古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

那須温泉神社境内社 愛宕神社


        
           
・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
           
・ご祭神 火産霊命
           ・社 格 不明
           ・例 祭 例祭 424日

「那須温泉神社」の参道を進み、二の鳥居を越えたすぐ左側に「愛宕神社」が鎮座している。温泉神社の一境内社であるにも関わらず、社の入口手前に「ご神水」が流れているためなのか、別世界に入り込んだような何とも言えない神聖な雰囲気が辺りを漂う。
                  
                                                                  愛宕神社 正面
              
  社の階段手前左側脇の登り口には「愛宕福神水」と呼ばれる湧水の採水場がある。その湧水は清々しく、まさに「神水」というのにふさわしい。しばしその流れている様子を眺め、気が付くとその清らかな水を手で触れ、口に含む。とても冷たくて口に含むと爽やかで疲れや汚れが浄化されるような気がするから不思議だ。
 因みにその湧水をお水取りをする人は、その前に社務所で
1,000円の初穂料をお支払いし、記帳をしなければならない
 
 社まで一直線の急勾配の階段が200段程続いていて、石段の半分辺りには鳥居がある(写真左)。また一段一段の石が狭く、また階段に手すりがない、加えて石も劣化していて滑りやすい感じだったので気をつけながら登る。天候も雨交じりで、平日の為か参拝客も少なく、また愛宕神社の石段を登る方もいなかったので、無理はしないで時間をかけてゆっくりと上る(同右)。

 愛宕神社は境内社ながら、那須温泉神社や同じ境内社である見出神社とは違う神秘的な雰囲気をもった社である。やはり神水の力は計り知れない。
                
                                                  愛宕神社 拝殿
 社はかなり小さく、質素な造りである。ただ参道入口の「愛宕福神水」や、入り口から石段を登り、到着するまでに感じた神秘的な雰囲気を肌で実感すると、この社にも逆にある種の威厳と趣きすら感じてしまう
                
             愛宕神社の隣には水琴窟が置かれている。
 湧水を注ぐと、水琴窟の中から驚くほど美しく澄んだ金属のような音が響きわたる。森の中にかすかに響く音は神々しく幻想的でもある。
 水琴窟
 水琴窟は手水鉢や蹲踞の排水部に造られた一種の音階装置で江戸時代中期の考案と傳えられる。
 地中に埋めた甕の内部で水滴が水面を打つごとに琴を奏でるような音色を発することからこの名が生まれ日本庭園の音を楽しむ絶妙の芸術として称賛されている。
                                      案内板より引用



 日本人は「音」に対して繊細的な感性を持った民族と言われている。例えば「虫の音」である。8月も半ばを過ぎると、夜は秋の虫たちが鳴き出す。その虫の音(ね)を聴いて、理由は分からないものの、しんみりと感傷にふけるのが日本人の心情である。この感受性は人類共通のものかと思っていたら、実はそうではなく、どうやら日本人特有の感性らしく、虫の音を雑音として聴いてしまう外国人とは随分違うとのことだ。
 人間の脳は右脳と左脳とに分かれており、左脳は言語や論理性を司り、右脳は感性や感覚を司る。世界のほとんどの民族は虫の声を右脳で認識するが、日本人とポリネシア人だけは左脳で認識してる。そのために多くの民族には虫の声は「雑音」にしか聞こえない一方、日本人とポリネシア人には「言語」として認識される。
 そして、この「虫の音」を日本人が言語脳で処理し、他の多くの民族圏の人が雑音として処理するのは文化的な違いによるものという。多くの西洋人は、虫=害虫という認識があり、その鳴く音も雑音だと認識するが、日本人は「虫の声」に聞き入る文化が子供のころから無意識に親しまれているので、「虫の音」を人の声と同様に、言語脳で聞いているのではないかということのようだ。
              
