書かれた橋を越え、左右に見える変電所、野球グランドを過ぎると、一面の田園地帯で長閑な風景が広がる。
 この地域は南北に流れる野通川を境にして、社が鎮座する西側には民家が集中して立ち並び、東側は田畑を主に行う穀倉地帯に分けられているようだ。但し西側もグーグルマップ等地図を見ると民家が立ち並んでいるような感じだが、ビニールハウスもかなりの数が表示されているので、かなり差し引かねばなるまい。
 北根久伊豆神社の正面鳥居手前にはかなり余裕ある駐車スペースも確保されており、撮影等に影響のない場所に停めてから参拝を行う。
               
                               
北根久伊豆神社 鳥居正面
          鳥居手前にある桜は丁度今が満開、見ごろであった。
 鴻巣市の市域はほとんどが旧北足立郡だが、旧笠原村地域だけは北埼玉郡に属していた。
北足立郡と北埼玉郡の郡界は元荒川で、左岸に位置する笠原村は北埼玉郡だったため「新編武蔵風土記稿」を調べる時も、その郡域境にあるこの地を確認するのに時間がかかったことを思い出す。
               
                               南側に向いている鳥居
 意外と広い社。鳥居の左側には「富士塚」があり、塚上に登る入口付近には歴史を感じさせる石碑等も見える。参道も適度な奥行きを感じさせ、境内を覆う社叢林が社全体の荘厳さを漂わせた
また境内全体手入れが行き届いていて、社に隣接している「北根会館」も新しい建物であったので心地良く参拝に望めることができた。
 
 鳥居のすぐ左手には石碑、記念碑等が設置。  「富士塚」の登り口には青面金剛像があり、
                      頂上には木花佐久夜姫命と記された石碑がある。
               
                                     落ち着いた境内
 荒川の流域には多くの神社が点在しており、氷川神社や、雷電神社、大杉神社、琴平神社といった神社がある。中でも氷川神社は東京都、埼玉県の荒川流域、特に元荒川と多摩川の間に多く分布している。また、利根川流域、古利根川流域には香取神社が分布している。
 船を扱う人々が信仰した神社で、千葉県佐倉市の香取神宮を本社とし、埼玉県に119社、茨城県に214社、千葉県に71社、東京都に15社分布している。この分布の西の限界が元荒川であり、氷川神社と香取神社の境界をなす元荒川筋には「久伊豆神社」が分布している。その本社は不明ながら、嘗て「久伊豆明神」と称していた騎西町騎西の「玉敷神社」と目されている。また、これは元荒川の左岸側が久伊豆神社、右岸側が氷川神社という河川を境として分布がハッキリと区分けされていて興味深い。
 古代は各河川の区切りによって文化圏が異なり、神社も地域的に纏まって分布していたと推測されている。
               
                                      拝 殿
「埼玉の神社」によれば、『新編武蔵風土記稿 北根村条』の項には村内の鎮守として久伊豆社、他に五社権現(九頭竜社・白山社・氷川社・飛竜社・熊野社)を載せ、共に曹洞宗赤城山清法寺を別当としていたことが記載されている。明治時代に内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳である『神社明細帳』によると主祭神は大己貴命で、創立は明らかでないが、天保四年社殿を再建し、慶応元年に焼失したため、明治四年新たに社殿を建設して、同五年に村社となっている。明治四三年、村内にあった五社権現社、弁天社二社が境内社として合祀された。
 
        拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 境内には、拝殿の左側に境内社である五社大権現、弁財天社の石祠、天満宮があり、右にも弁財天社の石祠がある他、神武天皇、少彦名命・倉稲魂命を祀る祠が鎮座している。
               
                       拝殿の左側に鎮座する境内社・
五社大権現
 
        
弁財天社の石祠                              天満宮
 
    拝殿の右側に鎮座する境内社       合祀社の右隣には弁財天社の石祠あり。
 神武天皇、少彦名命・倉稲魂命を祀る合祀社か。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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川里赤城神社

