吉羽稲荷社及び天神社
・所在地 埼玉県久喜市吉羽2220
・ご祭神 宇賀之御魂命
・社 格 旧無格社
・例祭等 元旦祭 初午 3月第1日曜日 甘酒祭 10月第1日曜日
吉羽千勝神社の北で道路を隔てて「吉羽公園」があり、この公園に接して通る通称「図書館通り」を南東方向に1㎞程進んだ先が左方向にカーブするようになっており、そのまま直進。その後、青毛堀川に架かる「江口橋」を越えた進行方向右手に吉羽稲荷神社は鎮座している。
吉羽稲荷神社正面
当社の氏子区域は、大字吉羽のうち字壱番方を中心とした高野新田と呼ばれる地域である。氏子数は先の大戦後、分家や他所からの転入によって漸次増加して、現在は45戸程である。氏子の間では、明治10年という早い時期から活動会が組織され、当稲荷神社の貴重な文化遺産の維持・保存を目的に活動が進められてきた。これを、新住民の増加に対応し、会則を整備して平成4年に再発足したのが現在の氏子会で、高野新田の住民は居住年数に関わらず、原則として会員となるそうだ。
境内の隅に設置されている案内板 境内には力石も整然と展示されている。
拝 殿
稲荷神社 久喜市吉羽二二二〇(吉羽字壱番方)
吉羽は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置し、水田を主体とした農業地域として発展してきたが、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、近年では住宅地となりつつある。当社の鎮座地である宇壱番方は、吉羽の中でも最も西にある字で、一般に高野新田と呼ばれ、吉羽の他の地域とは青毛堀川で隔てられていた。このため、明治末期に橋が架けられるまでは、村内でも舟で行き来しなければならないという不便な状況であった。
『風土記稿』吉羽村の項には、「千勝八幡鷲宮合社三神合祀りへ三社大明神と呼ぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持、下二社、持同じ、○天神社○稲荷社」 とあり、千勝八幡鷲宮合社(明治期に千勝神社と改称)を村中の鎮守としている。しかし、交通の不便な地域である当地の人々は、組の鎮守である当社を、千勝神社以上に大切にしてきた。特に明治四十年ごろ、無格社であった当社を村社であった千勝神社に合祀しようという動きがあった時も、当社が遠くの神社に移されては氏子の心の拠り所が失われるとして、これを退けた。
かつては、当社は、現在の境内から北東に三〇〇メートルほど離れた「元稲荷」と呼ばれる所に鎮座していたが、集落から離れた寂しい場所であったため、氏子の参詣の便を図り、明治期に現在の場所に遷座した。その後、昭和三年と同十年に拝殿の修理を行った。
「埼玉の神社」より引用
【吉羽天神社】
・所在地 埼玉県久喜市吉羽358
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 吉羽下宿守護社 旧無格社
・例祭等 元旦祭 祈年祭 2月25日 例祭 7月25日
二百十日 9月1日
久喜市吉羽地域は、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 3・4・5 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域である。
但し吉羽地域南部は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置した、水田を主体とした長閑な農業地域が未だに残っている自然豊かな場所である。
文字通りの砂利道を進むと見えてくる吉羽天神社の社叢林
吉羽稲荷神社から一旦道路を南下し、「図書館通り」に戻り、「けやき通り」の先にある丁字路を左折する。当初は舗装されている道路もいつしか砂利道へと変わり、そのまま南下するように道なりに進むと、正面にこんもりとした吉羽天神社の社叢林が見えてくる。
吉羽天神社正面鳥居
筆者の勝手な想像であるが、久喜市在住の方々も、このような場所に社があること自体、あまり知らないのではなかろうか。境内は鬱蒼とした森に囲まれ、参拝時間は昼間であるにも関わらず、暗く、物寂しい印象。逆に地域の外れにヒッソリと佇む感があり、趣きという点においては抜群の存在感ある社であろう。
なかなか味のある天神社の社号額 入り口付近に設置されている案内板
鬱蒼とした森の中に静かに佇む社
拝 殿
天神社 御由緒 久喜市吉羽三五八(吉羽字前)
□御縁起(歴史)