                               愛宕神社近くにある案内板
 
  愛宕神社の並びに鎮座する祖霊社の鳥居            祖霊社

 更にこの言語の処理様式の違いが、日本人の遺伝的特徴によるものなのか、つまり日本人として生まれながら資質なのかどうかの確認も行ったところ、両親が日本人でなくても、日本に生まれた子が日本語で育てば日本人と同じ処理様式を示すし、両親が日本人であっても、海外で生まれた子が日本語以外の国で育てば日本人以外の処理様式を示すということが分かった。
 つまり、日本語で育つかどうかが決め手であったというわけで、特に
9歳くらいまでに身に付けた言語が大事ということになる。
 幼少時から日本語を話すと自然と日本人が持つ感性が養われる。すなわち、日本語を話せば日本人になるということの基本が、「大和言葉」という大陸文化が伝来する以前の、日本列島で話されていた言語にあるのではないかと筆者は考える。人類言語の祖型を残している大和言葉=原日本語が、動植物や自然と融和し易くさせる「日本人の言語の処理様式」を育んできたものではなかろうか。
                
     愛宕神社、水琴窟、祖霊社の並びに鎮座する「琴平神社・神明宮・山神社」等の石祠

 八百万の神という言葉があるように、日本人は古来より自然を愛で、森羅万象を尊ぶ思想が根付いている。虫の声を雑音ではなく自然の声として認識し、季節の移り変わりを楽しむ姿勢が、こういった脳の違いを育んでいったに違いないと考える。
 現代は都市の開発が進み、子どもたちが虫の声を聞く機会も少なくなってきていると言える。近い将来は日本人も、虫の声を雑音としてしか認識できなくなってしまう可能性もないとは言い切れない。
 筆者もキャンプ場などで涼やかな虫の声、または川のせせらぎを聞きながら眠りにつくのが好きなので、今後もこの文化や感覚を日本人に受け継がれていくことを願ってやまない。
 今回境内社でありながら愛宕神社を紹介した理由はまさにそこにある。

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那須温泉神社境内社 見立神社


        
            ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
            ・ご祭神 天児屋根命 狩野三郎行広
            ・社 格 不明
            ・例 祭 例祭 527日

 那須温泉郷は、那須町の北西部にそびえる茶臼岳の山腹に散在する温泉群の総称である。那須連山の主峰・茶臼岳は、那須火山帯が最後に形成した山といわれ、標高は1,915m。栃木県唯一の活火山で、福島県南部を含む那須地方のランドマーク的存在。今なお白い噴煙を上げながら、広大な山麓一帯に豊富な火山性温泉を自然湧出させている。
 那須温泉の開湯は古く、その発見は第34代舒明天皇の御代(630年ごろ)に遡る。茗荷沢村(みょうがさわむら:現在の那須町高久乙)に住む郡司の狩野三郎行広が狩りの途中、射損じた白鹿を追いかけ霧雨が谷(現在の鹿の湯あたり)という深い谷に分け入ったところ、自らを温泉の神と告げる白髪の老翁が現れた。老翁の進言に従って三郎は鹿を探し、温泉に浸かって矢傷を癒している白鹿を見つけた。三郎はこの温泉を鹿の湯と名付け、温泉の杜(現在の那須温泉神社)を建立し、射止めた鹿角を奉納したといわれている。
 こうして開湯された鹿の湯は、温泉発見において日本で32番目に古く、栃木県では塩原、日光を抑えて最古、同じ関東の熱海、修繕寺、草津、伊香保らとともに、古い歴史を持つ日本の名湯として全国にその名を知られている。
        
                 境内社 見出神社正面
 見立神社は那須温泉神社の境内社であるのだが、社務所・儀式殿の先にある二の鳥居から正面右側に鎮座していている。境内社でありながらその創建由来でも分かる通り、温泉を発見して神社を建立し、歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくした狩野三郎行広を今なお周辺地域の方々から「那須温泉開発の祖」として大切に祀られていることが、この配置からも分かる
 那須温泉神社の由来等を確認するにつれ、本来の社はむしろこの社ではなかったかと疑いたくなる。
 
      見立神社鳥居奉納碑文          鳥居を越えて石段を登る先に社殿等
東日本大地震の際に、鳥居や灯籠などが破損した          が見える。
         そうである。
        