 川里赤城神社から北西方向で直線距離にして1㎞弱しか離れていない川里工業団地北端部に「赤城遺跡」と言われる遺跡は存在する。この遺跡は今から3,000年前、縄文時代晩期前葉を中心とする集落跡が検出され、集落の一角を構成する祭祀遺物集中地点からは土偶をはじめ土版、岩版、石棒、石剣等の祭祀関連遺物が出土した。後に祭祀遺物集中地点の出土品は、埼玉県の縄文時代の祭祀を知るための重要な遺物群として注目され、平成51993)年に埼玉県指定文化財に選定されている。
 出土した遺物の中には岩版があるが、この岩版は、護符(お守り)の用途とする説が一般的である。これまでに熊谷市諏訪木遺跡(上之)で2点が出土しているほか、埼玉県内では加須市、久喜市、蓮田市、鴻巣市、桶川市などでも出土している。大型の岩版は、近隣の群馬県桐生市・太田市・伊勢崎市、栃木県足利市・栃木市などでも出土しており、渡良瀬川や利根川流域と、縄文時代には館林と鴻巣の間につながっていた台地の縁に分布し、岩版を通じて共通した文化圏を形成していたと推測されている。
 また出土した二個一対の耳飾りはとても美しいデザインで、高度な加工のある耳飾が185点も出土し、工房があったと推定されている。縄文晩期にはこうした装飾品の工房が各地にあった可能性も示唆されている。
 縄文後晩期になると、気候や地形の変化のせいか、水が得られにくい台地から低地の方に降りてきて集落を営んだようで、この低地帯である鴻巣市(旧川里町)赤城地域にこのような高度な技術をもつ集落が形成されていたことに正直驚きを禁じ得ない。
               
               ・所在地 埼玉県鴻巣市赤城714
               ・ご祭神 大己責命・豊城入彦命・彦狭島命
               ・社 格 旧赤城村鎮守
               ・例 祭 例祭 1015
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1165265,139.5174903,17z?hl=ja&entry=ttu
 屈巣久伊豆神社から一旦北東方向に進み、埼玉県道77号行田蓮田線に交わるT字路を左折する。その後「屈巣」交差点を右折、道路も埼玉県道32号鴻巣羽生線に変わり、その県道を3㎞程道なりに北上する。「北根」交差点手前の左斜め後方に進む道幅の狭い道路に入り、鬱蒼とした森林が続く道を暫く進むと、右側に川里赤城神社の鳥居や境内が見えてくる。
 社の西側に隣接している「赤城集落センター」の駐車スペースを利用し、参拝を行う。
               
                                 川里赤城神社正面
  社号標柱がないため旧社格は不明。鳥居の社号額には「赤城大明神」と刻まれている。
  古くから、明神様と呼ばれ「ムカデ」は神使とされ、殺してはならないといわれている。 
               
                               解放感あふれる境内
                
     拝殿手前左側に設置されている「川里村赤城神社社叢ふるさとの森」の案内板
            経年劣化により文字が薄くなり、読みづらい。
 川里村赤城神社社叢ふるさとの森  昭和六十三年三月二十九日指定
 身近な緑が姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この神社林が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この森は、広大な田園地帯が広がる川里村にあっては、数少ない樹木地の一つとなっています。森の中には、群馬県の赤城神社を本社とする赤城神社が祀られており、信仰の場として、また憩いの場として、地域住民に親しまれています。
 この森の主な樹種は、ケヤキ、イチョウ、スギなどです。
                                      案内板より引用

               
                                     拝 殿
 赤城神社  川里村赤城七一四
 当地の地名由来は、群馬県勢多郡宮城村に鎮座する赤城神社から嵐除けの神札がこの地に飛来して、これを祀ったことによる。
 祭神は大己責命・豊城入彦命・彦狭島命の三柱であるが、尾沢家所蔵文書の赤城神社書上げでは「磐筒男命・磐筒女命」の二柱としている。本社赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱であることから、当社は明治期に入り現在の祭神に改められたと思われる。
『明治三十四年三月二十日境内編入願書』に「抑も当社は口碑に去る慶長年中、上野国赤城山に鎮座せる磐筒男命の分幣を祭祀せりと伝へる、而して社殿は茅葺にして修理経営は数回の後最近の建替は嘉永弐年領主徳川将軍の旗本林大学頭の許可を得而茅葺に建立す」とある。また本股内に置かれる縦七七センチメートル・横四六センチメートルの赤城大明神とある社号額の裏面墨書に「允恭天皇御宇始建赤城神社于上野国勢多郡内数百年来勧請於此地元禄己卯九月日」とある。
 また、内陣に高さ六八センチメートルの金幣を祀り、「享和元年辛酉四月吉日 天保十年亥八月採光」と記す。
 明治四一年同大字字前原天神社、字大和田稲荷社を当社境内社として合祀する。境内社としてほかに浅間社・御獄社を紀る。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
                         拝殿上部の精巧な彫刻(写真左・右)
 
