古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

一ツ木荒神社

 奥津日子神と奥津比売命は大年神の御子神で、『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
 奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)
奥津日子神・奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神である。 昔は朝廷にも篤く崇敬され、民間でも各家の台所()の守護神として大切に祀られていた。
 奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きする台所が主流だった時代にその台所で使う火に宿る神霊で、一般には「竈神」と知られている。
 竈神というのは大変に古い神で、我々の祖先が土間で火を使う生活を始めたときから信仰されてきた。 台所の火を司る竈神は、火を使って調理される食物を通して、家族の生活の全てを支配する力を発揮する存在だった。 だから、『火防せの神』としての機能は勿論のこと作神(豊穣神)、家族の守護神として信仰されたのである。
 奥津日子神、奥津比売神に関して神話には詳しい事績が記されていない。 おそらく朝廷から庶民までよく知られた神である竈神と同じ神霊だったから、今更説明する必要がなかったのかもしれない。 その一般に馴染みの竈神という点から見てみると、その性質は、穢れ(けがれ)に敏感で、人がその意に反した行いをすると激怒して恐ろしい祟りをなすと信じられている。 そういう性質から竈神は、『荒神』と呼ばれている場合も多い。 荒神というのは、火所を守護する神聖な神である三宝荒神のことだ。 三宝荒神は、主に修験道や日蓮宗が祀った神仏習合の神である。 ふつう如来荒神、鹿乱(カラン)荒神、忿怒(フンヌ)荒神のこととされ、この神は仏教信仰の柱である仏、仏・法・僧の「三宝」を守るのが役目である。
 三宝荒神も、清浄を尊び不浄を嫌うという非常に潔癖な性質とされている。 それが、古来、不浄を払うと信じられてきた火の機能と結びつき、日本古来の民間信仰である竈の神(火の神)と結合された。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木236
             ・ご祭神 
火産霊神 澳津彦命 澳津姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 一ツ木氷川神社から北西方向に200m程先に位置し、荒川右岸の堤防を背にして鎮座している。丁度「吉見総合運動公園パークゴルフ場」のすぐ西側の場所に静かに佇む。社としてはそれ程大きな規模ではなく、角地にある小さな社という印象。
 創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
        
                                    一ツ木荒神社正面
            
                 
一ツ木荒神社社号標柱
 
      静かな境内の一風景           「荒神社改築記念碑」

 荒神社改築記念碑
 一ツ木氏子中は〇に、氷川神社の改築に奉仕し続けて唱和六十一年、荒神社の新築並びに境内の整備工事を献ず。
 而して一ツ木は昭和五十年代、農業改善に関連する、県営場整備事業が、企画されるや、率先之に参画し以って速やかな土地改良をみるに至れり、加えて部落宮川池の一部を、公共用水路として提供し代償として金五百六十八万八千円を取得す。
 是を以って全氏子賛同し、荒神社改築に充つ。
 即ち
 一 奥殿・幣殿・拝殿並びに向拝新築
 一 境内積土整備
 一 境界側壁工事
 合計 金四百七十六万三百六十円也。
*句読点等は筆者が加筆。
                                      案内板より引用
        
                                       拝 殿

 荒神社 吉見町一ツ木四八六
 当社は荒川堤防を背にして鎮座している。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
 原家については、『風土記稿』一ツ木村の項に「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(一五九二-九六)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(一六〇一)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(一六三九)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」と記されている。また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろう。
 その後、村の開発が進む中で、当社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、『風土記稿』には「是も(村の)鎮守なり、 長泉寺持」と載せられている。これに見える別当の長泉寺も原家の開基であり、万治年中(一六五八-六一)に創建されたと伝えられる。
 神仏分離により長泉寺の手を離れた当社は、明治四年六月に村社となった。

                                  「埼玉の神社」より引用
               
                               拝殿に掲げてある扁額

 原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね ?~天正3521日)は戦国時代、甲斐国武田晴信(信玄)・勝頼2代に仕えた武将で「武田二十四将」の1人。信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担った。天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死した。
 一ツ木氷川神社でも説明したが、この一ツ木地域は、武田氏滅亡後の文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、一ツ木村に移り住み、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。武田信玄の家臣である原家にまつわる竜神伝承もある。
 