                                    拝 殿
 260年間余り続いた江戸時代中期の寛政年間、その当時歌舞伎役者の人気を相撲の番付風に格付けした、「見立て番付」が流行し、同じようなものが数々のジャンルに対して作成され、温泉番付もその中の1つとして作成された。
 温泉番付とは、温泉地を大相撲の番付に見立ててランキングしたものである。初めて作られたのは、江戸時代の安永年間(17721781)ごろといわれ、東日本の温泉地を東方、西日本の温泉地を西方に分け、人気ではなく温泉の効能の高さを元に、全国100ヵ所近くの温泉が番付されていた。
 温泉の番付は、作成された地域や年代により多少の違いがあるが、最高位(大関)は常に共通で、東は草津、西は有馬となっていた。文化14年(1817)に発行された「諸国温泉効能鑑」によると、東方の関脇が那須、西方では城崎で、那須温泉が東日本で草津に次ぐ二番手に格付けされている。那須温泉の番付はどの番付表においても総じて上位にランクされていて、江戸時代から那須温泉が湯治場として高く評価されていたことを窺い知ることができる。
        
                                     本 殿

 見立神社(祭礼日、527日)
 温泉発見者、狩野三郎行広(人見氏始祖)の創建、天児屋根命を祀る。後温泉発見の功により狩野三郎行広合祀される。慶応元年6月正一位を授けられ更に昭和29
年温泉神社と合併、境内社となる。

 見立神社のご祭神である天児屋命は、天岩戸(あめのいわと)神話のなかに登場する神で、中臣(なかとみ)氏・後の藤原氏の祖神である。中臣氏は古代に宮廷の祭祀を司り、主に祝詞を唱える役目を受け持った一族で、「古事記」「日本書紀」によれば、天岩戸にこもった天照大神を引き出すために、神々が神事を行った際、祝詞(のりと)を奏している。また天孫降臨にさいしては、布刀玉(太玉)命や天鈿女命などと共に、瓊瓊杵尊の天降りに際しては五部神(いつとものおのかみ)の一神として随行した。
 合祀されている狩野三郎行広は、那須温泉神社の由緒書によれば、「人見氏」の始祖と記載されている。現在でも「人見」姓は栃木県に一番多く(3,000人程)、その中でも栃木県北部の那須塩原市や那須郡那須町周辺だけで2,000人程存在する。前出した由来書でも、那須温泉神社の宮司は「人見」姓である。
        
              見立神社 拝殿から参道風景を望む。

 伊王野氏(いおのし、いおうのし)は、藤原氏長家流那須氏の一族で下野国那須郡伊王野発祥の氏族である。伊王野氏は那須頼資の二男資長が伊王野を分知され伊王野館を構えて居城とし、伊王野次郎左衛門尉資長と名乗ったことに始まるとされ、那須六家の一つとされる。
 この伊王野氏が摂政太政大臣・藤原道長の六男である藤原長家からの系統である詳細な文献資料が、筆者の調べた限りにおいて見いだせなく、この点はやや不透明な点が気になるところだが、もしこの系統が正しいのであれば、那須地域には間違いなく「藤原一族」の一派が存在していたことになる。

 そしてもう一人のご祭神である「狩野三郎行広」。出身地も都から遣わされた郡史とも、茗荷沢村の住人とも書かれていて、生まれた場所も特定できない人物である。加えてこの人物が活躍した時代背景も、欽明天皇のご時世(630年代)と途方もなく古い、非常に謎に満ちた人物である。

 ただ見立神社のご祭神が中臣氏・藤原氏の祖神である「天児屋命」であることは、この社の創建に少なくとも藤原一族が関与しているという箏は確かであり、筆者の愚考で恐縮ではあるが、もしかしたら狩野三郎行広」という人物も、この藤原系の一派だったかもしれない。

*追伸
 この「人見」姓は埼玉県深谷市人見地区とも関連の深い苗字でもあり、起源(ルーツ)であるともいう。この深谷市人見地区は、江戸時代以前、武蔵国榛沢郡人見村として、武蔵七党・猪俣党人見氏が同地に移住し、土着した一族である。
 今回見立神社を掲載するに際して、「人見氏」が出てきたので、その起源に共通するものがあったかどうか非常に関心があり、このような長々とした考察となってしまった事をお断りしたいと思う。