  拝殿の左側に鎮座する境内社・稲荷大明神   稲荷社の鳥居近隣にある庚申塚等の石碑
 
          境内社・御嶽神社              境内社・天満宮

            

 鴻巣市、旧川里町赤城地域に鎮座する赤城神社は現在「大己責命・豊城入彦命・彦狭島命」の三柱を主祭神としているが、尾沢家所蔵文書の赤城神社書上げでは「磐筒男命・磐筒女命」の二柱としている。本社赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱であることから、当社は明治期に入り現在の祭神に改められたらしい。
 このイワツツノオ(イハツツノヲ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
               
                                    境内の様子

 國學院大學「古典文化学」事業HPにおいて、この二柱について以下のような記載がある

「この神は、刀剣神とされる石析神・根析神の後に生まれているので、同様に刀剣にまつわる神であろうと言われる。『日本書紀』五段一書六の「一云」では、磐筒男命と磐筒女命の男女二神が現れている。また、五段一書七や九段本書では、磐筒男命と磐筒女命が、根裂神もしくは磐裂根裂神の子となっていて、経津主神を生んでいる。この系譜を刀剣の製作の過程になぞらえ、磐裂神・根裂神が雷(=火)、磐筒男命・磐筒女命が碪(きぬた)、経津主神が刀剣を表し、鉄を火で焼いて碪の上で鍛えて刀剣が出来ることを意味していると捉える説がある」
「その名義について、ツツノヲという語は、伊耶那岐神の禊によって生まれた墨江三神、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命に類似していることが指摘されている。ツツは、ツチと交替する例があり、たとえば、『日本書紀』における磐土命・底土命・赤土命と表筒男・底筒男・中筒男との変化や、塩土老翁と塩筒老翁との変化などがあげられる。この神名もイハツチと解する見方があり、岩つ霊(ち)、すなわち岩の霊威とする説や、ツチ(椎)が武器を表すことから、刀剣と捉え、堅固な刀剣の男の意とする説がある。また、ツツを粒の意として、岩が裂けて粒になって飛び散ることによる名とする説や、ツツを星の意とし、岩から飛び散る火花を星粒に見立てた名とする説、他に、ツツを筒と解し、製鉄における送風筒の神格化とする説がある」

 この社のご祭神が「磐筒男命・磐筒女命」の二柱であるのも、それなりの歴史的な根拠があってのことと思われる。そもそも「磐筒男命・磐筒女命」をご祭神としている前橋市富士見町赤城山に鎮座する旧郷社・赤城神社も実在し、赤城神社と密に関連性のある神である。
 単に「
赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱である」という理由のみで安易に変更されてしまうのもどうかと感じる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「國學院大學「古典文化学」事業HP」
    「関東地方における岩版・土版の文様」『史学』52 2 三田史学会
    「Wikipedia」等
         

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郷地久伊豆神社


               
              
・所在地 埼玉県鴻巣市郷地351
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧上郷地村鎮守  旧村社
              
・例 祭 祈年祭並びに入学児童奉告祭 217日 例祭 915
                   
新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0725672,139.5238764,17z?hl=ja&entry=ttu
 安養寺八幡神社から一旦北上して埼玉県道77号行田菖蒲線に戻り、東行すること1㎞程で「郷地橋」交差点に到達するが、その手前で左側に郷地久伊豆神社の一の鳥居が見えてくる。但し県道沿いにあるとはいえ、民家の間に社の一の鳥居があるため、見過ごす可能性もある為注意は必要だ。
 周辺に駐車スペースはない。社の北側に「上郷地第二集会所」があり、そこの駐車場をお借りして徒歩にて社の参拝を行う。
 埼玉県道77号行田菖蒲線は元荒川左岸に沿って北西から南東方向に通じる県道であり、郷地地域はその左岸を南側境界として東西2㎞程、北側は野通川がほぼその境となる1.8㎞程の四角形で形成されていて、県道沿いを離れると一面田畑風景が広がる地域でもある。
               