 拝殿の両側には幾多の石碑が並べて置かれており、右側(写真左)には「塞神」の祠が3基あり(右から2番目は詳細不明)、左側(同右)には、左より「〇〇大明神 稲荷大明神・八坂神社・九頭龍大権現」と記された祠が3基並んで置いてある。
       
                       道路沿いには巨木が聳え立つ。
         嘗てはこのような巨木・老木は道標となっていたであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
   

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吉見町 明秋神社

 現在の吉見町大字明秋は、江戸時代には「横見郡須戸野谷新田」という地名であった。鴻巣宿の整備の過程で、宿場の経済的自立を助けるため、荒川の対岸の「須戸野谷」を、独立した村とはせずに、鴻巣宿の付属地とした。徳川家光公の事跡をたたえる「江戸図屏風」(江戸図屏風の複製が「ひなの里」にて展示中)には、徳川将軍が鷹狩りで逗留した「鸛巣(鴻巣)御殿」とともに、「洲渡谷(須戸野谷)」での猪狩りの様子が描かれている。
 明治維新の後の 1874(明治7)年、須戸野谷の人々は鴻巣宿からの独立・分村を願い出た。その名も「明治村」、独立の喜びと新村発足の気概を込めての申請である。しかし畏れ多いということで、季節が「秋」だったことから、明治の秋=「明秋村」と命名された。
 その後、町村制施行により「横見郡北吉見村大字明秋」となり、大正時代には横堤の構築が始まり、昭和の初めに、明秋集落は河川敷から横堤へと移転した。現在の地名は「比企郡吉見町大字明秋」、明秋神社は川幅日本一の河川敷のなかにあり、境内には、「鴻巣宿」と刻まれた石碑や、明秋村の独立・分村の事跡を伝える石碑が置かれている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町明秋510
             ・ご祭神 天照大御神 豊受大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明

 吉見町大字明秋地域は荒川を境にして鴻巣市糠田地域の南側にあり、荒川右岸の堤外地がほぼ地域全域を覆い、荒れ地以外そのほとんど畑として使用されていて、その中に湿地、桑畑が散在する。途中までの経路は糠田氷川神社を参照。糠田氷川神社から一旦埼玉県道76号鴻巣川島線を南下、「糠田橋」を通り越してから、荒川土手を抜け、最初の変則的なT字路を左折する。この道は荒川土手方向から河川敷に北上する道となっていて、突き当たりを左折すると一面広大な畑風景が広がる中ポツンと林に囲まれている場所があり、そこが明秋神社の社叢であることはいうまでもない。
 因みに「明秋」と書いて「めいしゅう」と読む。
               
                                       社号標柱
        
                   明秋神社正面

 須戸野谷新田は江戸よりの行程十二里餘、民戸十六、當所は東照宮御鹿狩ありし地にして、其時鴻巣驛より荒川へ舟橋を渡せし故、この地を鴻巣驛の傳馬役地に賜はりしより、今に至るまて鴻巣宿の持なり、後に原野を開墾して陸田とす、村の四境、東は荒川を隔て、足立郡瀧馬室・糠田の二村に界ひ、南は當郡の北下砂新田、北は今泉新田・上細谷新田、西は上細谷新田及び、一ツ木新田・丸貫新田・下砂新田・古名新田等の數村なり、村の廣さ東西八町許、南北二十町餘、水損の地なり、又村鴻巣驛より松山への往還あり、當村開闢より以来御料所にして今に替らす、撿地は享保十二年筧播磨守糺せり、
小名 立野 谷通
荒川 村の東を流る、川幅五十間
神明社 
 村の西の方にあり、村民の持、相傳ふ此地もと東照宮の御休所なりし故、後入當社を建立せしと云、土居なども存せしか、今は廃して圍み九尺許の柳の古樹あるのみ(
以下略)
                               「
新編武蔵風土記稿」より引用
 