 
参考資料 「那須温泉旅館協同組合HP」「Wikipedia」等        

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那須温泉神社

 栃木県那須地域は雄大な自然に囲まれた日光国立公園に位置する那須高原が広がる地であり、牧場やテーマパークが中心のお洒落な観光地でも有名である。筆者も最低年に1回は、必ずこの地に観光を兼ね、自分へのご褒美として、また自分を常日頃から支えてくれている家族への感謝の気持ちも併せて旅行することを楽しみの一つとしている

 ところでこの那須地域は、観光地としての面ばかりクローズアップされがちであるが、実は古き歴史を彩る土地でもある。特に那須温泉郷は1300年以上の歴史を誇っており、源頼朝など歴史上の重要人物も数多く入湯したと伝えられている。
 世界有数の火山国である日本は、温泉の数も多く、加えて那須温泉神社のように温泉の存在が創祀に関わる神社がいくつも存在する。しかしその中で、平安時代の法律書である延喜式に記載された温泉に関わる延喜式内社は、全国でもわずかに十社のみであり、この那須町の那須温泉神社もその一つである
        
             ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182
             ・ご祭神 大己貴命・少彦名命・誉田別命
             ・社 格 旧郷社 延喜式内社 旧那須郡総領
             ・例 祭 節分祭 23日 例大祭・湯汲祭・献湯祭 108日
                  例大祭・献幣祭・神幸祭 109日

 那須温泉神社は「東北自動車道那須IC」を降りて栃木県道17号那須高原線、通称「那須街道」を茶臼岳方面に北上する。街道沿いにはレストランやお土産物店など、那須高原独特の華やかな雰囲気に包まれるが、そのまま20分程度車を走らせると、正面に那須温泉神社の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居の南側、「那須町観光協会」建物の向かいに十数台駐車できる場所が確保されていて(しかも無料)、そこの一角に停めてから参拝を行う。車を降りた瞬間から、「プーン」と硫黄の香りが漂う周辺環境は、温泉地そのもの。また紅葉は丁度見頃で雰囲気がとても良く、雨交じりの天候ながら、さわやかな朝の空気を体内に入れながら気持ち良く参拝できた。
 因みに「那須温泉神社」と書いて「なすゆぜんじんじゃ」と読むそうである。西暦630年頃に建立されたと言われている那須温泉のシンボル的な存在で、那須温泉神社は那須地方に存在する80社の総社。
 平安時代の末期、屋島の戦いの際には、那須与一が扇の的を射るに当たり、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え」と那須温泉神社を祈願して見事に扇を射たため、与一は名声を轟かして、那須郡の総領となり、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進し、鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇、鳥居を奉納したという。
        
                                                    那須温泉神社 正面
        
                                   『こんばいろの湯』
 那須温泉神社の一の鳥居の手前左側には、人気の足湯『こんばいろの湯』がある。12人ほどが入れる大きさで、冷え性や切り傷などに効能があるそうだ。
 尚「こんばいろ」とは地域の言葉でカタクリの花のことであり、春になると那須温泉神社でも紫色の可憐なカタクリの花が咲くという。
 しかし当日(2022・11・15)不定期の休みの為、利用できなかったのは残念。
 
   一の鳥居にほぼ隣接した「こんばいろの湯」    「那須温泉発見のいわれ」の案内板

 那須温泉発見のいわれ
 那須温泉の発見は、西暦630年代といわれています。時は三十四代舒明天皇の時代七世紀前半、那須山麓の茗荷沢の住人・狩野三郎行広という者が、ある日、狩りにでて大きな白鹿にあい、矢を射って傷つけました。
 逃げ去る白鹿を追って峡谷に至ると、傷を負った白鹿が湧き出る温泉に浸かって、傷を癒しているのを見つけたことが那須温泉の発見といわれ、その後、温泉が開かれ、温泉神社が創建されたといわれています。