          県道沿いで民家の間にある
郷地久伊豆神社の一の鳥居
               
                                    一の鳥居
 一の鳥居から奥に横を向いた二の鳥居が僅かに見える。この二の鳥居は右側にある民家の塀で正面から撮影できず、斜めからでは参道の幅が狭いため、アングル的に撮影は断念した。
               
 一の鳥居から参道を北上し、突き当たりを直角に曲がると二の鳥居がすぐ見え、二の鳥居を過ぎると郷地久伊豆神社の境内が広がる空間に達する。
               
                                       拝 殿
               
              拝殿の手前に設置されている案内板
 久伊豆社 御由緒 鴻巣市郷地三五一
 □御縁起(歴史)
 郷地は、元荒川左岸の低地にある。江戸初期は郷地村と称して一村であったが、元禄年中(一六八八-一七〇四)までに上・下に分村した。その後も一括して郷地村と呼ばれることも多く、明治七年に上・下が合併し、再び一村となった。
 当社は『風土記稿』上郷地村の項に、「久伊豆社 村の鎮守とす、安楽寺持」とある。その創建の年代は明らかでないが、境内の最も古い石造物は参道両側に建つ灯籠で、元禄十三年(一七〇〇)に郷地村の坪井門之助外四六名により奉納されたことがわかる。また、拝殿内に「正弌位久伊豆大明神」の木製額が掛かり、享保七年(一七二二)七月に神祇管領吉田兼敬により正一位に叙せられたことがうかがわれる。
 別当であった安楽寺は、当社の西方二五〇メートルほどの所にある真言宗の寺院で、開基の年代は明らかでないが、その本尊の薬師如来は寛永年間(一六二四-四四)に地頭松平五左衛門が寄附したと伝える。
 明治初年の神仏分離で別当の安楽寺から離れた当社は、明治六年に村社となった。同四十二年には、字小宮の無格社稲荷社を合祀した。その後、大正五年には、社前が狭隘であったことから社殿を後方に七メートルほど移した。更に、昭和七年には御大典記念として社務所を建設した。なお、明治二十六年に地元の扶桑教先達の中根栄作が当社の社掌となって以後、福一・三朗と中根家が三代にわたり祀職を務めている。
 □御祭神と御神徳
 ・大己貴命 ・倉稲魂命
                                      案内板より引用

               
                           境内社 左側から稲荷社・天神社


 ところで埼玉県さいたま市西区高木にある「福田氏陣屋」跡は、福田左衛門惟康の陣屋とされ、新編武蔵風土記稿北野貝戸村条に「陣屋蹟あり。古へ福田左衛門惟康と云ふものゝ住せし地なりといへり。惟康は当村の名主惣兵衛が先祖と云ふ。広さ三町四方程の地なり」として記されている。
 また北野貝戸村(現さいたま市大宮区)福田家譜には、「福田左衛門惟康は北面の武士で、惟康十八代の孫・又左衛門長之は豊臣秀吉に仕へ、秀頼の時に関東に下向し北野貝戸村に土着し初代となる。二代善右衛門は埼玉郡下郷地村中根弾正の二男で、又左衛門の娘と結婚し宝来村開発に功績あり。善右衛門の二男善右衛門は村内に分家し豪農となる」と記していて、豊臣秀吉・秀頼に仕えた「福田氏」の一族が江戸時代以降この郷地地域に土着して「中根氏」を名乗っていることが分かっている。
 地元の現衆議院議員も「中根」姓である。関連性はあるのだろうか。
               
                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「福田家譜」「境内案内板」等
        

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安養寺八幡神社


               
             
