古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

前小屋菅原神社


        
             
・所在地 群馬県太田市前小屋町1937-1
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2457939,139.3109235,16z?hl=ja&entry=ttu

 大館八幡宮から北上し、一旦群馬県道298号平塚亀岡線に合流後、進路を東方向にとる。2㎞程進んだ「亀岡町」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道275号由良深谷線を南下し、早川を越えると南東方向に進む農道があり、そこを左折し、道なりに進むと正面に前小屋菅原神社が見えてくる。早川を越えて農道に入るとそこは一面農地が広がる中、社の社叢林がポツンと見えてくるので、ある意味目印となり間違えることはほぼない。
 残念なことに大館八幡宮同様、適当な駐車スペースがないため、適度な路肩に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                                   前小屋菅原神社正面
 菅原神社のある前小屋町地域は、古来利根川の乱流地域にあって、度重なる洪水に苦しめられていた。そこで、村人たちは水難をよけるために京都北野天満宮を勧請し、菅原神社を村の鎮守として奉祀したと伝えられている。
 地形を見ても、東西にゆったりと流れる大河・利根川と、その支流である早川が蛇行しながら南東方向に流れ合流するその合流地点の西側に前小屋町地域はある。地域全体の標高も33m34m程しかなく、利根川の乱流地域であったことは頷ける地形だ。
        
                               参道正面に神明系の鳥居あり。
    よく見ると鳥居に掛けられた額は、珍しいことに丸型で、初めて見る形式である。
        
                     拝 殿
        
           境内に掲げてある「前小屋菅原神社の絵馬」の案内板
 指定重要有形民俗文化財
 前小屋菅原神社の絵馬   指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 菅原神社の祭神は、菅原道真公で、京都の北野天満宮を勧請したものである。指定の絵馬は四十一面ある。絵馬は、祈願または報謝のために社寺に奉納する額で、古くは馬を献じていたが次第に木馬、紙馬などに代用され、平安時代から馬を描いた額に代り、のちには馬以外の絵も描くようになった。
当 社の絵馬は、寛保二年(一七四二)奉納のものが一番古く、寛保が二面、延享・宝暦・安永・天明・文化が各一、文政五、天保十、元治一、慶応二、明治以後大正までが十六面となっている。
 画題は、菅原道真に関するものが十九面で、他は「宇治川の先陣争い」「頼光の酒呑童子退治」「韓信股くぐり」など教訓的なものがある。
 いずれも願主の願いが強くこめられており、天神様にふさわしい画材が多くみられる。
 奉納者は個人が一番多く、次いで連名のもの、また惣村中・下島(前小屋の小字名)中など、地域を単位としたものもある。村内関係のものばかりでなく、山田郡大間々町在住者のものもある。
 画家については、不明のものが多いが、岩松満次郎道純(太田市下田島)、金井烏州(境町島村)、島山盧景(押切)、江森天渕・天寿父子(深谷市)、倉上黒渓(前小屋)などの名が見られる。
 大型のものが多く、最大のものは縦一八三㎝・横一八三㎝で、一辺が一〇〇㎝以上のものいが十二面ある。一社にこれほど多数の絵馬が保存されていることはまれであり、民間信仰のあらわれを示すものとして貴重な民俗資料である。昭和五十五年三月
                                      案内板より引用


 案内板に記されている「岩松満次郎道純」「金井烏州」「江森天渕・天寿父子」に関して、調べてみた。
岩松満次郎道純 寛政9年(1798130日)~嘉永7年(1854813日)
 江戸時代後期の交代寄合旗本。岩松氏の当主。幼名は左男寿丸、通称は岩松満次郎、兵部、主税。上野国新田郡下田嶋領主・岩松徳純の長男。
 
上野新田郡(現 群馬県太田市細谷町)の冠稲荷神社に道純が描いた墨絵が残されている。
金井烏州(かない うじゅう)寛政8年(1796年)~安政4年(185728日)
 江戸時代後期の画家で勤皇家でもある。毎年のように萬古を訪ねた春木南湖に画の手解きを受け、江戸に出てからは谷文晁に師事した。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。江戸南画壇の一人として名を成し、障壁画の製作にも携る。
江森天淵(えもりてんえん) 1857(安政4)年―1921(大正10)年
 榛沢郡用土村(現在の寄居町用土)に朝比奈錦香(あさひなきんこう)の次男として、生まれる。家業の医学には関心がなく、幼い頃から父に絵を学び、山水画を得意とする福島柳圃(ふくしまりゅうほ)を師事する。師の柳圃の流れを継ぐ、山水画と花鳥画を得意とし、濃墨で険しい深山の風景を描く一方で、軽妙な筆で民衆の暮らしを伝える作品も描いている。明治431910)年、日本美術協会から多年にわたる優作出品により、功労者として表彰されている。
江森天壽(えもりてんじゅ)1887(明治20)年―1925(大正14)年
 幼少の頃から父の手ほどきを受け、絵手本の模写を通して日本画を学び、画才を発揮する。天壽は目に映る自然の全てに対し、何も逃すまいとする視線を投げ掛け、その描線はまるでおのずと動く筆に身を委ねることを楽しんでいるかのような画風であるという。大正131924)年、皇太子殿下(昭和天皇)のご慶事に際しては、埼玉県の委嘱を受けて『菊花(きくか)』、『桐(きり)』を制作し、埼玉県大里郡教育会から宮中に献上される栄誉を与えられた。大正141925)年218日、天壽はこれから円熟期に向かって大きく期待されていた矢先に、39歳の若さで亡くなる。
島山盧景と倉上黒渓の二人は調べたが分からなかった。
 
           本 殿               社殿左側裏手に末社殿が鎮座
 末社殿の内部には何基もの神様の名が明記された木札がある。中央に天照皇大神宮が祀られ、左から稲荷神社・蚕影神社・天照皇大神宮・六社神社・大杉神社等の名前も見える。
        
      社の南側は一面平地が広がり、その先には利根川がゆったりと流れている。
        
                   社の遠景を撮影


参考資料「太田市HP」「深谷市HP・広報ふかや20162月号」「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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