         木製の鳥居              参道から社殿を望む。
        
                                        拝 殿
 御由緒
 当地は荒川右岸の低湿地に位置し、東は荒川を境に鴻巣市と接する。『風土記稿』に「須戸野谷新田」と見えるのが当地のことで、その開墾経緯については「東照宮御鹿狩ありし地にて、其時鴻巣駅より荒川へ船橋を渡せし故、この地を鴻巣駅の伝馬役地に賜はりしより、今に至まで鴻巣宿の持なり。後に原野を開墾して陸田とす」と記されている。
 また、当社は村の鎮守で「神明社」と載り、「相伝ふ此地もと東照宮の御休なりし故、後人当社を建立せしと云」と記されている。
 恐らく鴻巣宿の持添新田として当地が開かれた後、移住してきた人々によって耕地の安泰が祈られ奉斎されたものであろう。その年代は享保十二年の検地以降のことと考えられる。
 その後、文化年間(1804-18)から幕末までの間に、当社は村の西方の字吉見橋から中央の現在地に移された模様で、『郡村誌』に「昔時荒川の洪水の難を免れん為に伊勢両宮を遷座せしよし、古老の口碑に伝ふ」との記事がある。
 須戸野谷新田は、明治に入っても住民には所有地がなく、戸籍編成に差支えが生じたため、明治五年に鴻巣宿から分離独立し、同七年九月に明治の「明」と季節の「秋」を採って明秋村と改称した。大正元年には境内の稲荷社を本社に合祀し、社名を明秋神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 河川の堤外地とは,堤防と堤防に挟まれた河川側の土地、つまり河川敷のことをいう。荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられていて、最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。
 その南側に位置する明秋地区・古名新田集落は,元は荒川沿いの高水敷自然堤防上に立地していたが,河川改修事業後、多くの世帯が横堤上に列状の住居を構えた地区で、横堤上の県道
 271 号今泉東松山線(吉見町側)と県道 27 号東松山鴻巣線(吉見町と鴻巣市)に沿って直線状の集落を形成しているが、今日でも先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民にとっては尚更で、旧荒川沿いの堤外地に居住する世帯もあるという。
 堤外地集落は,その立地上の特性から常に洪水の危険性が高い地域である。特に,集中豪雨や台風の多い夏には家屋や耕作地が被害を受けるだけでなく,人命にもかかわる大水害に見舞われることになる。
 
 長年の雨風の影響だろうか。色褪せた扁額。     社殿の右側にある石碑、石祠等

 境内には石塔が並び、写真右手前のものには「水屋幟竿置場」と明記されている。「水屋」とは屋敷内において日常生活空間の母屋より高く盛られた盛土及び,その上に建てられる上屋のことをいう。江戸時代の水屋は利根川水系の周辺で数多くつくられたらしい。

 近年,都市部では急速な都市化に伴い,各地で治水整備が進められているが,内水氾濫などの洪水被害が増大している.そのため,治水整備においては,行政に依存しない住民間での自助・共助の重要性が唱えられており,「水屋」「水塚」等の河川伝統技術の有用性が見直されている。

 これら水屋・水塚には,旧来から洪水を経験して得た先人の知恵が“カタチ”として表れており,水屋・水塚について着目し,研究を行うことは重要だと考える。
        
                         明秋神社のすぐ東側を通る高架橋

 荒川の改修工事によって,中流域でも洪水の発生頻度は減少したが,逆に一度の洪水で受ける被害は増大するようになったという。この荒川改修工事は下流域の治水には大きく貢献したが,中流域では広大な遊水機能をもつ堤外地が誕生し,この堤外地に多くの集落が取り残されることとなった。
 かつて頻発していた荒川の氾濫を制御し,下流に位置する首都東京を洪水から守るという国家的目的を実現するために行われた荒川の河川改修事業は,治水行政の所期の目的を達成したと見ることができる。しかし,本研究で見てきたように下流域の安全は,少なくとも中・上流域に暮らした多くの住民の生活を犠牲にして今日担保されたものであるという事実を忘れてはならない。
        

 荒川には河川敷に集落があるということは以前からこの県道を業務で往来もしていたし、近隣に吉見運動公園もあり、私的に利用してもいたので、当然認識していたが、このような歴史があるとは想像もしていなかった。
 荒川流域では、古い時代より洪水と折り合いをつけて暮らしが営まれてきたのだと思われるが、河川改修が進められる中にあって、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民の方々にとっては尚更であったろう。故に今もなお引き続き洪水と向き合う暮らしを選択されたと言うことなのだろうか。

 日頃、河川とは縁遠い暮らしを送っている者にとっては想像も及ばないが、河川敷に広大な農地が広がる荒川ならではのことなのかもしれない。

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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大間大野神社

