古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栗原諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市栗原242
             ・ご祭神(主)建御名方命
                 (合)伊弉冉命 速玉男命 事解男命 菅原道真公 市杵島姫命
             ・社 格 旧栗原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 421日 例祭(甘酒祭り) 1027
 久喜市栗原地域は、JR東日本・東武鉄道の2路線が乗り入れている久喜駅から東側に在り、北東方向に流れている葛西用水路が右方向に楕円を描いて南側方向に流路を変える右岸側に位置する平均標高9m程の低地帯地域である。この地域は久喜駅から近いこともあり、大部分住宅街が建ち並んでいるのだが、地域南部は住宅地が途切れて「栗原なかよし広場」というグランドゴルフに適した広場や、その周囲には田畑等の農地が未だに広がっている場所もある。
       
                  栗原諏訪社正面
               すぐ北側が住宅街とは信じられない程静かで雰囲気のある社
 因みに社の左側にあるのは嘗ての別当であった多門院の墓地。今でも寺院と社は隣接している。

久喜駅東口の北側に久喜から幸手方面へと伸びる埼玉県道153号幸手久喜線がほぼ東西に走り、幸手方向に東行し、青毛堀川、青葉公園を過ぎて700m程進んだ十字路を右折、その後は道なりに真っ直ぐ南下すると、それまでの軒を連ねていた住宅街から田畑風景が主となり、進行方向左手に栗原なかよし広場と同時に「諏訪神社入口」の看板が見えてくる。その看板通りに左方向に舗装されていない路地を進むと、広場に対して反対側にこんもりとした社叢林が見えて来て、その中に社がポツンと鎮座している。
 
 一の鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     周囲一帯広場や田畑風景が広がる中、
社号額の周囲には精巧な龍の彫刻が施されている     孤高な存在感ともいえる社叢林
       
            参道を進んだ先の社叢林の中に建つ二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗原村」の解説
 青毛(あおげ)村、下川崎村(現幸手市)の南にあり、東は葛西用水を境に上高野村(現同上)。騎西領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によれば田高三二石余・畑高九七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一家である一橋領となり、幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。東村境を流れる葛西用水に琵琶溜井がある。長さ四七五間・幅四七間、三分の二は当村、三分の一は上高野村の所有であった。万治三年(一六六〇)に関東郡代伊奈忠克によって幸手領用水が利根川から取水、会の川筋に合流されたが、この時に溜井が造成され、享保四年(一七一九)に伊奈忠逵・石川伝兵衛らにより掘広げられている。 

        
        二の鳥居を進んだ先で参道右側に祀られている稲荷大明神・天満宮の石碑
                 石祠の右側にある力石
 久喜市栗原に鎮座する諏訪社の創立年月は不詳だが、口碑によれば、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていて、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったのが始まりという。明治6年(18736月村社に列し、明治40年(1907530日に行われた合祀では、熊野社(字前)・天神社(字川原)が集められ、大正元年(19121213日には厳島社(字川原)が合祀された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 栗原村』
 多門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺末、明王山と號す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中鑄造の鐘をかく、 諏訪社 村の鎭守なり、稻荷社 阿彌陀堂


 諏訪社  久喜市栗原二四二(栗原字前)
 栗原の村の開発にすいては明らかでないが、慶安二-三(一六四九-五〇)の『田園簿』には、既に一村として記されている。
 当社は『風土記稿』栗原村の項に「多門院 新義真言宗、葛飾郡内国府間村正福寺末、明王山と号す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中(一七七二-八一)鋳造の鐘をかく、諏訪社 村の鎮守なり、稲荷社 阿弥陀堂」と記されており、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていたことがわかる。その創建の年代は明らかでないが、口碑によれば、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったという。高橋家・宮崎家はいずれも当主で一一-一二代を数える。
 本殿には甲冑を着けた神像が奉安されている。これは「諏訪□(大カ)明神 奉納主 武蔵葛飾郡幸手領栗原村 施主大久保惣右衛門・同汰良兵衛・勧施伊藤吉之蒸 元禄十四年辛巳(一七〇一)九月卄七日」の墨書が見られる。また、境内の石碑には「天下泰平五穀成就 鎮守安政四丁巳(一八五七)季再建四月吉祥日 武州埼玉郡栗原村」と刻まれ、この年に社殿が再建されたことがわかる。
 明治初年の神仏分離により多門院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。更に同四〇年には字前の無格社熊野社と字川原の無格社天神社を合祀し、大正元年には字川原の無格社厳島社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
    社殿の手前で「天下泰平五穀成就 鎮守安政四年(1857)」と刻まれている石碑
        
                      本 殿
             
              精巧な彫刻が施されている本殿
       
                    社の遠景
 当社で1027日に行われる祭典(例祭)は「甘酒祭り」とも呼ばれ、この行事は前日から当番に当たった耕地(村組)では各戸から米を集めて麹屋から麹を購入し、四斗樽二本に甘酒を仕込む。こうして出来上がった甘酒を神社へと運び、神事の後、夕刻4時頃に鉦を叩き氏子を集める。氏子はお参りをした後に当番の家で甘酒と大豆・鰌・蒟蒻の煮物をいただくというものである。

 また、氏子の間では、春秋の祭りのほか、元旦のお神酒・オオヤ(七月初酉の日)・二百十日のお神酒(9月1日)・晦日お神酒(12月31日)がある。
 特にオオヤは、当番が社頭に二基の行灯を立てて神前にお神酒を供える行事であるが、元は境内に五〇ほどもの行灯を飾り付けたという。また、この日は、氏子の各家ではうどんを打って葦(よし)の箸で食べるのが習わしであったという。その由来は、昔ある侍が戦に敗れて当地の葦の生い茂る中に逃げ込んだ際、村人がこの侍にうどんを食べさせた。その時に箸を忘れたので、そこに生えていた葦を折って代用とした。以後、七月初酉の日に氏子は葦の箸でうどんを食べるようになったと伝えられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内石碑文」等

  

            

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