樋ノ口八幡神社
・所在地 埼玉県久喜市樋ノ口502
・ご祭神 応神天皇
・社 格 旧樋ノ口村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 二月初午 騎西の獅子 4月22日 大祓 6月30日
例祭 9月14日 二百十日 9月1日 お日待 10月19日
原日枝神社の南側に面する東西に流れる道を東行し、400m程進んだ三叉路を左折する道路沿いで右手に樋ノ口八幡神社は鎮座している。道を挟んだ反対側には真言宗三寶寺があり、江戸時代期の神仏習合の名残が寺社の配置からも垣間見られよう。
樋ノ口八幡神社正面鳥居 鳥居の手前に建つ社号表柱
『日本歴史地名大系』 「樋ノ口村」の解説
原村の西にあり、北は姫宮落川を境に野牛村(現白岡町)、東は篠津村(現同上)、南は星川を境に同村と下大崎村(現同上)。篠津村に飛地がある。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国後、柴田康忠が菖蒲五千石を領し(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)、当村に陣屋を置いたという(風土記稿)。騎西領に所属。
白を基調とした拝殿
『新編武蔵風土記稿 樋ノ口村』
八幡社 村の鎭守なり、此處は今の末社稻荷の地なりしが、萬治三年当社を勧請してより、稻荷は却て末社となれり、三寶寺の持、 末社 稻荷
三寶寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院の門徒、阿彌陀山と號す、開山秀範寛永二年三月寂せり、本尊阿彌陀、
八幡神社 久喜市樋ノ口五〇二(樋ノ口字表)
当社の「樋ノ口」は「樋口」とも書き、庄兵衛堀川右岸の台地低地からなる村で、古くからの集落は、地内中央の台地上にある。『埼玉県地名誌』によれば、地名の由来は、当地が星川から引いた用水路の樋の口に当たるためであるという。
当社は古い集落の中央に鎮座しており、『風土記稿』樋ノ口村の項には「八幡社 村の鎮守なり、此辺は今の末社稲荷の地なりしが、万治三年(一六六〇)当社を勧請してより、稲荷は却て末社となれり、三宝寺の持、末社 稲荷」とある。口碑によれば、当社は元々小田原北条氏の家臣で永禄年間(一五五八-七〇)に当地に土着した岡安兵庫介の孫である岡安三右衛門が万治三年に村の鎮守として、稲荷社の境内に勧請したのが始まりであるという。岡安家は江戸期を通じて代々当村の名主を世襲した。別当の三宝寺は、戸ヶ崎村(菖蒲町菖蒲)真言宗吉祥院の門徒で阿弥陀山と号した。
神仏分離により、当社は三宝寺の監理下を離れ、明治六年六月十三日に村社に列した。社殿の屋根は元々草葺きであったが、老朽化したため、氏子の間から改修しようという声が上がった。しかし、工事資金が不足したため、氏子が協議した結果、やむなく末社である稲荷神社の神木の欅を伐採し、売却して資金の一部とすることになった。工事は昭和三十八年に行われ、瓦葺きの屋根に改修された。
「埼玉の神社」より引用
当社の行事に「騎西の獅子」がある。この行事は古くから当地を挙げて行われてきた疾病除けの祭りで、当日は、早朝に当番が車で騎西の玉敷神社へ行き、「お獅子様」と称される筥を借りて当社へ帰り、拝殿に「お獅子様」を安置して詰める。氏子は銘々で灯明料を納めて参拝し、「お獅子様を頂戴します」と言って、当番から「お獅子様」でお祓いを受けるとの事だ。かつては、当番が「お獅子様」を持って各戸を回り、縁側で土足のまま家に上がり悪魔祓いをしたが、新築の家が増え、土足では上がりにくくなったので、昭和50年頃に現在の形と改められたという。
また、かつては9月14日の例祭の余興として万作踊りが行われていた。しかし太平洋戦争勃発で、出征兵士が増加し万作踊りを行う男性が不足したため、こちらの行事は中止となった。
拝殿の前面には適度な空間があるのだが、このような行事のために使われるスペースなのではないかと勝手に想像してみた。
本 殿
社殿の左側奥に祀られている三峯大権現の石祠 社殿右側奥に祀られている稲荷神社
赤い鳥居の脇には旧稲荷社がある。
当地で古くから行われている年中行事に「初午」がある。初午は、昔から作神として地元の人々から崇敬されている境内社の稲荷神社の祭りで、当日、早朝から各戸でスミツカリを作り、藁苞(わらつと)に入れて銘々で稲荷神社の神前に供えて参拝する。午前11時からは神職の奉仕による祭典も執り行われるという。
社の西側で、道路を挟んである真言宗三寶寺
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」等
