久下神社
但し久下氏が私市党だったかどうか、実は不明で、別説によると、舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔といい、親王の三代目に源満仲の弟武末が養子として入り、その孫基直が開発地の久下を称し、武蔵国久下郷に在住したとする「皇胤」の一族とする説もあり、今現在どちらも断定する決定的な資料はない。
どちらにせよ平安時代末期、久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182年)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。
勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久3年(1192年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年11月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられている。
その後久下氏は、承久の乱(1221)に際して、久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上り、戦後、かれは武蔵へは帰らず所領の丹波国栗作郷金屋に留まる。以後、久下氏は丹波に住して国人領主に成長してくのである。
・所在地 埼玉県熊谷市久下829
・ご祭神 大山祇神
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月20日 例祭 4月14日 新嘗祭 12月10日
熊谷市南西部、荒川土手に沿って集落を成す久下地域は、現在の行政区域で凡そ北西方向から南東方向に荒川が流路を形成する凡そ5㎞程の細長い地域であり、主要道路である旧中山道沿いに民家が集中し、その道路の南側は荒川堤防で仕切られ、現在では民家もほとんど存在しない。
久下地域は江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』において「久下村」が存在していて、その距離は「一里十一丁」、現在の距離数で計算すると一里=4㎞、十一丁=1090mとなり、5,090m程で現在の形とそう違いはないかもしれない。また細長い地域故か、中山道近くにあったものは「内三島」、荒川の近くにあったものを「外三島」と呼称された。寛永6年(1639)伊奈備前守忠治は久下新川先から小八林至る新しい川を開削し、この地で新川河岸が開かれると、江戸との廻船が盛んとなり大いに栄えた。当時は忍藩の領地であり藩の財政に大きく貢献する河岸は重要視され江戸との距離も適当であったため、堤の中に多くの人々が住むようになった。明治となって新川村が誕生し、外三島社は新川村の村社として祀られるようになった。一方内三島の方も中山道に沿って栄えた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり明治43年に村内の無各社を合祀して社名も久下神社と改めている。
旧中山道沿いに鎮座する久下神社
国道17号線を熊谷市街地から行田・鴻巣方向に進路をとり、熊谷市街地を抜けた「佐谷田(南)」交差点を右折する。埼玉県道257号胄山熊谷線に合流し、JR高崎線を越えて更に南下し、荒川に架かる「久下橋」の高架橋手前で左斜め方向に下がるように進み、その先にある信号のある十字路を左折する。そして旧中山道を東方向に600m程進むと左側に久下神社が見えてくる。
歴史を感じる社号標柱
「久下神社」と表記された鳥居
地域名「久下」の地名由来は「熊谷市web博物館」では以下の説明がされている。
1 文武天皇の世(701年)大宝律令によって定められた土地制度で、全国の国、郡、各々に国司、郡司、里長が置かれた。郡司の治所(郡役所のあるところ)を郡家と書き、訓読みでは【コオリノミヤケ】、音読みで【クゲ・グウケ】と読んだところから転じて郡家の所在地を久下と書くようになった。〔地名の研究〕
2「崩潰」を意味する古語である。【クケ】とは、水が漏って貫ける意味。洪水のために堤が崩壊されたために、この名が生じたと解される。久下を地形的に見ると、古くは荒川の氾濫地域であった。よって、久下の名は、荒川堤の崩潰によって生じたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
3 アイヌ語(Kukei、クケイ)で、川場漁をとるところの意味。久下は荒川のそばにあり、川でよく魚がとれたので、この名が生じた。
鳥居を越えて参道を進むと、左側に「合祀久下神社之碑」の石碑(写真左)と「神日本磐余彦天皇」と刻印された標柱(同右)がある。どちらも昔の字体となっていて、読むのが難しい。
拝 殿
久下村
三島社、吉祥院持村の鎮守なり。権守の頃は久下村に三嶋両社八幡三社ありと云。土人の云るに、今久下村・下久下の五村にある者是ならんと,
『新編武蔵風土記稿』より引用
久下神社 熊谷市久下八二九(団久下字鎮守耕地)
『吾妻鏡』建久三年(一一九二)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。これが当社の始まりであると伝えられている。この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、街道(中山道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。
江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。
新川村と久下村は明治二十二年に合併し、その後も二つの三島社は共に村社として祀られてきた。しかし、大正二年、当社(内三島)は更に村内の神社一四社を合祀し、社名を久下神社と改めるに至り、その際、外三島は当社に合祀された。また、この合祀の翌年である同三年、当社は水害を避けるために堤内にある現在の社地(明治四十三年に合祀した伊奈利神社の境内であった)に移転し、今に至っている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額。旧字体で表記。 社殿左側には幾多の奉納額が並べて設置されている。
本 殿
本殿には石段を積み上げて、更にしっかりと補強もされているようで、当地の水難の歴史を垣間見ることができる。
此処から1.5㎞荒川下流域は熊谷市、行田市、鴻巣市吹上の境界であり、左岸堤防上には「決壊の跡」の石碑が設置されている。昭和22年(1947)のカスリーン台風による洪水で、荒川の左岸堤防は、この地点で決壊した。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあり、決壊による濁流は元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れたという。
現在熊谷市水害ハザードマップにも隣接している久下小学校は地域の避難所ともなっていて、旧中山道の道の向かい側には熊谷市消防団久下分団も設置されていて、地域の防災拠点ともなっている。
社殿左側奥には稲荷社・琴平大神・石祠が祀られている(写真左)。石祠の前に猿らしき像が置かれているので日枝社kかもしれない。また社殿奥には並べて祀られている末社群あり(同右)。
當神社は、その上、武家の棟梁征夷大将軍源頼朝公に臣從せる久下直光が、鎮守として勸請せる三嶋神社にして、後村内二十五社を合祀、久下神社と改稱、當地總社として村民遍く尊崇のうち今日に至りしなり。下りて元文四年四月この地の氏子崇敬者浄財を寄せ大鳥居を奉獻す。時恰も櫻町天皇の御宇徳川吉宗八代將軍たりし代なりけり。爾来二百七十年、風雪漸く材を損ひ、終には亀裂をも生ぜしめ、倒壊の虞を豫感するに至る。茲に平成十七年四月十五日當社例祭の佳日、氏子總代會の議を經て大鳥居奉獻委員會を結成、廣く浄財を募り事を興す。工事は、二代に亘り現代の名工を擁する野口石材店に委ねたり。直ちに、工匠材を求め想を凝らしつつ事に當たるに半歳。神域の時を刻みし参道の下つ磐根に礎固く深く、遥けく平成の蒼穹を望む大鳥居復古して竣工す。元朝の嘉辰を卜し、鴻業の經緯を奉獻氏子の赤心を後昆に傳へ顯彰すべく、聊か概略を碑に刻すること斯くの如きなり (以下略)
石碑文より引用
拝殿からの眺め
久下地域は中山道に沿った農業地帯であるが街道筋では商工業者も多く、その中でも久下鍛冶の名で知られた鍛冶職人がいて、近世武蔵の鍛冶を代表するものとして知られるところという。天明六年(1786)の「久下村鍛冶先祖代々申伝覚書」が残っており、治承四年(1180)久下直光が鎌倉から国安という鍛冶を招いたことから始まり、以降代々忍城のご用鍛冶を務めたという。
久下は荒川左岸に位置しながら、熊谷市でも古くから開けた地域の一つであり、このページに収まり切れない、調べるほどにその歴史的な古さを感じることができた。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「熊谷市web博物館」
「Wikipedia」「境内石碑文」等