・所在地 埼玉県鴻巣市安養寺126
             
・ご祭神 誉田別命 息長足姫命
             
・社 格 旧安養寺村鎮守 旧村社 
             
・例 祭 祈年祭並びに勧学祭 220日 例祭 914日 
                  
新嘗祭 1124
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.073495,139.5184691,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパスを鴻巣方向へと進み、17号との合流地点である「箕田」交差点の手前にある「箕田(北)」交差点を左折する。通称「フラワー通り」と言われる道路を東方向に直進する。この道路は元荒川の南側にある通りで、街道の両側には生産者のハウスが並んでいて、ハウスの前には生産者の名前を表示する案内板が設置されている。因みに鴻巣市は全国的にも有数な花の産地である。
 話は戻って17号バイパス「箕田(北)」交差点からこのフラワー通りを東行する事3㎞程で、埼玉県道32号鴻巣羽生線と交わる信号のあるT字路にて終了するが、そこを左折する。すぐ先には元荒川が南北方向に流れ、そこに架かる「三谷橋」を越えて次の「安養寺(中)」交差点を右折、埼玉県道77号行田蓮田線合流後200m進んだ十字路を右折すると正面に安養寺八幡神社の鳥居が見えてくる。
 社の西側に隣接して安養寺自治会集会所があり、そこの正面玄関前に駐車スペースが僅かにあるので、そこに停めてから参拝を行った。
               
                              
安養寺八幡神社正面
 一の鳥居は進行道路に対して正面に見えるのだが、道路は鳥居付近で西側に折れ曲がり、境内の参道は当初は真っ直ぐ進むが、すぐに突き当たりとなり、そこを左方向に曲がる。
すると正面に二の鳥居、そこから続く高台の頂に社殿が鎮座する特異な配置となっている。
 後日確認するとこの社殿は西向きとなっている。元荒川方向に向いているか、それともある地域に対して身構えているのだろうか。
               
                     左方向に曲がる参道付近にある案内板
 八幡神社 御由緒 鴻巣市安養寺一二六
 □御縁起(歴史)
 安養寺の地名はかつて当地にあった寺の名に由来するという。神奈川県立金沢文庫蔵の「求聞持秘口決」の奥書には、天福二年(一二三四)二月十二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。
『埼玉県伝説集成』によれば、安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川と挟んで東西に祀られていて、昔この両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白旗を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに敗れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった。一方、市ノ縄の八幡様には松の木が亭々とそびえ茂った。安養寺の八幡様の前の田を「白幡田圃」と呼ぶのは、この戦いにちなんでいると伝えられている。
 当社の創建年代は明らかでないが、社蔵の『神社財産登録台帳』には「木像壱躰 奉竒進八幡御尊躰元禄十丁丑年(一六九七)十一月廾八日」との記載が見える。また『風土記稿』安養寺村の項には「八幡社 村の鎮守なり、良覚院持」とある。別当の良覚院は愛宕山と号する本山派修験で、開山の仲海が寛永六年(一六二九)に寂したという。神仏分離で廃寺となった模様で、その寺名さえも忘れられている。
 明治六年に村社となった。
 □御祭神
 ・
誉田別命 息長足姫命
                                      案内板より引用
               
                       左側に曲がると正面に二の鳥居が見えてくる。
             桜は今が満開。社には桜が良く似合う。
 
         二の鳥居             二の鳥居の先に設置されている
                         「八幡神社の算額(絵馬)」の案内板
 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和五十一年三月一日指定
 八幡神社の算額(絵馬) 
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 八幡神社の算額は、大正四年に安養寺村の中村新蔵が奉納した。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。 参考:大正四年(一九一五)
                                      案内板より引用
               
                            古墳墳頂に鎮座する社殿
 〇八幡神社古墳(はちまんじんじゃこふん)
 ・所在地 鴻巣市安養寺126 八幡神社
 ・墳形 円墳。 東西45 南北23 高さ2.3m。
 ・埋葬主体部および周濠 未調査
 ・築造年代 6世紀初頭  出土品 
形象埴輪片、土師器、付近から鶏形埴輪

 45mの円墳と推定されているが、この数値が正しいとすれば県内の円墳としては上位20位以内に入る規模であり、鴻巣市明用地域にある明用三島神社古墳(前方後円墳・50m程)とやや同程度となる。
 荒川は「暴れ川」のごとく常に乱流を繰り返すため、古墳建造当時の流域等推し量ることは難しいが、現在の地形から推測しても、この古墳の埋葬者も元荒川水運を活用して蓄えた権力者だったのではなかろうか。
               