 現在の元湯・鹿の湯は、このいわれにちなんで名付けられたものです。
 西暦738年の記録である正倉院文書「駿河国正税帳」の条には、「小野牛養朝臣が病気療養のため奈良から那須温泉に向かった。」とあり、奈良時代から那須温泉が広く知れわたったことがうかがえ、全国数千の温泉の中でも、最も古い温泉といわれています。
こ の彫刻は、この那須温泉発見のいわれに基づき、大きな白鹿が那須温泉に浸かっているところを表したものです。

 平成5年4月  那須町
                                      案内板より引用
 
 社の参道は長く(写真左)、社殿までの間に、多くの境内社や石祠、ご神木などの施設等が存在する。まず一の鳥居と二の鳥居の間で左側には社務所兼儀式殿があり、その並びには那須町のパワースポットとしても知られている「さざれ石」がある(同右)。
 さざれ石はもともと小さな石という意味で、それが非常に長い年月をかけ凝結し、一つの大きな岩の塊へと成長していくといい、神霊の宿る石とされていて、触れると願いが叶うと謂われている。
        
                                        二の鳥居

 那須
与一(なすのよいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったらしい。与一という名前の由来としては、与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称との事だ。
 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承があり、弓の腕を上げようと修行を積み過ぎたため、左右で腕の長さが変わったと伝えられている。
 治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。
 何と言っても『平家物語』に記される、源平合戦の一つである讃岐国・屋島の戦いにて船上の扇を見事射落した話が非常に有名な武将であり、那須与一が弓を放つ際に、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え…」と唱えたと記され、その「那須温泉大明神」がこの那須温泉神社である。
 因みに那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。
        
                                   三の鳥居
 この鳥居は今から800年以上前に建立されたもので、平安時代末期の武将、那須与一よって奉納された大変貴重なものである。那須与一宗隆は、源平合戦屋島の戦の際にこの那須温泉神社にて祈願をし、見事平家の建てた扇の的を射落とすことに成功、これによって日本全国にその名を轟かせたことから、以降一門を挙げて、この那須温泉神社を厚く崇敬したと伝えられている。
 
 三の鳥居を過ぎてから参道の右側には推定樹齢800年・樹高18m・周囲4mのご神木がある。ご神木名「生きる」。ご神木の手前にある案内板を確認するとミズナラ(水楢)の大木で、しめ縄が付けられている。杉や楠や銀杏の巨木でご神木となっているものが主流の中で、ミズナラのご神木は初めて見る。
 樹高18mと案内板には記載されているが、見た目はそんなに大きな木ではない。が800年という悠久の時を経ても未だに樹勢は旺盛であり、その生命力、力強さ等のパワーがこの木からにじみ出ているようで、多くの人々から崇められているのも納得できる。
このご神木も那須温泉神社のパワースポットの1つとして親しまれているようだ。 
 三の鳥居を過ぎるとやっと社殿が見えてくる(写真左)。最後の石段を越えると、境内が広がり、その隅には手水舎が設置されている(同右)。
 一の鳥居から長い参道を通る間には、多くの境内社、石祠等があったが、別項で紹介したい。
 ところで境内に入る前、左側奥に「芭蕉句」のある石碑がある。
 
 松尾芭蕉は奥の細道をたどる途中、殺生石見物を思い立ち、まず温泉神社に参拝したそうである。案内板によると松尾芭蕉(46歳)が、弟子の河合曾良を伴い「奥の細道」の途中、元禄2年(西暦1689)元禄21689)年418日(新暦65日)のお昼前に黒羽藩領高久を出立し、未の下刻(午後3時前後)に同藩領那須湯本に到着し、芭蕉たちはここで2泊した。翌19日の午の上刻(午前11時前後)に参詣した際に詠んだ芭蕉の句が境内に建立された句碑に刻まれている。
" 湯を結ぶ 誓いも同じ 石清水 芭蕉 "       
        
                                    拝 殿
        
                             境内に設置されている案内板

 延喜式内 温泉神社
 創立
 第三十四代舒明天皇の御代(六三〇年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿 を追って山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建、 温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉 開発の祖として見立神社祭神として祀られる。
 祭神