 嵯峨源氏渡辺氏は摂津国西成郡渡辺里(大阪市東区渡辺町)より発生した一族であり、武蔵国足立郡箕田郷(鴻巣市)に移住して箕田源氏と称したと云う。嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融(みなもと とおる)を遠祖とし、融の孫・源仕(みなもと つこう)の頃に武蔵守となって武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市北部)に赴任した。仕は同地に土着し、地名の箕田(みた)を苗字として武家(軍事貴族)となったという。
 箕田仕の子が箕田宛(みなもと あつる 号箕田源次)で、「今昔物語」で平良文(村岡五郎)との騎乗の弓矢による一騎打ちを行ったという説話で有名な武将だが、無位のまま21歳の若さで没したという。源宛の子・源綱(みなもと つな)は、出生したときは父が他界したために、摂津国川辺郡多田(現在の兵庫県川西市)で清和源氏の祖となった源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の猶子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に居住し、それまでの源姓から渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となる。
 渡辺綱の後裔とされる摂津渡辺氏は、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地として一族が集住したために、「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に、摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)で行われる天皇の清めの儀式(八十島祭)に従事すると共に、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したという。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市大間2-11-29
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧大間村鎮守 旧村社
              ・例 祭 鯉祭 21日 祈念祭 218日 例大祭 918日 
                   新嘗祭 1123日 大祓 12月吉日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0639906,139.4960803,16z?hl=ja&entry=ttu
 大間大野神社は鴻巣市大間地区に鎮座している。途中までの経路は鴻神社を参照。鴻神社からは「こうのとり通り」を高崎線高架橋を通り過ぎてから「大間4丁目」交差点を右折。その後300m程進み、右側にコンビニエンスストアのある信号のある十字路を左折する。
 周囲は住宅とビルの立ち並ぶ道路となり、交通量も多く、対向車両や自転車、徒歩での方々の往来にも気を付けながら200m程進むと「氷川山・大野神社」の看板が進行方向正面右側に見えてきて、そこを右折すると大間大野神社の鳥居、及び参道が見えてくる。
 駐車スペースは参道に沿って左側に数台分確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                              大間大野神社 一の鳥居
 鴻巣市大間鎮座の社。今は住宅街の真ん中にひっそりと佇むこじんまりとした神社。元は氷川神社であり明治時代に大間地内の五社を合祀、北長野地内の四社を合祀。大間、中野地区の字を使い、大野神社と定めた。
 驚く程、住宅街にあり、参道の両脇には家やマンションが立ち並んでいて、その中を抜けるように境内が広がり、その先に拝殿、本殿等が鎮座している。
 

   参道右側に提示されている案内板。     住宅街の間をすり抜けるように参道が通る。
 大野神社記
 当社は元来氷川神社で祭神は須佐之男命・大國主命(大巳貴命)の二神でありました。
 第六十一代朱雀天皇(九二三~九五二)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。
 鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。
 当時は梅本坊別当後本習院となり慶安五年(一六五二年)、享保六年(一七二一年)、天保九年(一八三八年)と社殿の改修が行われたと伝えられております。
 明治六年四月村社、明治八年拝殿建立、明治三十七年九月五日境内(現二千五百坪)が社地となりました。
 明治四十年五月八日大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の()と中野の()をとって大野神社と社名を定め、明治四十一年四月記念の合祀祭が行われました。
 明治四十四年一月七日神饌幣帛供進社に指定。
 平成五年九月拝殿改築奥宮修繕 完。
 大野神社古記
                                      案内板より引用

        
                                     二の鳥居
        
 住宅街をすり抜けるように参道が続いたが、二の鳥居を過ぎると社独特の風情ある境内が広がる。
 
     境内前で右手に見える手水舎          境内左側にある神楽殿
        
                                        拝 殿
 境内から拝殿までの間に2段の石段がある。思うに鎮座している場所は大間地域でもやや高台を選んで建立したのであろう。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額             拝殿向拝下彫刻  
 題字の周りに飾られたのマークが可らしい。   龍と鳳凰の彫刻が精密で凝っている。
        