                                     拝 殿
 社自体かなり老朽化が進んでいるのだろうか。所々に「筋交い」で補強されている。この「筋交い」とは、柱と柱の間に斜めに入れて建築物や足場の構造を補強する部材である。構造体の耐震性を強める効果があり、地震や暴風などの水平力を受けたときに平行四辺形にひしゃげるように変形してしまう。そこで、対角線状に筋交いを加えて三角形の構造を作り、変形を防止する効果がある。

 ところで案内板には「安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川を挟んで東西に祀られていて、やはり嘗てこの両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白幡を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに破れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった」と記載されている。
 不思議なことに、その
伝説と全く同じ内容の事が、熊谷市にも伝わっている。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。現在では伝承自体以前程でないにしろ聖天様の松嫌いは、その集落に住むほとんどの人が知っているだろう。
 妻沼の聖天様は、松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったともいい、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。
                
                 古墳墳頂付近からの風景

 安養寺八幡神社の社殿は「西向き」と書いた。元荒川方向に向いていると言えそうだが、この社殿の方向を元荒川を延長すると、丁度「市ノ縄」地域となる。


 人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないとまことしやかに信じられているところをみても、慈悲深い仏とはいえ、喧嘩をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも見える。勝手な推測ではあるが。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「国際日本文化研究センターHP」 
    「境内案内板」等

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上古寺氷川神社

 古寺という地域名は「埼玉の神社」によると嘗て文字通り古い寺があったことから地名となったと伝えられたという。明治十九年の地誌の下調書によると、聖武天皇の天平年間(七二九-四九)に各地に国分寺・国分尼寺が建立されたが、それ以前に当地の中央に既に大講堂という大きな堂宇があり、大宝年中(七〇一-〇四)に大和国葛城の行者、役小角が関東に下向し、その近傍を遊歴したという。
 後に小角が都幾山に移り慈光寺を建立し、その住職であった慈薫和尚がしばらく大講堂の住僧となっていた関係で、慈光寺の所管となる。貞観二年(八六〇)二月に左大臣清原晏世卿為公が勅使として郡司宣下の折、慈光寺の寺領・境界を定めた際に、この地には慈光寺以前に古い寺(大講堂)があったので古寺村と名付けたとされる。そして正慶二年(一三三三)に守邦親王が来寓して、その古い寺が東の王の意から東王寺となった。
 
しかしその後数度の火災により焼失したため、『風土記稿』上古寺の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持」と記され、既に別当寺は無くなっていた。
               
              
・所在地 埼玉県比企郡小川町上古寺566
              ・ご祭神 健速須佐之男命 竒稲田姫命 大那牟遅命(大己貴命)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月第3日曜日  例大祭 

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑を更に1㎞程南下すると、上古寺氷川神社の標柱が見える。やや目立たない所に立っているため、見逃す可能性は多い。その後右折し舗装されていない、また道幅の狭い砂利道を進行する。
        
          「
古寺鍾乳洞入口」の碑のすぐ南側にある二十二夜待供養塔等の石造物

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑がある場所のすぐ南側は、嘗ての下古寺村と上古寺村の境界地であり、二十二夜待供養塔などの石造物も並んでいる。二十二夜待供養塔並びに立っている石碑の中央部には「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、その上には阿弥陀如来の梵字「キリーク」と刻印されている。更に左右には「右 おがわ・左 ちちぶ」と刻まれている。嘗てこの地域に小川町方面と分岐して、天満神社から矢岸橋を渡って腰越村に続き、最終的に秩父方向に行く道が存在していたようだ。
            
                 県道沿いにある社の標柱
          
 舗装されていない砂利道を進むとほぼ正面に社の社号標柱が見える場所に到着する(写真左・右)。但し専用の駐車スペースは進行中見当たらず、途中路肩に停めてから徒歩にて目的地まで進む。鎮座地は上古寺の中央に位置していることもあり、古くから地内の人々の心の拠り所となってきたようだ。
 
 進行方向正面に小高くこんもりと茂る杜の入口がすぐに目につく(写真左)。杉・檜・椎の古木に包まれる中、長い参道を歩くと荘厳な雰囲気が漂い、いかにも神域にふさわしい景観を呈している。参道当初は石段があり、緩い上り斜面をスムーズに登る(同右)。
               
