古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上川崎香取神社天満宮

「川崎」という地名は、日本人の多くは神奈川県川崎市を思い浮かべる方が多いと思うが、川崎市HPをみると、この川崎という地名由来として、多摩川のデルタ地帯であることに由来しているといい、「川」はそのまま多摩川を意味し、「崎」は砂が溜まり海側に出っ張った場所を指すという。また、「川崎」の「サキ」は、古くは「前」を意味する言葉であり、「川前」、つまり川に面した地域を指すという説もあり、日本全国に80ヶ所以上存在する「カワサキ」という地名の多くも、この「川前」が語源とされているという。
 久喜市にも「川崎」を冠した地域があり、やはり、古利根川の屈曲した地形から付けられた地名といわれている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上川崎479
             
・ご祭神 経津主命
             
・社 格 旧上川崎村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 灯籠 720日 秋祭り 1019
 久喜市上川崎地域は外野地域の南東に位置し、外野香取神社から北西から南東に流れる葛西用水路の左岸に沿うように形成されている農道を600m程東方向に進むと進行方向左手に上川崎香取神社天満宮が見えてくる。
        
                上川崎香取神社天満宮正面
『日本歴史地名大系』 「上川崎村」の解説
 外野村の南東に位置する。当地から正和五年(一三一六)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。当村渡辺氏の祖は幸手の領主一色直朝で、天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国のときすでに隠居し、その子義直に家督を譲っていたが、義直は旧領のうち幸手領七千余石を安堵され、旗本一色家の祖となった(寛政重修諸家譜)。一方、当地に土着した直朝は慶長二年(一五九七)に死去したが、その次子政義からは渡辺氏を称して名主を世襲、旗本久津見氏より苗字帯刀御免の身分を与えられていた(「風土記稿」など)。中川崎村・下川崎村(現幸手市)とはもと一村で田園簿には三川崎村として田高六四六石余・畑高五六七石余とあり、幕府領。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡上川崎村』
 天神社 村の鎭守なり、藥王院持、下同じ、〇香取社〇山王社〇大六天社 正蓮寺持
 藥王院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺末、瑠璃光山と號す、本尊不動、開山秀專寬永六年七月寂す、藥師堂
 
舊家者傳左衛門 
 世々名主を勤む、氏を渡邊と號す、所藏の系圖に、祖先は一色公深七代の孫、一色宮内大輔直朝、天文中足利晴氏及義氏二代の間隨從し、後に幸手庄に蟄居し、慶長二年十一月十四日卒す、法〇大虚院月庵蘆雪と號す、村内正蓮寺の開基たり、其子義直は義氏逝去の後東照宮に召出され、旗下の士一色右京某が祖なり、弟政義は當村に住し、渡邊をもて氏とし、元和二年三月朔日死す治林寺輔翁正輪と法〇す、これ傳左衛門が祖なり、所藏の武器等は享保中火災に罹れり。
        
       拝殿の開き戸の左右には「天満天神社」「香取大明神」の札がある。
 香取神社  鷲宮町上川崎四七九(上川崎字屋敷前)
 上川崎は、『風土記稿』に「上川崎村は、田宮庄に属す、も上・中・下は都(すべて)一村にして、正保改定の国図には三川崎村と記し、『元禄国図』に、初て上・中・下三村を分ち記せり」とあるように、元禄八年(一六九五)に三つに分村した三川崎村の西の部分である。
当地域は、古くは利根川・権現堂川・島川・古利根川をひかえる水害地帯であった。殊に川崎の地は、その名が古利根川の屈曲したところから付けられているように、水害を受けやすい所であった。
 当社本殿裏に、元宮と呼ばれる「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、共に寛政元年(一七八九)の銘がある。一方、内陣には、寛政三年の墨書銘がある香取大明神像と天満天神像が安置されている。更に、寛政三年四月七日付けの卜部良倶の宗源祝詞が保管され、その祈奉斎の神輿形に納めた卜部の霊璽を二筥安置し、これに伴う幣帛を納めている。また、本殿正面には、この卜部良倶が染筆した「香取大明神・天満天神」の社号額を掲げている。ちなみに神輿形に納めた霊璽は、別当が同じである隣村中川崎の香取神社にも祀られている。
 口碑によると、昔、香取神社は「古香取(ふるかんどり)」、天神社は「天神」と呼ぶ古利根川縁の田の中に、それぞれ祀られていたが、水害を被ったことから、土手上にある旧別当薬王院に隣接した現在地に移されたという。
        
                    本 殿
 当地は、寛政元年に元宮の石祠を建立した時から三年前に当たる天明六年(一七八六)に「七十人余も流死」(『鷲宮町史』)するほどの大洪水に見舞われている。この時、古利根川の川辺にあった香取神社と天神社の二社は流失し、元地に石祠を建立したが、更に、その後の水害を恐れて、寛政三年に現在地に両社合殿の社殿を新築したものであろう。同時に造立の香取大明神像と天満天神像には、施主渡辺多門とあり、これは当時の名主で幸手城主一色氏の末である。
 現在、当本殿は三間社であり、内陣には、先に記した史料のほかに「未(ひつじ)ノ年・木村幸右門」と背部に刻んだ石製の香取・天神の二神像があり、更に寛政三年、施主渡辺多門が倉稲魂神像とその本地である荼枳尼天(だきにてん)像を奉納している。このうち、石製二神像は、三川崎村分村時に旧神像として納めたものであろう。また、倉稲魂神像と荼枳尼天像は、一つは旧別当薬王院の鎮守として内寺に祀られ、一つは名主渡辺家の鎮守で屋敷内に祀られていたものが、明治初めの転換期に当社の内陣に納められたものと想像する。
 本殿の裏にある元宮と呼ぶ二基の石祠は、大正三年に村内の小祠を合祀した時、元地の「古香取」と「天神」から移したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      境内にある力石数基          本殿左側裏手にある庚申塔と青面金剛
        
              本殿の正面奥に祀られている元宮
 元宮の内部には
「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、元宮の左側奥には見ずらいが「大六天」「山王大権現」と刻まれた石祠、元宮のすぐ右側には「八海山神社」の石碑が祀られている。
        
      元宮の右側に並んで祀られている「御嶽大神」「辨財天」「猿田毘古大神」

 年3回の祭りのうち、一番賑やかなものが720日に行われる「灯籠」である。いわゆる夏祭りであるが、境内に灯籠を立て、その明かりのともる中を夕方に氏子が参詣し、総代からお祓いを受ける行事である。現在は諸般の事情で、灯籠は十基程立てるだけとなっているが、昭和54年ごろまでは、鉄枠・ガラス張りの灯籠五十基が境内や参道を飾ったものであったという。
 また、戦前頃までは「万作」という行事が神社の所在する上川崎で710日の灯籠と1019日の秋祭りで奉納されていた。これは青年団員を中心として「川崎階和倶楽部」というものを組織し、当香取神社の他、現在の幸手市の不動様や八幡様に赴くというものである。段物に、お半長右衛門・細田川・笠松峠・白桝粉屋などの曲目があり、伊勢音頭・くどきなどの手踊りがある。行事としては1931年・1932年頃(昭和6年・7年頃)より5年ほどが全盛であったのだが、1945年頃以後(昭和20年代以後)は行われていないという。
        
                    社の全景
        
               社の東側に隣接している薬王院


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川崎市
HP」「埼玉の神社」等

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