                                      案内板
 大野神社 御由緒 鴻巣市大間三一二
 □御由緒(歴史)
『風土記稿』大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云(以下略)」と載るように、当社は元来は氷川神社と称していた。それを大野神社と改称したのは、明治四十年七月十八日のことで、同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものであった。この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する社記「大間氷川大明神縁起」に詳しく、その要点をまとめると次のようになる。
 当社は、天慶元年(九三八)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大己貴命の託宣によってこの地に社を造営したことに始まるもので、長元三年(一〇三〇)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったという。また、神力によって、天永元年(一一一〇)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(一二五七-五九)の干ばつには雨を降らせ、延元二年(一三三七)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃した。
 社記の記述はここまでであるが、その後、村の再興と共に神社も再建されたようであり、『明細帳』には天保年中(一八三〇-四四)及び明治十一年に再建され、明治六年に村社になった旨が記されている。更に、平成五年には社殿が老朽化したため、再建が行われた。
 □御祭神と御神徳
・大己貴命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

 
 社殿左側に鎮座する境内社2社。詳細不明。    境内社内部を撮影。2社の間にある石祠は
                            正一位稲荷と冨士浅間神社。
 
 境内社2社の並びにある石祠群と屋根付き母屋の境内社(写真左)。石祠は左から「不明、八幡宮、八幡宮」と読める。右側に鎮座する母屋付きの境内社(同右)は、扁額らしい額はあるが、薄すぎて解読は不可能。但し本殿奥に鎮座している所から推測すると、旧本殿の可能性も否めない。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
 大間大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨源氏流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したという。
 時代は平安中期で、武士の勃興期と言われる時代。桓武平氏出身の平将門やその一族である平貞盛、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷、清和源氏の祖といわれる源経基といった英雄、豪傑が活躍し、躍動していたこの関東で、同じ空気を吸っていたであろう嵯峨箕田源氏流の源(渡辺)仕という新たな人物がここで登場し、この社の創建に関わっていたとは、何とも神妙な面持ちでの参拝となった。
 と同時に今では埼玉の”嵐神社”としてファンの間では有名となった大野神社。勿論嵐のリーダーの大野智さんの名字が入った神社だから。嵐は2020年末で一旦活動休止となったが、まだまだ聖地として多くのファンが訪れる場所となっているようだ。
 久喜市鷲宮神社が「らき☆すた」の聖地で一躍有名になっているが、この大間大野神社にも同様な現象が今もなお続くのはいかにも日本人らしいといえるだろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」「大野神社公式HP」
    「境内案内板」


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滝馬室氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市滝馬室1151
             ・ご祭神 素戔嗚
             ・社 格 旧瀧馬室村鎮守 旧村社
             ・例 祭 的祭り 112日 風祭り41日 祈年祭 55日
                  天王様 71415日 夏越大祓 728日 例祭 95日
                  新嘗祭 1123日 越年大祓 1228日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0500013,139.5026985,18z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室野宮神社から西方向に進路を取り、「なのはな通り」に合流する。「なのはな通り」を北上し、「鴻巣市 中学校給食センター」の十字路を左折し、細い道路を荒川河川敷沿いまで進み、そこから「御成橋」方向に350m程北上すると社の鳥居が見えてくる。周囲は草地と畑。実は、ポビー祭りやコスモス祭り会場でもあるので、細いながらも意外と舗装路もあるので車でも行ける。
 実のところ「なのはな通り」を
500m程北上すると、滝馬室氷川神社の社号標柱に到着するのだが、そこは社の裏口であり、社の正面入口は荒川の河岸段丘に向いた西側にある。

 因みに「御成橋」の橋長は804.8mであるが、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅は2,537mあり、日本一と認定されている。というのも荒川自体の川幅は数十メートル程度だが、国土交通省は河川敷を含めた堤防間を「川幅」と定めているからだ。御成橋のたもとと吉見町の堤防に「川幅日本一の標」が建てられている。
        
         荒川を望む河岸段丘の上に鎮座する古社・滝馬室氷川神社
 社の東側「なのはな通り」からの進路では住宅地に佇む神社という印象だが、西側正面から望むと、第一印象として、祭り時期以外、全く人気のない寂しさも感じられる。但しその何とも言えない社周辺一帯の静寂な雰囲気が、一種荘厳さを醸し出しているようにも感じるから不思議だ。
        
                  神明系の一の鳥居
      社の鳥居と参道が川側にあるのが何か意味を持つのか非常に気になる配置。
 延暦年間(782805)坂上田村麻呂が悪龍退治をしたとの伝承もあるが、昔から暴れ川で有名である荒川を「悪龍」に例えて、荒川自体を神と崇めながら、時に起こる天災に対して、社を鎮座することにより神の怒りを鎮めようとしたのだろうか。
        