 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 相殿 誉田別命(ほんだわけのみこと)
 大己貴命は別名大国主命(大国様)と申し上げ縁結び、商売繁盛、 身体健全、温泉守護、の神として信仰されています。少彦名命は国 土を耕し鉱山や温泉を開拓し薬等を作った神であり温泉の神として 広く崇敬されている。誉田別命は八幡様とも申し上げ武運の神とし て尊ばれ勝運を祈る神である。
 由緒

 正倉院文書延喜式神明帳記載(九二七年)によると温泉名を冠する神社は十社を数える。上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く 聖武天皇の天平十年(七三八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観十一年 (八六四年)には従四位勲五等が贈られている。
 文治元年(一一八五年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神 社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬した。
 建久四年(一一九三年)源頼朝那須野原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿を奉納。
 元禄二年(一六八九年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温 泉神社に参詣、那須余一奉納の鏑矢等宝物を拝観、殺生石見物等が曽良の随行日記に載せられている。
 大正十三年(一九二二年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那 須五葉松のお手植えを頂く。大正十一年(一九二〇年)久邇宮良子 女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                                    本 殿

 本殿脇には白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)をお祀りしている「九尾稲荷神社」が鎮座する。狐の妖怪である九尾を祀ったお稲荷様で、狛狐の尻尾も九尾に分かれている。九尾稲荷明神の横は谷になっており、そこからは九尾を封印したとされる殺生石と温泉のガスが噴き出す賽の河原を一望することができる。
        
                                  境内社 九尾稲荷神社

 那須湯本に伝わる九尾の伝説とされる「殺生石(せっしょうせき)」。
 殺生石は、栃木県那須町の那須湯本温泉付近に存在する溶岩である。付近一帯に火山性ガスが噴出し、昔の人々が「生き物を殺す石」だと信じたことからその名がある。 なお伝承上、この石に起源を持つと伝えられている石が全国にいくつかあり、それらの中に「殺生石」と呼ばれているものがあるほか、那須の殺生石同様に火山性ガスが噴出する場所で「殺生石」と呼ばれる石があるとする文献もある。しかし単に「殺生石」といえば那須の殺生石を指すことが多い。
 残念ながら時間と体力の関係で、殺生石を周ることができなかったが、九尾稲荷神社から温泉のガスが噴き出す賽の河原を見下ろしただけでも、異様な空間がそこにある事が良く分かる。
        
        
               九尾稲荷神社から賽の河原を撮影


参考資料 「那須町 商工会HP」「とちぎいにしえの回廊」「那須温泉神社HP」「Wikipedia」等

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高島生品神社

 生品神社は群馬県太田市新田市野井町に鎮座している神社である。生品神社の創建は不詳だが豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子、上毛野君や下毛野君の始祖)が上野の新田地域を開発した際、大己貴命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。旧社格は県社。元弘3年(1333年)58日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、産土神である生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる
 
ところで生品神社は平安時代に編纂され、上野国(現在の群馬県)の格式の高い神社を列記した上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載されることから少なくともそれ以前から鎮座していた事が窺える。主祭神は大国主であるが、一説には平将門を祀っているという伝説もある。
 生品神社は太田氏周辺に7社あり、すべて新田の関係の場所にあり、高島生品神社が鎮座するこの地も嘗て上野国新田荘に属し、元久二年(1205)の源実朝下文写(正木文書)に、「元久二年八月日、上野国新田庄住人、義兼(新田)為地頭職事、高島郷」と新田義兼の所領と記載されている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市高島209
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 217日 例祭 1115日 新嘗祭 1123日        
 高島地区は深谷市北部で、利根川右岸に位置する。利根川の支流である小山川の進路が北東方向から東側に進路を変える地点に高島生品神社は鎮座している。因みにこの小山川は昭和初期まで新上武大橋の付近で利根川に合流していたが、河川改修によって合流地点が約3km東側に引き下げられたという。
 国道17号バイパスを群馬県方向に進み、「石塚」交差点を右折、その後利根川河川敷に到着するT字路を左折し、埼玉県道45号妻沼本庄線を西方向に進路をとる。小山川を過ぎてから河川敷を下った最初の十字路を左折すると、正面方向に高島生品神社が見えてくる。
 社に隣接して南側に社務所があり、鳥居との間に適度な空間があり、そこに車を停めてから参拝を行う。
        