鎮座地の吉羽は、古くは太田庄に属する村の一つであり、群馬県勢多郡富士見村の萩林(しゅうりん)庵が所蔵する銅造阿弥陀如来立像の応永三十四年(一四二七)五月十五日背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」と見えるのが、その地名の初出と思われる。吉羽では、村全体で鎮守として千勝八幡鷲宮合社(現千勝神社)を祀ってきたが、これと別に、村組などで祀る神社もあった。
当社は、吉羽のうちの「下宿」の人々が組内の守護神として祀ってきた社で、『風土記稿』羽村の項にも密蔵院持ちの社としてその名が載る。創建についての伝えはないが、下宿で一番の旧家である折原栄家は当社で二十代ほど続いていることから考えると、吉羽郷と呼ばれていた時代に、同家の祖たちが開発した際に勧請したものではないかと思われる。そのためか、住民の信仰は厚く、社格は無格社であったが、明治末期に政府の合祀政策が強く進められた時期にあっても、村社の千勝神社へ合祀するといった声は全く聞かれなかった。
なお、神仏分離まで別当であった密蔵院は、真言宗の寺院であったが、明治三十三年に焼失し、同四十年に妙智寺と合併して、高輪寺となった。一方、当社では明治二十九年に社殿の大規模な修復を行ったが、その際、一時千勝神社に仮殿を作って遷座していた。現在社殿の北東にある建物は、その時仮殿として使われていた建物である。
境内案内板より引用
社殿左側に祀られている稲荷神社の石碑 社殿の奥にある「裏天神」
精巧な彫刻が施されている本殿
当社の祭神は菅原道真公で、本殿の内陣には美しく彩色された木造天満天神像が安置されており、その像の台座には「文政二己卯年(一八一九)二月再興之」「明治十四年巳七月粉色之」といった銘文がある。今では、天満天神は学問の神といわれ、受験時期には合格を祈って参詣する中学生や高校生の姿をよく見かけるが、昔は針子(はりこ)が裁縫の上達を願って信仰し、毎月五日に針子が参詣する習わしがあったようだ。拝殿に掛かる針子の図の絵馬は、当時の針子の師匠が奉納したものであるという。
社殿手前右側に祀られている 妙義山神社等の手前に設置されている
妙義山神社とその右側奥にある観音堂 「吉羽天神社碑」
境内北側で塚上に祀られている浅間神社 浅間神社の塚下に祀られている猿田彦大神
社殿から見た境内の一風景
7月25日(現在では7月25日近くの日曜日)に行われる当社の例祭には獅子舞が奉納されているが、口碑によれば、江戸時代の中頃に京都から神勅を受けて始められたものといい、大獅子・雄獅子・雌獅子の三頭が五穀豊穣・天下泰平・家内安全を願って毎年舞ってきたが、先の大戦後は次第に衰退し、昭和34年頃を最後に途絶えてしまったそうだ。その後、1962年(昭和37年)頃の獅子舞に関する録音テープが発見され、1982年(昭和57年)より徐々に復興され現在に至っている。この獅子舞は久喜市の無形民俗文化財の一つである。
この他に、かつて火渡り行事が1月25日に行われていたが、今日では行われていない。この行事には「火渡りをすると長生きをする」という伝承があるということだ。
「久喜市HP」吉羽天神社の獅子舞
吉羽天神社の獅子舞は、いい伝えによると250年ほど前に京都より神勅を賜り始められたといいます。戦後になり一時中断していましたが、昭和57年から部分的に復活されるようになりました。7月25日の直前の日曜日に行われます。
獅子は、大獅子・雄獅子・雌獅子と呼ばれます。獅子のほかに、天狗・万灯持ちなどの諸役があります。
神社での「シメ飾りの舞」の奉納が済むと、村まわりに出発します。そして、村の辻々で棒術と「入庭の舞」を奉納します。
吉羽天神社から東方向には同じ地域の諏訪神社が鎮座している。同じ砂利道で、道幅は狭いが、社自体はつい最近改築されて綺麗であり、境内も程よく手入れされている。
・所在地 埼玉県久喜市吉羽1029
・ご祭神 建御名方神
・社 格 旧無格社
境内に設置されている伊勢参拝記念碑 本殿二基
と改修築記念碑 どちらも諏訪神社でろうか。
当社は、祭礼の際に立てる幟に「三落鎮護之神」とあるように、吉羽の中でも沼向(現在は諏訪と称する)・高田・腰巻(現在は高田に合併)の三集落の鎮守として祀られてきた。
吉羽では、地区ごとに神社を祀っているが、社格制定に際しては、 最も規模の大きい千勝八幡・鷲宮合社が村社となったため、当社は無格社となった。更に明治40年ごろ、吉羽の中心に近い方がよかろうとの判断から、当社は一旦字高田に移されたが、その後、疫病が氏子の間に蔓延したため、字諏訪の旧地に復することになったという。
吉羽諏訪神社全景
社の東側を縦断するように走る首都圏中央連絡自動車道(圏央道)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「久喜市HP」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板」等