 石段が途中で終了し、木製の両部鳥居が見えてくる辺りから参道の様相は一変し、木の根が幾重にも参道を横切るように路面上を覆っていて、この参道は境内まで続く。
 かなり歩きづらいが、
幸いなことにこの木の根は階段代わりになっている。
               
                       参道の様子。最後まで木の根の階段を登る。

 斜面上、またか丘陵地や山の頂上部に鎮座する社は、現在綺麗な石段を積み重ねて参拝出来ているが、一昔前はどの社もこのような所が多かったのではなかろうか。自然と一体感となるこの心持が逆に心地よく、また社への純粋な信仰心へと導いてくれるようだ。
               
 木の根で構成されている階段を上っている途中、山頂の境内の若干下部・左側に「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板が立っている。
                     
              境内前には一対の石灯篭が立ち、その右側には杉の大木が聳え立つ。
                 その先に境内が広がる。
 
      境内正面から拝殿を撮影。      境内にある『氷川神社のエンエンワ』案内板
  社殿が西を向いている珍しい神社である。 

 上古寺のエンエンワ 大字上古寺 [平成13823 町指定無形文化財]
 氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。
「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行われる。先達が全国60余州の一宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンワンワ(因縁和)」とも呼んでいる。
 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。「シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い様式を踏襲しており、地区全体でその伝統を保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。
                                      案内板より引用

               
                                 拝 殿

 氷川神社(上古寺五六六)
 因縁和の神事で有名な上古寺の氷川神社は、社記の『因縁和神事覚』によれば、斉明天皇の五年(六五九)九月十九日、役行者部(役小角)が関東に下向して廻遊していた際、この地の村人の敬神宗祖の念厚きに感じ、かつまたその景観をめで、霊感を得て地域中央の宮の森に小耐を建立すると共に、武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請して手づから神像を木彫してこれを安置し、当地の繁栄鎮護を祈念したことに始まると伝えられる。この故を以て、氏子の間では毎年九月十九日に例大祭が斎行されてきた。
 社殿に武蔵一宮氷川神社の宮司岩井宅幸筆の「氷川神社別御魂」という扁額が幕末に掲げられたのも、こうした創立の経緯によるもので、役行者が彫ったと伝えられる神像は、氷川神社の神体として今も本殿内に大切に祀るられている。ちなみに、社の近くの金嶽川には屏風ケ岩という滝があり、そこで役行者が斎戒休浴したといわれてきたが、慶応年間(一八六五~六八) の洪水によって大石が崩れ込んで浅瀬になってしまっており、往時の面影はない。
 氷川神社で行われてきた特殊な祈願としては、養蚕倍成祈願と子供の癇封じがある。養蚕倍成祈願は、繭五~七個に糸を通し、拝殿の格子のところにつるすもので、養蚕が盛んに行われていた昭和三十年ごろまでは秋になるとよく上がっていた。癇封じは、竹を切って作った筒を二本つなぎ、これに酒を入れて供え、祈願するもので、昔は時折見かけたが、近年では絶えてしまった。
境内には、役行者が当地に寓居した時の手作りの面を祀る姥神神社、村の悪疫を被う八坂神社、火防の神として祀る天手長男神社、雨乞いや雷除けに御利益のある雷電神社、豊作や子孫繁栄をもたらしてくれる稲荷神杜などが祀られている。この稲荷神社は、白蟻除けの信仰もあり、神前の白狐像一対を借りて帰り、家の大黒様の横に祀っておくと白蟻が家に上がらないとの信仰がある。
 また、本殿の裏側には「御末社」と呼ばれる一八の祠が祀られている。この「御末社」は、氷川神社の創建当時、この地域を開発したとされる草分けの一八戸の氏神を祀ったもので、寺院でいう位牌堂のような印象を受ける。なお、秋の例大祭に行われる因縁和の神事では、全国七十余州の一宮への奉献に先だち、この「御末社」に対して献膳を行うのが習いとなっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
  拝殿に掲げてある「氷川大明神」の扁額     拝殿手前で左側にある『代々椎』の切り株

 境内には境内社が鎮座する。
   
 拝殿左側には『稲荷社・天手長男社・姥神社』        『御嶽大神』
 
   『御嶽大神』の奥には『境内三社』         拝殿右奥には『雷電社』
               
                 拝殿右側には社務所があり、その隣に八坂社が鎮座する。
      

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等  
                       

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