                                                      高島生品神社 正面鳥居

「大里郡神社誌」によれば、「元高島村久賀之郷に鎮座し給ひ、上野国新田郡生品明神七社の一なり傳え云ふ(中略)本村の古老口碑に異なることなしその人に話に、新田義貞公生品祠前に旗揚げした時幾流れと敷ふべからぬ義兵の旌旗天を霞めて飜る、義貞公之を望み見て歓喜せられ「中空高縞(たかしま)の如し」と言われしとぞ傳えける是れ高島村の名の起源なりと云う」と「高島村」の地名由来が記載されている。
 その後宝暦年間(175164)の利根川の洪水のとき社殿が流失し、今の地に遷座。当始は「生品大明神」と称していたが、明治9年生品神社と改めたという。

 社号標柱には「子爵澁澤榮一書」とあり、渋沢栄一翁が91歳の時に書いたとされている。
        
                                  参道正面 境内の様子
       
              参道のすぐ左側にはご神木が聳え立つ。
        
                       拝殿右側手前にある「生品神社 改修記念碑」

 生品神社改修記念碑
 生品神社は昭和初期に創建され、以来八十年近い歳月が経ち、瑞垣を支える石垣の破損が進んだことに氏子各位の参道をいただき、改修することと相なりました。
 このほかに灯籠の移転、参道、狛犬、拜殿門前の階段、大杉様、賽銭箱、拝殿の戸等の境内整備を併せて行い完成の運びとなりました。
 ここに改修工事の旨を石碑に刻み後世に伝えるものであります。
                                       案内板より引用
        
                                生品神社社殿正面

 神門があり、拝殿や本殿は瑞垣でしっかりと囲まれている。この社の境内自体が自然堤防の縁みたなところで周囲の田んぼより高くなっているが、社殿は更に石垣でかさ上げされた基礎の上に鎮座している。宝暦年間(175164)の利根川の洪水に対する教訓からくる備えなのだろう。
 また両サイドにある狛犬の台座が、とにかく大きい溶岩石。なかなかお目にかかれない珍しいものである。

「新編武蔵風土記稿 高島村」
 生品明神社 
 村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
        
                            拝殿・本殿は総囲いとなっている。
 
     社殿左側に鎮座する境内社        社殿左側には末社(石祠)群があり。

 石祠群は一番右側は大杉社。その左側は水神宮。それ以外は詳細不明。但し「大里郡神社誌」によれば、境内社・合祀社には「稲荷神社」「諏訪神社」が鎮座していたようなので、これらの中にあるかもしれない。
        
                                   御嶽塚
御嶽山国常立命・三笠山豊斟命・八海山国狭槌命と天之御中主大神・神皇産霊神・高御産霊神」等の石碑があり。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「Wikipedia」等



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成塚御嶽大神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市成塚208
             ・ご祭神 大山祇命・大己貴命・少彦名命 (配祀) 大物主命
             ・社 格 旧村社 *大正元年九月神饌幣帛料供進神社指定
             ・例 祭 2月17日 祈年祭 例祭 4月10日 11月24日 新嘗祭 

 成塚御嶽大神社は深谷市成塚地区北部に鎮座している。国道17号バイパスを旧岡部町方向に進み、「明戸(西)」交差点を右折。因みにこの交差点を左折し、700m程南下すると、旧県社である楡山神社に達することができる。群馬県道・埼玉県道275号由良深谷線を北上し、備前渠、小山川を越えてから、埼玉県道356号成塚中瀬線に路線変更しながらも道路は道なりに直進する。小山川を越えてから北西方向に500m程進むと、成塚御嶽大神社の社叢がほぼ正面に見えてくる。
 周辺の地形を確認すると、小山川と唐沢川が合流する地点から700m北方の微高地に成塚御嶽大神社は鎮座しているようだ。
        
                       成塚御嶽大神社正面

 Y字路の角に社の入口がある。県道は南東から北西方向に進んでいるが、鳥居正面はやや東側方向に向いているため、Y字路の正面から撮影すると、鳥居がやや斜めを向いてしまっている配置となっている。
       