                         一の鳥居の先で左側にある「御手洗の地」
 
参道の左側には小川の清流の音が聞こえる。赤い鳥居の前に立派な石積みの階段の水場があり、斜面側の注水口から湧水が流れ落ちている。「御手洗の地」といい、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。思うに大宮台地の北端部断面から湧いているのだろう。この滝が村名の由来「滝馬室」になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。ちなみに馬室は、この辺りは古墳が多く、古墳の石室を示す「むろ」から生じたといわれている。
        
                                                朱を基調とした両部形式の二の鳥居
        
                         荒川の河岸段丘を利用してつくられた石段。
            よく見ると石段の両脇にある狛犬は狼型である。
 
    石段の左側で斜面上にある不動明王(写真左)と紙垂の巻かれた石柱(同右)。
       後日調べてみると、この石祠は「弁財天」の祠であるという。
        
                     石段を登った先には段丘面が開け、境内が広がる。
        
                    境内の右側に設置されている「滝馬室的祭」の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭  昭和四十五年三月十日指定
 滝馬室の氷川神社に的祭(まといさい。まとうさいともいう)の神事が伝えられている。    延暦年間(七八二~八〇五)征夷大将軍坂上田村麻呂は東北遠征の途中、この地の住民に悪竜(大蛇)退治を依頼されたという。
 田村麻呂に追いつめられた悪竜は滝馬室常勝寺の山林にのがれ、桜の巨木に巻きついたので、田村麻呂は竜の目を射抜いて退治したという。竜の頭は氷川神社境内に、胴体は常勝寺に埋められた。ために常勝寺は竜蔵山と山号が付され、桜は蛇桜と呼ばれるようになった。
 的祭はこの口伝にちなんだ五穀豊穣の祈願祭であり、一時中断されていたが、貞享年間(一六八〇年代)島田常勝という人が復興し、氷川神社の祭礼として現在まで伝えられている。昔は、衣服に関しても直衣を着用するなど格調高く、儀式も厳しく、関係者は心身を清めてそれぞれに奉仕したようであるが、今はその点ゆるやかになっているのは時勢によるところである。
 的祭は例年一月十二日に執行されている。神事は氏神に祝詞を奏上した後、地元の十二歳になる子供たちが、葦の網代に蛇の目を描いた的をめがけて矢を射た後、氏子一同神饌物を食し豊作を祈願して終了となる。平成二十八年六月
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 
    拝殿左側に鎮座する境内社・須賀神社。     須賀神社の奥にある石碑、菩薩様等。
       
 境内社・須賀神社の左隣に聳え立つご神木ともいえる巨木。その根元には「金剛山」と彫られた石祠もあり。
        
              拝殿右側には案内板が設置されている。
氷川神社 御由緒  鴻巣市滝馬室一一五〇‐二
御縁起(歴史)
滝馬室は、隣の原馬室と共に、室町期‐戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。元禄年間(一六八八‐一七〇四)までに分村したらしく、『元禄郷帳』に滝馬室村と見える。
 当社は荒川低地を望む台地上に鎮座している。老樹に囲まれた境内の一角からは清水が湧き出し、「御手洗の地」となっており、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。この滝が村名の由来になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。また、伝説によれば「延暦年間(七八二‐八〇五)坂上田村麻呂が東征の途次、農作物を荒らす大蛇を退治して、頭を当社に、胴体を地内の常勝寺に、尾は吉見町の岩殿観音に埋めた」とあり、当社と常勝寺のかかわりもうかがわせる。常勝寺は開山開基共に不詳であるが、境内には文永七年(一二七〇)「為種法入道也」などの古碑が残されており、古い時期の草創と思われる。
往時の別当は、当社隣地にあった真言宗吉祥寺で、常勝寺の末寺で竜泉山と号し、開山光瓊が天正十一年(一五八三)に寂している。
当社は寛延二年(一七四九)に神祇管領卜部兼雄から幣帛を受けた。
御祭神と御神徳
・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
 
 
 拝殿右側に鎮座する境内社・愛宕(?)神社。         社務所だろうか。

 滝馬室氷川神社の社号標柱は境内東側の「なのはな通り」沿いに設置されている。住宅地の中に社は鎮座しているのだが、この社は何かおかしい。というのもこの社の配置は、住宅地に向いていなく、そっぽを向いている。その為当地の方々が参拝をするにしても、裏側ないしは横側からの参拝方法しかないからで、それでも正式な参拝を行うためには、一旦荒川河川敷に迂回しなければならない。
       
