古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

筑波山神社(2)

『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
 元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。
 編纂者は不明。現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合であるという説もあり、また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説もある。
 因みに、現在各令制国で編纂されたであろう風土記は、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっているが、いずれも原本ではない。
       
                拝殿の右側にあるご神木のマルバクス(丸葉楠 写真左・右)
 マルバクスはクスノキの変種で、葉が著しく丸く、この木をもとに牧野富太郎博士により命名され、昭和15年『実際園芸』二六巻十一号に発表された。このマルバクスは当神社の他に福岡県太宰府に一本確認されているという。標本木として、市指定天然記念物に指定されている。

 常陸国風土記における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
 また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
 ところで『常陸国風土記』筑波郡には、登る人もなく供物もない「福慈の岳(富士山)」と、人々が往き集い舞い踊る「筑波岳(筑波山)」が、対比的に語られる説話が収録されている。当然、この対比の背景には、常陸国の「筑波岳」を積極的に賛美する編集側の意図があるわけであるが、比較の対象を「福慈岳」を持ち出すところに、当時の律令官人が東国における代表的山が「福慈岳」「筑波岳」であるという認識が見て取れよう。
        
  筑波山神社の拝殿のすぐ右側隣に鎮座する春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の拝殿
        
                拝殿の奥に祀られている春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)
 この春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)及び拝殿は、寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされる。春日・日枝両社本殿は規模・構造とも同一の三間社流造で、間口2間・奥行2間。向背中央の蟇股には、それぞれ日枝神社は猿、春日神社は鹿の神使が彫られている。拝殿は割拝殿形式、桁行5間・梁間2間の入母屋造で、正面と背面に軒唐破風がつく。両社本殿と拝殿は合わせて茨城県指定文化財に指定されている。
       
 筑波山神社境内にはご神木である大杉や夫婦杉のみならずの多くの巨木・老木が屹立している。
春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の脇道を進むと、一際目立つ巨木があり(写真左・右)、注連縄等はないようだが、林に群生している樹木とはかけ離れた威容であったので、写真に納めてしまった。

『常陸国風土記 筑波郡』の条には、遠い昔、諸国をめぐり歩いていた神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、「…天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという。

『常陸国風土記 筑波郡』原文
古老の曰へらく、昔、神祖の尊、諸神の処に巡り行でまししに、駿河の国福慈の岳に至りたまひて、卒に日暮に遇ひ、寓宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へて曰へらく、「新粟の初嘗して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ。」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひしく、「即ち汝が親ぞ。何ぞも宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり、冷寒重襲り、人民登らず、御食を奠るものなけむ。」とのりたまひき。更に筑波の岳に登りまして、亦容止りを請ひ給ひき。此の時、筑波の神答へて曰へらく、「今夜は新粟嘗すれども、敢へて尊旨に不奉ひまつらじ」とまをしき。爰に、飲食を設けて、敬拝み祇承へまつりき。是に、神祖の尊、歓然びて謌ひたましく、愛しきかも我が胤巍きかも神宮天地の竝斉日月と共同に人民集ひ賀ぎ飲食富豊に代代に絶ゆること無く日に日に弥栄え千秋万歳に遊楽窮らじとのりたまひき。是を以ちて、福慈の岳は、常に雪降りて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往き集ひ、歌ひ舞ひ、飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(以下略く)。

 有名な話だが、古事記・日本書紀(以下記紀)には、武内宿禰(たけうちのすくね)の東国見聞やヤマトタケルの東征など、東国に関する描写がいくつか見られるが、巨大な独立峰である富士山の記述が全くない。富士山は圧倒的な存在感を放つ山であり、旅人の目印としてはこの上なく、東国に足を踏み入れた者がこれを目にしないというのは、むしろ不自然とも言えよう。事実、記紀より少し後に編纂された「万葉集」には、約130年間に詠まれた約4,500首の和歌のうち、11首に富士山が登場していて、万葉集編集以前から当時の人々に深く根付いた存在だったことが伺える
 その原因として、まことしやかに謂われている説(遠距離にあった地形上の理由、大和王権により意図的に削除された説、大和王権側の神話に融合できず、削除された説)に関して、一々論じはしない。論点からずれるからである。

 巨木の奥にある楠木正成の孫の楠木正勝の墓   楠木正勝の墓の右並びに祀られている愛宕神社

『常陸国風土記』編集・成立時点で、富士山は「不二岳」「福慈の岳」と表記されている。この風土記を編集する時点での元ネタ(書簡・書物)があったことは確かだろうし、その書簡等は、その地域に住む人々の普遍的な常識や習慣を記述しているであり、伝承・伝説の類はもっと古いであろう。(但し部分的に後年に書き換えられた可能性は否定できないが、その主文に関しては、そのまま記述されていると思われる。)
 つまり、『常陸国風土記』の説話は、風土記成立時期より、少なくとも数百年単位前の現地で語られていたものであろうと考えられ、それは所謂「記紀」成立時点前の、当地では当たり前の伝説を載せたものと推測できよう。 
 それは、この風土記に載せている倭武天皇や土蜘蛛等といった人物や集団についても同じであろう。筆者のいつもの妄想の類で失礼するが、何となく、大和王権中心の歴史史観からは外れたというか、嘗てこの地に先住していた人々・集団の歴史的認識がこの説話に生き生きと描かれているようにも思えて仕方がない。
       
                随神門から見た境内の様子

 主祭神である「筑波男神」「筑波女神」も実をいうと、ハッキリ分からないという。現在は伊弉諾尊・伊弉冊尊二柱に比定していて、その理由が、筑波山は男体山・女体山からなる双耳峰で、峰が相並ぶ山容から、自然と男女柱の祖神が祀られるようになったともいわれるのだが、この二神の人格神をあてる説が江戸時代から散見される。
一社者日本武尊、一社者弟橘比売也、俗に陰陽二柱尊 (『神祇宝典』)
伊弉諾尊在陽峯、伊弉冉尊在陰峯 (『常陸国二十八社考』)
陽峯埴山彦神、陰峯埴山姫神 (『神名帳考証』)
祭神不詳とし、伝に「伊弉諾尊在陽峯、伊弉冊尊在陰峯、通謂筑波大明神」 (明治12年(1879年)の『筑波山神社明細調書』)
 その後、六国史の記載に基づき、明治42年(1909年)1月に祭神名は「筑波男神」「筑波女神」と定められた。そして大正11年(1922年)に交替した社司により、「筑波男神・筑波女神」に「伊弉諾尊・伊弉冊尊」を併記することが定められている。なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊とする伝承の起源・経緯に関しては詳らかでないという。
        
              筑波山口バスターミナル近辺の鳥居
        
            平野地の多い茨城県に一際目立つ筑波山の威容



参考資料「常陸国風土記」「筑波山神社HP」「つくば市HP」「茨城県教育委員会HP
    「茨城県神社庁HP「茨城県生活環境部生活文化課HP「茨城県観光物産協会HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」「現地案内板」

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