古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原日枝神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市原222
             ・ご祭神 大山咋神
             ・社 格 旧原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 夏祭り(灯籠) 714日 秋祭り 1018
 久喜市除堀地域の東側で、埼玉県道78号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社を過ぎた次の十字路を左折、県道から中にある東西に伸びる道に入ってすぐ先に原日枝神社は鎮座している。
 当社の創建年代は不明であるが、別当寺だった東雲院は、菖蒲城の城主佐々木氏の家臣によって創建されたものであり、佐々木氏発祥の地である近江国(現・滋賀県)の日吉大社から分霊を勧請したものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、「稲荷神社」が合祀されたという。
        
                   原日枝神社正面
        境内は決して広くはないが、手入れはしっかりとされていて、
         地域の氏子の方々から崇敬されていることが見て取れる。

『日本歴史地名大系 』「原村」の解説
 北は笠原用水を境に下早見村の飛地、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。菖蒲領に所属。正保年中(一六四四―四八)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一八石余・畑高一六一石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三一一石余、反別は田方一三町三反余・畑方二三町二反余、ほかに新開高一二四石余、田方五町三反余・畑方九町四反余があった。
        
                    社殿の手前で参道左手にある旧拝殿
      旧拝殿の手前にある石碑は「榛名山満行宮」で、榛名山講による建立
 
 拝殿手前で参道左手に祀られている稲荷神社   参道を挟んで右側に祀られている三峰神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 原村』
 山王社 鎭守なり、東雲院の持、〇稻荷社 村民持
 東雲院 禪宗曹洞宗派、白岡村興禪寺末、龍松山と號す、本尊は釋迦脇士文珠普賢を安ず、開山孝天存舜元龜二年三月寂せり、〇觀音堂 東雲院持

 日枝神社(さんのうさま)  久喜市原二二二(原字松場)
 当地は庄兵衛堀川と星川に挟まれた農業地帯である。
当社は『風土記稿』に「山王社 鎮守なり、東雲院の持」とある。口碑によれば、近江国の一宮日吉大社の分霊を鎮守として祀ったのが始まりであるという。別当の東雲院は、白岡村曹洞宗興禅寺末で、開山の孝天存舜和尚は元亀二年(一五七一)三月の入寂であるという。東雲院の伝えによれば、近江国の武将佐々木源左衛門氏綱は康正二年(一四五六)に武州新堀の菖蒲城に移り、その玄孫佐々木信濃守頼綱は当地に大雲庵を構えて隠居し、永正十六年(一五一九)五月十日に没した。その後、家臣たちが頼綱の菩提を弔うために大雲庵の跡地に一寺を建立し、東雲院と号したという。
 東雲院を建立したのは岡安氏をはじめとする八名で、その後、当地に土着し、村の草分けとなった。恐らく当社は、これら草分けの人々によって、かつての主君佐々木氏の出自である近江国から一宮日吉大社の分霊を勧請したものであろう。社殿に掲げられた享和二年(一八〇二)銘の「(日)吉大社」の社号額は当社が日吉大社の分霊を祀る社であることを物語るものといえよう。
 当社は神仏分離により東雲院から離れ、明治六年六月に村社に列した。その後、明治四十一年三月に字天沼の無格社稲荷神社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
 当社は、古くから「山王様」と称されると共に「山王様は霊験あらたかな地主神様である」といわれ、崇敬されている。
 氏子区域は、近世の原村を引き継ぐ大字原であり、村組は「上」「中」「新田」の三組で構成されている。総代は各組から一名ずつ計三名を選出し、任期四年で神社運営に当たる。年番も各組から家並み順で一名ずつの計三名が出て、祭典の準備などを行う。
        
           境内の一角には紙垂にて祀られている力石がある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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