      「なのはな通り」に設置されている社号標柱、「滝馬室的祭」の標柱。
 滝馬室氷川神社は「西向き」の社である。「西向き」の社は「南向き、東向き」に比べて決して多いとは言えないが、多少は存在する。
 通常、神社は南か東を向いている。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。
 中には東京都府中市に鎮座している武蔵国総社「大國魂神社」は「北向き」の社であるが、その由来は、永承6年(1051年)に、それまで南向きであった社殿を源頼義が北向きに改め、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味があった。

 神様も同じように南を向くのが多いようだが、この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあるようだ。
        
                  滝馬室氷川神社の写真の中で一番のお気に入りの一枚

 滝馬室氷川神社は「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が当地の五穀豊穣の祈願由来となり、毎年続けられている地元に根付いた行事でもある。
 当社では新年112日に実施される。新年に弓を射る行事は俗にいう【弓射儀礼】といい、全国にあり、現在も継承されている地域が少なくない。馬を走らせながら騎乗した射手が弓を射る流鏑馬は有名だが、多くは射手が立って(あるいは坐して)弓を射る神事が各地の寺社で行われてきた。
 宮中においては、古くから射礼[じゃらい]という祭祀儀礼が行われ、これを由来とする行事が近畿地方の結鎮[ けっちん]や四国地方の百手[ももて]などとして伝承されている。中世西日本の一の宮や地方の中核寺社における弓射儀礼が、宮座の行事として広まるなか、17世紀初めになると関東地方へも伝播したと考えられている。こうした行事は、関東で「オビシャ、弓祭、的祭、弓ぶち、天気祭、日の出祭」等と呼称され、ビシャには歩射、奉射、 武射、備射などの語が充てられている。いずれにしても、行事の本質は単なる弓の儀礼というわけではなく、地域の信仰や祭事などにおいて中心的な役割を担う頭屋の交代という重要な節目にあたり、過ぎし年を送り出して新たな年を迎えるという意味が込められている。あくまで地域の方々の行事に対する協力体制が整っていなければ、長期的に継続できないものである。
 したがって、本来は天地四方に矢を放つことによって空間(場)を浄め、更に特定の的を射抜くことによって、その一定地域において「暮らし」という時間軸の更新を図ってきたのではないかと考えられる。

        
                      西向きの参道と対をなす「狼」型の狛犬

 滝馬室氷川神社は、今でこそ「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が地域の方々の団結力や協力もあり、継続されていて、まさにこの地域にとって「鎮守様」として日々の生活に密着した社として鎮座されている。また延暦年間(782805)坂上田村麻呂の悪龍退治伝説も相まって、淵源の歴史を感じる「重みのある社」としての風格も漂わせている。

 但し参道にある1対の「狼」型の狛犬には、上記の説明では解決できない「別物」の歴史も感じてしまうことも事実である。何度も記載するが、この社は「西向き」の社である。案内板等ではあくまで坂上田村麻呂の悪龍退治から「荒ぶる川」に対しての鎮魂の意味も込めて創建されたような「表歴史」が前面に出ているようだが、この「西向き」にはもっと奥深い信仰対象がその延長線上に存在していたように思えてくる。

 つまり、本来の鎮座意図、目的として、荒川上流部に鎮座する秩父三社(三峰神社・秩父神社・宝登山神社)の「狼信仰」に何かしらの関連性はないか、ということだ。荒川に対して社は向いているよりも、参道が向いているのはその遥か先、奥武蔵や秩父の山々なのではなかろうか。

 参道にある1対の「狼」型の狛犬以外何の根拠もない妄想の類かもしれないことを、あらかじめお断りしておく。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
   

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原馬室野宮神社

 神道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象であり、古来より「八百万の神」と呼ばれる多くの神が存在すると現代でも考えられていて、例えば山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(かわやがみ)、台所の神様(かまど神)等、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。あまりの多さ故に神々の中には、由緒のある神だが、名前自体の存在さえ知らなかった神も未だにいる。原馬室野宮神社に参拝するまで、恥ずかしながら「野槌命(のづちのかみ)」の名前すら知らなかったのは、正直なところ事実である