       鳥居の左側に設置された社号標柱   鳥居の右側「神社整備之碑」石碑

 神社整備之碑
 敬神崇祖は我國古来傳統の美風にして尊皇愛國は我が民族の信念也 されば神社は郷邑の〇土神として〇〇〇守護し庶民信仰の起点として神威を廣く長く普く垂れ給う かかるが故に地方神社は多く鎌倉時代より
〇〇〇土豪によりて崇敬せられ徳川時代に除地又は御朱印地の寄進を受け明治維新にありては祭政一致によりて國家の宗礼となり境内地は官有とし社格を附典せらる 我が鎮守御岳大神社は寛永三年宝蔵寺開山尊栄法印〇和〇〇に座す金津神社を分霊奉齋すという 特に中古地頭遠山半左衛門氏の崇敬厚かりしと聞く 本社〇朱水帳記載の除地を有し明治七年に至りて社號を改稱同五月村社に列す 明治三十八年発布の勅令に従い同四十年十二月境内社琴平神社を本社に合祀同時に登戸に座す稲荷神社及大塚に座す稲荷神社を始め各小字に座す東照宮大神社阿夫利神社宇長男神社三峯神社神明社八坂神社高宮神社大天狗小天神社を境内に合祀し社殿の造営並に〇内を整備し益々神威を顕揚す 大正元年九月神饌幣帛料供進神社に指定せらる 我等氏子請人は心の故郷と〇し尊び御神徳を仰ぎ〇本〇始の誠を捧げ年々の大小祭祀を奉仕し恩顧を〇みける 偶々昭和二十一年二月未曾有の國家制度の改革により祭政分離の國家方針に従い神社は宗教法人となり境内地五百五十六坪は国家より無償供与せらる 今や世〇隅々として〇〇し思想の混迷甚しけれ共氏子一同各々敬神の念篤く時あたかも第五十九回神宮式内遷宮を記念し旧三國街道と界する右側に巨費を投じ石造玉垣を囲らし神威の荘厳を加へ永遠に神威のいやちこを祈念す 村民愛郷の精神を社運の弥栄と相候ら今〇〇じて見るべきものあらん茲に梗概を記〇て後昆に傳う(以下略)
                               「神社整備之碑」碑文より引用

        
                              参道の先、社殿を望む。
    周辺には民家も立ち並び、長閑な村の鎮守様というイメージがピッタリと合うような社。
        
                                        拝 殿

 周辺の標高を確認すると、小山川の北側、社に通じる県道沿いが35m弱の高さであるに対して、拝殿、その奥にある本殿は35m~35.5m程。拝殿の前・側面には多くの川石が敷き詰められ、本殿にも同様に川石等基礎の土台を固定し、加えて盛り土がなされていている。南北に位置する利根川、小山川に対する洪水等の水害対策を行っているような構造となっている。
        
                      本 殿
   この角度ならば、本殿・基礎部分には敷き詰められた川石や、盛り土の状態が分かる。

 「大里郡神社誌」によれば、成塚御嶽大神社の創建に関して、寛永三年(1626)成塚村の宝蔵寺の創立に当り、吉野の蔵王権現を勧請したのが由来という当時の地頭 遠山半左衛門は、蔵王権現を深く信仰し、自から不動尊像を描きて奉納したものが、今に寺宝として伝わる。「蔵王大権現」ともいった。『新編武蔵風土記』に「蔵王社、村の鎮守なり」とある。明治七年、御嶽大神社に改称。
 
  社殿左側には5基の石祠が並列して鎮座している。   社殿右側にも石祠が4基並んで鎮座している。
  左側2基は天満宮と東照宮。その他は不明。        詳細は不明。

「神社整備之碑」において、末社として「東照宮大神社・阿夫利神社・宇長男神社・三峯神社・神明社・八坂神社・高宮神社・大天狗小天神社」が紹介されている。それに対して「大里郡神社誌」では「阿夫利神社・大天狗小天狗・天神宮・東照宮・大天獏・八坂社・手長社三峯社」と若干の違いがある。
        
                     
社殿右側の石祠群に隣接して境内社 稲荷社が鎮座。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」等
       

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