Wikipedia」で調べてみると、カヤノヒメは日本神話に登場する草の女神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神であると記している。
 神話上での話では、「神産み」において伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱の神を生んだ。
 神名の「カヤ」は萱のことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室806
             
・ご祭神 野槌命
             
・社 格 旧無各社
             
・例 祭 元旦祭 11日 大祭 91日 大祓 1231日
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0463688,139.5056382,17z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室野宮神社は同地区の原馬室愛宕神社から北方向に1㎞程の場所に鎮座する。一旦原馬室愛宕神社を北上し、「なのはな通り」に合流し、更に北上し、「馬室小学校」交差点を左折する。暫く直進し、最初の十字路を右折すると正面に原馬室野宮神社の鳥居が見えてくる。冬時期で午後の参拝の為か、天候は晴れだったが、社周辺、特に鳥居周辺は西日の関係でほの暗く感じた。
 鳥居の右側に適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                                 原馬室野宮神社正面
        
             ほの暗いためだろうか、本来鮮やかな朱の両部鳥居も暗く映っている。
        
             因みに反対側から撮影すると、鮮やかな朱の鳥居であることがわかる。 
 
         趣のある参道            拝殿の手前には案内板もある。
 野宮神社 御由緒  鴻巣市原馬室八〇六
 □ 御縁起(歴史)
 原馬室は、荒川東岸の低地から大宮台地の北西端にかけて位置する農業地域である。江戸時代には足立郡石戸領のうちで、当初は隣接する滝馬室と共に馬室村と称していたが、元禄年間(一六八八‐一七〇四)までに分村し、その地内に原野が多いことから「原」の字を冠したという。こうした鎮座地の地名の由来と、「野宮」という当社の社号との間には、深いかかわりが感じられる。
 当社は、この原馬室の中の谷津という字の氏神として祀られてきた神社であり、『風土記稿』原馬室村の項に「野々宮社 村内稲福院の持」と記されているように、江戸時代には滝馬室村常勝寺の門徒である真言宗の稲荷山稲福寺が別当として管理や祭祀を行っていた。稲福寺は、当社の南隣にあったが、神仏分離によって明治六年に廃寺となった。
 狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家や、日高市野々宮の野々宮神社社家の野々宮家には、「神武東征の際、先祖の三兄弟が朝命によって東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(日高)に、一人は鴻巣に居を構え、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」との口碑がある。当社や当地には、これに類する伝承はないが、ここに伝えられる鴻巣の野々宮神社が、当社のことと思われる。
 □ 御祭神と御神徳
 ・野槌命…五穀豊穣、健康増進
                                      案内板より引用

 
     拝殿正面左側に掲げてある扁額       同じく右側には奉納額が掲げられている。
 
埼玉県には、野々宮神社が日高市野々宮と狭山市北入曽、そして野宮神社が鴻巣市原馬室にある。野宮、及び野々宮神社の総本社は京都市右京区嵯峨野にある「野宮神社」といわれている。天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる
 天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均12-13歳、最年少2歳、最年長で28歳)の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り1年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだという。
 
      社殿左側に鎮座する境内社・天神社      社殿右側には境内社・大黒社が鎮座
        
                         大黒社の奥にある富士塚
         塚上には富士浅間大神、中腹には小御嶽山、麓には庚申塔。
「斎王」としての本来の職分とは直接関係はないが、ご祭神を勧請し「分社」することは「八幡神社」「稲荷神社」「諏訪神社」「氷川神社」等でも行っている。日高市に鎮座する「野々宮神社」は、奈良時代(710年〜794年)に、宮崎を姓となした野々宮神社社家が、朝廷の命を受けて、倭姫命を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理にあたったことに始まるとされている。狭山市の野々宮神社も宮崎家が代々神職を勤めていて、朝廷の命により大日孁貴命と御杖代としての倭姫命の奉斎と入間路の警備及び七曲井の管理に当たったと伝えている。
        
                                拝殿から参道方向を撮影

 ところで原馬室野宮神社の御祭神は「野槌命」で、倭姫命ではない。案内板に記載されている「神武東征の際、先祖の三兄弟が朝命によって東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(日高)に、一人は鴻巣に居を構え、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」との口碑とはどのような口碑であろうか。また神武東征の際に東国に派遣された「三兄弟」は誰であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」

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